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2012年5月13日日曜日

The Battle for the falklandsの感想 続き


本書の中の日本についての言及は、国連安保理の非常任理事国だった日本が、イギリスの提案したアルゼンチン軍即時撤退の決議案に賛成したことをふくめて4カ所しか見あたりません。EECはアルゼンチンとの貿易を一時凍結したそうですが、日本はどうだったのかな?と疑問に感じても触れられてはいません。まあ、その程度の関わりしかない遠い国でもあり、またフォークランド紛争は30年も前のできごとですが、それでも学べる教訓がたくさんあると私は感じました。
イギリスがフォークランド領有の正当性について主張できたのは、永きにわたって実効支配して来たことと、島民がイギリス帰属を希望していることの2点です。アルゼンチン側は先占の事実とそれがイギリスに奪われた旨を主張していました。これは、ロシアと日本との間で、ロシア側が実効支配と住民の意思、日本側が千島樺太交換条約以来の正当性を主張している北方領土問題にとてもよく似ていますよね。北方領土に住んでいる人たちは旧ソ連から移住したロシア人が多いのでしょうが、それにしてももう数十年ちかく暮らし続けている人も少なくないでしょう。ロシア領である期間が長くなるにつれ、こういった島民の意思を無視しにくくなってきていると私は感じます。ロシア人たちはもともとの島民じゃないという声もありそうですが、もともと近代になる前にこれらの島々に住んでいた人たちは日本に帰属する意識を持たない・日本語も話さない人たちでした。島民の自決権の尊重という点では、日本領時代に住民だった旧島民が、現島民よりも重視されて然るべきだとは思えません。こう考えると、北方領土に関しては領有権の主張を止めて、ロシア領ということで決着する方が、大局的観点からの日本の国益にかなうと私は信じます。領土要求を断念することに反感をおぼえる人もいるでしょうが、このフォークランド問題でも、あまりに長い間、お互いの譲歩がなかったことが戦闘にまでいたったわけです。また、敗戦間際の日本に対して火事場泥棒をはたらいたソ連の肩を持つのかといって怒る人もいるでしょう。でも、そう思うのなら、まずはあの火事場・敗戦という惨事を招いた東条英機やら陸海軍の軍人・政治家のお墓にでも向かって文句を言うべきですね。
また日本が実効支配していることになっている尖閣諸島についても考えさせられます。フォークランドの戦闘の呼び水となったのは、サウスジョージア島へのアルゼンチン「民間人」の上陸と、それに対してイギリスが南極観測船エンデュランス号でフォークランドから海兵隊員をサウスジョージアに移動させたできごとでした。同じようなことが尖閣諸島で起きることはないのでしょうか。警察力では排除できない規模の中国国籍を持つ「民間人」が尖閣諸島に上陸したら、どうなるのか。日本政府は自衛隊を出動させて排除しようとするのでしょうか?また、こういった行為に及ぶとすれば世界の情勢を眺めてのことでしょうから、「民間人」相手にアメリカ軍の介入は期待できないでしょう。もし、悪天候を口実にした中国軍艦船の尖閣諸島への寄港とそれに続く軍人の上陸があって居座ったとしても、アメリカが介入してくれることなんてありそうもないと思えるのです、フォークランド紛争での態度を見ると。日米安全保障条約は日本の領土内にアメリカ合衆国が基地を維持するためのもので、日本の領土の保全のための行動なんて、東日本大震災時の支援(もちろん、あれには大変感謝いたしますが)のように、政治的に支障のない範囲でしか実施してくれないでしょう、アメリカは。そう考えると、日本は中国と単独でことを構えるこのとできる国ではないし、このままだと心配。
ともあれ、国境をはさんだ近隣の諸国すべてと領土問題を抱えている日本の状況というのは危うい限りです。国益という観点からは、短期的には損にみえるような方法であっても、損して得とれと考えて領土問題に決着をつけておくべきじゃないでしょうか。

