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2012年6月30日土曜日

台湾海峡 一九四九


龍應台著
白水社
2012年6月20日印刷 2012年7月5日発行
台湾の作家が、国民党軍の憲兵の部隊長として転戦したお父さん、その妻として台湾へ避難する船に乗ったお母さんの「漂泊人生」を描くところから始まります。お母さんは虎の子の金200gを元手に商売を始め繁盛したのだそうです。そのまま父母のことを中心に展開するのかなと思って読むとそうではなく、著者の父母のようにこの時期に漂泊を余儀なくされた人々について、遺された史料だけでなく、聞き取りもまじえて紹介してくれています。小説ではなく、オーラルヒストリーを用いた史書というわけでもなく、ドキュメンタリーでもなく、それでも興味深く読める本ですした。
漂泊を余儀なくされたといっても本当にいろいろなケースがあり、フランス領だったベトナム経由で台湾に逃れた国民党の兵士や、蒋介石も共産党も良しとせず香港に逃げた人、日本治下の台湾から満州国に渡った人、日本軍に参加させられ死亡したり戦犯になった台湾人。また、国共内戦の様子や、台湾接収に来た国民党軍のみすぼらしさにも理由のあったことなど。どのケースも、金を200gも持ち出せた著者のお母さんよりはずっと、戦争の冷酷さと悲惨さをおぼえさせるものばかり。 著者は、
今回衡山を訪問するまで私は、1949年とはなんて凄惨で、特殊な一年だったんだろうと考えていた。ところがだ、県誌を開き、夜鍋して読めば、どの頁も例外なく悲痛な叫び声をあげている。なるほどそういうことか。1949年とはなんて普通の一年だったんだろう!
と書いていますが、たしかにそんな印象を与えてくれる本です。また、中華民国についてちっとも知ってはいないということを再確認させてくれた本でもあります。例えば、台湾に逃れた時点では台湾もいずれは共産党の手に落ちると思われていたのかどうかとか。また、本書の中には反共救国軍というのが紹介されていて、例えば朝鮮戦争の時代に蒋介石も共産党も良しとせず香港に逃げてきた若者をCIAがサイパン島で訓練し中国本土の彼らの故郷に空から潜入させたりもしたのだそうです。1949年からこの反共救国軍の時期までにはアメリカの意向が大きく変化したように思われ、この頃の中華民国について書いた本をさらに読んでみたくなりました。
よそから来た人が子供を持ったとき、その土地の文字を、たとえば香港生まれなら港という字を名前につける傾向が中国の人にはあるそうです。應台さんは外からやってきた父母の台湾で生まれた子供ということですね。で、読みすすむうちに、著者が女性であることに気づいて、すこしびっくり。中国の人の名前でも女性らしい名前とみてすぐにわかることもありますが、應台さんという名前は私にはそうではなく、特に、台湾では現行の自体なんでしょうが日本では旧字体である應がすこしいかめしく感じて、男かとおもっていました。

2012年6月25日月曜日

国宝神護寺三像とは何か

黒田日出男著
角川選書509
平成二十四年六月二十五日 初版発行
著者の黒田さんはストーリーテラーとしての才能もお持ちのようで、本書は極上のミステリーでもあるなと感じました。しかも、黒田さんの絵画史料に関する著作をこれまでに読んだことのある方ならお分かりのように、神護寺三像が誰なのか、つまり犯人が誰なのかがあらかじめ知らされているタイプのミステリーです。それでいて、終わりまで面白く読める素晴らしい作品でした。
本書は、歴史家の著作にふさわしく、明治の古美術保護の動きから近年までの神護寺三像に対する研究史の整理と紹介から始まります。これは本書の議論を理解するための基本を読者に示してくれる部分で、とても勉強になるとともに読んでいて飽きさせません。続いて、なぜ神護寺三像が頼朝、平重盛、藤原光能の3名であると伝えられて来たのかという当然の疑問への解答が示されます。戦国時代の大火で荒廃していた神護寺を復興させるため、神護寺は徳川家康に勧進を訴えますが、その際に
神護寺にあった名無しの肖像画のなかから、かつての足利直義像を選びだして「頼朝御影」と名づけ、それを徳川家康の前に掛けたのではないか、と私は想像している
