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2012年6月22日金曜日

The Wages of Destruction


The Wages of Destruction
Adam Tooze
Penguin Books
2008年
Wolfson History Prizeというイギリスの一般向けの歴史書に与えられる賞を獲得した作品で、戦間期から大戦期のドイツの政策(経済的なものだけでなくホロコーストなども)やドイツ軍の作戦行動が、経済的観点から解釈できること、そして通説とは異なる理解に達せることを示した著作です。日本でお目にかかるナチスドイツに関する本というと、軍事的な興味にこたえるものか、ナチスに関するものか、ホロコースト関係がほとんどで、こういう経済的な視点から説いた一般書はないんじゃないでしょうか。そういう意味ではとても貴重な本だと思います。ただし、著述の体裁はたしかに専門書ではないのですが、本文676ページにくわえて参照リスト・索引などの付録が120ページ余りもある大著で、しかも外国人の私にとってこの著者の英語は読みやすくはありません。それでも読み応えのある本で、内容は非常に興味深いものでした。
著者によると、共産主義ロシアの存在に対してドイツが必要とされると考えて1920年代にシュトレーゼマンの追及した政策は戦後の西ドイツと奇妙なほど似ていたのだそうです。アメリカの経済支援下でイギリス・フランスの圧力をかわすというこの政策の継続を国際情勢がゆるせば、ナチスの登場にはつながらなかったかもしれません、。その点では、賠償猶予への態度の厳しかったイギリス・フランスや、英仏からの債権取り立てを維持しようとしたアメリカも第二次大戦の責任の一端を免れないでしょう。また第二次次大戦後のドイツと日本の経済成長は、戦争により生産設備が破壊されたことにもよりますが、アメリカが資源と市場へのアクセスを許してくれたことも大きかったと思います。さて、本書のテーマであるナチスについての鋭い指摘を挙げると
  • ヒトラーは、20世紀の大国であるアメリカの経済力、潜在的な軍事力、覇権と対峙するため、東方に生存圏を獲得することがドイツには必要だと考えていた
  • 外貨不足がナチスの政権獲得後も常にドイツの再軍備の努力に桎梏としてはたらき、ユダヤ人の国外追放の実現にも悪影響を与えていた
  • ヒトラーは、アメリカと植民地帝国イギリスとアメリカとの対立を当然視し、それでも英米が同盟するのはユダヤ人の陰謀だと考えていた
  • 生産力の点でドイツはイギリスと同程度で、海軍・金融力・植民地・資源を含めた国力という点ではかなりの劣勢だった。またアメリカ・ソ連にはさらに劣っていた
  • 英仏の戦争準備は決して遅れてはいなかった。ドイツの対仏戦勝利の原因は電撃戦ではなく、攻勢方面のアルデンヌで数的な優勢を確保することのできた適切な作戦による
  • 対仏戦勝利で西ヨーロッパを支配しても、原料資源と食糧の面でドイツの苦境は続いたこと
  • 対ソ戦は、対アメリカ・イギリス戦に必要な原料資源と食糧の自給を可能にするためのものだったこと
  • ナチスのイデオロギーと、餓死させて食糧需要を減らすという経済性の観点から ユダヤ人、捕虜、東部占領地住民に対する食糧供給が絞られたことがある。また労働力確保と生産性向上のために外国人労働者への食糧供給が増やされたこともあった
などがあります。ユダヤ人観、ドイツの生存圏確保の当然視、アメリカとの最終対決不可避といったヒトラーの考え方自体は了解不能ですが、それらを公理とし、経済性の観点から政策・軍事行動を決定していったとすれば、現実のドイツの動きを導けるし、それは「合理的な」政策・行動だったという著者の主張は説得的だと感じました。以下、本書から学んだことをいくつか書き出してみます。
  • 大恐慌に始まる経済状況の変化・危機がヒトラーに権力をもたらしたが、ヒトラー首相就任時にはすでに経済も底を打っていて、ナチスの「ケインズ政策」のおかげでの回復ではなかった。アウトバーン建設などの公共投資による職の創出も実質的にはヒトラー政権の初年だけで、この時期にも政府投資の大部分は再軍備に投入されていた。
  • 国際収支の悪化による一方的なモラトリアム宣言は、イギリス・アメリカとの対立を激化させた。ドイツの輸出業者の債権はアメリカ・イギリスから回収できなくなった。ドイツの輸入業者はその債権で、額面以下に暴落したドイツ債券を買い戻し、ライヒスバンクに額面で売却してライヒスマルクを入手するという巧妙なドイツの対外債務削減策がシャハトによってとられた。また、ドイツは二国間協定により貿易の維持を目指したが、対西欧の二国間協定では輸出に見合った額の輸入需要を誘発して、かえって悪い効果をもたらした。現在のIMFは、半年分の輸入に対応する外貨準備を各国の中央銀行に勧めているが、1930年代のライヒスバンクの外貨準備はわずか1週間分にしか過ぎなかった。輸入品目別の外貨割当制、綿花・原料皮革の輸入への割り当ては絞られ、それまで生産を復活させつつあった繊維産業も1934年以降は横ばいとなった。
  • 外貨不足への対応として、平時としてはかつてない企業への統制が始まった。イギリスの金本位からの離脱(とポンドの減価)、ドルの減価があったにもかかわらず、第一次大戦後のインフレを恐れるヒトラーは平価切り下げを拒否した。輸出企業は補助金を受けてようやく輸出を行ったが、この補助金もその後に続く統制の始まりとなった。私的なカルテルの認可と公的に結ばされたカルテルなどの業界団体が整備された。
  • 再軍備に際して、政府は輸入資源の国産化を目指した。1920年代中頃に原油の枯渇を予測してIG farbenは石炭液化プラントを計画した。その後の新規の油田の発見でコストが3倍の液化石炭は窮地に立ったが、資源の国産化を目指していた政府により受け入れられ、予想以上のプラント拡張・新設を迫られることになった。また大恐慌で価格の下がった綿花・羊毛が減量の繊維産業も、輸入代替のためにレーヨン生産のための投資を求められた
  • 1930年代のドイツの1人当たり所得はイギリスよりかなり低く、人口が少ないイギリスの方が経済規模は少し大きかった。英独の差は工業の生産性の差によるものではなく、ドイツで農業人口比率が大きかったことと、小規模な手工業やサービス業が足を引っ張っていた。原料資源に制約をもつドイツとは違い、ドイツより1人当たり所得の高い国の多くはアメリカを含め植民地を持っていた。また、1930年代のドイツにとって過去20年間は繁栄と経済的進歩の時代ではなく、経済的後退と不安定の時代だった、1936年のケインズの一般理論も財政出動によるデフレからの脱却を説いたもので、成長を賛美するものではなかった。ヨーロッパで一番の技術大国なのに貧しく、1930年代には経済学者の中にも経済成長を期待する楽観主義はなかった。技術を学んだり、大学を出ても失業することは当たり前で、極右や反ユダヤ主義にならない方がおかしいくらいだった。この頃のドイツ人のもっていた劣等感を理解しないと当時のドイツ人の悩みを理解できない。
  • 安価な国民受信機でラジオの普及が促進されたが、海外ではこの価格でスーパーへテロダイン方式のラジオを買えた。この旧式のドイツ製ラジオは輸入制限が厳しかったドイツ国内でしか売れず、海外では販路を得ることができなかった。また、戦間期の量的・質的な住宅不足はハイパーインフレーション期に導入された家賃統制によって解決されなかった。その対策としての国民車、国民住宅といった構想が成功しなかったのはドイツの生活水準の貧しさのせいだった。ヒトラーはじめナチの指導者は、そのドイツの貧しさを、敵意に囲まれた生存圏と、国際的なユダヤ人の陰謀のもたらしたものであるとした。農地改革で大土地所有を解体したとしても、すべての農家に望ましい生活水準をもたらすだけの面積の耕地を与えるだけの土地がドイツにはなかった。豊かになるためには新たな土地の獲得が必要であり、アメリカ流の生活スタイル・水準を獲得するための解決策は国防軍であるとナチスは考えていた。その意味ではこの時期の再軍備政策について、単に「バターか大砲か」市民生活の向上と再軍備を相反するものとみなすのは間違っている。
  • 1935年から1938年までのドイツの国内生産の伸びの47%は再軍備に対する政府支出が寄与し、アウタルキー化への支出もあわせると67%にも達した。1933年から2次にわたる軍備増強の4年計画がたてられたが、ドイツの再軍備に反応して周囲の国も軍備増強に努力し始めたので、ドイツは1936年以降に目標を高くし、軍備増強のスピードを速めた。その目標が達成された後に軍需産業を遊ばせるわけに行かないことを考えると、将来の戦争は選択枝としてではなく当然の帰結と考えなければならなくなった。1936年の外貨準備の危機に際して、ヒトラーは平価切り下げではなく戦争を選択した。これ以降はゲーリングが4年計画の責任者になり、アウタルキーの達成、つまり合成燃料・合成ゴム・合成繊維の生産でドイツの資源輸入を半減させることを目的に、4年計画が1936から1940年のドイツの総投資額の20-25%を占めることとなった。しかし、屑鉄とスカンジナビア産鉄鉱石の充分な輸入に必要な外貨を用意できず、また平価切り下げも行わず、さらにルールの鉄鋼業が国内産の低質鉄鉱石を使用を躊躇したので、設備を余しての鉄鋼の生産制限につながり、鉄の配給制が1937年に始まった。鉄鋼の配給制の開始は4年計画の宣言以上に大きな影響をドイツ経済に及ぼした。鋼鉄の陸軍への割り当てが予定より減らされ、軍備の準備完了の時期は1943年頃に延期された。再軍備への鉄の配給量が減っているのに工場建設に鉄が使われていることへの不満は、1937-38年冬のヒトラーの介入による政変をもたらし、国防大臣ブロンベルク、参謀総長フォンフリッチェがスキャンダルがらみで更迭され、ノイラートからリッペントロップへと外相が交代した。
  • 1938年3月のアンシュルスのドイツにとっての主な利点は不完全雇用状態にあったオーストリアの労働力だった。対外収支の点では、オーストリア中央銀行の保有していた金と外貨準備が1938年の外貨不足を緩和してくれた。
  • 1938年9月、英仏との対決を危惧してズデーデン問題を平和的に解決することを余儀なくされると、ナチ党内に鬱積したエネルギーがユダヤ人迫害に噴出して同年11月の水晶の夜となったという社会心理学的な関係がある。またSSはドイツ国内のユダヤ人人口の出国による減少が遅いことに業を煮やしてもいた。ただ出国数が少なかったことは、ドイツの外貨不足によって、ユダヤ人が出国の際に資産を持ち出すのに高率の税を払うことが必要だったことも一因だった。ナチスの政策について回る外貨不足は、ここにも影響していた。
  • ミュンヘン協定後、忍び寄るインフレに対処することをライヒスバンクは期待した。しかし、ズデーテン問題で一時は英仏との戦争を覚悟したナチスの首脳は、 同盟相手としてイタリアと日本だけでなく、ポーランドにも同盟を持ちかけ、また1938年11月にはさらなる軍備増強が決定された。その日暮らし状態の外貨不足への対応として、輸出奨励とあわせて民需を厳しく圧迫して、動員と配給制の戦争経済が実施されることとなった。ドイツのような中級国家にとって、それまでの軍備拡張に加えてさらに3倍増させるという1938年の計画は、物価の安定や対外収支の平衡を保つ点からは実現不可能だった。
  • 1939年8月の独ソ不可侵条約締結後、ヒトラーは1939年9月に開戦の決意を固めた。これは、この時期までに日伊との同盟を成立させることができなかったことと、しかも英仏米が軍備を本格化させたことで、再軍備を開始した頃の目論見とは違って、時間が経つほど軍拡競争の点で不利になると感じたことを踏まえた合理的な結論だった。第一次大戦の経験を踏まえれば英仏米の大西洋同盟が成立するのは自明のように思えるが、ヒトラーは英米の利益が究極的には相反するもので、英米の同盟は成立し難いと判断していた。にもかかわらず英米が同盟するのは、ユダヤ人の陰謀とそれによって当選したルーズベルトのせいであるとし、ヒトラーはユダヤ人問題解決の必要性の念をさらに強くした。
  • 英仏との開戦後の数ヶ月は資源の輸入量が80%も減少して、1944-1945年頃と同程度になってしまった。陸軍は3年の長期戦を覚悟して、資源を長持ちさせるために軍備の生産を減少させ、攻勢を放棄して防御的に戦うことを計画した。しかし時間を稼ぐことに利はないと感じていたヒトラーは、リスクがあっても西部戦線での短期決戦を望んで、1940年攻勢にすべてを注ぎ込むよう指示した。1939年から1940年の軍需生産用の原料の三分の二は飛行機と弾薬に集中された。またその延長線上でZ計画は中止され、1940年中に竣工しない主力艦の建造は中止し潜水艦の建造が始まった。ただ、過去10年間にわたってほとんど投資のなされなかった国鉄が輸送の隘路となり、石炭不足から工場での操業短縮を招いた。
  • 開戦初年の消費水準は前年の11%減で、1941年には1938年の18%減となった。開戦後もすぐに増税せず配給制を強化した。商店に商品がないので、国民は貯蓄金庫に貯金するしかなく、開戦直後に減った総貯金額はその後増える一方となった。また政府債以外の金融商品が禁止され、余資は政府へと流れた。この結果、開戦後すぐにはインフレーションの発生がみられなかった。
  • 開戦とともに男性就業者数が減少し、女性就業者数は横ばいで、捕虜と外国人労働者が増加したがドイツ人男性の減少をうめるほどではなかった。女性の就業者数がイギリスやアメリカほど伸びなかったのは、開戦前の値がすでに、大戦末期の英米両国の数値よりも女性の就業率が高かったからで、ドイツで女性の就業率が高かったのは農業だった。1930年代後半から人手不足だった農村にとって、動員は即座に重大な影響を与えた。労働集約的なジャガイモや根菜の栽培が控えられて飼料不足が懸念されたため、ポーランド人労働者や、ソ連に併合されたバルト諸国からのドイツ系住民の受け入れが行われた。食糧の配給量は一日2750キロカロリーで、兵士には4000キロカロリーとされた。開戦前のドイツ社会は不平等だったので、勤労者世帯の40%にとってこの2750キロカロリーは食糧事情の改善を意味した。
  • 通説とは違って、1940年初夏の対仏戦の勝利は電撃戦によるものではなく、フランス側が等閑視したアルデンヌを通過するA軍集団に装甲師団9個など多数を配置して、数的優勢を確保して攻撃したからだった。電撃戦は、このフランス戦の成功から導かれたもの。
  • 対仏戦の勝利の後、ルーマニアの原油を一手に買い付ける契約が結ばれ、他の南西ヨーロッパやスイスの態度も一変し、ポルトガルもイギリスと一線を画すようになった。また、ドイツの持続的な入超を可能とする、ヨーロッパの貿易集中決済システムがつくられた。ドイツの輸入品の代金は輸出国の中央銀行によって輸出業者に支払われ、輸出国の中央銀行はその代金をベルリンの口座に記帳するが、敗戦まで決済されなかった。しかしドイツは輸出も続けていて、1942年にはイギリスの商品輸出の2倍、1943年には3倍にも達した。ドイツの入超が続いていたので、ドイツ資本が西欧の企業を本格的に買収することは出来なかった。かえってドイツ企業の株を売却することで、ドイツ側の赤字を決済しようという提案が検討されたほどだった。
  • フランス、オランダでの飛行機の生産の契約もなされたが、生産性があまりにも低かった。したがって占領地の軍需品生産への貢献は、主にドイツへの外国人労働者の提供によるものとなった。西ヨーロッパの占領地の獲得とイタリアの参戦で、石油を供給先が増え、かえってドイツの石油事情は悪化した。それでも、フランスは開戦前の8%しか石油を入手できず、モータリーゼーション前に逆戻りした。例えば毎日の集乳ができなくなって、田舎では牛乳が傷むにまかされた。ドイツ陸軍の自動車化が遅れていたのは生産能力のためよりも燃料不足のため。それでもバルバロッサは弱い環に対して最強の戦力である陸軍をぶつける策だった。
  • また、大陸ヨーロッパ内では石炭の生産と消費はバランスがとれておらず、戦前はヨーロッパの多くの国がイギリスから石炭を輸入していたが、対仏戦勝利後は、ドイツが石炭を供給しなければならなくなった。フランス、オランダ、ベルギーの酪農は穀物輸入を前提としていた。また戦前のフランスは穀物を自給していたが、爆薬の生産と競合する窒素肥料の供給や労働者が充分であることが前提だった。しかも1940ー1941年の大陸ヨーロッパの穀物は不作だった。
  • 西欧を征服してもソ連からの資源輸入、特に穀物と石油に依存せざるを得ない事情は変化しなかった。ドイツが西ヨーロッパでの地位を固めて守勢をとり、地中海でイギリスの権益を攻撃し、英米に大陸反抗を余儀なくさせるべきだったと考えがちだが、当時のベルリンでは西ヨーロッパを支配しても長期戦では英米に勝てない、海軍力はもちろんのこと、生産力の戦いである航空戦にも負けるだろうと認識されるようになっていた。それに対してドイツ国防軍は強力であり、英米の勢力が本格的になる前にソ連を叩くチャンスは今しかないと考えられるようになっていった。
  • 通説とは異なり、バルバロッサに先立つ数ヶ月、第三帝国は可能な限りの準備をしていた。陸戦兵器、飛行機、U-boatの生産は1940-41年に大幅に増加したが、その替わり弾薬の生産量は減った。前年、ヒトラーの指示で大幅に増加させられた弾薬の生産量が減少したことは、初めて電撃戦を念頭に置くドイツ陸軍の戦い方の変化を示している。弾薬生産の減少に見合った分の陸軍への鋼鉄配分量が減らされ、輸出に振り向けられた。長期戦の観点からドイツ陸軍の経済部門もこの輸出を希望していた。
  • 第一次大戦中の出生数減少から、20代男性のほとんどが軍務につき、軍需生産に欠かせないとして生産現場に残されたのは主に30代以上だった。それでも、バルバロッサに予備兵力はなかった。短期戦を予想していた陸軍は、8月か遅くとも10月末には三分の一の部隊の除隊を予定していた。1941年のドイツの軍備生産戦略は、前年と違って即座に生産を増やすことを目的とはしていなかった。例えば空軍はバルバロッサだけではなく、英米との対峙も考慮した生産計画をたてていた。ヒトラーもソ連の敗北を前提として、ヨーロッパ大陸対アメリカ大陸の戦いを見通していた。また、この時期に生産性が減少したことを軍も研究者も述べているが、真実はそうではなかった。労働者数の増加とそれが生産量に寄与するまで期間、例えば航空機生産であれば半年ほどが必要なことを見落とすべきではない。
  • ソ連征服後にアナトリアとコーカサスを通って中東やインドに侵攻することを陸軍は計画し、それに必要な数の装甲車両の生産に投資し始めていた。その計画のおかげで、使われた場所は計画と違って東ヨーロッパになったが、大戦後半に多数の装甲車両が実際に生産・使用できた。空軍も陸軍もその大戦後期の形態は1941年夏に計画された。アウシュビッツは4年計画で最大のプロジェクトで、合成ゴム・イソオクタン・メタノール・カーバイドなどの化学工場として建設が始まった。合成ゴムの生産は間に合わなかったが、1943年10月以降にメタノールを生産し、英米の爆撃で減少したドイツ本国のメタノール生産を補完した。戦後、アウシュビッツの高圧機器はソ連に没収されたが、発電所と施設はポーランドの石炭コンビナートとなり、2003年のいまでもヨーロッパ第3位の合成ゴム工場として生産を続けている。
  • 1941年に対ソ戦の決着をつけることのできなかったヒトラーは、アメリカとの戦争を不可避とみていた。日本が参戦してアジア太平洋で米英と戦ってくれれば、1942年のうちにドイツ軍が赤軍を倒す時間をもたらすことになるが、日本が米英と折り合ってしまうと1943年以降はドイツ単独で米英と対峙しなければならないことの方が問題だとヒトラーは考えていた。その結果、1941年12月の日米開戦に、ヒトラーは対米宣戦布告で対応した。
  • ドイツ陸軍は大会戦を除いても、東部戦線でコンスタントに毎月6万名を失っていった。 占領地よりドイツの方が生産性が高かったので、外国人労働者をドイツに連れてくることになった。 例えばドイツ国内のクルップは儲かるからではなく、ドイツ人労働者がいないからやむを得ず外国人や捕虜を雇用した。1944年には外国人労働者数790万人でドイツの労働力の約20%に達した。
  • 1941年に多数の捕虜が死亡したが、これはドイツ国内でも不足する食糧を節約するという経済性の観点から、捕虜や東部占領地での食糧供給を絞って餓死させる政策がとられたためだった。これによる死亡はホロコーストによる犠牲者数より多かった。このように経済性とナチスのイデオロギーとは必ずしもつねに相反したわけではない。しかし、新たな外国人の入手が困難となると、ナチスの民族政策とは相反するが妥協策としてまた経済性の観点から、1942年秋以降に生産性を維持改善するための食事の改善などが行われ、1943年以降は外国人労働者や捕虜の死亡率が減るとともに、シュペアの「軍需生産の奇跡」をもたらす一因となった。
  • シュペアを非政治的な技術者とか、軍需生産の奇跡を起こした人とする通説には問題が蟻、軍需生産の奇跡がヒトラー体制に政治的に役立ったことを見落とすべきではない。また単にたくさん生産するというだけではなく、「まだ勝てる」「労働者と戦場の英雄との協力」の物語をつくった。1941年冬のモスクワ全面の敗北の際に合理的なドイツ指導者は政治的な解決を模索したが、シュペアーは生産面の奇跡のデモンストレーションでまだ勝てるという雰囲気を醸成した。しかし軍需生産の奇跡にもかかわらず、1942~43年の段階ではソ連の軍需生産がドイツを上回っていた。1944年には拮抗するようになったが、東部戦線の帰趨は1943年までに決していた。
  • 1944年末までにドイツの生産は激減するが、連合軍の攻撃だけが原因ではなく、この時期になると1914から1923年に匹敵するインフレーションに直面してドイツ経済が混乱したことにもよる。インフレはバルカン半島ではすでに1942年に始まり、西欧でも1943年には蔓延していた。闇取引が大戦初期には消費支出の2%しか占めていなかったドイツ本国でもインフレーションの兆候が1943年夏には明らかになり、大戦末期には家計の支出の10%にも達した。敗戦後のハイパーインフレーションによりお金が意味を無くすことを予期して、企業は生産資源・建物・他の企業の株式を買ったり、スイス・スエーデン・ポルトガルへ資本を逃避させた。
  • 戦後の両ドイツが支払った賠償はワイマール共和国に比較して少なかったとは言えない。東ドイツは工業生産施設の30%を撤去され、賠償とソ連軍の駐留経費が1953年でも国民所得の13%に達していた。西ドイツも1993年までに合計900億マルクを支払った。