2012年5月12日土曜日

The Battle for the falklands


Max Hastings, Simon Jenkins著
W, W, Norton & Company
フォークランド紛争から今年でもう30年になります。原潜コンカラーによる巡洋艦ヘネラル・ベルグラーノの撃沈、シュペールエタンダールの発射した空対艦ミサイル・エグゾセの威力とシェフィールドの撃沈、ハリアーの活躍、それに反して比較的あっけなく終わった地上戦という印象を当時は受けました。そういった印象が正しかったのかどうか、あらためて学んでみたくなり、フォークランド紛争に関する本を探してみました。どうも日本語で書かれた適当なものはみあたらず、本書を購入することにしました。本書の原著は1983年に出版され、その後ペーパーバック化されたものです。二人の著者のうち、Max Hastingsさんはジャーナリストとして機動部隊に同行しフォークランド島に上陸した人で、サウサンプトン出港からポートスタンレー解放までの様子を描いています。Simon Jenkinsさんは新聞の編集者でフォークランドの領土問題のそもそもから外交交渉の過程、機動部隊派遣後の交渉とイギリス政府の動向の部分を担当しています。
フォークランド諸島の最初の発見者ははっきりしないそうですが、1713年のユトレヒト条約で他のアメリカ大陸の地方と包括してスペインの領有権が確認されました。1764年に最初に入植を試みたのはフランス人で、同じ頃イギリス人も西フォークランド島に入植地をつくりました。スペインの抗議でフランスは引き下がり、イギリスも武力による威嚇で撤退しました。南大西洋の厳しい環境下にあったので、定住植民地としてではなく、しばらくは捕鯨船などの寄港する根拠地として使われていたのだそうです。1820年にアルゼンチンは独立しましたが、スペインからこの諸島の支配権を継承したとその後、主張し続けることになります。1833年にイギリスが武力で居住者を追い出し、その後はイギリスが実効支配を続けることになりました。
フォークランド諸島の住人はずべて、FICフォークランド会社かイギリス在住の不在地主の借地人、または公務員で、自営の人はいなかったのだそうです。また、辺境の過疎地であり、ながいこと移出民が多かったせいで西フォークランドでは男女比2対1と性比が偏っていました。妊娠できる女性の供給はほぼ島出身者のみで、離婚率はスコットランドの離島の3倍ほど。外部から来る教師・兵士・科学者・公務員が島の若者にもたらす外部の世界への誘惑が島民にとっては脅威で、人口1800人ほどの島は、世界中の小さな村社会と同じような脆弱さを持っていたのだそうです。
アルゼンチンはフォークランド諸島の領有をあきらめず、第二次大戦後の植民地独立の流れに棹さして、国連に提訴します。イギリスは先占を主張することはできず、長期間の実効支配と島民の自決権の尊重(島民はイギリス人であることを希望)を主張しましたが、斜陽のイギリス経済にはこの島を維持する負担は大きく、交通・教育・医療などのサービスを島民に充分に提供できてはいませんでした。アルゼンチン側は、それまで空港もなかったこの島にがアルゼンチン負担で仮設滑走路を設置して空路を開設したり(イギリスからは国際便、アルゼンチンからは国内便の扱い)、奨学金を与えたりなどしたので、イギリスも島民が西ヨーロッパ起源のアルゼンチンの白人社会に同化してゆくのではと期待し、将来は主権をアルゼンチンに委譲するかわり長期に租借するという、名を捨てて実を取る方式も考慮されました。しかし島民のイギリス国籍であり続けたい希望は強く、またこの南大西洋の片隅の島に注意を払ってバックアップするイギリスの政治家もいなかったので、アルゼンチンとの交渉は長引くばかりでなかなか妥結にいたりませんでした。アルゼンチン側でも、1972年のペロンの帰国とペロニストの政権獲得をきっかけに、主権を棚上げにした穏健策が放棄されることになりました。
軍政下のアルゼンチンでは国民の不満をそらず目的で、フォークランド諸島の武力による奪還が計画されました。インドのゴアのポルトガルからの解放などの例を見て、帝国主義の残滓であるこの島を実力で取り戻しても国際社会からの非難を受けないだろう、またイギリスが軍隊を派遣して奪還しに来ることはないだろうと、アルゼンチン側は考えていたのだそうです。7~10月の厳冬期の派兵を予定していましたが、サウスジョージア島での事件をきっかけに4月に実施することになってしまいました。
イギリス外務省が将来の主権の委譲も視野に入れていたとはいっても、侵攻した側が利益を受ける決着をサッチャー首相は望まず、閣僚の賛同をなんとか取り付けて機動部隊を派遣することにしました。国連安保理でアルゼンチン軍の即時撤退を求める決議は採択されましたが、アメリカのヘイグ国務長官や国連事務総長の和平の斡旋を、侵攻を受けたまま譲歩したくないイギリスも、三軍の寄り合い所帯で譲歩できないアルゼンチン政府も受け入れませんでした。アメリカ大陸の国であるアルゼンチンと、西側同盟国のイギリスとの間でアメリカ合衆国は中立を表明し、イギリス機動部隊は上陸作戦を実施します。
巡洋艦ヘネラル・ベルグラーノの撃沈で、アルゼンチン海軍は出撃を控えました。また、アセンション島から空中給油を繰り返したバルカンによる爆撃や特殊部隊による駐機中の機体の破壊などが行われ、アルゼンチン空軍は本土の飛行場からの作戦を余儀なくされました。燃料の余裕がなく、フォークランド上空ではシーハリアーが優位に作戦できました。それでも、イギリス艦船は空襲による多数の被害を受けました。空対艦ミサイル・エグゾセの在庫数が限られていたことと、航空爆弾に不発が非常に多かったことで、イギリス艦隊はなんとか作戦をつづけられました。アルゼンチンは触発に設定を変更できる信管を使用していましたが、製造元のアメリカの企業がその説明書を禁輸措置で渡さなかったのだそうです。こういった目立たないかたちでのアメリカによるイギリスへのサポートはほかにもたくさんあったそうです。ただ、アルゼンチンの三軍の中では空軍が最も勇敢に戦ったことはたしかで、上陸船団に対する航空攻撃をみたあるイギリス人軍医は「一流のF1ドライバーを生み出す国は優秀なパイロットを育てることもできる」という感想をもらしたとか。
地上戦も順調に進んだように思っていたのですが、寒さと悪天候下に沼地や山道を行軍するなど苦労が多かったそうです。樺太の北部くらいの緯度の島の初冬ですから、野営するのはきつかったことでしょう。また、充分な数の車輛を揚陸できず、弾薬や食糧などの補給はヘリコプター頼みでした。大型ヘリコプターを輸送して来たコンテナ船の空襲被害でそのヘリコプターも不足していたのだそうです。そういった悪条件にもかかわらず、数的には優勢だったアルゼンチン軍に勝利することができたのは、兵員の質と士気の差が大きかったからのようです。イギリス軍が職業軍人で構成されていたのに対し、アルゼンチン兵は徴兵された人たち。出征前にイギリスのある特殊部隊員は、大口径の火器に対するのは初めてだが、小口径火器の洗礼は何度も受けていると言ったそうです。イギリスは第二次大戦後もスエズなど海外に出兵していますし、また北アイルランド問題に軍隊が投入されたことがありましたから。それに対するアルゼンチン側は、一個旅団を一ヶ月ほど駐屯させれば解決するだろうという目論見で兵站を計画していたのに、イギリスの派兵に対応して増強し、1万人以上を3ヶ月も維持しなければならなくなり、補給の状況がとても悪くなっていたのだそうです。ただでさえ指揮や訓練に問題のあった徴集兵たちからなるポートスタンレー守備隊はわずかな抵抗で降伏し、島民に多くの死傷者が出ることはありませんでした。
ざっとこんな風に、フォークランド紛争の始まりから1982年の戦闘までわかりやすく解説してくれる好著でした。英語的には、Max Hastingsさんの書いた部分は軍人・兵士の様子や戦闘を扱っているので面白くどんどん読めましたが、Simon Jenkinsさんの表現は倒置・比喩・引用などに富んでいて読みにくい感じがありました。また、戦闘の翌年に主にイギリス側の資料をもとに書かれた本なので、アルゼンチン側の政治家や兵士やアルゼンチン国民の様子などについては物足りない感じではあります。しかし、340ページの本文のほかに、この戦役での叙勲者リストやら、参加した航空機・艦船のリストやら、イギリス人ならニヤニヤして眺めそうな付録もついています。まあ、イギリス政府には30年ルールがあり、2012年の今年から当時の秘密資料が公開されることになるそうですので、もっと詳しい史書がこれから出て来ることになるのでしょうが。




