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2012年1月30日月曜日

木簡による日本語書記史【2011増訂版】



犬飼隆著
笠間書院
2011年10月30日 
増訂版第1刷発行

郡評論争に決着をつける決め手となるなど、日本史の分野での木簡の重要性は知っていたつもりです。しかし、日本語研究の分野でも重要な史料となっているということは本書を読んで初めて知りました。本書の中に取りあげられた木簡の例は面白いものばかりです。また著者の指摘はとても勉強になったので、その中からいくつか例を挙げてみると、
日本語史の研究は記紀万葉語がすなわち上代語とは言えない時期に入ったと筆者は考えている。王朝文学語がすなわち平安時代語と言えなくなって久しいが、八世紀以前についても同様の認識をもつ必要がある。訓点語や古記録語を見ずして平安時代語を語ることができないのと同じく、出土資料を見ずして八世紀以前を語ることはできない。
万葉集や古事記などの文献史料や金石文ももちろん大切な史料ではありますが、出土した木簡は当時の日常的な文字・書法の実態を知らせてくれるという点で非常に画期的な史料なわけですね。
ここで述べようとするところをたとえをもって提示してみたい。欽明朝から推古朝にかけてを明治維新期にたとえ、天武・持統朝から藤原京時代を明治三十年代にたとえることができるかもしれない。あるいは、七世紀後半を現代にたとえることができるかもしれない。
古い時代には漢字を文字として受容するにとどまり、その後に当時の文語中国語である漢文の使い方に習熟するようになったので、かえって後の時代の方が正格に近い漢文がつかわれることがあったのだそうです。もちろん、中国語として習得できた人は稀で、漢文訓読レベルの人が多かったでしょう。その点、近代の英語の受容のたとえは分かりやすく感じました。
中国中原の本来の字義と異なる意味用法を、従来は、日本に輸入してからの和習ととらえた。今後は、東アジア一帯における漢字受容の一環としてとらえなおす必要がある。
日本への文字・書記の伝達に朝鮮半島の人の果たした役割は大きく、古い時代には朝鮮半島出身者が日本語を書き、日本の原住民にその技法を教授した場面があったと思われます。日本で出土する木簡にみられる中国に由来しない特徴的な書法は日本独自のものだけではなく、朝鮮半島由来の部分が少なくなかったということですね。
古事記が清濁の書き分けや一字一訓などの晴の書法をとったのは、一行十七文字の楷書で書かれた可能性が高く「漢字列の均一性・等間隔性に規制されながら、日本語の構文を書きあらわし、その一義的な読解を可能にするための必要な処置であった」。

行書で書かれた書簡や木簡には、文意に従って字の大きさが変化したり、意味上まとまりをなす漢字列が筆致の上でもまとまっていたりなど、読みを助ける視覚的なキューがそなわっていた。木簡にみられる褻の書記法と古事記にみられる晴れの書記法の違いの一因がこういうものだという著者の主張は非常に説得的ですね。
七世紀末、宮廷における典礼の一環として「歌」が確立した。さらに、それらは、漢詩の影響を受けて、日本語による文学作品になった。
典礼で歌を詠み記録することも律令官人たちの仕事だった、典礼に備えた歌の手習いのために習書した難波津の歌の木簡が多数出土している、旧来のうたから「歌」が制度化され、その中のすぐれたものが文学作品としての和歌に昇華したということが述べられていて、これも目から鱗の意見でした。

上代特殊仮名遣い・8母音・母音調和という現象は確固たるものなのかと思っていたのですが、木簡にみられる表現からは必ずしもそうでもないようで、驚きました。



本書の内容と直接は関係ないことですが、日本語学の世界では「木簡ども」「『歌』ども」という表現を当たり前のようにつかうのでしょうか?ちょっと不思議に感じました。
また、木簡や削りクズは燃料として使われてしまったりはしなかったのでしょうか?多くは燃やされてしまったが、多くの木簡が出土しいる遺跡は燃やさない特別な事情(木簡を扱った担当者の流儀とか、付け札としての木簡を一定期間保存する習慣があったところとか)があったところだけなのでしょうか?