というのです。しかも、蔵にあった名無しの肖像画のうちで一番傷みの少ないものを選んで頼朝像として提示してみせたからこそ、神護寺三像のうちで伝頼朝像の傷みがもっとも少ないのだろうと。あっといわせる、目から鱗の指摘。これにはまったく脱帽でした。また源氏であることを選択した家康にアピールする意味では頼朝が重要ですが、神護寺にとっては鎌倉時代初期の再興者である文覚も重要です。平家物語に出演した頼朝と文覚との縁で、やはり平家物語に登場する平重盛と藤原光能が残り二枚の像主として伝えられることになったわけです。
次に、神護寺三像が描かれている画材の絵絹が広幅の特殊なもので元からの輸入品らしいこと、また神護寺三像は140x111センチと肖像画として例外的に大きく類例が限られること、二枚重ねの畳の上に坐した肖像であることが明らかにされます。ここから描かれた時期、つまりは「真犯人」である肖像の人物もかなり絞られてしまうわけです。加えて、描かれた衣服や太刀に関する有職故実的な情報、絵の技法、伝頼朝像と伝重盛像がよく似ていて、同腹の兄弟に似つかわしいことなどの証拠が挙げられます。そして、征夷将軍と自分の影像を神護寺に安置して、尊氏と良縁を結びたいという足利直義の願文の存在。こういった数々の証拠をつきつけられると、伝頼朝像が直義を描いたものであることは否定できないように感じさせられます。
本書の後半はその足利直義の願文から、尊氏・直義兄弟と夢窓疎石の関係、夢窓疎石の応答を直義が書き記した夢中問答集の政治史的な意義に筆が及びます。やがては観応の擾乱につながる二頭政治の危機に直面した直義が、聖徳太子の化現としての直義像と八幡大菩薩としての尊氏像(観応の擾乱前半戦勝利後は義詮の像を描かせる)を安置することで乗り切ろうとしたのだとか。しかし直義に高齢になってから初の実男子の誕生、また直義が養子にした兄尊氏の子の直冬と異母弟義詮の対立などの事情もあって、破局・直義の死を迎えます。直義の死によってこの三像はタブー視され蔵にしまい込まれてしまったのだろうと著者は推測しています。著者の本当に論じたかったのはこの第七章以降なのでしょうが、この部分をすっと受け入れるには私自身の能力が不足している感じをもちました。
ところで、頼朝・重盛とされてきた神護寺三像について以前から私が不思議に感じていたことがあります。それは、天皇・公卿や高僧ならいざしらず、鎌倉時代前期に非血縁の複数の人の肖像画をセットで描かせ寺院におさめるような例があったのかという点です。本書のように尊氏・直義兄弟を描いたものとするならば疑問は氷解します。しかし通説の側にたつ論者が本書の主張に納得せず、伝頼朝像は頼朝を描いたものだと主張し続けるようなら、著者の論点に反駁するだけではなく、誰が何の目的で頼朝、平重盛、藤原光能という3人の俗人の肖像を描かせたのかという点について、納得できる説明をする必要があると思います。でもそれはかなり困難でしょうね。
本書に収められた義詮像(伝光能像)を見ると、ふつうの図版の方でも、保存修復を専門とする日本画家がトレースした復元模写の方でも、右眼の瞳の位置が変です。この絵に描かれた人物には右眼に外斜視があったのでしょうか?原画は140x111センチほどの大きな絵だそうですから、可能なら原画か、それができなくても版型の大きな本の大きな図版で確認してみたい気がします。平家物語に、忠盛が昇殿の際「伊勢瓶子は素瓶なりけり」と他の殿上人にはやされたというエピソードがあります。忠盛の斜視が史実かどうかは別にして、少なくともこの当時、斜視が好ましくないものとみなされていたことが分かります。だとすると、外斜視をきちんと表現した肖像画というのは、その人物の欠点までも忠実に描いていることになるわけで、絵とその人物がよく似ている(本書の言葉でいえば像主肖似性)蓋然性がより高いと判断できると思うんですが、どうでしょう。もしかすると、この絵の依頼主(著者によれば直義)の像主に対する感情をも表していたり。

2012年6月24日日曜日

マルチタッチ誤反応でiPhone 4Sを交換


私のiPhoneの用途は、通勤電車の中でSafariを使って好みのサイトを読んで暇をつぶすことにほぼ限られています。アルファベットが主体のサイトにアクセスすることが多く、読みやすい大きさにするには、タップやピンチといった動作が必須なのです。ところが一週間ほど前から、タッチパネルの挙動不審がみられるようになりました。