2012年5月2日水曜日

日本中世債務史の研究


井原今朝男著
東京大学出版会
2011年11月28日 初版
本書は大きく二つの部分に分けることができます。ひとつは雑誌や書籍などに掲載された論考を採録した第二章から第九章。もうひとつは、本書のための書き下ろしの部分(はじめに、序章、終章、あとがき)です。既発表の論考の方の各章では、債務関係に関する通説とは違った斬新な考え方(もしかすると専門家から見るとちっとも斬新ではないのかな?)が提示されていて、それによって史料をこれまでの解釈よりずっとうまく説明できることが主張されています。とても勉強になったので、いくつか例を挙げてみます。
沽価法というのは物の公定価格を提示して、物価を固定するためのものなのかと思っていました。しかし、沽価法には輸入品や、地方から中央への貢納物の決算に際して換算率を示す計算貨幣の導入という側面があったのだそうです。政府だけではなく、荘園領主に送られて来る年貢も、米のみとは限らず複数の種類の品で構成されていたので、賦課された額がきちんと送られてきたのかどうか確認するには、換算表に従って計算通貨建ての総額を算出し決算することが必要だったわけですね。平安時代後期になると、地方の負担が軽減されるよう国ごとに沽価が改訂されたそうです。各地方と中央でモノの交換価値が違うとすると、為替相場の変更のような意味合いだったのでしょうか。
宋銭の流入によって和市が混乱し、高賈売買が一般化し中沽の制を実施することができなくなっている。中沽の制は、品質によって上中下の価格が生まれることを前提にして折中の価格を沽価法とするものである。しかし、唐物や宋銭が流入し、価格は需要と供給のバランスで決定されることになると、品質によって価格が決定されなくなる。もはや中沽の制を沽価法とする古代の経済原則は貨幣市場では機能しえないのは当然である。
と著者は述べています。宋銭の流入が中沽の制の継続を不可能にさせたことは事実なのかもしれませんが、この部分の著者の説明は論理的ではなく、納得し難いと感じました。私が想像するに、銭貨による売買の頻度が少なかった頃は、経験不足から売買の当事者たちが値ごろ感をつかむことが難しく、中沽の制による沽価で取引されることが当たり前だった。しかし、宋銭の大量流入によって銭貨による売買の経験が増えると、その時点でのモノと銭貨の需要供給の関係で銭貨で表示された価格が変動するようになっていった。中沽の制による沽価という固定相場制はすたれ、銭貨によって表示されたモノの価格は変動相場制が主流になったなんていうことはないのでしょうか?
地方市場の本格的成立に先立って、宋銭が銭貨出挙として広範に流通 
日本では宋銭が市場以上に債務=貸付取引に急速に浸透したのかは史料的には不明である
と述べられています。銭貨出挙として広範に流通した銭貨は、市場の本格的な成立が実現する前の段階で、何につかわれたんでしょうか?この点がとても不思議です。本書によるとそれを説明する史料がないということなので、その点がはっきりしないのは残念です。
鎌倉時代の後期に年貢未進問題が債務関係になったのはなぜか。年貢・公事の未納は代納されたので債務関係に転化し、倍額弁償や下地分与で処理されたということ。また未進は所職没収や改易などの不利益処分につながってしまうので、皆納したことにしてかわりに未進分を債務として処理したりということなのだそうです。
中世請取観念の多様性は、進上・納入から始まり仮請取・算用・結解を経て未進分の催促から皆納請取状発給までを含む多様で複合的な中世の授受慣行手続きと対応するものであったことが判明する。 
中世請取状の成立の歴史的意義は「もの」の授受関係が計算貨幣と受領額を確定するという「結解」「算用」作業と一体化したところにある。中世のものの授受関係がこの換算・算用関係をともなうために多様性と曖昧性を取り込むことになったことはすでにあきらかにした通りである。
現代人の目から見ると、なぜ請取という言葉が受領・預かり・借用の三つの意味を兼ねることができるのか、私にとっても不思議でした。しかし、一回の交換で終了するような取引ならいざ知らず、複数の品目からなる一年分の年貢はその品目にふさわしい時節ごとに納められるわけで、一年分を決算してたしかに受け取ったという書類が発行されるまでには時間がかかるとのこと。その過程で請取状という一枚の書類が違った役割を帯びる・果たすのだという説明にも感心しました。
本人の意思に反して強制的に乞取られたものはその主に還るという法理が存在していたことを示している。当事者間の同意によらない契約文である乞索文や圧状は効力が否定され、強いて乞取られた乞索物は本主に取戻されるとすれば、それは徳政と同じ現象である。だとすれば、徳政についても本主権説とは異なる説明が可能になる。つまり、乞索物として主張して訴訟で認められれば、本主に戻されたのである。徳政は土地所有や売買取引での戻り現象ではなく、中世の契約観念に関わる問題として再検討されなければならない。
私が日本史の本を読み始めたのは、網野善彦さんなどがブームになっていた頃で、開発によって息を吹き込まれた土地は、いったん売却されても息を吹き込んだ本主との縁が切れずに、徳政を機に戻るのだという説に納得していました。しかし、著者の主張はなかなか説得的で、こちらの方が本筋の解釈になってゆくのかなと感じてしまいました。
私戦を避け、モノの取り戻しによって当事者間の利害のバランスをとり紛争を平和的に解決する
本書の対象とする時代に、現代人の目から見ると債務者保護とみえるような状況があった理由として、究極的には自力救済の必要だった中世では、ことによると死闘にまで及びかねない当事者間の争いを避けるために合意優先主義が取られたのではないかと著者は説明しています。債務者の合意がないと質流れしないような状況はその反映だったと考えれば納得できますね。
他にも重要と思われる論がたくさん含まれていました。私は専門家ではないので、これら著者の主張の当否については判断できませんし、またその筋の学会でどう受け取られているのかも知りません。でも、第二章から第九章と、それらの内容をまとめて今後の研究の方向を示した終章は、興味深く読めたし、勉強にもなりました。また、第二章から第九章は査読のある雑誌や編著への寄稿がもとなので、経験ある査読者や編者が何度か目を通したものなのでしょう。斬新な発想な論考だとは感じましたが、叙述の仕方はオーソドックスで、特に違和感を感じさせません。
それに対して、本書のために書き下ろされた部分、特に序章と「はじめに」(序章と終章が新稿と記されていますが「はじめに」と「あとがき」ももちろんそうですよね)は、かなり毛色が違います。本書を普通に冒頭から読むと、まず「はじめに」を読んで、次に序章を読むことになりますが、私はここを読み進むうちにトンデモ本を買ってしまったんではないかという気分になってしまいました。というのも、本書は
本書は、債務史というあたらしい研究分野をつくりだし、人類が直面している債務危機という諸問題に社会経済史の方法によって分析の鍬を入れることを目的とする
という大げさな一文で始まり、
これまでの歴史学では債務史という研究分野は存在しない。それは日本や世界が債券・債務関係よりも、物権・私有財産制を重視する社会であったということである
と進むのです。ほかにも、
「売買は賃貸借を破る」「物権は債権に優越する」という原理は近代社会でも中世社会でも均一に適用されるものと理解されてきた
とか、最高裁の消費者金融のグレーゾーン金利の無効判決を
いまや、近代債権論の原理を相対化するために新しい債権論の世界を創造することが求められている。それこそ、本書の尾問題提起する債務史研究である。日本法学の世界では、債権者の権利保護を目的とした債権論は存在してきたが、債務者の権利保護を検討する債務論の世界はないに等しい
とのこと。借地借家法だとか、グレーゾーンの上限にあたる利息制限なんて、目に入らないようです。またモノの戻り現象から
21世紀の人文・社会科学の研究者は、そうした中から、有限の自然や資源と資本を一国や個人が独占するのではなく、互いに戻り現象を認め合いながら人類の平和と国際協調のために使い、しかも格差拡大を防止する社会システムの創造に役立つ非市場的交換原理を探求する学問的努力をしてゆかなくてはならない
などに加えて、話はバブル経済、不良債権処理、国と地方の債務、多重債務者と自殺、第三世界の債務危機へとつながってゆくのです。学問の世界ではオリジナリティの主張はとても重要だとは思いますが、本書のここまでの叙述からは、自己顕示欲の強い人の書いた大風呂敷なトンデモ本かなと感じてもおかしくはないですよね。でもまあ、幸いなことに、第一章後半の研究史の整理の項からはかなりふつうになってきます。そして、第二章以降は有益な既発表論文がならんで、第十章には大変わかりやすいまとめと続くのでした。なので、読み終えての感想としては、学ぶ点・刺激される点の多い有益な本です。