2012年5月12日土曜日

The Battle for the falklands


Max Hastings, Simon Jenkins著
W, W, Norton & Company
フォークランド紛争から今年でもう30年になります。原潜コンカラーによる巡洋艦ヘネラル・ベルグラーノの撃沈、シュペールエタンダールの発射した空対艦ミサイル・エグゾセの威力とシェフィールドの撃沈、ハリアーの活躍、それに反して比較的あっけなく終わった地上戦という印象を当時は受けました。そういった印象が正しかったのかどうか、あらためて学んでみたくなり、フォークランド紛争に関する本を探してみました。どうも日本語で書かれた適当なものはみあたらず、本書を購入することにしました。本書の原著は1983年に出版され、その後ペーパーバック化されたものです。二人の著者のうち、Max Hastingsさんはジャーナリストとして機動部隊に同行しフォークランド島に上陸した人で、サウサンプトン出港からポートスタンレー解放までの様子を描いています。Simon Jenkinsさんは新聞の編集者でフォークランドの領土問題のそもそもから外交交渉の過程、機動部隊派遣後の交渉とイギリス政府の動向の部分を担当しています。
フォークランド諸島の最初の発見者ははっきりしないそうですが、1713年のユトレヒト条約で他のアメリカ大陸の地方と包括してスペインの領有権が確認されました。1764年に最初に入植を試みたのはフランス人で、同じ頃イギリス人も西フォークランド島に入植地をつくりました。スペインの抗議でフランスは引き下がり、イギリスも武力による威嚇で撤退しました。南大西洋の厳しい環境下にあったので、定住植民地としてではなく、しばらくは捕鯨船などの寄港する根拠地として使われていたのだそうです。1820年にアルゼンチンは独立しましたが、スペインからこの諸島の支配権を継承したとその後、主張し続けることになります。1833年にイギリスが武力で居住者を追い出し、その後はイギリスが実効支配を続けることになりました。
フォークランド諸島の住人はずべて、FICフォークランド会社かイギリス在住の不在地主の借地人、または公務員で、自営の人はいなかったのだそうです。また、辺境の過疎地であり、ながいこと移出民が多かったせいで西フォークランドでは男女比2対1と性比が偏っていました。妊娠できる女性の供給はほぼ島出身者のみで、離婚率はスコットランドの離島の3倍ほど。外部から来る教師・兵士・科学者・公務員が島の若者にもたらす外部の世界への誘惑が島民にとっては脅威で、人口1800人ほどの島は、世界中の小さな村社会と同じような脆弱さを持っていたのだそうです。
アルゼンチンはフォークランド諸島の領有をあきらめず、第二次大戦後の植民地独立の流れに棹さして、国連に提訴します。イギリスは先占を主張することはできず、長期間の実効支配と島民の自決権の尊重(島民はイギリス人であることを希望)を主張しましたが、斜陽のイギリス経済にはこの島を維持する負担は大きく、交通・教育・医療などのサービスを島民に充分に提供できてはいませんでした。アルゼンチン側は、それまで空港もなかったこの島にがアルゼンチン負担で仮設滑走路を設置して空路を開設したり(イギリスからは国際便、アルゼンチンからは国内便の扱い)、奨学金を与えたりなどしたので、イギリスも島民が西ヨーロッパ起源のアルゼンチンの白人社会に同化してゆくのではと期待し、将来は主権をアルゼンチンに委譲するかわり長期に租借するという、名を捨てて実を取る方式も考慮されました。しかし島民のイギリス国籍であり続けたい希望は強く、またこの南大西洋の片隅の島に注意を払ってバックアップするイギリスの政治家もいなかったので、アルゼンチンとの交渉は長引くばかりでなかなか妥結にいたりませんでした。アルゼンチン側でも、1972年のペロンの帰国とペロニストの政権獲得をきっかけに、主権を棚上げにした穏健策が放棄されることになりました。
軍政下のアルゼンチンでは国民の不満をそらず目的で、フォークランド諸島の武力による奪還が計画されました。インドのゴアのポルトガルからの解放などの例を見て、帝国主義の残滓であるこの島を実力で取り戻しても国際社会からの非難を受けないだろう、またイギリスが軍隊を派遣して奪還しに来ることはないだろうと、アルゼンチン側は考えていたのだそうです。7~10月の厳冬期の派兵を予定していましたが、サウスジョージア島での事件をきっかけに4月に実施することになってしまいました。
イギリス外務省が将来の主権の委譲も視野に入れていたとはいっても、侵攻した側が利益を受ける決着をサッチャー首相は望まず、閣僚の賛同をなんとか取り付けて機動部隊を派遣することにしました。国連安保理でアルゼンチン軍の即時撤退を求める決議は採択されましたが、アメリカのヘイグ国務長官や国連事務総長の和平の斡旋を、侵攻を受けたまま譲歩したくないイギリスも、三軍の寄り合い所帯で譲歩できないアルゼンチン政府も受け入れませんでした。アメリカ大陸の国であるアルゼンチンと、西側同盟国のイギリスとの間でアメリカ合衆国は中立を表明し、イギリス機動部隊は上陸作戦を実施します。
巡洋艦ヘネラル・ベルグラーノの撃沈で、アルゼンチン海軍は出撃を控えました。また、アセンション島から空中給油を繰り返したバルカンによる爆撃や特殊部隊による駐機中の機体の破壊などが行われ、アルゼンチン空軍は本土の飛行場からの作戦を余儀なくされました。燃料の余裕がなく、フォークランド上空ではシーハリアーが優位に作戦できました。それでも、イギリス艦船は空襲による多数の被害を受けました。空対艦ミサイル・エグゾセの在庫数が限られていたことと、航空爆弾に不発が非常に多かったことで、イギリス艦隊はなんとか作戦をつづけられました。アルゼンチンは触発に設定を変更できる信管を使用していましたが、製造元のアメリカの企業がその説明書を禁輸措置で渡さなかったのだそうです。こういった目立たないかたちでのアメリカによるイギリスへのサポートはほかにもたくさんあったそうです。ただ、アルゼンチンの三軍の中では空軍が最も勇敢に戦ったことはたしかで、上陸船団に対する航空攻撃をみたあるイギリス人軍医は「一流のF1ドライバーを生み出す国は優秀なパイロットを育てることもできる」という感想をもらしたとか。
地上戦も順調に進んだように思っていたのですが、寒さと悪天候下に沼地や山道を行軍するなど苦労が多かったそうです。樺太の北部くらいの緯度の島の初冬ですから、野営するのはきつかったことでしょう。また、充分な数の車輛を揚陸できず、弾薬や食糧などの補給はヘリコプター頼みでした。大型ヘリコプターを輸送して来たコンテナ船の空襲被害でそのヘリコプターも不足していたのだそうです。そういった悪条件にもかかわらず、数的には優勢だったアルゼンチン軍に勝利することができたのは、兵員の質と士気の差が大きかったからのようです。イギリス軍が職業軍人で構成されていたのに対し、アルゼンチン兵は徴兵された人たち。出征前にイギリスのある特殊部隊員は、大口径の火器に対するのは初めてだが、小口径火器の洗礼は何度も受けていると言ったそうです。イギリスは第二次大戦後もスエズなど海外に出兵していますし、また北アイルランド問題に軍隊が投入されたことがありましたから。それに対するアルゼンチン側は、一個旅団を一ヶ月ほど駐屯させれば解決するだろうという目論見で兵站を計画していたのに、イギリスの派兵に対応して増強し、1万人以上を3ヶ月も維持しなければならなくなり、補給の状況がとても悪くなっていたのだそうです。ただでさえ指揮や訓練に問題のあった徴集兵たちからなるポートスタンレー守備隊はわずかな抵抗で降伏し、島民に多くの死傷者が出ることはありませんでした。
ざっとこんな風に、フォークランド紛争の始まりから1982年の戦闘までわかりやすく解説してくれる好著でした。英語的には、Max Hastingsさんの書いた部分は軍人・兵士の様子や戦闘を扱っているので面白くどんどん読めましたが、Simon Jenkinsさんの表現は倒置・比喩・引用などに富んでいて読みにくい感じがありました。また、戦闘の翌年に主にイギリス側の資料をもとに書かれた本なので、アルゼンチン側の政治家や兵士やアルゼンチン国民の様子などについては物足りない感じではあります。しかし、340ページの本文のほかに、この戦役での叙勲者リストやら、参加した航空機・艦船のリストやら、イギリス人ならニヤニヤして眺めそうな付録もついています。まあ、イギリス政府には30年ルールがあり、2012年の今年から当時の秘密資料が公開されることになるそうですので、もっと詳しい史書がこれから出て来ることになるのでしょうが。