iPhoneがスクロールやタップに遅れたり、反応しなかったり。反応しないかと思っていると、こちらの指の動きは記憶されているようで、遅れて意図しない動作をしたり。またキーボードから文字を入力しようとすると、触れたのと違う文字が入力されてしまったり。ある時はiPhoneをスリープから起こそうとしてホームボタンを押したのに、ロック解除のスワイプ動作を認識してくれず、使うことができなくなったりしました。
さすがに、これでは使いものにならないので、ジーニアスバーに助けを求めることにして予約をとりました。ただ、問題なのは、四六時中この挙動不審状態なのではないこと。ちゃんと機能しているときもあるんです。わざわざ出かけて行っても、そこで挙動不審が再現されなければ無駄足になるかもしれないことが心配でした。でも今朝、自宅で確認するとやはりタッチパネルは変です。ほっといても仕方がないので、銀座に行くことにしました。
朝早かったので、Apple Storeは混んではいませんでした。予約時間より早くみてもらえたのですが、そこではやはりふつうに動作してしまいました。出直さなければダメなのかなとも思いましたが、マルチタッチ誤反応が想定されるということで、ジーニアスの方は交換をすすめてくれました。ありがたく交換していただきました。
購入したときにケースや領収書も持っていったのですが、その種のアイテムの提示は求められませんでした。iPhoneの持ち主とアップルのアカウントの名義が一緒ならそれでOKなんでしょうね。もし出先で故障したら、iPhone現物だけを持ってゆけば対応してもらえるということですね。わたしの現役IPhoneは昨年の10月に購入した4Sですから、保証期間内ということで無料での交換でした。これ、保証期間内でないと消費税込み16952円になるようです。
自宅に戻って復元し、データをコピーしました。動画はないのですが、iTunesに2000曲ほど入れたあったので、その同期にかなり時間がかかりました。そして、その後のステップ6に一時間以上かかっても終わりません。変だなと感じて、USBケーブルを抜いてもう一度繋げてから同期させたところ、あらたな変化はありませんでした。なにか、トラブルがあって一回目は同期が完了しなかったようです。ともあれ無事使えるようになってめでたしめでたし。
実は、Apple Storeまでわざわざ出かけたので、RetinaのMacBook Proが手に入らないかなと少し期待していました。残念ながら今日のApple Store GinzaにはRetinaの在庫はありませんでした。オンラインのストアの方でぽちろうかなと思います。

2012年6月22日金曜日

The Wages of Destruction


The Wages of Destruction
Adam Tooze
Penguin Books
2008年
Wolfson History Prizeというイギリスの一般向けの歴史書に与えられる賞を獲得した作品で、戦間期から大戦期のドイツの政策(経済的なものだけでなくホロコーストなども)やドイツ軍の作戦行動が、経済的観点から解釈できること、そして通説とは異なる理解に達せることを示した著作です。日本でお目にかかるナチスドイツに関する本というと、軍事的な興味にこたえるものか、ナチスに関するものか、ホロコースト関係がほとんどで、こういう経済的な視点から説いた一般書はないんじゃないでしょうか。そういう意味ではとても貴重な本だと思います。ただし、著述の体裁はたしかに専門書ではないのですが、本文676ページにくわえて参照リスト・索引などの付録が120ページ余りもある大著で、しかも外国人の私にとってこの著者の英語は読みやすくはありません。それでも読み応えのある本で、内容は非常に興味深いものでした。