2012年1月21日土曜日

長州の経済構造

西川俊作著
東洋経済新報社
2012年1月5日 発行
本書の中でも引用されているトマス・スミスの日本社会史における伝統と創造などの著作を通じて、幕末の長州に防長風土注進案という有名な史料があることは知っていました。しかし、それに関する論考を系統的に追ったわけではないので、どんなものなのか詳しくは知りませんでした。本書によると、江戸期の長州藩の支配領域は「宰判」と呼ばれる地域に分けられていました。風土注進案ですから、その宰判の位置・地形・土地の利用・戸数・住民数などの情報があることはもちろんですが、それに加えて宰判ごとの米・雑穀・豆・商品作物などの農業生産量、年貢や肥料・牛馬飼料などの農業生産にかかる経費、住民の消費支出の内訳と金額、林産・海産・製塩・木綿織り・商業・サービス業の規模・売上高・従事者数・経費なども記されているのだそうです。本書はこういった防長注進案の細かな情報を使って、当時の長州の経済構造を明らかにしてくれています。勉強になったところがとてもたくさんあるのですが、特に私の目を惹いた論点を抜き書きしてみると、
  • 宰判と呼ばれた藩内各地域の実態が鮮明となるにつれ、特産物という形態をとった地域間分業がはっきりとしたかたちで成立していたことを強く意識するにいたった。内陸の宰判だから低開発といっている限りわからない、その地域独特の換金作物があって、それでもて不足する米を買い入れていたり、あるいは広範囲の市場向けの特産物ーー木綿や紙や塩などーーがあったりするという事実、それゆえにそれらの地域を結ぶ廻船の交易があったりする、そういう地域間分業の発見である。それらは産業連関表の上でみれば、農業部門と工業部門の取引であったり、あるいは繊維産業と繊維産業の取引であったりして、工業化経済の一つの指標である部門間の相互取引(中間財取引)のウエイトを高めたわけではなかったかもしれないが、市場経済の進展という観点からは重要な変化である。しかもそのほとんどが、筆者がかねてより分析的に重要と考えてきたところの、農家兼業という形態をとっていたところに、この時代の特質があった。
  • 近代以前とはいえ広範に展開していた、ただし農業兼業によるところの非農業就業の多様な姿
  • 産業部門間の相互依存関係の存在  地域間の交易が存在していたからといって、そのすべてが部門間の中間取引とはかぎらない。しかし、徳川時代の製造業はほとんどが農家兼業であったから原料栽培からの一貫生産と考えるのは正しくなく、言葉の正確な意味での部門間取引の比重が一定のレベルまで到達していたということも明らかになった。
  • 農民の生活水準は、注進案にしばしば登場する表現どおりの『且且渡世』というわけでは必ずしもなかった
  • 従来の通説では、これら副業・兼業の収入は『しがない』補助収入とみなされ、副業収入に対する課税はほとんど無税といっても良い程度であったことには注意を払わず、もっぱら重い米納年貢のみに焦点を合わせ、ひたすら農民の窮乏化を語ってきた
  • 三田尻宰判の非農産業所得はやや農業所得を上回る、まさしく五分五分。加調米・出稼ぎを考慮すると46:54
  • 年貢は著しく重農主義的で、田畠石盛の4割という重税であった。しかし産業所得が5400貫余もあったうえに、産業活動への課税は薄税であったから、家計収支は相償うどころか、実に大幅な黒字になっていたのである。可処分所得に対する消費支出の割合は67%、また所得合計に対する税率は24%で、今日と大差なく、むしろやや低い(!)
  • 平均消費性向は67%と近代経済成長前の経済としては低い比率である 貯蓄率は33%とやや高い比率 エンゲル係数(=飯料/所得計)は31%で、工業化以前の社会に一般的な水準に比べれば十二分に低い水準である