2012年4月9日月曜日

Silent Victory

Clay Blair Jr.著
Naval Institute Press
第二次大戦中に潜水艦で2回のパトロールに参加した経歴を持つジャーナリストが、潜水艦長の記したパトロールの報告書などのさまざまなアメリカ海軍の公式文書に加えて、書簡や関係者に対するインタビューなどをもとにまとめた、潜水艦対日戦物語といった印象の本です。かなり分厚い本で、本文が870ページあまり、太平洋戦域での潜水艦による全パトロールのリストや索引などのおまけを含めると、全体で1070ページ以上もあります。ただし、ボリューム豊富なわりには安価ですし(アマゾンさんで3000円)、つかわれている英語も難しくないので、太平洋戦域でのアメリカ潜水艦の活動のようすや、アメリカ海軍から見た日本海軍・日本の欠陥といった点を日本人の読者が知るのにもふさわしい本だと感じます。私が購入したのは、Naval Institute Pressが2001年から復刊したものの第14刷ですが、原著はLippincottから1975年に出版されています。もう40年近く前の本ということになりますが、アメリカ潜水艦の行動や戦果を日本側の記録と照らし合わせたり、潜水艦長や暗号解読従事者などの関係者にインタビューするには最適な時期だったんでしょう。現在でも某所の第二次大戦中の潜水艦に関するオススメの本のリストに挙げられていました。
冒頭の章は、アメリカ独立戦争でのTurtle号、ジュールベルヌの海底二万マイル、潜水艦設計・建造を試みたアメリカ人Hollandの苦労話、第一次大戦の潜水艦戦、軍縮条約下での潜水艦などの対日戦前史にあてられています。これを読んで驚いたのは、アメリカがワシントン海軍軍縮条約交渉の頃から日本の外交暗号を解読していて、その後も暗号解読の努力が続けていたということです。レインボープランはあっても、ドイツ海軍が決定的に弱体化され、イギリスとの戦争も現実にはありそうにないというのが第一次大戦後の状況では、日本の海軍が対米戦を意識していたのと同様に、アメリカの海軍士官たちも主に日本海軍との戦争を想定した軍備に余念がなかった、しかも日本よりずっと手広く準備していたということですね。
開戦後、太平洋のアメリカの潜水艦はハワイと、オーストラリア東岸のブリスベンと西岸のフリーマントルにある前進基地から作戦に従事しましたが、それぞれの基地から出撃した潜水艦の行動・戦果が数ヶ月ごとにまとめて一つの章として記述されています。そのあいまに、珊瑚海海戦、ミッドウエイ海戦、ソロモンキャンペーンなどの有名な海戦が触れられ、潜水艦とそれら海戦との関わりが説明されています。日本の艦船が撃沈された話は有名なもの(信濃や大鳳など)もそうでないものもたくさん載せられていますので、それ以外で興味深く感じたことをいくつか挙げてみます。
連合軍全般の例に洩れず、緒戦期は潜水艦もかなり苦労しました。ソロモン諸島などで、日本の潜水艦が孤立した部隊に食糧や弾薬を運ぶ輸送任務について大きな犠牲を出したことは有名ですが、アメリカの潜水艦もたびたびコレヒドール島に銃弾、食糧を搬入し、これヒドールから魚雷、潜水艦の部品、金塊・銀貨を運び出す作戦に従事させられました。艦長たちは乗り気ではなかったそうですが。
アメリカ側は魚雷に大きな問題を抱えていました。一つは魚雷の不足で、1942年前半は、魚雷の生産が消費に追いつかないので、攻撃目標ごとに発射本数が制限されました。また、主力であるMark XIV魚雷に設定深度より深く馳走してしまう欠陥があったこと、磁気信管に信頼性がなかったことも大きな問題で、この時期には命中するはずなのに命中しない、命中したのに不発という自体が多発しました。現場でこういった問題を経験した艦長たちはすぐに問題を把握し、改善するように求めましたが、魚雷の設計・生産を取り仕切っている部門の官僚主義的な姿勢から、完全な解決には1943年までかかりました。日本の艦船の被害が緒戦期に予想より少なくて済んだのは、このおかげが大きいようです。
戦前には飛行機の脅威が強く意識され、潜望鏡深度に潜航したまま雷撃することなどが勧められていましたが、実際には浮上しての攻撃が危険ではないことが判明していきました。しかし、開戦後も戦前の教えを踏襲する艦長も少なくなく、積極性に乏しいとして問題視されるようになりました。でもこれに関しては、不発魚雷が多かったことも関連していそうで、更迭された艦長さんたちがかわいそうな感じも受けます。
戦争が進んで新たな就役艦が増えるにつれ、若い世代が新たに艦長として任命されるようになりましたが、それでも艦長になれるのはほとんどNaval Academy卒業生でした。予備仕官で潜水艦長になれたのは数名だけ。かなり厳然とした区別があったようです。似たような話として、日米開戦前の頃のアメリカの潜水艦には、士官・下士官・徴兵された水兵とは別に、黒人かまたはフィリピン人のstewardが2名乗り組んでいたと書かれてあります。stewardだからボーイとして下働きをしたんでしょうが。もっと平等主義的なのかと思っていただけに意外です。
1943年1月、ニューギニア北で日本の陸軍部隊を運ぶ輸送船を撃沈した潜水艦Wahooは、浮上して海面に漂う数千名(?)の生存者や救命ボートを砲撃して殺しました。艦長はこのことをパトロールの報告書に記載して提出しましたが、特にお咎めはなく、このパトロールで5隻を撃沈したことで勲章をもらいました。ただし、こういった生存者の殺害を殺人だとみなす艦長も少なからずいて、同様の行為をあえて行う艦長はほとんどいなかったそうです。本当にそうだったのかどうかは別にして、少なくとも1970年代のアメリカではそういう風に受け止められていたから著者はこう書いたのでしょう。
撃沈後の海面に多数の生存者をみかけることはおそらく少なからずあったと思われます。しかし、日本人の生存者を救助したというエピソードはほとんどなく、情報収集のために一名だけ連行したというような記述がいくつかみられるのみでした。無制限潜水艦作戦下では、それが当たり前だったんでしょう。例外的なのは日本人以外の遭難者です。大戦中にアメリカの潜水艦は4隻のソ連船を誤って撃沈してしまいましたが、うち一隻が生存者を救助したエピソードが書かれています。一隻目の撃沈は外交問題になりましたが、二隻目に当たるこの撃沈では、救助されたソ連人が、日本の潜水艦に撃沈されて漂流中にアメリカの潜水艦に救助されたと報告してくれて問題化しなかったのだそうです(ソ連側も真相を把握していたが抗議しなかっただけかも)。また、連合軍捕虜も乗せられていた日本の輸送船が撃沈されて、日本人の遭難者が船団の他の船に救助されたのに、見捨てられてしまった連合軍捕虜の遭難者を潜水艦が救助し、一隻だけでは足りないので、別の潜水艦も派遣してもらって救助に当たったというエピソードが紹介されていました。
アメリカの潜水艦にSJレーダーが装備されるようになると日本の艦船の発見が容易になり、魚雷の欠陥の克服ともあいまって、1943年以降は潜水艦による被害が急増(日本人としては読むのがつらいくらい)するようになりました。本書で紹介されている戦闘の様子を読むと、レーダーで日本船を探知すると先回りして待ち伏せし、夜になって浮上して雷撃する戦術が一般的だったようです。レーダーを装備した日本の艦船は数が少なかった、またレーダーを装備していても潜水艦を探知することは商船を探知するより困難だった、といった事情があるのでしょう。それにしても、レーダー波を検出する逆探を製造・配備することも難しかったんでしょうかね?レーダー自体を製造するよりは容易なような気がするのですがどうなんでしょう。
日本の艦船にもレーダーを装備しているものがありました。ルソン島へのアメリカ軍の上陸後、1944年2月にルソン島にいたパイロットを台湾に避難させる任務に当たった呂号潜水艦4隻もレーダーを装備していました。しかし、レーダーを作動させていたため、アメリカ潜水艦のAPRという装置(おそらく逆探でしょう)に探知され、撃沈されてしまったことが紹介されていました。
軍艦にしろ商船にしろ、潜水艦による被害があれほど大きくなったの、暗号解読により日本の艦船の航海の情報(航路、正午の位置、出入港の日時など)がアメリカ側に知られてしまっていて、これをもとに潜水艦に攻撃を指示していたからだそうです。レーダーやソナーが行き渡らなかったことや、護衛艦艇の建造が遅れたことなどは、技術的限界からやむを得なかったのたかもしれませんが、商船暗号がばれていたことに関しては、ソフト的な問題ですから変だと気づきさえすればやりようがあったろうにと思われて仕方がありません。インド洋・太平洋戦域で失われたドイツ船・潜の撃沈の原因にもなっていたそうなので、ほんとに申し訳ないというか情けない。


2011年12月24日土曜日

湾岸戦争大戦車戦 上・下

河津 幸英著
イカロス出版
2011年7月10日発行(上下巻とも)


もうこの湾岸戦争も20年以上前のことになります。当時、GPSという高度な装置の存在を知らされたり、テレビで誘導爆弾の命中する映像をみせられたりなどして、ハイテクを利用した戦闘でアメリカ軍がイラク軍に圧勝したという印象を受けました。でも本当のところはどうだったのか、著者は本書で、アメリカの公刊戦史や当事者の回想録などを資料に、上下巻合計で750ページ以上を費やし、アメリカ(多国籍軍)に勝利をもたらしたハイテク装備、兵站、部隊の練度・士気と、それらを利用した作戦、実際の戦闘の模様が多数の図・写真とともに解説してくれています。例えば、各戦闘に参加した部隊の編成を示すのに、M1A1が何輛、M3が何輛と文字で記すのではなく、M1A1のアイコンを編成に含まれている数だけ並べて図示するなど。そういう表現は近年のビジュアルな雑誌・ムックで多用されていますが、本書は雑誌に連載された記事をまとめたものなのだそうです。 背景説明や機動・戦闘の様子を示す地図もたくさん載せられていました。そんな本書を読んでの感想は以下の通り。
イラクは多数の東側兵器をもつ世界的にも有力な陸軍で、しかもイランとの戦争で実戦経験も豊富で、自信を持ってクエート防衛に兵力を配備しました。対するアメリカは相応の損害を覚悟して、かなり時間をかけて本国とヨーロッパから航空機、ヘリ、多数の戦車・歩兵戦闘車・支援車輛などを多数送り込んで準備しました。しかし実際に戦いが始まってみるとアメリカ軍の圧勝で、装備の質の差が大きく影響したようです。たとえば、イラク軍の主力戦車T-72は装甲防御でも徹甲弾の貫徹力でもアメリカのM1A1に大きく劣り、特にサーマルサイトによる暗視能力に大きな差があることもあって、遠距離から知らないうちに撃破されてしまうことがほとんどだったそうです。それにしても、装備の質の差は織り込み済みだったはずのプロの軍人どうしの予想が実際と大きくかけ離れてしまった理由は、本書を読んでも腑に落ちません。アメリカの軍人は大げさに考え、イラクの軍人は自軍の能力を過信していたというだけのことなのでしょうか。本書は丁寧に書かれていますが、史料の欠如からかイラク軍側の様子がほとんど触れられていません。その結果、アメリカ軍の圧勝だったという記憶を確認してくれただけという印象は否めません。とても本書の帯にあるような7000両の戦車が「激突」なんていう風には読めませんでした。