2012年4月25日水曜日

共同研究 転向 1 戦前篇 上、2 戦前篇 下


共同研究 転向 1 戦前篇 上
 東洋文庫817
共同研究 転向 2 戦前篇 下
 東洋文庫818
思想の科学研究会編
2012年2月24日 初版第1刷発行
転向というテーマに興味があったことと、いろいろな本の中で参照文献として挙げられているのを目にしていたので、いつかは読んでみたいなと感じていた本でした。しかし、それなりの価格の古書でないと入手できない状態が続いていて、なかなか購入する踏ん切りがつきません。幸いこのたび東洋文庫に収められて出版されることになったそうです。なぜ平凡社ライブラリーでなくて東洋文庫の方に入ったのか、著作の性格的には不思議な気もします。平凡社ライブラリーなら一冊1500円くらいの定価しかつけられないのに対し、東洋文庫なら一冊3000円の値付けができるからでしょうか。当初は戦前編の2冊だけですが、ぜんぶで6分冊で刊行される予定だそうで、しめて1万8000円也は「幸いに」とはいえないようなお値段ではありますが、折角ですから購入してみました。本書の序言で鶴見俊輔さんは、
「転向」という言葉の意味には、強制と自発性のからみあいが、ふくまれてる。他の類語は、この微妙な相互関係をこの言葉のように見事に指示しない。
私たちは転向を「権力によって強制されたためにおこる思想の変化」と定義した
と述べています。特定の国の特定の時代に限らない定義で、一般的に転向について考える際に役立つ定義です。しかし、転向というテーマ一般がそれ自体でとても魅力的かというと少し疑問です。もちろん、転向の事情やそれにまつわるエピソードは、三面記事的に面白いに違いありません。でもそういったこととは関係なく戦前日本の転向が私の関心をひくのは、共産党員の少なからぬ部分が転向したという事実があったからです。
迷走する戦間期の日本において、なんといってもマルクス主義は輝ける希望の思想でした。また、天皇制打倒(本書を読むと必ずしも日本人党員が積極的だったわけではないようですが)と反帝国主義・反戦平和の旗幟を鮮明にしていた共産党は、支持者・シンパ・自由主義者のみならず、日本の支配層にも一目置かれる存在だったはずです。その党の中央委員長だった鍋山貞親と佐野学が転向の声明を発表したことが、党員やシンパや日本社会の知識層一般に大きな衝撃を与えたことは想像に難くありません。彼らの転向の事情と、彼らの転向が共産党の党員にどんな影響を与えさらなる転向を誘ったのかは本書に詳しく述べられています。
この転向とその後の一連の弾圧によって日本の共産党は姿を消し、戦前の日本にはこういう真っ当な主張を掲げた政治運動は存在し得なくなりました。それどころか、共産党を擁護することができなかった他の左翼・自由主義者などにも圧迫が及ぶようになります。結局のところ、あの戦争への道をとどめることができなかった原因の一つとして転向があったわけで、本書はこの面からも転向の例をあげて、解説してくれています。
転向者を多数出して運動としては敗北してしまった日本のマルクス主義も、他に代わるものがなかったため、戦争に向けて変化してゆく日本社会の中での自分の立ち位置を測る基準、北極星という地位を担い続けることになりました。そのため、敗戦後にも新たにたくさんの日本人がマルクス主義を真理であると信じることになり、マルクス、レーニンにつらなる日本共産党に対して盲目的ともいえる期待をもつようになりました。その日本共産党の指導層の中には獄中十数年という非転向の党員が存在しました。勇気をもって節を屈しなかった本当に立派な人たちだと私も感じますから、日本共産党の党員やシンパの人たちには、一層まばゆかったことでしょう。
では、その輝ける党は誇るべき成果を達成することができたのか?私は現在の日本の政治・社会の閉塞状況の一因に、1970年代までの日本共産党をふくめた左翼勢力の不適切な運動方針・実践の問題があったと考えています。あの頃なら、たとえ政権は取れずとも、もっとましな日本にする選択枝があったろうにと思うと残念です。1930年代の転向というできごとは、戦後の日本共産党に獄中十数年の非転向者を無謬の指導者としてもたらしたことで、不景気と不平等と原発事故を解決できない現在の日本の状況に間接的に関わっているし、また現在にいたっても外に向かっては決して誤りをみとめない日本共産党の伝統につながっているのだと思います。
ざっとこういった関心を持ちながら本書を手に取りましたが、読み終えて感じたことは、転向ってそんなに重大な問題だったんだろうか?ということです。もちろん、鍋山・佐野の転向声明とそれに引き続いた党員の転向は社会的にも大きな事件でした。また実際、主張の急角度の変化がみられたわけですから、鍋山・佐野や彼らに関連して転向した人たちも大きな痛みを感じながらの行動だったでしょう。しかし、21世紀の日本に生きている私の目から見ると、その他の事例についてはそうそう目くじら立てることもないような気がしました。序言で鶴見さんが
転向問題に直面しない思想というのは、子供の思想、親がかりの学生の思想なのであって、いわばタタミの上でする水泳にすぎない。就職、結婚、地位の変化にともなうさまざまの圧力にたえて、なんらかの転向をなしつつ思想を行動化してゆくことこそ、成人の思想であるといえよう。
と書いていますが、成人の思想ってそういうものですよね。権力と無縁に生活することなんて不可能ですから「権力によって強制されたためにおこる思想の変化」があるのも当たり前。例えば、元新人会のメンバーとして赤松克麿がとりあげられていますが、彼なんかは、親がかりの時代に共産党員に名を連ねてしまったことの方が若気の至りともいうべき誤りで、その後の変化・経過は転向というより、彼にとっての当然の途を歩んだだけだっのではないかなと感じてしまいました。まあ、日本思想史の叙述という意味ではそういう例も含めて考察することに意味があると研究会はお考えなんでしょうが。
また、本書には転向後に作家や評論家として歩んだ人たち、島木健作、亀井勝一郎などの例もとりあげられていました。転向がこの人たちの作品に及ぼした影響を考慮すると言う意味では、これらの章も必要なのでしょう。でも、政治的に意味を持つ出来事・エピソードをつらねて叙述できる政治家や主体的に政治運動にかかわる人たちの例と違って、作家や評論家では作品分析のような手法が用いられているためか、私の理解力のせいか、腑に落ちない感じの章が少なくありませんでした。本書は研究会のメンバーが分担して執筆しているわけですが、筆者ごとの筆力の差が大きいことも作用しているかなと感じます。例えば鶴見俊輔さんの書いた埴谷雄高の章は、その他の作家や評論家を論じた章に比較して、読みやすい・読む気にさせる・分かった気にさせる文章でしたから。
その他、興味を引いた点
われわれは転向研究の途上でかなり多くの転向調書に出会い、調書を読むという作業をとおったが、これらに重点をおいて転向例を記述することを意識的にさけた。
調書の類いは、近頃多く市に出ており
と書かれていましたが、こういう事実があったのは初めて知りました。敗戦後の生活苦などが原因で、司法省や警察の職員が調書を持ち出して換金したということなんでしょうか。
もっともはっきりした転向的指導者にとって、転向波内非転向波は、不愉快かつ不気味な存在であった。明白な非転向者にたいしては、評価の感情も一色である。あいつは気違いだとか、馬鹿だとか、謹厳すぎるとか評価しておけば、それで気持ちも片付いてしまう。つまり、自分たちと同類の問題ではない。だが、一度は人間並に転向していながら、なおも完全にすぱっと転向しきらないような仕方でいるタイプの人、原理から離れてしまっていながら、なおも原理に近づこうとしているタイプの人は、あいまいな感情をよびさまし、不安をつねに感じさせる。たとえば中野重治、鹿地亘、大宅壮一のような転向内非転向波にたいする妙な反撥が、転向波内転向波の談話や著作の中に見えがくれするのはこのためである。
とても面白い指摘です。中野重治、大宅壮一の立ち位置ってこういうものだったかと勉強になりました。