著者によると、共産主義ロシアの存在に対してドイツが必要とされると考えて1920年代にシュトレーゼマンの追及した政策は戦後の西ドイツと奇妙なほど似ていたのだそうです。アメリカの経済支援下でイギリス・フランスの圧力をかわすというこの政策の継続を国際情勢がゆるせば、ナチスの登場にはつながらなかったかもしれません、。その点では、賠償猶予への態度の厳しかったイギリス・フランスや、英仏からの債権取り立てを維持しようとしたアメリカも第二次大戦の責任の一端を免れないでしょう。また第二次次大戦後のドイツと日本の経済成長は、戦争により生産設備が破壊されたことにもよりますが、アメリカが資源と市場へのアクセスを許してくれたことも大きかったと思います。さて、本書のテーマであるナチスについての鋭い指摘を挙げると
  • ヒトラーは、20世紀の大国であるアメリカの経済力、潜在的な軍事力、覇権と対峙するため、東方に生存圏を獲得することがドイツには必要だと考えていた
  • 外貨不足がナチスの政権獲得後も常にドイツの再軍備の努力に桎梏としてはたらき、ユダヤ人の国外追放の実現にも悪影響を与えていた
  • ヒトラーは、アメリカと植民地帝国イギリスとアメリカとの対立を当然視し、それでも英米が同盟するのはユダヤ人の陰謀だと考えていた
  • 生産力の点でドイツはイギリスと同程度で、海軍・金融力・植民地・資源を含めた国力という点ではかなりの劣勢だった。またアメリカ・ソ連にはさらに劣っていた
  • 英仏の戦争準備は決して遅れてはいなかった。ドイツの対仏戦勝利の原因は電撃戦ではなく、攻勢方面のアルデンヌで数的な優勢を確保することのできた適切な作戦による
  • 対仏戦勝利で西ヨーロッパを支配しても、原料資源と食糧の面でドイツの苦境は続いたこと
  • 対ソ戦は、対アメリカ・イギリス戦に必要な原料資源と食糧の自給を可能にするためのものだったこと
  • ナチスのイデオロギーと、餓死させて食糧需要を減らすという経済性の観点から ユダヤ人、捕虜、東部占領地住民に対する食糧供給が絞られたことがある。また労働力確保と生産性向上のために外国人労働者への食糧供給が増やされたこともあった
などがあります。ユダヤ人観、ドイツの生存圏確保の当然視、アメリカとの最終対決不可避といったヒトラーの考え方自体は了解不能ですが、それらを公理とし、経済性の観点から政策・軍事行動を決定していったとすれば、現実のドイツの動きを導けるし、それは「合理的な」政策・行動だったという著者の主張は説得的だと感じました。以下、本書から学んだことをいくつか書き出してみます。
  • 大恐慌に始まる経済状況の変化・危機がヒトラーに権力をもたらしたが、ヒトラー首相就任時にはすでに経済も底を打っていて、ナチスの「ケインズ政策」のおかげでの回復ではなかった。アウトバーン建設などの公共投資による職の創出も実質的にはヒトラー政権の初年だけで、この時期にも政府投資の大部分は再軍備に投入されていた。
  • 国際収支の悪化による一方的なモラトリアム宣言は、イギリス・アメリカとの対立を激化させた。ドイツの輸出業者の債権はアメリカ・イギリスから回収できなくなった。ドイツの輸入業者はその債権で、額面以下に暴落したドイツ債券を買い戻し、ライヒスバンクに額面で売却してライヒスマルクを入手するという巧妙なドイツの対外債務削減策がシャハトによってとられた。また、ドイツは二国間協定により貿易の維持を目指したが、対西欧の二国間協定では輸出に見合った額の輸入需要を誘発して、かえって悪い効果をもたらした。現在のIMFは、半年分の輸入に対応する外貨準備を各国の中央銀行に勧めているが、1930年代のライヒスバンクの外貨準備はわずか1週間分にしか過ぎなかった。輸入品目別の外貨割当制、綿花・原料皮革の輸入への割り当ては絞られ、それまで生産を復活させつつあった繊維産業も1934年以降は横ばいとなった。
  • 外貨不足への対応として、平時としてはかつてない企業への統制が始まった。イギリスの金本位からの離脱(とポンドの減価)、ドルの減価があったにもかかわらず、第一次大戦後のインフレを恐れるヒトラーは平価切り下げを拒否した。輸出企業は補助金を受けてようやく輸出を行ったが、この補助金もその後に続く統制の始まりとなった。私的なカルテルの認可と公的に結ばされたカルテルなどの業界団体が整備された。
  • 再軍備に際して、政府は輸入資源の国産化を目指した。1920年代中頃に原油の枯渇を予測してIG farbenは石炭液化プラントを計画した。その後の新規の油田の発見でコストが3倍の液化石炭は窮地に立ったが、資源の国産化を目指していた政府により受け入れられ、予想以上のプラント拡張・新設を迫られることになった。また大恐慌で価格の下がった綿花・羊毛が減量の繊維産業も、輸入代替のためにレーヨン生産のための投資を求められた