  • 文房具や紙類の支出見積もりがほぼ全村記録されているのは、島内の識字率の高さを反映しいていたものと見てまちがいなさそうである
    薬剤・筆墨・線香などへの支出を見ると、この時代の島民の日常生活が、いわゆる飲まず食わずの窮迫状態にあったとはとうてい考えられない。衣服の新調、医師や寺子屋への謝金、その他サービスへの支出は捉えられていなかった消費支出であったと考えるべきである。
などがあげられます。私も1970年代までは、過去の農家の生活が「 且且渡世(かつかつとせい)」だったのだと思いこんでいました。それは、マルクス主義史学にもとづいた著作が手に入りやすく、それらを読んで影響されていたからですね。江戸時代の農家が且且渡世だったのはもちろん、昭和の敗戦後の農家の姿も且且渡世だったと私は思っていました。その頃、典型的な農民像として印象づけられていたのは今井正監督の「米」で、厳しい労働と苦しい生活を送る望月優子演じる農家のお母さんでした。その後、著者をはじめとした数量経済史の本や、日記やいろいろな史料に基づいた実証的な本(マルクス主義史学が実証を疎かにしていたとは思いませんが、研究の方向がはっきりし過ぎていたとは思います)を読むようになって、印象が変わりました。本書でからもそれを再確認できた感じです。そして、読み終わっての感想としては、
  • 米に対する年貢率の高さと、それ以外の農作物やサービス業・手工業(製塩・木綿織り)に対する低率課税・非課税が併存していたのは何故か。防長注進案のような史料をつくらせた長州藩当局は非農生産額がかなり大きいことを認識していたはずですから、そこから税を徴収しようとはしなかったのか、それともできなかったのか。稲作については年貢を納めるのが当たり前という共通認識があったのに対して、雑穀や麦は百姓の食糧として課税を避ける慣習が中世からずっと継続していたからだけでしょうか。また、サービス業・手工業は稲作と違って生産額の把握が難しい・税を忌避しやすかったからでしょうか。
  • 米に対する年貢率の高さと、それ以外への低率課税・非課税が経済構造に与えた影響はどんなものか。この構造って、米作産業からそれ以外の産業への補助金みたいな役割を果たしたんでしょうか?江戸時代の経済発展にはこの構造と、参勤交代で江戸へ資金と商品がが流入する構造がかなり効果があった気がしますがどうなんでしょう。
  • 農業所得と非農産業所得が五分五分に近いことが記されています。農・非農という分け方は、近現代の産業の分類につかわれる第一次産業というくくりとは違い、非農には林業・漁業なども含まれています。こう分けたのは、史料の分け方がそうなっているからか、それともこの時期には農・非農と分ける方がふさわしいと考える理由があるのか。
  • この時期の農業所得と非農産業所得が五分五分に近いことは、明治初年以降の経済統計との整合性はどうなのか。本書は防長注進案の分析なので明治以降の統計数値は触れられていません。でもおそらく、整合性のあることは誰かが実証しているのでしょうね。
  • 米の移入に頼っている地域がかなりあること。西ヨーロッパのプロト工業化では穀物生産に不向きな土地での農村工業化と食糧を生産する地域に分化したのだと思います。長州の場合には町場や塩田村の米購入は別として、紙生産を行う山間地の村にその傾向を見ることが出来るのかどうか。さらに、防長注進案がつくられたのは天保の危機への対処という意味があったそうですが、食糧の購入は飢饉が長いことなかったから可能になったのか?または天保の飢饉の被害は東北地方に大きく、長州では食糧の移入に頼る経済構造に破綻を来さずに済んだから、天保末の実態がこうだったのでしょうか。
などなど。勉強になり、しかもいろいろ妄想させてくれる本でした。