2012年4月20日金曜日

飢餓の革命





梶川伸一著
名古屋大学出版会
1997年11月30日 初版第1刷発行
先日、日中戦争下での徴兵・食糧の徴発などが中華民国の自壊に深く関与していたことを興味深く説明している中華人民共和国誕生の社会史という本を読みました。同書ではロシア革命にも同様のメカニズムのあったことが触れられ、本書の名前が参照文献として載せられていまし。それがきっかけで、ロシア十月革命と農民というサブタイトルをもった本書を読んでみることにしました。本書によると

  • ケレンスキーの臨時政府の時期から、不円滑な流通が原因で穀物の不足をきたす地域があり、価格が上昇していた。その対策として1917年8月に穀物価格の固定制が導入された。十月革命の後にも、価格の改訂はされたが穀物価格の固定制は継続された。インフレーションのため生産農家は紙幣との交換で穀物を売りたがらなかった。商品との交換による穀物の買い付けも試みられたが、革命後の都市での生産減退と流通の問題から農家の欲する生産材・消費財の供給は不十分で成功しなかった。この結果、都市で配給量が削減されてかつぎ屋も横行した。
  • 「国内に食糧はある。地主、クラーク、商人の所に腐りかけの大量の食糧がある」との前提で、ボリシェビキ政府は安い固定価格による強制的な収買と私的商業を廃しての専売制をめざした。しかし、農家の売り惜しみ、高値で買うかつぎ屋、地方ソビエトの非協力に加えて、休戦後に復員兵や武器が農村にも流入し中央政府の施策に武装して反抗する機運が強くなったことで、目論見通りには進まなかった。ペトログラード、モスクワ両首都では食糧切符で入手できる量が減って飢餓は進行し、強制的な徴発を行うため武器を携えた食糧部隊が都市の労働者を主体に創設された。農作物の勝手な刈り取りや徴発に抵抗する農民と食糧部隊との間ではしばしば武力抗争が発生し、死傷者もみられた。
  • 農村ではクラークだけでなく、農村革命で生まれた多くの小規模自営農も「プチブル」的性格を持っていたので、ボリシェビキの食糧独裁・専売制に反抗した。都市で起こった革命を農村にも波及させ、農村でのボリシェビキ権力の確立のため、 穀物の余剰をもたない落ちこぼれ的存在である貧農に依拠する名目の貧農委員会がいったんは設置され、その後、地域のソヴェトにボリシェビキ支持者を選出させることで発展的に解消された。
という流れが、本書の扱う1919年初頭までにみられたのだそうです。もともと、革命前からボリシェビキの依拠するプロレタリアートの居住する都市部では食糧が不足していて、ボリシェビキは農村から穀物を奪って都市を養おうとした。それに反抗する県や郷や村のソヴェト(とそれを構成するクラーク・中農・商人・聖職者・役人)には武力を用いた弾圧(著者曰く「都市によって宣告された農村への戦争」)を加え、中央の言いなりになるソヴェトを作り出していったということのようです。そして、これがその後の中央集権的で恐怖の支配する1950年代までのソ連の姿を規定したわけです。
ロシアの十月革命に限らず、食糧不足の状況下でおきる暴力的な政権の交替には、飢餓や徴発などの混乱は必発なのかと思います。ただロシアの十月革命が異常なのは、 ボリシェビキの積極的なメンバーが、農村の飢餓や徴発、商人・クラークへの弾圧などなどを、階級闘争として必要かつ正当な行為として信じて実施したことかなと感じます。正しいことだから、容赦がない。その後のスターリン時代の大粛正も、帝政下での地下活動の経歴のあるスターリンが異常に残忍だったからということだけで説明できるわけではなく、スターリンをはじめとした共産党員が、革命を防衛するために必要かつ正当な行為と感じていたからあんな風になってしまったのでしょう。
農村での強制的な収買・徴発に対しての武力抵抗で多くの人が死傷したように本書には書かれていますが、具体的にはどのくらいの犠牲者が出たのでしょう。しっかりした統計はなくて、数を上げることが難しいのかも知れませんが、本書を読みながら知りたく感じました。十月革命後の早い時期にそういった情報が世界中に知れ渡っていれば、20世紀の悲劇の一部だけでも減ったものか、それとも日本をはじめ各国の共産主義の信奉者は革命なんだから正義の実現に犠牲のともなうことは当たり前と感じるだけで無意味だったか、どっちでしょう。
本書は専門書なので、きちんとした基礎知識をもった読者を想定してるのだと思います。私がその水準に達していないからいけないのだとは思いますが、見知らぬことばが少なくありませんでした。クラークくらいはわかりますが、以下のようなことばも有名なんでしょうか。
  • サモスード:説明なく使われ続け、なぜか本書のなかほどで(リンチ)という注をつけられていました。
  • アルチェリ
  • クスターリ
  • フートル
  • オートルプ
  • バトラーク
また、本書の日本語は難しいというわけではありませんが、指示語の使い方や表現については、上手な日本語ではないという印象をもちました。