  • 1930年代のドイツの1人当たり所得はイギリスよりかなり低く、人口が少ないイギリスの方が経済規模は少し大きかった。英独の差は工業の生産性の差によるものではなく、ドイツで農業人口比率が大きかったことと、小規模な手工業やサービス業が足を引っ張っていた。原料資源に制約をもつドイツとは違い、ドイツより1人当たり所得の高い国の多くはアメリカを含め植民地を持っていた。また、1930年代のドイツにとって過去20年間は繁栄と経済的進歩の時代ではなく、経済的後退と不安定の時代だった、1936年のケインズの一般理論も財政出動によるデフレからの脱却を説いたもので、成長を賛美するものではなかった。ヨーロッパで一番の技術大国なのに貧しく、1930年代には経済学者の中にも経済成長を期待する楽観主義はなかった。技術を学んだり、大学を出ても失業することは当たり前で、極右や反ユダヤ主義にならない方がおかしいくらいだった。この頃のドイツ人のもっていた劣等感を理解しないと当時のドイツ人の悩みを理解できない。
  • 安価な国民受信機でラジオの普及が促進されたが、海外ではこの価格でスーパーへテロダイン方式のラジオを買えた。この旧式のドイツ製ラジオは輸入制限が厳しかったドイツ国内でしか売れず、海外では販路を得ることができなかった。また、戦間期の量的・質的な住宅不足はハイパーインフレーション期に導入された家賃統制によって解決されなかった。その対策としての国民車、国民住宅といった構想が成功しなかったのはドイツの生活水準の貧しさのせいだった。ヒトラーはじめナチの指導者は、そのドイツの貧しさを、敵意に囲まれた生存圏と、国際的なユダヤ人の陰謀のもたらしたものであるとした。農地改革で大土地所有を解体したとしても、すべての農家に望ましい生活水準をもたらすだけの面積の耕地を与えるだけの土地がドイツにはなかった。豊かになるためには新たな土地の獲得が必要であり、アメリカ流の生活スタイル・水準を獲得するための解決策は国防軍であるとナチスは考えていた。その意味ではこの時期の再軍備政策について、単に「バターか大砲か」市民生活の向上と再軍備を相反するものとみなすのは間違っている。
  • 1935年から1938年までのドイツの国内生産の伸びの47%は再軍備に対する政府支出が寄与し、アウタルキー化への支出もあわせると67%にも達した。1933年から2次にわたる軍備増強の4年計画がたてられたが、ドイツの再軍備に反応して周囲の国も軍備増強に努力し始めたので、ドイツは1936年以降に目標を高くし、軍備増強のスピードを速めた。その目標が達成された後に軍需産業を遊ばせるわけに行かないことを考えると、将来の戦争は選択枝としてではなく当然の帰結と考えなければならなくなった。1936年の外貨準備の危機に際して、ヒトラーは平価切り下げではなく戦争を選択した。これ以降はゲーリングが4年計画の責任者になり、アウタルキーの達成、つまり合成燃料・合成ゴム・合成繊維の生産でドイツの資源輸入を半減させることを目的に、4年計画が1936から1940年のドイツの総投資額の20-25%を占めることとなった。しかし、屑鉄とスカンジナビア産鉄鉱石の充分な輸入に必要な外貨を用意できず、また平価切り下げも行わず、さらにルールの鉄鋼業が国内産の低質鉄鉱石を使用を躊躇したので、設備を余しての鉄鋼の生産制限につながり、鉄の配給制が1937年に始まった。鉄鋼の配給制の開始は4年計画の宣言以上に大きな影響をドイツ経済に及ぼした。鋼鉄の陸軍への割り当てが予定より減らされ、軍備の準備完了の時期は1943年頃に延期された。再軍備への鉄の配給量が減っているのに工場建設に鉄が使われていることへの不満は、1937-38年冬のヒトラーの介入による政変をもたらし、国防大臣ブロンベルク、参謀総長フォンフリッチェがスキャンダルがらみで更迭され、ノイラートからリッペントロップへと外相が交代した。
  • 1938年3月のアンシュルスのドイツにとっての主な利点は不完全雇用状態にあったオーストリアの労働力だった。対外収支の点では、オーストリア中央銀行の保有していた金と外貨準備が1938年の外貨不足を緩和してくれた。