捕虜になることを希望して投降する者が多数出現して対応に困るほどだったそうですが、イラク軍兵士の士気はどんなものだったのか。イラク軍兵士の捕虜と戦死者の比率は推定戦死者数2万5千人に対して捕虜が8万6千人あまりだったそうですから、当時報道で危惧された不必要な虐殺行為が横行したわけではないようです。また、イランイラク戦争でもこの湾岸戦争でもフセイン大統領がヒトラーのように独裁者として振る舞い、陸軍の将校は積極性・自発性を発揮できなかったことも大敗の原因としてあげられていました。それなら、もっと士気の高い兵士がもっと能力の高い将校の指揮を受けて守っていればアメリカ軍の被害はもっとずっと増えたと言えるのか、その点についてはもっと突っ込んで解説してほしかったところです。

また湾岸戦争が、イラクの装備していた東側の兵器に対する評価を大きく下げたことは確かだと思われます。それら兵器を生産・装備するロシアや中国に与えた影響はどんなものなのでしょう。その後の20年で、アメリカの兵器に匹敵するようなものに更新してしまって、もう影響は残っていないのでしょうか。


さらに、本書を読んでいると、誤射誤爆同士討ちで少なからぬアメリカ軍人が損害を受けています。アメリカ(イギリスも)の戦死傷者の原因はイラク軍によるものと比較して誤射誤爆によるものがかなり多く、アメリカの戦死者の四分の一は同士討ちだったと述べられていました。両軍の武器にハイテクで格段の差があった湾岸戦争でこの結果ですから、もしかすると第二次大戦などでも誤射誤爆による死傷は無視できない数だったのかも知れないと感じました。

2011年12月14日水曜日

Pacific Express

William L. McGee編著
BMC Publications
2009年発行
本書はAmphibious Operations in the South Pacific in WWIIという三部作の第3巻です。第1巻は上陸用舟艇について、第2巻はソロモンキャンペーンを扱っていますが、この第3巻はロジスティックの重要性について扱っています。
著者は徴兵適齢以前に、溶接工としてリバティ船の建造に従事し、その後、Naval Arms Guardの一員としてガダルカナルへの輸送船に乗り込みました。著者の乗り組んだ船団はガダルカナルで日本海軍の空襲を受け、著者も持ち場の20mm対空機銃で応戦しましたが、僚艦のLSTとAKが沈没しました。また帰路では潜水艦の雷撃でやはり僚艦のAKとDEが沈没するという経験をしていて、本書の中でもこの体験がなまなましく綴られています。また、ガダルカナルは高齢者にはきつい、ガダルカナルとツラギ基地の初代司令官は54歳だったが肺炎で後送され、2代目も50歳で障害を負って帰国したことなど初めて知りました。さて、その著者がこの第3巻で取りあげた主なテーマは
  • 開戦前の標準船の計画から、リバティ船・ビクトリー船をはじめとした戦時の急速建造とその実施主体となったMaritime Comission
  • 港湾・兵站・支援機能の乏しい南太平洋地域での作戦を可能とした支援艦艇
  • Seabeaの沿革、編成、ソロモンキャンペーンでの建設・港湾荷役任務での活躍
  • 急速に拡張されたアメリカ商船隊。不足する商船を陸軍・海軍・レンドリース・民間貿易に振り分けたWar Shipping Administration
  • 商船の防衛用の砲・機銃を扱うNaval Arms Guardの活躍
  • 大戦中に拡張されたアメリカ陸軍の船隊
などです。こういったテーマについては戦争中から戦後60年のあいだに語り尽くされている感もあります。ですので、本書におさめられている文章は著者があらたに書き下ろしたものではなく、アメリカの政府文書やこれまでに書かれた戦史から抜粋してきたものです。重要性の高い史料から選ばれたものだけに、私のような外国の門外漢にとってもとても勉強になりました。
例えば、戦前に策定した標準船を大量建造したかったのですが、タービン、ギアなどの供給が海軍艦艇優先政策で不足し、商船には入手可能なレシプロ機関を載せたので、速度の遅いリバティ船で我慢しなければならなくなりました。設計に時間の余裕がなく、石炭炊きを重油炊きに、船橋を一つになどの変更はされましたが リバティ船はイギリスの設計に準拠したものだったのだそうです。また、現在の眼で見るとアメリカ西海岸は東海岸に劣らないように見えるのですが、当時の工業施設の分布はそうではありませんでした。伝統ある造船会社は北東部に集中し、そこでは海軍艦艇の建造が優先されました。商船は新たに船台を設けて建造することになりましたが、人手や資材の供給を容易にするために、西海岸に多くの新造船所が設けられました。船台の増設は比較的容易だったので開戦後も造船計画は次々と拡張され、最終的には鋼板の供給がネックとなりました。鋼板不足で手空きの造船所が生じたことと、戦争目的と終戦後の利用を考えてもっと速い貨物船が望まれていたこともあり、リバティ船より速度も速くましなビクトリー船が建造されるようになりました。
戦前には、開戦後の輸送船には海軍が乗組員を提供して、陸軍部隊や資材を輸送する予定でした。しかし、開戦前からの海軍艦艇の新造で乗組員が不足し、計画は破綻しました。さらに陸軍が陸軍の計画にそった配船・輸送を希望したことや、新造船の配分などで陸海軍の合意がなかなかできず、 希少な資源である輸送船を有効活用するために、大統領の命令でWar Shipping Administrationがつくられたのだそうです。アメリカ陸軍は、輸送船・上陸用舟艇・タンカー・哨戒艇・タグボート、雑役船など多数の船舶を所有・運用することになりました。もちろん、海軍艦艇に比較すると小さな船ですが、隻数としては海軍の艦艇数を大幅に上回っていたのだそうです。
戦争中に1000総トン以上のアメリカの商船733隻が撃沈され、6700名の船員が死亡、670名が捕虜となったと書かれていました。日本の船員は6万名ほどが亡くなったのだそうで、10倍ちかい差があります。商船隊の規模を考慮すれば、その差はもっと大きいはず。こんな風に、造船でも護衛でも、アメリカが日本に比較してずっと贅沢な状態だったのは確かですが、日本と似た事情があったということも本書から学んだ点です。予算の面から日本海軍が戦闘艦艇優先で建造しなければなりませんでしたが、アメリカ海軍も1925年から1940年までに駆逐艦・巡洋艦・空母の数を倍増させましたが、補助艦艇の数は同じままでした。1940年の両洋艦隊法で新造の決定した125隻の戦闘艦に対し、補助艦艇は12隻だけだったのだそうです。また、機関の調達問題から性能の劣るリバティ船を建造しなければならなかったことは日本の第二次戦時標準船と似ていますよね。さらに「空母」まで所有したと揶揄される日本陸軍ですが、アメリカ陸軍も多数の船舶を所有していたということを知り驚きました。陸海軍と民需とで乏しい船舶をとりあっていた日本ですが、はるかに大きな商船隊をもつアメリカでも決して運用に余裕があると感じてはいなかったことが分かります。全体的にやさしい英語で書かれていますし、この分野の基本的な知識を得るためには悪くない本だと思いました。

2011年12月2日金曜日

帝国海軍の最後

原為一著
河出書房新社
2011年7月30日 復刻新版初版発行
本書の帯には「アメリカ、フランス、イタリアで翻訳されベストセラーとなった名戦記が待望の復刊!」と書かれています。それは単なる謳い文句というわけではないようで、私が本書の存在を知ったのも、アメリカのとあるウォーシミュレーションゲームのフォーラムで、推薦図書の一冊として挙げられていたからです。それを知った当時、日本では絶版になっていたのですが、この夏、日米双方で復刊されたようです。
著者は天津風の駆逐艦長として開戦を迎え、南方攻略作戦、ミッドウエイ作戦、ソロモンキャンペーンに参加しました。ソロモン戦の途中で第27駆逐隊司令に昇進して引き続き多数の輸送任務に従事し、また海戦でも活躍しました。その後、本土の水上特攻隊の司令として過ごした後、巡洋艦矢矧の艦長として戦艦大和の沖縄特攻の護衛を行い、最後は撃沈されました。この沖縄特攻では出撃前から死を覚悟せざるを得なかったでしょうが、さらに漂流という本当に死を予感させる体験もして生還した方なのですね。アメリカで本書が出版された理由のひとつは、ソロモンキャンペーンの戦闘に何度も参加し、しかも大和特攻も体験したという著者の経歴があるからなのでしょう。


本書を一読してみての私の感想ですが、「名著」とは言い難いところ。 当事者が書いた作品ではあっても一次史料ではない本書は、読者をひきつける魅力・おもしろさという点でも弱点があります。この戦争も70年近く前の出来事になってしまったわけで、興味深く読める作品をということであれば、本書自体を手に取るより、一次史料と本書のような当事者の著作などをもとにして読みやすくまとめた作家・ライターの作品を手に取るべきだと感じます。
本書の初版は1955年で、戦後しばらくしてから書かれたことが本書の記述からも明らかです。また152ページの記述から著者が従軍中ノートをつけていたことも分かり、そのノートを元に本書は書かれたのでしょう。しかし、そのノートがどれだけ詳しいものだったのか、少なくとも本書が臨場感あふれる作品に仕上がっているとは言えません。また戦後しばらくしての著作なのに、事実関係にも問題がないわけではないようです。
例えば、96ページから記載のあるコロンバンガラ輸送作戦。一般にはベラ湾夜戦(Battle of Vella Gulf)と呼ばれているそうです。この海戦で著者座乗の駆逐艦時雨は敵艦に魚雷を一発命中させたと記してあります。海戦後のアメリカの戦果の発表について「比較的正しく発表し」と評価しながら、時雨の与えた魚雷の被害についての発表がないことを「自国の損害一隻を忘れたのは、双方ともにありがちなことであろう」としています。実際には対戦したアメリカの駆逐艦には被害がありませんでしたが、著者は「その後の調査によれば、ムースブラッガー中佐指揮する駆逐艦六隻であった」としているだけで、アメリカ側の被害の有無についてはそれ以上触れていません。本書のアメリカでの評価が高いということですから、もしかすると英訳本ではこういうあたりには注がついていたりするのかもしれませんが。
しかし、当事者ならではの経験談、感想が多数載せられていて、勉強になります。例えば、比叡などが撃沈された第三次ソロモン海戦に天津風も参加し、アメリカの巡洋艦に魚雷を命中する戦果を与えましたが、舵が故障して落伍してしまいました。翌日ようやく追いついたところ「貴艦はいまのいままで沈没となっていた。生還おめでとう」と手旗信号で返されたそうで、乱戦というのはこういう状況になるわけですね。また、第二次ベララベラ海戦のところには「すぐに追いつきたいが、艦底の汚れた時雨、五月雨は30ノット以上の速力はでない」と書かれてあって、駆逐艦を入渠整備させる余裕のなかった日本海軍の実情が判明。さらに、舵や探針儀にも不調が出現した時雨はラバウルから本土へ入渠整備のために向かうことになります。ついでに輸送船2隻を護衛する任務を与えられたのですが、一隻の輸送船は魚雷を命中させられてしまいました。。探深儀が不調ということはあったかもしれませんが敵潜水艦の所在が分からず「消えかかった魚雷の航跡をたどり、発射の起点と思われる付近に、いきなり爆雷六個をたたき込んだ。しかしその効果は不明であった」と書かれているあたりに、日本海軍の対潜戦のレベルがにじみ出ています。