2012年4月9日月曜日

Silent Victory

Clay Blair Jr.著
Naval Institute Press
第二次大戦中に潜水艦で2回のパトロールに参加した経歴を持つジャーナリストが、潜水艦長の記したパトロールの報告書などのさまざまなアメリカ海軍の公式文書に加えて、書簡や関係者に対するインタビューなどをもとにまとめた、潜水艦対日戦物語といった印象の本です。かなり分厚い本で、本文が870ページあまり、太平洋戦域での潜水艦による全パトロールのリストや索引などのおまけを含めると、全体で1070ページ以上もあります。ただし、ボリューム豊富なわりには安価ですし(アマゾンさんで3000円)、つかわれている英語も難しくないので、太平洋戦域でのアメリカ潜水艦の活動のようすや、アメリカ海軍から見た日本海軍・日本の欠陥といった点を日本人の読者が知るのにもふさわしい本だと感じます。私が購入したのは、Naval Institute Pressが2001年から復刊したものの第14刷ですが、原著はLippincottから1975年に出版されています。もう40年近く前の本ということになりますが、アメリカ潜水艦の行動や戦果を日本側の記録と照らし合わせたり、潜水艦長や暗号解読従事者などの関係者にインタビューするには最適な時期だったんでしょう。現在でも某所の第二次大戦中の潜水艦に関するオススメの本のリストに挙げられていました。
冒頭の章は、アメリカ独立戦争でのTurtle号、ジュールベルヌの海底二万マイル、潜水艦設計・建造を試みたアメリカ人Hollandの苦労話、第一次大戦の潜水艦戦、軍縮条約下での潜水艦などの対日戦前史にあてられています。これを読んで驚いたのは、アメリカがワシントン海軍軍縮条約交渉の頃から日本の外交暗号を解読していて、その後も暗号解読の努力が続けていたということです。レインボープランはあっても、ドイツ海軍が決定的に弱体化され、イギリスとの戦争も現実にはありそうにないというのが第一次大戦後の状況では、日本の海軍が対米戦を意識していたのと同様に、アメリカの海軍士官たちも主に日本海軍との戦争を想定した軍備に余念がなかった、しかも日本よりずっと手広く準備していたということですね。
開戦後、太平洋のアメリカの潜水艦はハワイと、オーストラリア東岸のブリスベンと西岸のフリーマントルにある前進基地から作戦に従事しましたが、それぞれの基地から出撃した潜水艦の行動・戦果が数ヶ月ごとにまとめて一つの章として記述されています。そのあいまに、珊瑚海海戦、ミッドウエイ海戦、ソロモンキャンペーンなどの有名な海戦が触れられ、潜水艦とそれら海戦との関わりが説明されています。日本の艦船が撃沈された話は有名なもの(信濃や大鳳など)もそうでないものもたくさん載せられていますので、それ以外で興味深く感じたことをいくつか挙げてみます。
連合軍全般の例に洩れず、緒戦期は潜水艦もかなり苦労しました。ソロモン諸島などで、日本の潜水艦が孤立した部隊に食糧や弾薬を運ぶ輸送任務について大きな犠牲を出したことは有名ですが、アメリカの潜水艦もたびたびコレヒドール島に銃弾、食糧を搬入し、これヒドールから魚雷、潜水艦の部品、金塊・銀貨を運び出す作戦に従事させられました。艦長たちは乗り気ではなかったそうですが。
アメリカ側は魚雷に大きな問題を抱えていました。一つは魚雷の不足で、1942年前半は、魚雷の生産が消費に追いつかないので、攻撃目標ごとに発射本数が制限されました。また、主力であるMark XIV魚雷に設定深度より深く馳走してしまう欠陥があったこと、磁気信管に信頼性がなかったことも大きな問題で、この時期には命中するはずなのに命中しない、命中したのに不発という自体が多発しました。現場でこういった問題を経験した艦長たちはすぐに問題を把握し、改善するように求めましたが、魚雷の設計・生産を取り仕切っている部門の官僚主義的な姿勢から、完全な解決には1943年までかかりました。日本の艦船の被害が緒戦期に予想より少なくて済んだのは、このおかげが大きいようです。
戦前には飛行機の脅威が強く意識され、潜望鏡深度に潜航したまま雷撃することなどが勧められていましたが、実際には浮上しての攻撃が危険ではないことが判明していきました。しかし、開戦後も戦前の教えを踏襲する艦長も少なくなく、積極性に乏しいとして問題視されるようになりました。でもこれに関しては、不発魚雷が多かったことも関連していそうで、更迭された艦長さんたちがかわいそうな感じも受けます。