  • 1938年9月、英仏との対決を危惧してズデーデン問題を平和的に解決することを余儀なくされると、ナチ党内に鬱積したエネルギーがユダヤ人迫害に噴出して同年11月の水晶の夜となったという社会心理学的な関係がある。またSSはドイツ国内のユダヤ人人口の出国による減少が遅いことに業を煮やしてもいた。ただ出国数が少なかったことは、ドイツの外貨不足によって、ユダヤ人が出国の際に資産を持ち出すのに高率の税を払うことが必要だったことも一因だった。ナチスの政策について回る外貨不足は、ここにも影響していた。
  • ミュンヘン協定後、忍び寄るインフレに対処することをライヒスバンクは期待した。しかし、ズデーテン問題で一時は英仏との戦争を覚悟したナチスの首脳は、 同盟相手としてイタリアと日本だけでなく、ポーランドにも同盟を持ちかけ、また1938年11月にはさらなる軍備増強が決定された。その日暮らし状態の外貨不足への対応として、輸出奨励とあわせて民需を厳しく圧迫して、動員と配給制の戦争経済が実施されることとなった。ドイツのような中級国家にとって、それまでの軍備拡張に加えてさらに3倍増させるという1938年の計画は、物価の安定や対外収支の平衡を保つ点からは実現不可能だった。
  • 1939年8月の独ソ不可侵条約締結後、ヒトラーは1939年9月に開戦の決意を固めた。これは、この時期までに日伊との同盟を成立させることができなかったことと、しかも英仏米が軍備を本格化させたことで、再軍備を開始した頃の目論見とは違って、時間が経つほど軍拡競争の点で不利になると感じたことを踏まえた合理的な結論だった。第一次大戦の経験を踏まえれば英仏米の大西洋同盟が成立するのは自明のように思えるが、ヒトラーは英米の利益が究極的には相反するもので、英米の同盟は成立し難いと判断していた。にもかかわらず英米が同盟するのは、ユダヤ人の陰謀とそれによって当選したルーズベルトのせいであるとし、ヒトラーはユダヤ人問題解決の必要性の念をさらに強くした。
  • 英仏との開戦後の数ヶ月は資源の輸入量が80%も減少して、1944-1945年頃と同程度になってしまった。陸軍は3年の長期戦を覚悟して、資源を長持ちさせるために軍備の生産を減少させ、攻勢を放棄して防御的に戦うことを計画した。しかし時間を稼ぐことに利はないと感じていたヒトラーは、リスクがあっても西部戦線での短期決戦を望んで、1940年攻勢にすべてを注ぎ込むよう指示した。1939年から1940年の軍需生産用の原料の三分の二は飛行機と弾薬に集中された。またその延長線上でZ計画は中止され、1940年中に竣工しない主力艦の建造は中止し潜水艦の建造が始まった。ただ、過去10年間にわたってほとんど投資のなされなかった国鉄が輸送の隘路となり、石炭不足から工場での操業短縮を招いた。
  • 開戦初年の消費水準は前年の11%減で、1941年には1938年の18%減となった。開戦後もすぐに増税せず配給制を強化した。商店に商品がないので、国民は貯蓄金庫に貯金するしかなく、開戦直後に減った総貯金額はその後増える一方となった。また政府債以外の金融商品が禁止され、余資は政府へと流れた。この結果、開戦後すぐにはインフレーションの発生がみられなかった。
  • 開戦とともに男性就業者数が減少し、女性就業者数は横ばいで、捕虜と外国人労働者が増加したがドイツ人男性の減少をうめるほどではなかった。女性の就業者数がイギリスやアメリカほど伸びなかったのは、開戦前の値がすでに、大戦末期の英米両国の数値よりも女性の就業率が高かったからで、ドイツで女性の就業率が高かったのは農業だった。1930年代後半から人手不足だった農村にとって、動員は即座に重大な影響を与えた。労働集約的なジャガイモや根菜の栽培が控えられて飼料不足が懸念されたため、ポーランド人労働者や、ソ連に併合されたバルト諸国からのドイツ系住民の受け入れが行われた。食糧の配給量は一日2750キロカロリーで、兵士には4000キロカロリーとされた。開戦前のドイツ社会は不平等だったので、勤労者世帯の40%にとってこの2750キロカロリーは食糧事情の改善を意味した。