2011年10月17日月曜日

Uボート部隊の全貌

ティモシー・P・マリガン著
学研マーケティング
2011年7月発行
Uボート部隊の全貌というタイトルを見ると、Uボートの建造や兵装のあれこれ、大西洋戦いをはじめとしたUボートの活躍が描かれた本なのかなという気がします。でも本書はそういった兵器や戦闘に焦点を当てた本ではなく、ドイツ海軍・狼たちの実像というサブタイトルの通りに、Uボートに乗り組んだ艦長・下士官・水兵たちがどんな人だったのかということと、選抜や教育や昇進や艦内での生活などを描いていて、戦争の本というより社会学の本ですね。社会学に関してもまったくの門外漢ですが、以前読んだ職業と選抜の歴史社会学という日本の鉄道員を扱った本に似ている感じがしました。
Uボートに乗り組んでいたのがどういう人たちだったかを明らかにするために、過去の文献や戦争中のドイツの記録や連合軍側のもつ捕虜の記録に加えて、1991年から1994年にかけて元Uボート乗組員1000人以上に対する経歴調査を行ったのだそうです。戦争終結後半世紀近くたってからの調査でかなり遅い気もします。でも、Uボートの乗組員たちも戦後はそれぞれの人生に忙しく、例年の親睦会活動が恒例になったのは1980年代から、つまりみんなが引退した時期になってのことだったそうですから、こういった調査に素直に応じてもらいやすくなるという点では半世紀後の方が良かったのかもしれません。
Uボートに乗り組んでいたのはどんな人たちだったのか、読んでいて面白く感じた点を紹介すると、
  • 「第二次大戦中のUボート乗組員の徴募に影響を与えたのは、軍歴を継続したこれら個々の古参以上に、数量化できないほどの縁故、つまり第一次大戦中に同じ立場で奉職した父親やおじたちだった。」
  • 「こうした血縁は今日まで続き、1997年6月に新造されたU17に乗り込んだ通信兵の一人は、ドイツ潜水艦に乗り込んだ4世代の3代目にあたる」
  • 「烹炊員は階級的には二等水兵だが、民間職ではパン屋か肉屋でもあった。烹炊員がほかの任務を特免されていたのは、求められるものがあまりに大きかったからである。縦70センチ、横1.5メートルしかない空間で休むことなく50人分の温食を用意し、しかもそこには3~4つのホットプレートがついた電気レンジ一基、小さなオーブン一基、スープ鍋一つ、流し一つ以外何もなかった」
  • ティルピッツの海軍拡張計画により志願兵のみで需要を満たすことができなくなり、北ドイツの漁師・船員からの徴集兵を水兵と水雷部門に、内陸部の金属工・機械工・電気工からなる徴集兵を機関室と通信室に配属した。
  • 「海軍士官にはドイツの中産階級、特に上位中産階級出身者が多かった」
  • 機関科将校の「多くが下位中産階級の出身で、兵科将校と同等の地位を与えられることは絶対になく、昇進の機会も限られていた」
  • 第一次大戦中のUボート乗組員の「損耗率51%以上である」
  • 「第一次大戦の艦長457人のうち152人が戦死し、33人が捕虜になった。これらを合計すると40%強の損失となる。一方、第二次大戦のUボート艦長が被った損耗率は46%だった」
  • 「第一次大戦の艦長400人のうち、22人が全連合軍商船の60%以上を撃沈し、全戦果の30%がUボート艦隊のわずか4%の艦によるものだった。こうした現象は第二次大戦でも反復され約1300人中30人の艦長が、連合軍商船の総損失トン数の30%を撃沈したのである」
  • 兵科将校には旧ハンザ同盟都市など北ドイツ出身者が多く、プロテスタントが多く、アビトゥーア取得者が多くて、半数は上流階級と上位中産階級出身だった。
  • 機関科将校は中部ドイツ出身者が多く、中・下位中産階級出身者が多い。人材不足により、下士官からの昇進者も少なくなかった。
  • 下士官、兵も北部ドイツや中部ドイツの工業都市出身者が多かった。また労働者階級、中・下位中産階級の出身だが、父親が海軍で小型艦に乗務していた者、父親が熟練工・熟練労働者だった者が目立つ。金属工が多く、農業従事者は極めて少ない。機関兵は金属工出身者がさらに多い。こういったことから「北ドイツ出身の寡黙な船員と漁師の傍らには、西部・中部ドイツ出身の快活な機械工と産業労働者が立っていた」と言われている。
「通信兵の評価は、当直時にどれだけの電信文を聞き逃したかによって大方が決まった。それぞれの電文には通し番号がついているため、それによって聞き逃しが判明したのだ」
大戦後期に艦長の年齢が著しく幼くなったりはしていない。また末期の損耗率よりも1941~1942年の損耗率の方が高かった。
艦長の年齢、経験、特質は損耗率に影響しない。連合軍の兵装や戦術の向上がUボートの損失につながったから、艦長の資質で何とかできるというものではなかった。
陸軍とは違って、敗戦近くなてUボート乗組員に10代の水兵が増えたという事実はない。10代の水兵の比率はアメリカ海軍の潜水艦乗組員と比較しても少ないくらい。
第一次大戦時から一般人の持っていたUボート部隊のエリート視、ヒトラーユーゲントなどを経験しての入隊といったことから、大戦後期の経験の浅い若い乗組員の士気も保たれていた。

第4章「Uボート戦のパターン 1939~1945年」にはUボートの戦いの時期別の簡潔な概説があります。またその他の章でも、太西洋の戦いや連合軍のレーダーやソナーや航空機による哨戒の威力、ドイツ側の対抗する兵装や新型艦に対する努力が各所に記述されています。それらの中で面白く感じた点というと、
  • 艦内温度が100度(約37.8度)「熱帯水域では高温によって多くの人員が倒れたのである」
  • 「通信兵の評価は、当直時にどれだけの電信文を聞き逃したかによって大方が決まった。それぞれの電文には通し番号がついているため、それによって聞き逃しが判明したのだ」
  • 潜航時の艦のトリムの維持には「食糧や燃料の重量配分についての正確なデーターー個別日誌への日々の更新ーーが必要となった」
  • 新しい潜水艦の建造が終わると、キールにある加圧ドックで90メートルまでの模擬深度で新造艦の水漏れを検出したり、聴音哨のある海底で無音航行試験を行い、無音航行時の最適速度が決められた(日本の潜水艦もこういった試験をしたんでしょうか?)。
  • 雷撃訓練、集団行動と船団襲撃訓練。未熟な乗員による操艦ミスやイギリス軍の敷設した機雷など、バルト海での訓練中に失われた艦も30隻と少なくなかった。
  • 士気を保つために特権(休暇時に総統からの小包)と厚遇(食事)と高給、哨戒後の帰郷休暇、叙勲が用いられた。総統からの小包は先日読んだRations of the German Wehrmacht in World War IIにも説明があった食品の特別配給詰め合わせです。
  • Uボート乗組員は実働時間の三分の一を港あるいは帰郷休暇で過ごしていた。
内容とは関係ないことですが、この本は縦書きで、かなり多量の原注が章ごとに横書きでつけられています。縦書きと横書きが混在した本ではあっても、本文と注というふうに分かれていますから、そのこと自体では問題を感じません。ところが注の部分を眺めると、一見して変な感じ・違和感をおぼえるのです。日本語は縦組みと横組みで違ったフォントを使うべきなのに、もしかするとこの本の横書きの部分には縦書きの本文の部分と同じフォントが使われてしまったのかなと感じました。

2011年9月25日日曜日

戦艦大和誕生

前間孝則著
上 講談社+α文庫36-3
2005年12月 第6刷発行
下 講談社+α文庫36-4
2001年4月 第3刷発行
タイトルに戦艦大和誕生とついていますが、大和がどんなに強力な戦艦で、どんな戦績を残したのかといった点をテーマにした本ではありませんでした。上巻のサブタイトルに、西島技術大佐の未公開記録とありますが、西島大佐は大和建造時に呉工廠造船部艤装工場主任・船殻工場主任を歴任した現場の責任者でした。防衛庁防衛研究所戦史室に保管されている海軍技術大佐(造船)西島亮二回想記録をもとに、上巻では呉海軍工廠での大和の建造の過程を描いています。この回想記録は一般には非公開の史料なので、著者は93歳の西島さんに会い閲覧の許可を得たのだそうです。

九州帝大の造船学科(東京帝大と九州帝大にしかなかったとか)を卒業して西島が造船官としての道を歩み始めたのは、艦艇の復元力不足や強度不足による友鶴事件と第四艦隊事件、大鯨建造時の電気溶接の不具合などの造船に関する問題が明らかとなった頃でした。艦船はオーダーメイドで、生産過程の合理化がほとんど緒についていなかったのだそうです。西島さんは使用される部材、例えばバルブとかパイプといったものから共通化・企画化をすすめ、また早期艤装・ブロック建造法といった工夫を艦艇建造に導入したパイオニアでした。大和の建造にもそれが活かされ、大和は予想よりも少ない工数(ずっと小さい長門とほぼ同程度)・価格・期間で竣工することになりました。一番艦大和の教訓を生かして二番艦として三菱長崎で建造された武蔵と比較してみても、大和の法が2ヶ月短く費用も16%安く建造できたのだそうです。日本海軍の艦艇に関する本を読んでも、これまで費用についてこういう風に書かれたものは記憶になく、とても勉強になりました。きっと敗戦時に史料がみんな燃やされちゃって、日本海軍についてはこういう議論を定量的にしにくいんでしょうね。その点、先日読んだBritish Cruisersでは各級の設計時の折衝に価格が頻繁に出てきて、価格が設計に影響を与えていたことまで分かりました。大和の場合に価格を考慮して設計をどうこうしたという記述は本書にはみあたりませんでした。そもそも、大蔵省との交渉で決まった価格の積算根拠は薄弱で、二十数年ぶりに戦艦を建造する海軍としても、価格や工数がいくらかかるか事前に正確に見積もれていたわけではなかったのだそうです。

上下巻あわせて戦艦大和誕生というタイトルですが、下巻には「生産大国日本」の源流というサブタイトルがつけられています。大和で合理化をおしすすめた西島さんは、第二次大戦中、海軍艦政本部が担当することになった商船の建造やその後の一等輸送艦などに際しても部品・部材の共通化標準化、ブロック建造法、実物大模型での検討や治具、電気溶接の採用などで腕を振るいます。戦時標準船は建造能力を持っていた日本の造船会社すべてが参加したプロジェクトですが、この西島さんの薫陶を受けた各社の設計者・技術者・労働者が、敗戦後の造船日本の礎になったというのが著者の見解でした。軍艦に関する本としては毛色の変わった本ですが、面白く読めました。文庫本ですが13ページほどの参照文献リストがつけられていて、そのうち読んでみたくなるものもありました。

2011年9月23日金曜日

British Cruisers

Norman Friedman著
Naval Institute Press
2010年発行
イギリス(と英連邦)の近代的な巡洋艦の歴史をたどった本です。厚めの紙で432ページもあり、うち注が6ページ、文献リスト2ページ、仕様のデータ40ページ、索引11ページが占めています。サイズはA4より二回りくらい大きく、洋書や洋書を訳したものには珍しくないけれど日本の本としてはあまり見ない判型です。当然のことながらこの本には巡洋艦の写真や線画がたくさん載せられています。日本で発行された艦船の写真をたくさん載せた本、例えば光人社の写真|日本の軍艦シリーズとか、日本軍艦史などの海人社の世界の艦船の別冊では、読んでいる本を90度回転させないと正しい向きで見ることができない縦向きの写真や図がたくさん載せられています。しかしこの本ではすべて横向きの図・写真ばかりで、読みやすさに配慮するポリシーが感じられました。
大きめの本で1ページの印面の横幅は21cm弱ありますが、これでも充分な大きさではないと感じました。線画には縮尺が表示されているものはありませんが、目盛りが図とともに描かれているものを計ってみると900分の1でした。どの線画・写真も横幅いっぱいに使って印刷されていますが、艦船の長さは艦種ごとに異なっているでしょうから縮尺にはばらつきがあると思います。図の説明文には例えば、前方煙突の横の3インチ対空砲2門が4連装0.5インチ機関銃2基に換装された、なんて書かれているのですが、それでもこの900分の1程度だと小さくて機関銃をみつけることが極めて困難です。ウォーターラインシリーズより小さいので見分けがたいのは当たり前。見開き2ページを使った大きな鮮明な写真だとかなり細かい部分まで分かるんですけど。でも、これより大きな本を作ってもらっても、重過ぎて読めないと思うし、ここは仕方がないところ。
巡洋艦の近代を、この本では無線通信の利用が可能になった時点から始めています。イギリスの巡洋艦の主要な役割の一つに通商路の保護がありますが、無線が利用できるようになって、通商路の保護のため海外に常駐する巡洋艦の数を大幅に減らすことが可能になったのだそうです。また、巡洋艦はイギリス帝国の防衛をも主要な役割としていましたが、この「帝国」には非公式な帝国、つまりシティの活動、イギリスの海上覇権によって利益を享受しうることを理解している国々が含まれていました。例えば中国は非公式な帝国の一部なので、維持費の高価な中国に艦隊が保持され、日本の中国に対する1930年代の行動がイギリスにとって受け容れがたかったことなどが説明されています。また、イギリス政府が非公式帝国を重要視していたことが近年は歴史学会でも理解されるようになったとして、参照文献にCainとHopkinsのジェントルマン資本主義の帝国(日本では名古屋大学出版会から発行されていますが、これもとても面白くて勉強になる本なのでオススメです)が挙げられていました。著者の目配りの広さには感心です。
日本の巡洋艦について、5500トン型があまり魅力的に見えないのに対し、夕張以降はシアーとフレアの目立つ艦首から乾舷が艦尾に向けて低くなる姿がとても精悍でかっこいいと思っていました。しかし、第一次大戦前後のイギリス巡洋艦の写真をたくさん見ていると、二段に舷窓が並ぶ姿が落ち着いていて、船首楼型だけでなく平甲板型のケント級も上品そうで、居住性にも配慮されている感じがして好きになりました。
第一次大戦後の大きな変化として、日英同盟が四カ国条約に発展的解消となりました。イギリス海軍では、アメリカとの戦争はあり得ない、日本との戦争はありうるという前提で軍備計画をたてることとなりました。巡洋艦の設計に日本が意識され出すのはこの時期からで、設計時に考慮した艦として夕張、古鷹、最上といった名前がでてきます。余談ですが、日本がワシントン条約・ロンドン条約で対米6割7割などにこだわっていたことの愚かさというか、英米不可分→英米とは絶対に戦わないことを前提に進んでいかなければいけなかったのだと思います。
第一次大戦後のイギリス海軍の軍備計画では、日本との有事に際して極東へ艦隊を送るとヨーロッパに充分な戦力を残すことができないことから、機動性を高める計画をたて、全艦石油専焼化と世界中のイギリス領の港に石油を備蓄することとしました。そして大西洋、本国、地中海、中国に巡洋戦艦を中心とした艦隊を維持して25%の予備をもち、また東インド、ケープタウン、南アメリカ、西大西洋にも駆逐艦隊の配備が必要と考えて、巡洋艦は70隻必要と考えていました。
戦後の財政難の下でこの70隻体制を維持するために、できるだけ安上がりで小さな巡洋艦にするよう努力し、また軍縮条約では他国の巡洋艦にも大きさの制限を設けられるよう交渉しました。本書の中でも、戦間期の巡洋艦各級の設計から建造までのやりとりにこの安くて小さな巡洋艦という傾向がよくみてとれます。小さな艦をより安く建造するために、cruiser standardではなくdestroyer standardにしたらどうかというようなやりとりが何度も書かれていました。巡洋艦の装備標準は、母艦や支援する艦艇がなくても自艦で自艦のことをある程度まかなえる、ボイラーとエンジンの交互配置、旗艦設備がある点が、駆逐艦標準とは違うんでしょうか。この辺は専門的な知識がなくて分かりませんでした。
軍縮条約でトン数制限が設けられました。日本は制限を超えることに無頓着で、他国はきちんと条約の規定を守っていたのかと思っていましたが、そうでもないようです。例えば、イギリスはイタリアの重巡Goriziaがジブラルタルのドックに入渠した時に公称一万トンより10%(実際は20%)重いことに気づいたのだそうです。イギリスはケント級の改装に際して、各艦に実施した改装工事を違えていて、 どこまでやれたかは条約の制限の一万トン(と竣工後の自然増として許される300トンの合計)までに各艦がどれだけ余していたかによったので、同級でも改装時すでに重かった艦は限定的な近代化改装しかされませんでした。でも、そのイギリスも後には計画より重くなってしまった巡洋艦を経験していました。
戦間期以降の巡洋艦の写真をみていて気づくことですが、レーダー装備が充実していますね。艦船用レーダーは1935年から開発を始め、1937年にプロトタイプができて、1938年から実艦に配備開始と書かれていましたが、第二次大戦中に撮られた写真では、どの艦も所狭しと装備していて、またいくつもタイプがあるようです。また対空射撃の制御装置(高射装置のことですよね) の記述も多く見られました。日本の秋月型が装備していた長10センチ砲が優秀だったと書かれているのを目にすることが多いのですが、(VT信管は抜きにしても)レーダーや高射装置を含めた性能という点ではどうだったんでしょうか?開戦後、性能は別にして日本艦も対空機銃をたくさん増備しましたが、読んでいるとイギリス艦もエリコン20mm機関砲、ボフォース40mm機関砲をなるべくたくさん積む方針だったことがよく分かります。
第二次大戦後は艦艇数を減らしてゆく課程です。かわりに新しい巡洋艦を建造する計画も建てられましたが、朝鮮戦争やまた財政難から計画通りにはゆかず、1965-66年計画の新空母の建造が取りやめられ、スエズ以東での作戦行動が放棄されました。しかし、空母に変わって、ヘリコプターの指揮運用機能を持った巡洋艦が模索され、やがてフォークランド紛争で活躍することになるインビンシブル級の軽空母の建造につながったのだそうです。本書の巡洋艦物語はここでおしまいで、付録に戦間期の機雷敷設艦の章がありました。
本書では20世紀のイギリスの巡洋艦各級の計画から建造について、武器装備の変更・増設・撤去、防御鋼板などの変更といった設計の変更に関する細かな海軍内部のやりとりや外部の事情による中止などなど、ある級の巡洋艦についてイギリス海軍が何を考えて層設計建造したのか、何を考えて改装したのかといった点については非常に詳細に述べられています。でも、330ページもある本だから足りない点はないかというとそうでもないのです。
  1. 搭載されている武器、射撃指揮装置、機関、エンジン、飛行機、レーダー、ソナー、ヘリコプターなどについては、名前はたくさんでてきますが、個々のアイテムの性能・性格、旧タイプとの違いなどといったことはほぼ全く触れられていません。
  2. 載せられている線図は、平面図と側面図がほとんどです。艦体内部の様子、ボイラー室・エンジン室・弾薬庫・居室などの部屋割りなどが分かる断面図はほぼ皆無です。例外は、軽巡洋艦デリーの1942年改装時の図と機雷敷設巡洋艦くらい。あとビッカース社が輸出用に見本として外国の海軍に提示した設計図が少なからず収められていて、これにはどれも断面図がついています。
  3. 各艦の就役後の戦歴を示す記述はほとんどありません。掲載されている写真には時期を示すためにその前後の簡単な状況が説明文としてつけられてはいますが。