戦争が進んで新たな就役艦が増えるにつれ、若い世代が新たに艦長として任命されるようになりましたが、それでも艦長になれるのはほとんどNaval Academy卒業生でした。予備仕官で潜水艦長になれたのは数名だけ。かなり厳然とした区別があったようです。似たような話として、日米開戦前の頃のアメリカの潜水艦には、士官・下士官・徴兵された水兵とは別に、黒人かまたはフィリピン人のstewardが2名乗り組んでいたと書かれてあります。stewardだからボーイとして下働きをしたんでしょうが。もっと平等主義的なのかと思っていただけに意外です。
1943年1月、ニューギニア北で日本の陸軍部隊を運ぶ輸送船を撃沈した潜水艦Wahooは、浮上して海面に漂う数千名(?)の生存者や救命ボートを砲撃して殺しました。艦長はこのことをパトロールの報告書に記載して提出しましたが、特にお咎めはなく、このパトロールで5隻を撃沈したことで勲章をもらいました。ただし、こういった生存者の殺害を殺人だとみなす艦長も少なからずいて、同様の行為をあえて行う艦長はほとんどいなかったそうです。本当にそうだったのかどうかは別にして、少なくとも1970年代のアメリカではそういう風に受け止められていたから著者はこう書いたのでしょう。
撃沈後の海面に多数の生存者をみかけることはおそらく少なからずあったと思われます。しかし、日本人の生存者を救助したというエピソードはほとんどなく、情報収集のために一名だけ連行したというような記述がいくつかみられるのみでした。無制限潜水艦作戦下では、それが当たり前だったんでしょう。例外的なのは日本人以外の遭難者です。大戦中にアメリカの潜水艦は4隻のソ連船を誤って撃沈してしまいましたが、うち一隻が生存者を救助したエピソードが書かれています。一隻目の撃沈は外交問題になりましたが、二隻目に当たるこの撃沈では、救助されたソ連人が、日本の潜水艦に撃沈されて漂流中にアメリカの潜水艦に救助されたと報告してくれて問題化しなかったのだそうです(ソ連側も真相を把握していたが抗議しなかっただけかも)。また、連合軍捕虜も乗せられていた日本の輸送船が撃沈されて、日本人の遭難者が船団の他の船に救助されたのに、見捨てられてしまった連合軍捕虜の遭難者を潜水艦が救助し、一隻だけでは足りないので、別の潜水艦も派遣してもらって救助に当たったというエピソードが紹介されていました。
アメリカの潜水艦にSJレーダーが装備されるようになると日本の艦船の発見が容易になり、魚雷の欠陥の克服ともあいまって、1943年以降は潜水艦による被害が急増(日本人としては読むのがつらいくらい)するようになりました。本書で紹介されている戦闘の様子を読むと、レーダーで日本船を探知すると先回りして待ち伏せし、夜になって浮上して雷撃する戦術が一般的だったようです。レーダーを装備した日本の艦船は数が少なかった、またレーダーを装備していても潜水艦を探知することは商船を探知するより困難だった、といった事情があるのでしょう。それにしても、レーダー波を検出する逆探を製造・配備することも難しかったんでしょうかね?レーダー自体を製造するよりは容易なような気がするのですがどうなんでしょう。
日本の艦船にもレーダーを装備しているものがありました。ルソン島へのアメリカ軍の上陸後、1944年2月にルソン島にいたパイロットを台湾に避難させる任務に当たった呂号潜水艦4隻もレーダーを装備していました。しかし、レーダーを作動させていたため、アメリカ潜水艦のAPRという装置(おそらく逆探でしょう)に探知され、撃沈されてしまったことが紹介されていました。
軍艦にしろ商船にしろ、潜水艦による被害があれほど大きくなったの、暗号解読により日本の艦船の航海の情報(航路、正午の位置、出入港の日時など)がアメリカ側に知られてしまっていて、これをもとに潜水艦に攻撃を指示していたからだそうです。レーダーやソナーが行き渡らなかったことや、護衛艦艇の建造が遅れたことなどは、技術的限界からやむを得なかったのたかもしれませんが、商船暗号がばれていたことに関しては、ソフト的な問題ですから変だと気づきさえすればやりようがあったろうにと思われて仕方がありません。インド洋・太平洋戦域で失われたドイツ船・潜の撃沈の原因にもなっていたそうなので、ほんとに申し訳ないというか情けない。