  • 通説とは違って、1940年初夏の対仏戦の勝利は電撃戦によるものではなく、フランス側が等閑視したアルデンヌを通過するA軍集団に装甲師団9個など多数を配置して、数的優勢を確保して攻撃したからだった。電撃戦は、このフランス戦の成功から導かれたもの。
  • 対仏戦の勝利の後、ルーマニアの原油を一手に買い付ける契約が結ばれ、他の南西ヨーロッパやスイスの態度も一変し、ポルトガルもイギリスと一線を画すようになった。また、ドイツの持続的な入超を可能とする、ヨーロッパの貿易集中決済システムがつくられた。ドイツの輸入品の代金は輸出国の中央銀行によって輸出業者に支払われ、輸出国の中央銀行はその代金をベルリンの口座に記帳するが、敗戦まで決済されなかった。しかしドイツは輸出も続けていて、1942年にはイギリスの商品輸出の2倍、1943年には3倍にも達した。ドイツの入超が続いていたので、ドイツ資本が西欧の企業を本格的に買収することは出来なかった。かえってドイツ企業の株を売却することで、ドイツ側の赤字を決済しようという提案が検討されたほどだった。
  • フランス、オランダでの飛行機の生産の契約もなされたが、生産性があまりにも低かった。したがって占領地の軍需品生産への貢献は、主にドイツへの外国人労働者の提供によるものとなった。西ヨーロッパの占領地の獲得とイタリアの参戦で、石油を供給先が増え、かえってドイツの石油事情は悪化した。それでも、フランスは開戦前の8%しか石油を入手できず、モータリーゼーション前に逆戻りした。例えば毎日の集乳ができなくなって、田舎では牛乳が傷むにまかされた。ドイツ陸軍の自動車化が遅れていたのは生産能力のためよりも燃料不足のため。それでもバルバロッサは弱い環に対して最強の戦力である陸軍をぶつける策だった。
  • また、大陸ヨーロッパ内では石炭の生産と消費はバランスがとれておらず、戦前はヨーロッパの多くの国がイギリスから石炭を輸入していたが、対仏戦勝利後は、ドイツが石炭を供給しなければならなくなった。フランス、オランダ、ベルギーの酪農は穀物輸入を前提としていた。また戦前のフランスは穀物を自給していたが、爆薬の生産と競合する窒素肥料の供給や労働者が充分であることが前提だった。しかも1940ー1941年の大陸ヨーロッパの穀物は不作だった。
  • 西欧を征服してもソ連からの資源輸入、特に穀物と石油に依存せざるを得ない事情は変化しなかった。ドイツが西ヨーロッパでの地位を固めて守勢をとり、地中海でイギリスの権益を攻撃し、英米に大陸反抗を余儀なくさせるべきだったと考えがちだが、当時のベルリンでは西ヨーロッパを支配しても長期戦では英米に勝てない、海軍力はもちろんのこと、生産力の戦いである航空戦にも負けるだろうと認識されるようになっていた。それに対してドイツ国防軍は強力であり、英米の勢力が本格的になる前にソ連を叩くチャンスは今しかないと考えられるようになっていった。
  • 通説とは異なり、バルバロッサに先立つ数ヶ月、第三帝国は可能な限りの準備をしていた。陸戦兵器、飛行機、U-boatの生産は1940-41年に大幅に増加したが、その替わり弾薬の生産量は減った。前年、ヒトラーの指示で大幅に増加させられた弾薬の生産量が減少したことは、初めて電撃戦を念頭に置くドイツ陸軍の戦い方の変化を示している。弾薬生産の減少に見合った分の陸軍への鋼鉄配分量が減らされ、輸出に振り向けられた。長期戦の観点からドイツ陸軍の経済部門もこの輸出を希望していた。
  • 第一次大戦中の出生数減少から、20代男性のほとんどが軍務につき、軍需生産に欠かせないとして生産現場に残されたのは主に30代以上だった。それでも、バルバロッサに予備兵力はなかった。短期戦を予想していた陸軍は、8月か遅くとも10月末には三分の一の部隊の除隊を予定していた。1941年のドイツの軍備生産戦略は、前年と違って即座に生産を増やすことを目的とはしていなかった。例えば空軍はバルバロッサだけではなく、英米との対峙も考慮した生産計画をたてていた。ヒトラーもソ連の敗北を前提として、ヨーロッパ大陸対アメリカ大陸の戦いを見通していた。また、この時期に生産性が減少したことを軍も研究者も述べているが、真実はそうではなかった。労働者数の増加とそれが生産量に寄与するまで期間、例えば航空機生産であれば半年ほどが必要なことを見落とすべきではない。