これら説明のない部分は、決して不備ではなく、この本の守備範囲ではないという著者の見識だと思います。それにしても、こういう本を書いてもらえるイギリス海軍は幸せ。日本海軍についてこういうものを書こうとしても、史料がなくて無理なんでしょう、きっと。

2011年9月7日水曜日

Gulaschkanone

Scott L. Thompson著
Schiffer Publishing Ltd.
2011年発行
教育・観光・娯楽・趣味などの目的で歴史的な衣装や道具・武器をつかって過去の事件やある時代の情景を再現・体験するrennactmentという活動があり、この本の著者はドイツ国防軍に関するrennactmentを趣味としているアメリカ人です。ドイツ軍は、少なくとも一日に一回は温かい食事を提供するという信念から、Gulaschkanone(野戦炊事車)を用いる給食システムをつくりあげました。著者は家畜を飼って食肉にすることを仕事にしていることから、reenactorとしてGulaschkanoneを使用して食事を提供することを思い立ちました。オリジナルのGulaschkanoneは今では珍しい存在ですが、戦後ずっとオランダの農家の納屋に保管されていて比較的状態が良好なものが売りに出され、入手することができました。錆びて傷んだ鍋を修理し、サンドペーパーをかけ、ペンキを塗り直し、木の車輪をアーミッシュの馬車大工に修理してもらったりして使える状態にしました。
Gulaschkanoneは大きな車輪が両側についた箱形の低い車体に煙突と大きな鍋と薪などを燃やせる燃焼室が作り付けられていて、燃料や食材などを積んだ前車と組み合わせて2頭の馬の牽引で移動するようになっています。イメージとしては、昔の焼き芋屋さんのリアカーに積んだ石焼き芋装置をもっと立派にしたものという感じです。大きさ・製造時期などにより数タイプがあるそうですが、著者の入手したものは1939年製造で200リットルのスープ鍋と90リットルのコーヒー沸かし釜のついた、一個中隊225人用のもので、調理のためのナイフや缶切りや寸胴などもセットされていました。後期に製造されたタイプにはオーブンがついていて肉やハムもローストできたそうです。スープ鍋には圧力釜としても使えるような蓋とガス抜き弁がついていて、薪を燃やして加熱した後に蓋を密封すると、戦況により移動を余儀なくされても調理が進行する仕組みになっていました。
ノルマンディでのアメリカ軍との戦いを再現するreenactorの公開模擬戦闘に参加して、 自家製の肉・ソーセージも使ったスープなどのレシピを、食材の皮を剥き小さく切るところから調理を始め、大戦中に実際につかわれた保温容器による配食までを実演して、カラー写真で紹介してくれています。戦車やハーフトラックやMG42などを装備したドイツ兵とジープやM5軽戦車やM4中戦車を装備したアメリカ兵が参加していて、兵士の方々が少し年齢が高く太りすぎな点を除けば、豪華で見所たっぷりのイベントです。それにしてもreenactmentというのはかなりお金のかかる趣味ですね。
本書には大戦中のGulaschkanoneを囲む兵士のモノクロの写真や経験談もたくさん収載されていますが、兵士たちの笑顔がとても印象的です。兵士の一日が食事を中心にまわっていた、暖かい食事を本当に楽しみにしていたことがよく分かります。このGulaschkanoneで野戦炊事に携わった人たちは軍人だったんでしょうか?その点については記載がなく、本書はモノとしての資料的な情報を求める人には適切な本ですが、史料を期待して読む本ではありません。また本書につかわれている英語はきわめて平易、しかも写真が多くて字は大きめで、短時間で読めてしまいました。この本も Printed in Chinaですが、誤字の多いのだけが気になりました。

2011年9月3日土曜日

Rations of the German Wehrmacht in World War II

Jim Pool and Thomas Bock著
Schiffer Military History
2010年発行
第二次大戦におけるドイツ軍のレーションがパン、乳製品、食肉製品、果物・野菜、飲み物、調味料、甘い物、アルコール飲料、非常食といった章に分けられて紹介されている本です。この分野にはたくさんのコレクターがいるそうで、そういった人たちの所蔵品(本物)や、本物を真似てつくった複製品、当時の写真にみられるレーションなどが、きれいなカラー印刷で300ページにわたってたくさん紹介されています。
多数の現物の写真に対して、説明文が付されていますが、筆者独自の調査による記述は多くはありません。説明の大部分はアメリカ陸軍Quartermaster Corps(需品科)の調査報告書にもとづいています。北アフリカ戦線で入手した頃から、アメリカ陸軍はドイツ軍のレーションについて調査していました。記述はかなり詳しく、容器の外観・表示、缶詰なら缶の製法や缶内の圧力や隙間の大きさ、入れられている食品の外観、臭い、味などなど詳細に記述されています。
外観・臭い・味については、素晴らしいと評価されているモノもありますが、「アメリカ兵なら食べたがらないだろう」というようなかなり辛口の評価のモノが多くなっています。ドイツの前線強襲時特別食詰め合わせの中のビスケットなどは「その香りについて「表現しようがない、アメリカのレーションにも一般小売り品にも似たものはなく、強いていえばイヌ用のビスケットに似ている」なんて書かれているほどです。
読み終えての感想ですが、この本はコレクター向けの豪華な図鑑です。モノについての説明はとても詳しく載っています。しかし「レーションに関する兵站システムの説明はほかでも入手しやすいので、詳しくは記さない」と著者が書いているように、兵站を扱った本ではありません。東部戦線に送られたレーションの種類や量や原産国の比率や、現地の部隊は充分にレーションを入手できていたのかどうかとか、そういったことについては、本書ではわかりません。
では図鑑である本書を読んで得るところがないかというとそんなことはなく、初めて知ったことはたくさんあります。例えば、
  • ドイツ赤十字がイギリスにいるドイツ兵捕虜に食糧を送っていた
  • アルミ缶やリングプルオープンの缶がすでに使われていた
  • ラミネートチューブのなかった頃の歯磨きのペーストや絵の具で使われていた 金属製のチューブがチーズなどの包装に使われていた
  • ドイツ軍のマニュアルには包装、容器はリユースするため物資集積所に送り返すこととされていて、「暖を取るために箱を燃やしてはならない」なんて書かれていた
  • FANTAの起源は、第二次大戦開戦でコカコーラ原液を入手できなくなったドイツのボトラーが、1940年にリンゴ酒の絞りかすとチーズ製造の副産物からつくった飲み物だった
  • 満期除隊や傷病で後送されたりする時に、総統からの贈り物(小麦粉・砂糖・ジャム・マーマレード・バター・ハチミツなど合計11.5kgの食品)が送られた
この本のつくりはというと、かなり厚手のアート紙に全ページカラーで印刷されています。またカバーだけでなく表紙裏表紙もカラー印刷の豪華な本です。でも印刷製本を安くあげるためか、Printed in Chinaでした。私の経験では、医学書にしても歴史の本にしても、洋書というのは用紙や装丁が質素なかわりに安いという印象がありました。しかしこの本はその例外で、英語の本でも実用的な専門書は質素でも、趣味の世界の本は豪華ということなのでしょうね。

2011年8月20日土曜日

日本陸軍「戦訓」の研究




白井明雄著
芙蓉書房出版
2003年2月発行

戦訓報は昭和18年6月から発行が始まった日本陸軍の逐次刊行物で、戦訓速報・特報などと名付けられたものもあわせると、総数300ほどになるのだそうです。著者は元自衛官の方で、ガダルカナル戦以降の対米戦の連戦連敗の原因を探るためにこの戦訓報を研究し、戦訓報の「戦訓」を「陸戦研究」誌に発表し、それをまとめたのが本書なのだそうです。出版社も芙蓉書房出版ですし、もともとは読者として自衛官を想定していたはずで、素人の私には専門的な戦術の理解などは無理ですが、あまりつまづくところなく読めました。興味深く感じた点をいくつか紹介します。
太平洋正面は海軍の担当で、十七年八月に生起したガダルカナル戦とそれに続いたソロモン・ニューギニヤの戦いも海軍への協力と軽く考えていた上陸防御戦は、対ソ戦を念頭に構成一筋に錬成してきた日本陸軍にとって、全く新しい問題であった
こういった研究は平時から自死されていて当然だと思うのですが、日本陸軍が平時に行っていたのは対ソ戦の研究で対米戦は真剣に検討されてはいなかったわけですね。アメリカ相手に守勢に立たされたことではじめて戦訓を全軍に広めることの必要性に思い至ったわけですね。 発行開始が昭和18年6月ですから、気づいて行動に移されたのは開戦後一年半も過ぎてからのことで、戦争の経過を知っている者からすると、反応が鈍すぎると感じてしまいます。しかも著者によると、「絶対国防圏」構想への戦略転換からサイパン戦までは、「我が陸海軍がともに勝利の希望を持って対米戦に取り組んでいた時期」だったのだそうです。ガダルカナルからの撤退以降も希望をもつ人が多数だったということは不思議に感じます。しかし、サイパンの失陥は一大転機で、「海軍航空、特に空母戦力の壊滅によって、南方資源地帯と日本本土との連絡は切断の危機に曝され、戦争の継続は絶望的とな」りました。それまでは戦訓報で水際撃滅のための準備と実行が勧められていましたが、 サイパン玉砕でその欠陥が明らかになって「縦深陣地を絶対に必要とす 複郭陣地は之を準備し置くを要す」と方針が変わったのだそうです。
弾薬資材をほとんど無計画無制限に浪費す 砲爆撃は目標を確認することなく存在を推定する地域に猛烈に実施す
日本軍の白兵戦を狙った斬り込みに対して、アメリカ軍は突撃破砕射撃と呼ばれる対応をとりました。緒戦期に得た資料からこの突撃破砕射撃の存在をつかんでいたのに、その危険を部隊にしらせ、突撃に対しては突撃破砕射撃が実施されることを戦訓報で警告しておくことができませんでした。実際に実施された突撃破砕射撃について、当初は「無計画無制限に浪費」と批判的に書かれていました。無計画無制限に浪費できるほどの弾薬を補給できる能力こそ恐るべきことだし、うらやましいことなのにね。
米軍と支那軍の比較 対支戦闘に於いて戦果を挙げた部隊も米軍の弾丸鉄壁に対しては攻撃意の如く進まざることあり
中国戦線から島嶼の防備に転用された部隊が多かったようですが、はじめて強い軍隊と対峙して自軍の実力を知ることになった様子が分かります。
熾烈なる砲爆撃に対し毅然として守地を護らしむることは精錬なる軍隊にして初めて期待し得るべし 我が軍隊の現状は遺憾ながら離散掌握を脱するものきわめて多し相当兵力の軍隊にても訓練精到ならざるに於ては全く行方不明となりし部隊さえあり 軍隊の精練及幹部の掌握力等は実に予想外なり
これはサイパン戦についての記述ですが、日本陸軍は精神力を強調していましたから、ヒトが正直に反応してしまうほどのひどい状況に直面させられてしまったのでしょう。
海軍航空ハ闘志旺盛、戦技極メテ優秀、電探ノ能力優秀、未ダニ奇襲ヲ受ケタルコトナシ 上陸防御ニ関シ必勝ヲ確信ス
これはトラック空襲についての戦訓報の記述ですが、真相を知る後世の者からすると、弱い海軍に対する皮肉のつもりなのかとも思えるくらいです。戦訓報が士気への影響を配慮して書かれていたことと、戦訓報の材料となる戦闘詳報・戦闘要報自体が弱音を吐いたと思われたくない心理で書かれていたことなどから、こういった記事が出現してしまうのでしょう。著者は「『戦訓特報』は、戦法創始の必要を強調しながら、真実を知らせる点に重大な欠陥があった。真相をボカシあるいは曲げた指摘が多かった。敵砲爆撃の過小評価、我が肉攻・斬込・戦車威力の過大評価等がそれである。士気への配慮もあったであろうが、より根本的には「教育」への配慮を優先したためではないか」と思いやりをもって評価しています。
戦況逼迫せる時期に於て直接戦闘に必要なる築城の完成を見ざるに兵力の大部を以て飛行場作業其の他の土工作業に従事せしむる等のことなきを要す
飛行場の存在する要地・島嶼を防衛するために陸軍部隊が駐屯しているわけですが、戦争が末期に近くなるにつれて、日本側の航空機が無力なこと、すぐに無力化されてしまうことが明らかになり、飛行場の存在自体がお荷物として感じられるようになってしまったようです。
本書は日本陸軍の「戦訓」研究ですが、組織の戦訓研究という点では、現在の組織、例えば私自身の勤務先にも当てはまる点がたくさんあります。ビジネス書として銘打って売られている本に戦争中のことが材料として使われるのも無理無いのかなと感じました。最後に、日本陸軍にも小沼治夫少将という「精神力過大評価の弊」をならした陸大の教官がいたことを知ったのも、本書の収穫のひとつです。