2012年3月20日火曜日

中華人民共和国誕生の社会史

笹川裕史著
講談社選書メチエ510
2011年9月10日第一刷発行
日本との戦争を続けるために、税や強制借入として現物の食糧を無理に徴発し、嫌がる人たちを兵士に仕立て、対日戦「惨勝」後にも兵士の多くはお金がなくて故郷に帰れなかったり戦傷を負っていたりなどして、耕し手を失った小作農は地主に土地を取りあげられてしまうなどといった問題が山積していた、そんな日中戦争から国共内戦にかけての時期の四川省の様子を描くことで、タイトルにある中華人民共和国誕生の理由を実感させてくれる本でした。この時期には人口(政府が徴税のために把握していた人口)が大きく減少したことも書かれていて、中国の王朝交代時の大幅な人口減もこういったものだったのかもと思わされます。また、プロローグには
十数年間にわたる戦時下の混乱と変容が、中華人民共和国の誕生とその政策展開における社会的土壌を準備した。その点では、1949年革命の必然性を、日中戦争の開始以前からの社会矛盾に求める通説的な中国近代史像とは異なっている
とありました。日本でも厭戦感情や困窮した生活をそのままに敗戦後数年以内にもうひとつ戦争を戦わなければならなかったとしたら、社会の混乱はただごとではなかったでしょう。中国は日中戦争後に国共内戦を経験することになったんですから、ただでさえ国内を統合する力の弱かった国民党政権が統治の正統性を失い、役人や軍閥なども沈む行く船から逃げ出すような有り様になったのも頷けます。ああいったかたちでの日中戦争がなければ中国に共産党政権ができていなかった蓋然性はかなり大きいのではという点も含めて、本書を読んで著者の見解はかなり正しいだろうと感じました。
日本軍が戦闘・占領した地域はもちろんのこと、重慶爆撃などの例外を除くと日本軍の戦闘行為による直接的な被害を受けなかった四川省でも、日本が社会の混乱と共産党政権誕生の主たる原因とみなされていたでしょうから、この時代を生きた人やこの時代のことを学んだ人たちの対日観がこの戦争に大きく影響されることはやむを得ないことでしょうね。
国民党統治下では統制しきれなかったため、 戦中の日本よりも「報道の自由」があったそうです。本書の史料としてもこの時期の中央・地方政府の文書に加えて、 地元の新聞もつかわれていました。こういう混乱期の新聞なんかは散逸して図書館などでも読むのが難しい気もするのですが、どこに保管されていたものを著者は読んだのか(中国の文書館だそうです)、そんなことも気になってしまうほど、興味深く読めて情勢を理解させてくれる。そんなエピソードの選び方・取りあげ方にもセンスを感じました。また、
アメリカ合衆国に次ぐ世界第二の国内総生産(GDP)を誇る現代中国の経済大国化を考えてみても、その直接の起点は1949年革命ではなく、1978年末の「改革開放」に舵を切った政策転換に求めるのが妥当であろう。 
硬直化した一党独裁体制、拡大する貧富の格差、都市と農村との格差、暴走する人権侵害、党幹部の特権と腐敗、先鋭化する少数民族問題、荒れ狂うナショナリズムなど、今日の大国化した中国が抱える深刻な問題を思いつくままにあげてみても、そのどれもが、1949年革命で誕生した中華人民共和国という国家の特質や、その歩んだ道程と切り離しては理解できない
という点も鋭い指摘で関心。文句なくおすすめできる好著です。また、本書の内容とは直接関連するわけではありませんが、安全な後方にあって臨時の首都がおかれた四川省の様子がこんな状態だったとすると、国民党政権の統治歴の浅い台湾をなぜ保持し続けることができたのかが気になります。大戦中も台湾の食糧事情は比較的良かったようですからそういった要素が効いていたのか、植民地時代の比較的しっかりした統治機構を入手できたからか、それとも文字通り海を挟んでいて共産党軍がおいそれとは攻めて来れなかった状況下で台湾省民の不満は銃剣で押さえつけることができただけなのか。このあたりについて解説してくれている本も読んでみたいですね。