  • ソ連征服後にアナトリアとコーカサスを通って中東やインドに侵攻することを陸軍は計画し、それに必要な数の装甲車両の生産に投資し始めていた。その計画のおかげで、使われた場所は計画と違って東ヨーロッパになったが、大戦後半に多数の装甲車両が実際に生産・使用できた。空軍も陸軍もその大戦後期の形態は1941年夏に計画された。アウシュビッツは4年計画で最大のプロジェクトで、合成ゴム・イソオクタン・メタノール・カーバイドなどの化学工場として建設が始まった。合成ゴムの生産は間に合わなかったが、1943年10月以降にメタノールを生産し、英米の爆撃で減少したドイツ本国のメタノール生産を補完した。戦後、アウシュビッツの高圧機器はソ連に没収されたが、発電所と施設はポーランドの石炭コンビナートとなり、2003年のいまでもヨーロッパ第3位の合成ゴム工場として生産を続けている。
  • 1941年に対ソ戦の決着をつけることのできなかったヒトラーは、アメリカとの戦争を不可避とみていた。日本が参戦してアジア太平洋で米英と戦ってくれれば、1942年のうちにドイツ軍が赤軍を倒す時間をもたらすことになるが、日本が米英と折り合ってしまうと1943年以降はドイツ単独で米英と対峙しなければならないことの方が問題だとヒトラーは考えていた。その結果、1941年12月の日米開戦に、ヒトラーは対米宣戦布告で対応した。
  • ドイツ陸軍は大会戦を除いても、東部戦線でコンスタントに毎月6万名を失っていった。 占領地よりドイツの方が生産性が高かったので、外国人労働者をドイツに連れてくることになった。 例えばドイツ国内のクルップは儲かるからではなく、ドイツ人労働者がいないからやむを得ず外国人や捕虜を雇用した。1944年には外国人労働者数790万人でドイツの労働力の約20%に達した。
  • 1941年に多数の捕虜が死亡したが、これはドイツ国内でも不足する食糧を節約するという経済性の観点から、捕虜や東部占領地での食糧供給を絞って餓死させる政策がとられたためだった。これによる死亡はホロコーストによる犠牲者数より多かった。このように経済性とナチスのイデオロギーとは必ずしもつねに相反したわけではない。しかし、新たな外国人の入手が困難となると、ナチスの民族政策とは相反するが妥協策としてまた経済性の観点から、1942年秋以降に生産性を維持改善するための食事の改善などが行われ、1943年以降は外国人労働者や捕虜の死亡率が減るとともに、シュペアの「軍需生産の奇跡」をもたらす一因となった。
  • シュペアを非政治的な技術者とか、軍需生産の奇跡を起こした人とする通説には問題が蟻、軍需生産の奇跡がヒトラー体制に政治的に役立ったことを見落とすべきではない。また単にたくさん生産するというだけではなく、「まだ勝てる」「労働者と戦場の英雄との協力」の物語をつくった。1941年冬のモスクワ全面の敗北の際に合理的なドイツ指導者は政治的な解決を模索したが、シュペアーは生産面の奇跡のデモンストレーションでまだ勝てるという雰囲気を醸成した。しかし軍需生産の奇跡にもかかわらず、1942~43年の段階ではソ連の軍需生産がドイツを上回っていた。1944年には拮抗するようになったが、東部戦線の帰趨は1943年までに決していた。
  • 1944年末までにドイツの生産は激減するが、連合軍の攻撃だけが原因ではなく、この時期になると1914から1923年に匹敵するインフレーションに直面してドイツ経済が混乱したことにもよる。インフレはバルカン半島ではすでに1942年に始まり、西欧でも1943年には蔓延していた。闇取引が大戦初期には消費支出の2%しか占めていなかったドイツ本国でもインフレーションの兆候が1943年夏には明らかになり、大戦末期には家計の支出の10%にも達した。敗戦後のハイパーインフレーションによりお金が意味を無くすことを予期して、企業は生産資源・建物・他の企業の株式を買ったり、スイス・スエーデン・ポルトガルへ資本を逃避させた。
  • 戦後の両ドイツが支払った賠償はワイマール共和国に比較して少なかったとは言えない。東ドイツは工業生産施設の30%を撤去され、賠償とソ連軍の駐留経費が1953年でも国民所得の13%に達していた。西ドイツも1993年までに合計900億マルクを支払った。