2011年4月15日金曜日

あっと驚く船のリサイクル

大内建二著 光人社NF文庫
2011年4月発行 本体686円
タイトルにはリサイクルと記されていますが、内容はリサイクルに限らず、どちらかというとリユースされた艦船つまり中古の船に関するあれこれの方がたくさん紹介されていました。例えば、中東鉄道買収の見返りにソ連向けとして建造されたはずが日本海軍や海上保安庁で使われ後に南極観測船にもなった宗谷や、第二次大戦後にアメリカからアルゼンチンに譲渡されフォークランド紛争で沈んだ巡洋艦ヘネラル・ベルグラーノなどの有名な艦船のエピソードや、また、新しい海運会社は安く入手できる中古船で創業することが多いこと、アメリカで第二次大戦中に大量に建造されたリバティー船が大河の帯水地帯に保管されたのは淡水でサビ対策のため、などなど興味深く読みました。
客船、貨客船、貨物船あるいはタンカーにおいても、商船の設計では船体のスタイルや船内の一般配置においても、日本独自の姿が完全に確立していった。例えば外型(まま)においてはヨーロッパ、特に西ヨーロッパや北ヨーロッパの貨物船に見られる分離船橋型スタイルは日本では育たず、また乗組員の構成においても日本では独自の役割分担が確立され、これにともない船内の配置(乗組員居住設備)も欧米とは違った日本独自の配置が確立されていったのである。その一方で、日本の貨物船やタンカーが中古船として購入される場合には、パナマやギリシアなど特定の国の購入に集中し、西欧諸国やアメリカに購入される例は極端に少なくなる。
日本独自のスタイルの確立とともに、海外から中古船を購入しても改装が必要になってきたので、戦後の一時期を除くと外国の中古船を受け入れがたい状況になったこと、アメリカから払い下げられたリバティー船を多数購入したギリシアのような国もある一方、日本は中古のリバティー船を一隻も買わなかったこと、日本の商船は品質・保守・点検・整備・清掃などの点から中古船としても人気が高いこと、などなど全く知らなかったので勉強になりました。
船の解体という非生産的作業にドックを使うことは決して得策ではない。船が数万総トン級と大型になればドックで行われる場合は確かに多くなる。しかし解体に要する四~五ヶ月間の間ドックは解体船に占領され、新しい船を造る際に必要なドック作業は中断せざるを得ない。造船所での船の解体は決して望まれるものではないのである。
この本を読むまで、なんとなく艦船の解体はドックに入れて行うものかと思っていましたが、そうではないんですね。帆船の時代から、浜に乗り上げて解体する方法があり、また海に浮かべたまま上構から解体を始めても、部材が撤去されるにつれ船体も軽くなり、水線下だった部分も解体できるようになり、最後に残ったキール周辺の部分だけを陸上に引き揚げて解体することもできるのだそうです。船の解体は人件費の問題で先進国では行われず、現在では中国とインドやバングラデシュで行われることがほとんどになっています。インドやバングラデシュでは特別な施設もない干満の差が大きな砂浜海岸に乗り上げて解体していて、労働災害が多いこと、アスベストや燃料油残渣などの廃棄物が海にそのまま投棄されることが問題なのだとか。船の解体も廃棄物輸出と同じような問題を抱えているわけですね。

2011年4月14日木曜日

ドイツを焼いた戦略爆撃 1940-1945







イェルク・フリードリヒ著 みすず書房
2011年2月発行 本体6600円



第二次大戦中のドイツに対する戦略爆撃について、連合軍の使った機体・爆弾などの機材、被害を大きくさせるために各種を爆弾を混合する爆撃法・パスファインダー機によるマーカー弾の使用・電波による誘導・チャフによるレーダー妨害などの爆撃手法、軍事関連施設に対する精密爆撃から無差別と見なし得る都市爆撃への移行と連合軍側の見解、レーダー・戦闘機・高射砲・照空灯によるドイツの迎撃態勢とその崩壊、爆撃を受けた各都市の被害の状況、疎開やブンカーの建設などの都市の防空対策、被災者の救護や爆撃に対するドイツ国民の受け止め方、当時のドイツの施政者の発言の変化などなどについて触れた本です。原著は2002年に出版されたもので、 実際に爆撃・防空に携わった人や被災者に対する著者自身のインタビューなどの一次史料に基づいた本ではありません。というのも、ドイツ人が自分の受けた戦争の被害を客観的に語ることが許される雰囲気が醸成されてきたのが、ようやく21世紀になってからのことだったからでした。でも、こういうスタイルの本の方が、かえって外国人が読んで学ぶには良いのかも知れません。
消防の防火技師が爆撃計画に加わった時点で、新しい学問が誕生することとなった。火と戦う職業と火をつける職業は同じ事柄、つまり物の燃えやすさに関わっている。 
戦争勃発時には爆撃機軍団は炸裂弾と高性能爆薬弾を中心兵器と考えていたが、1942年以降、爆薬では爆撃戦争を遂行できないことが分かった。爆薬は他のもの、つまり燃焼物質と結びついてはじめて、かつてない規模の威力を発揮する武器なのであった。兵器の殺傷力を決めるのは、破片弾、ブロックバスター弾、焼夷弾の混合の割合、爆撃の順序、密度であった。 
市街地における火災を数倍に広げるため、アメリカはモデルを用いた分析で破壊力を試験した。そのために、アメリカは実験的にドイツと日本の街の町並みを再現し、細かい点まで解明しようとした。


第二次大戦ではレーダー・ソナー・原子爆弾といった新兵器だけでなく、武器や武装の改良などの研究開発が各国で進められていたことはもちろん知っていましたが、イギリス軍(後にはアメリカ軍も)では爆撃で相手に与える被害をより大きくするために、消防関係者まで含めて爆撃手法の研究に熱心に取り組んでいたことが紹介されていて、驚きました。何となく焼夷弾をばらまけば都市に火災を起こすのは難しくはないのだろうと思っていたのですが、そうではありません。なるべく大きな火災(後には火災嵐)を狙うには、最初に燃えるのは家財で家財道具が建物に火をつける、家財道具を燃やすためには屋根を壊すための爆弾が必要、そして発生した火災の拡大を阻む障壁となる防火区域や防火壁を充分に備えた町は燃やすのが難しいのでまずブロックバスター(街区・ブロックごと破壊する大型爆弾)で防火壁を破壊する、消火を妨害するために時限信管を装着した爆弾も取り混ぜて消防隊が火元と水場に到達できないようにするのだとか。さすがにオペレーションズリサーチなんかを生み出した国だなと改めて思い知らされました。
爆撃機乗員の死亡率は彼らに攻撃されるよりもはるかに高かった。爆撃機軍団の乗員12万5千人のうち、5万5千人、つまり44%が戦死した。爆撃された側の死者ははっきりせず、42万人から57万人の幅がある。中間の数を取れば、都市住民の1.5%が死亡したことになる。

日本に対する戦略爆撃はたかだか一年程度でしたが、ドイツに対する戦略爆撃は6年にもおよび、多いところでは合計で300回近い回数の空襲を受けました。大戦初期は、爆撃する側の戦術や機材がととのっておらず、またドイツ側のレーダーや迎撃戦闘機がしっかりしていて、爆撃する側の被害も少なくありませんでした。イギリス空軍では30回の出撃を無事にこなすと爆撃任務から開放されることになっていましたが、その前に戦死したり捕虜になった人が少なくなかったそうです。
第3章国土では空襲を受けた多くの都市に関して、フン族との戦い・三十年戦争・プファルツ継承戦争・ナポレオン戦争・七年戦争・第一次大戦での空襲など過去に受けた戦災を含めた各都市の歴史的な背景、防空態勢の構築、爆撃を受けた際の様子、消防活動、爆撃被害者の例を示しての描写、犠牲になった文化財や建築物などが記されています。ただ、東プロイセンやオーストリアの都市に対する空襲は本書では取り上げられていません。距離の関係で、東プロイセンやオーストリアの都市には西側連合軍によるめぼしい空襲はなかったのでしょうか。
父親はドルトムントで働き、母親は幼児を連れてアルゴイ地方にいる。12歳の娘は学童疎開でチューリンゲン地方に、14歳の娘はフランケン地方にある国民福祉局の職業訓練施設におり、19歳の息子はレニングラードを包囲している。 
爆撃に晒(まま)された都市に住む1910万人の四分の一が、爆弾の届かない地方に行くことができた。


大戦中盤になって爆撃側の戦術・態勢が進歩して、特に1944年以降はドイツ空軍が有効な迎撃を行えなくなりました。多数の爆撃機による空襲が毎日複数の目標に対して行われ、ケルン、ハンブルク、ドレスデンなど火災嵐を伴って大きな被害を出した大空襲もこの時期のことでした。都市が自らの手で自分たちを守らなければならない事態になりました。ブンカーが建造されたり、ワインセラー・アパートの地下室・坑道などが空襲の際に避難するための場所として補強され利用されました。また、人口分散計画が立てられ、例えば学童を疎開させて空いた校舎を緊急時用病院と被災者収容所に転用したり、 空襲による負傷者の増加と病院の被害とにより病床が不足すると、重病患者の強制退院・受け入れ拒否、統合失調症患者の毒殺などでベッドが空けられたりもしました。
しかし、それでも都市の爆撃被害は甚大なものでした。本書には写真がほとんど含まれていません。爆撃により死亡した人の写真も、運搬用のパレットの上に多数積み重ねられた死体の写真と、乾燥して縮んだ一人の焼死体の写真の2葉だけです。これらの写真が目を背けたくなるものなのはもちろんですが、爆撃被害の様子を綴った文章もきちんとというかかなり生々しく書かれていて、読むのがつらくなりそうなくらいです。がれきに埋もれた生存者を捜すのに聴音機が使われたり、多数の死体の収容に捕虜、強制収容所の被収容者、刑務所の囚人が使われたりなど、ドイツらしさを感じさせるこまごまとしたことも描かれています。また、地上戦が自分の住む都市に近づくのを感じながら、爆撃を受け続けなければならなかったドイツの人たちが、それでも政権に対する不満を公にすることは死を覚悟の上でなければできなかったことも触れられていました。
具体的な描写は本書を読んでいただくとして、ドイツの受けた戦略爆撃についての知識を日本人が得るためには悪くない本だと思います。私は本書を読んで勉強になったと感じています。ただ、読んでみて残念に感じた点も少なくありません。ひとつは、軍事用語の訳し方がまずい点です。私も軍事に関する専門家というわけではありませんが、本書には一般的に使われる日本語の軍事用語と違った言葉が訳語として使われている例がたくさんありました。また、本書の中には訳語の不統一が散見されます。例えば、複数の陸軍部隊の中の左に位置する部隊を指す時に「左側」と訳してある箇所があったり「左翼」と訳してある箇所があったり、またB-17と訳してあったり空飛ぶ要塞と訳されていたりなどするのです。そして、日本語として文法的にはおかしくないのだが意味が理解できないという訳文もみうけられました。一部は下記の表に挙げてみました。
訳語が統一されていない箇所があったり、意味不明の訳文があったりなどするのは、もしかすると訳者が本当は一人ではないからなのでしょうか?本書巻末にある訳者の略歴をみると大学の先生をしている方らしいので、輪読という形でゼミで学生に訳させて、それをまとめて本にしてみたけれど、目が行き届かなかったのかなと勘ぐってしまいます。それにしても、編集者も原稿に目を通しているはずなのに、この形で6600円の本にしてしまうとは。みすず書房はしっかりした本を出してくれる本屋さんだと信頼していただけに、残念です。本書のカバーには見慣れないマークがついていました。みすず書房の新しいマークなのかも知れませんが、その新しいマークが泣いちゃうよ。

ページ違和感ある訳語・訳文一般的にはこうなのでは?
16機上砲防御機銃
17二重、多重機関銃二連装、多連装機銃
17機上砲兵防御銃手
17回転砲塔回転銃座
17銃架銃座
17B17とB24はあらゆる方面から射撃可能な武器を満載した陵堡で、1943年以来、恐怖の飛行大隊ブロックとなって建物の四階に相当する高度で目標へと飛行していた「稜堡」は銃座のこと?それともflyng fortressとも呼ばれたから要塞という意味?
「建物の四階に相当する高度」の方はまったく理解不能
17「B24は2275トンの積荷と」積載量2275キログラム、ということか
18「ドイツ戦闘機群」Jagdgeschwaderなら「戦闘航空団」と訳す方がふつう
18「防御範囲の広い新型の随伴機」P-51についての文なので「航続距離の長い新型の護衛戦闘機」と訳すべきでしょう
22「目標のリストと爆弾投下口のあいだには連絡が必要であった。夕刻に基地を飛び立つ飛行中隊と、閉じた空間で隊員に都市名と飛行ルートを指令する装置は、何らかの線で結ばれている必要があった。」理解不能な文です。暗号化された無線通信で離陸後、乗員に目的となる都市とそこへの飛行ルートを報せる必要があったという意味??
31磁電管 マグネトロンと呼ぶ方が現在では一般的でしょう
44「軍隊は、戦争の常であるが、自発的にであれ強いられてであれ徴兵されて戦う」どんな原文だったのかは不明だが、「自発的」なのは志願兵・職業軍人になるので「徴兵されて戦う」と訳すのはおかしいと思う
94「ムスタングは柔軟性を欠く援護戦闘機から離れ、自ら集団で空中戦に参加し、飛行場に低空から攻撃を加えた」爆撃機部隊にはムスタングの他にも護衛戦闘機がついていて、ムスタングはそこから離れて迎撃戦闘機との戦闘に参加した、っていう意味?
97「4月20日夜、1115のイギリス軍機はフランス沿岸諸県の防御に当たっていた。」1944年6月のノルマンディー上陸作戦より前の話だが、イギリス軍機がフランス沿岸諸県の防衛にあたるようなことがあった??
98「軽量軍事船」こういう日本語はないでしょう
102「ジョーンズはヒトラーのV2ロケットの本質を把握していた。到達距離、弾頭、目標を狙う正確さにおいてはそれはV1とほとんど変わらないが、重量は14トンもあり速度は17倍であった。オランダ南西部の島、フーク・ファン・ホラントにある可動式発射台からたった五分でイギリスに到達し、それを防ぐ手だてはなかった。爆撃機は目標に到達することができなかった。戦闘機がそれに追いついて破壊できるからだ。だがロケットは被害を受けない。ジェット戦闘機といえども、その六分の一の速度しか出せないからである」「目標」は何を意味するの?最初と2番目の文の「それ」はV2のことで、3番目の「それ」は内容からV1だが、この章全体の意味が分からない。
104「モントゴメリーは侵攻軍の左側の軍勢とともに」イデオロギー的な意味ではなくて、軍事的な用語でも「左側」ではなくて「左翼」とすべきではないか。他の部分、例えば135ページではそうしてあるし。それとも全く別の意味なのか?
105「失敗に終わったアルンヘム上陸後の週も」アルンヘムは内陸にあって上陸するような場所ではない。マーケット・ガーデン作戦について書いてあるくだりだから、原文は「失敗に終わったアルンヘム空挺降下後の週も」という意味だったのでは。
109「突撃用大砲」きっと「突撃砲」のことなのでしょう
152「ブルーリバンド賞」「ブルーリボン」と呼ぶのがふつう
161「その頃イギリス軍はフランスでの上陸作戦後、まだ完全には帰還しておらず、ドイツの高射砲と戦闘機とあらためて対決する前のウォーミングアップとして、イギリス爆撃機軍団は沿岸部のシュテッティンとケーニヒスベルクを攻撃した」「帰還しておらず」はどういう意味?完全な状態に回復していないっていうこと?
175「ひね曲がり」 ひん曲がり?
190「気象柱の温度は夜間に摂氏10度から35度への気温上昇があったことを示している。」「気象柱」って温度計?
212「至近戦」「至近戦」とは聞き慣れない日本語。「接近戦」の方が良いのでは
215「1689年、プファルツ継承戦争でこの町を占領して爆撃し」17世紀だから爆撃ではなくて「砲撃」か
292「灯火弾」照明弾のことか
398「ドルトムントでは、空挺部隊員が上陸してガス攻撃の準備をしているという知らせで人々がパニックに陥った。」「上陸」は「降下」の方がふさわしい
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2011年1月15日土曜日

世界の駄っ作機番外編 蛇の目の花園2


岡部いさく著 大日本絵画
2010年7月発行 本体2600円
おなじみの世界の駄っ作機シリーズの番外編で、イギリス機ばかりを集めた蛇の目の花園の第2巻です。取りあげられた機種には戦間期のものやジェット機も含まれてはいますが、前作の蛇の目の花園と比較すると第二次大戦に使われた機種がかなり多くなっています。また各々の機種の解説に当てられている紙数も増えていました。私は飛行機に詳しいわけではなく、ほとんどが知らない機種ばかりなのですが、それでも楽しく読めるように書かれている点は、このシリーズの他の本と同様です。

2011年1月3日月曜日

ノモンハン航空戦全史


D・ディアルコフ著 芙蓉書房出版
2010年12月発行 本体2500円
ノモンハン戦の本を読むと、激しい地上戦を追うだけでも混乱してしまって、航空戦の推移がどうだったのかまで理解できな感じがしていました。その点、本書は地上戦についてはぜひとも必要な記述に絞り、おもに日ソ両軍の航空機、地上の施設、戦術、航空戦がどう推移したのかなどを分かりやすく解説してくれます。著者はブルガリア空軍パイロットでブルガリア国防大学空軍学部長の方なのだそうです。日本人以外の人にもよめるように書かれているので、日本人の非専門家にも読みやすいのでしょう。もとは英語で書かれた本なのだそうですが、引用文献のリストをみると半数以上がキリル文字なので、ちょっとびっくり。でも、両軍の真の損害を知るにはソ連の史料にあたる必要があるので、当然なんでしょうね。
戦場に投入された航空機・パイロット・地上要員などはソ連側の方が常に上回っていました。少ないながらも緒戦期は日本側が優勢でしたが、中期は互角、後期は戦場上空の航空優勢はソ連側にあり損害数もわずかに日本側が上回るようになったそうです。ソ連側は初期中期の戦訓を活かして戦い方を変化させたこと、スペイン内戦の経験者など熟練のパイロットもつぎ込んだこと、そして黒海やバルト海方面からも航空機・パイロットを移動させ常に数的優勢を維持したことなどが、この推移の原因とのことです。
日本も対抗してどんどん機体やパイロットをつぎこめばよかったのでは、とも考えますが、日中戦争をしていたこと、また機体については当時最新の九七式戦闘機の月間生産数がたった38機で、しかも生産機のほとんどがノモンハンに投入されたように精一杯だったこと、またパイロットについては損失に補充が追いつかない状況だったそうです。
英本土航空戦が1940年上半期に決定的な段階に入っていたとはいえ、ノモンハン航空戦の規模を勘案すれば、これに匹敵する航空戦は、それまで生起しなかったと言わざるを得ない。80キロメートルに満たない狭隘な空域において、あるときは300機以上の航空機が同時に空中戦を行ったという事実を踏まえれば、航空戦史の中で、このような大規模な航空戦は皆無であったと断言できる。
と著者は書いていて、ノモンハン航空戦がかなり大規模な戦いだったことがよく分かりました。また、撃墜された僚機のパイロットを救うため九七戦が地上に着陸して地上にいる被撃墜機のパイロットを自機に収容して離陸したことが複数書かれていたり、ソ連が飛行場にダミーの機体を置いていたとか、蚊の多い地域の夏なので駐機中の飛行機のプロペラをまわしっぱなしで風で追い払って眠ったエピソードとか、面白い話もたくさんありました。
本筋とは関係ありませんが、
15ページの一番上の写真のキャプションに三菱九八式重爆撃機とあります。九七の誤りでしょう。
187ページの資料の九八軽爆の諸元の表の右側の最大速度・巡航速度・最大航続距離・上昇率などなどがずれていておかしくなっています。
193ページの史料のイ式重爆撃機の説明に「日本軍のパイロットたちは、すぐに本機の武装では戦闘機を効果的に撃退できないことを学んだ。ノモンハン事件では、武装以外の欠点も明らかとなり、ノモンハン事件終結後、本機は退役した」と書かれています。スペックを見ると九七重爆とあまり違わないようにも見えるし、本文読んでも具体的にどう劣るのかいまひとつはっきり書かれていないように思います。

2011年1月1日土曜日

高松宮と海軍


阿川弘之著 中公文庫
2006年7月2刷 本体648円
昭和天皇の弟で敗戦前は海軍士官だった高松宮の日記が、死去後の1990年代になってから発見されました。その後中央公論社から出版された高松宮日記に
、本書の著者は編纂責任者として携わりました。その間のいきさつ、日記の中の興味深いエピソードの紹介、海軍に関する思い出などをつづった文章が3編収められています。元は、中央公論に掲載されたものでしょうか。
「千年に一度出るか出ないかといった国宝級の歴史資料」といった言葉が書かれていますが、これはちょっとほめすぎな感じ。でも、他の資料とつきあわせるための材料としては重要でしょうね。出版された高松宮日記は数百ページが8巻もあって素人が読むには大変そうですし、現在では入手も難しそう。本書でとりあえず雰囲気を知ることができて、今のところは満足な感じです。

2010年12月5日日曜日

ダウニング街日記 上下


ダウニング街日記 [上]
ジョン・コルヴィル著 平凡社
1990年6月発行 本体3864円
ダウニング街日記 [下]
ジョン・コルヴィル著 平凡社
1991年2月発行 本体3864円
著者のコルヴィルさんは男爵と侯爵の孫で、パブリックスクールからケンブリッジ大学を終えて、イギリス外務省に就職。トルコとペルシア担当で仕事を始め、第二次大戦開戦を機に1939年9月10日から日記を付け始めます。そして翌10月に、チェンバレン首相の秘書官に抜擢されました。チェンバレン内閣下では、チャーチルを「エネルギッシュだが協調性がない」と評し、危険な計画を立てて実行させようとする、騒ぎを起こす人物と感じていました。しかし、1940年5月に首相がチャーチルに交替した後も秘書官を続け、長らくチャーチルから親しく扱われる人となりました。イギリス空軍に志願して1941年10月から戦闘機パイロットとして訓練を受け、短いながら実戦も経験しました。そして1943年12月からふたたび秘書官としての仕事を再開します。1945年の労働党内閣成立で外務省に戻りますが、1951年にチャーチルが首相に復帰すると乞われて再び秘書官となり、その辞任まで働きました。本書は、権力のかたわらでというサブタイトルがついているように、主に首相の傍らで秘書官として過ごした時期の日記をまとめたものでした。
日記をつけ始めたのは25歳ですが、観察と分析の鋭さは読んでいて25歳の日記とは思えない感じです(最後の方は40歳近くになっているから当たり前かも)。チェンバレン、チャーチルの身近な者に見せる動きや発言(かなり率直な発言が少なくない)から、彼らが事態をどう考え、どう対処しようとしていたのかが活写されている点が本書の読み応えのある点です。例えば、ドイツがソ連を攻撃した時点で、チャーチルとその周囲では勝てることを確信したことが分かります。残念なのは、空軍勤務を志願して大戦中期は抜けてしまっていることで、日本の攻撃やアメリカの参戦に対する感想は書かれていません。全体を通じても、日本に関する記述はとても少なく、日中戦やそれに対してアメリカと協調して日本へ厳しい態度をとったこと、朝日新聞の記者が首相官邸を訪れて取材したことくらいでしょうか。 下147ページに「足の不自由な駐英日本大使、重光が十番を訪れ、首相に離任のあいさつをした。重光が親英派であることは知られており、それが理由で本国に召還されるのだと思う」と書かれていました。
上巻ではバトルオブブリテンの様子や、日常的に爆撃を受けるなかでの人々の生活も興味深いところ。また、著者は上流階級出身で、祖父母・父母の関係から王族や貴族との交流があったことが描かれています。パーティや年代もののワインや馬に乗っての狐狩りなどなど、イギリスの上流階級の人たちが戦争中にどんな暮らしをしていたのかをかいま見ることができます。労働者階級との格差の意識はかなりあるようで、1941年9月にチャーチルはスコットランドの工場視察ツアーに出かけ労働者たちから歓声を受けましたが、同行した著者が「彼らの生産のテンポがほんとうに上がったのは、ソ連が参戦してからだと聞かされ、不愉快になった」と書かれているくだりなどは印象的です。
戦闘機パイロットとして生活した時期については抄訳しか載せられていないのですが、驚いた点が二つ。彼はパイロットになるためにコンタクトレンズを装用したこと。コンタクトレンズってこの頃にすでに実用化されていたとは知りませんでした。また、初等訓練はイギリス国内で実施されたようですが、訓練過程の後半は船で南アフリカまで移動して、南アフリカで行われました。イギリス連邦の総力をあげた戦いだったことを示すエピソードですね。
日本語として読みやすい翻訳になっています。しかし、少なからず気になる変な訳語がありました。
上109ページ ラワールピンジを「商品輸送用の巡洋艦」と訳している。仮装巡洋艦か特設巡洋艦とすべきでしょう。
上129ページ 「ダングラス卿」 アレック・ダグラス=ヒュームと言う方がふつうだから、ダグラス卿じゃだめなのかしら。
上164ページ アルトマルク号事件で駆逐艦コサックが「戦艦コサック」となっている。
上370ページ 「ビルマ街道」、援蒋ルートの一つで日本語ではビルマルートとして有名だと思います。
上391ページ 「ウェイヴル」ウェーベルとかウェーヴェルと書かれていることの方が一般的。
下245ページ「ボフォール高射砲」boforsだけど日本語ではボフォースと呼び
下276ページ「単式のアリソン型エンジン」単発と訳さなきゃね。
下706ページ訳者あとがき「利空権」 こんな日本語はありません。制空権
本書の新品は手に入らないようです。中古品をAmazonマーケットプレイスからそれぞれ763円と916円で入手して読みました。