2011年12月31日土曜日

環境から解く古代中国

原宗子著
大修館書店 あじあブックス065
初版第一刷 2009年7月1日
象形文字の「象」が示すように、古代の中国には象が住んでいました。森の中の動物は殷の王の狩猟の対象となり、あたりでは稲作も行われていたのだそうです。しかし、それとは対照的に、現在の黄土高原は黄砂をとばし、黄河を黄色く染め、断流もしばしばの状況です。こういった変化がどうして起きたのか。気候の変化とそれに対する農業などの産業の対応を、殷代から明代までの史料からさまざまな興味深いエピソードを示しながら説明してくれる本でした。たとえば、
ファンの多い『三国志演義』に描かれた「三国鼎立」の状況から、曹操が最終的に抜け出したように見えるのも。実のところ、曹操の軍団には「寒さに慣れた人々」が多く参加したことがポイントだったように思われます」黄河の凍結がおこるなど、三国時代が最も年平均気温が低かった。 
やがて温暖期を迎えた環境条件の下、唐代の国際交流ーシルクロード交易は盛んになりました。中央アジア地帯への雪解け水の流入量が温暖化によって増したようで、オアシス都市を結ぶ隊商の活動も活発化したと考えられます。
こういったエピソードに示されるように、温暖化、寒冷化という気候の変化は大きな影響を持っていたようです。中国では王朝の交替がいくつも行われましたが、王朝の衰退の原因としてこういった気候の変化があったのだろうと感じます。また、乾燥した中国の内陸部では灌漑すれば農業生産に利するとばかりは言えず、畑作灌漑が耕地のアルカリ化をもたらすことも指摘されていて、勉強になります。それに対して、中国のことではありませんが、
稲作は、イワシや貝、アラメなどの海草類、といった海の所産によって何百年も支えられてきたのです。これらは、人が食料として摂取するだけでなく、限られた土地で連作を続ければやがて収穫率の落ちてゆく穀物生産を継続するのに不可欠な、肥料として使われてきました。貝塚を残した縄文人以来、基本的に牧畜をしないで、主たる蛋白質源は海産物だったのですから、人糞尿だってエコロジカルに考えれば日本では海の所産です。
と書かれています。海草や干鰯、鯡粕が肥料として使われたことは周知のことですが、物質循環にまで目を向ければ、たしかに人糞尿も海の所産といえそうで目から鱗の指摘です。日本はエコロジカルには有利な位置にあるわけですね。それに対して海の恵みを期待できない内陸中国で地力維持の役割を果たしていたものについては
養蚕の産業廃棄物ー蚕矢の耕地への投下は、穀物生産による地力減退から、何とか華北の大地を救ったのです。絹はいうまでもなく、前近代屈指の「世界商品」でしたが、中国から輸出される絹の生産こそ、中国の大地を沙漠化から護ったものでもあったのです。
と書かれていました。シルクロードを通して輸出される絹製品は主に山西省あたりで製造されていて、その原料を製造する養蚕業の廃棄物が山西省の農地の維持に役立っていたこと。時代が移って明代になると西域を支配することができず、絹製品の輸出は海路が主になり、絹織物業やその原料を生産する養蚕業も沿海部に移動してしまったこと。絹織物業養蚕業の衰退した山西・陜西地方では、桑の木が減って表土飛散・水土流出をもたらし、養蚕業の廃棄物が投入されることがなくなった農地は有機物を失い団粒構造をとらない荒れ地となったこと。したがって、黄土高原の森林喪失は明代に始まるというのが著者の説明でした。
これまでこういう説を知らなかったのでとても勉強になります。ただ疑問に感じる点もあります。蚕矢は有機物を耕地に供給する意味だけで、さなぎという形で窒素肥料を供給するという意味がなかったのかという点がひとつ。また、養蚕業自体の持続性はどう保証されていたのかということです。養蚕業は桑の葉に含まれるタンパク質・アミノ酸を、蚕に絹糸タンパク質という形に変換・濃縮させ、生糸・絹織物の原料の繭を生産する産業です。桑の木は土壌に窒素が供給されなければアミノ酸・タンパク質を豊富に含んだ葉っぱをつけることができないと思います。稲妻で合成された窒素酸化物が雨に溶けて降ってきたものだけが原料で充分だったのか、それとも放牧した動物の糞などもつかっていたのか。物質循環はどうだったのかというあたりです。
あと、本書の扱っている範囲からは外れますが、長江流域から華南にかけての地域には農地の持続可能性に支障はなかったのでしょうか。日本と同様に降水量が多く湿潤なので、木を伐っても自然とまた生えてくるし、農地が荒廃するような条件もなかったということでいいのでしょうか。宋代以降の中国は長江流域から華南にかけての産業に依存していたのだと思うので、この点も気になりました。

2011年12月29日木曜日

律令制研究入門

大津透編著
名著刊行会
2011年12月19日 第1版第1刷発行
2010年に発行された東方学会の英文紀要が律令制の比較研究を特集していて、そこにおさめられた4本の概括的論文が本書の元となったそうです。本書の第一部はその4本の論文、第二部には律令の各論についての論文4本、そして第三部には編者による律令制の研究史のまとめなどが収められています。
一読してみて、本書が「律令制研究入門」で「律令制入門」でないという印象を受けました。特に具体的な領域を扱った第二部の論文は、古代の日本についての知識をある程度もっていることが前提として書かれています。また、論証のために引用されている条文には、返り点が付されていますが、読み下し文はありません。読み下し文がないと、私の場合はかなりゆっくりと確認しながらでないと読めませんでした。でもどの論文も論旨は明解なのでなんとか理解できたかなと思います。
第一部は外国人向けに日本の律令制の実態を紹介する論文なので分かりやすいし、第三部の研究史のまとめともあわせて、専門的な知識がない私には基礎的な事項がとても勉強になりました。たとえば、
  • 日本が律令法典を編纂し、体系的な律令制の摂取が可能であったのは、唐朝の冊封を受けていなかったことが大きかった
  • 天武・持統朝における律令法典の編纂、律令制の体系的摂取とは、主に唐朝との軍事的な緊張関係による軍国体制形成のためになされた
  • 792年、桓武天皇は返要の地を除き、軍団兵士制すなわち徴兵制度を廃止した。これ以降、編戸制・班田制・租庸調制といった諸制度が次第に衰退してゆくことになるが、それは社会変動のためだけではなく、何よりも軍国体制の放棄によって徴兵制度に深く結びついていた諸制度を維持する必要性が失われたことも大きい
  • 北朝隋唐の均田制は、大土地所有を制限する限田制的要素と公民一人一人に一定額を支給する屯田制的要素とを持っていて、熟田だけでなく、未墾地や園宅地も含めて規制し、荒廃と開墾の繰り返しである現実の再生産過程を包括的に規制できる弾力的な制度であり、給田額正丁一人百畝の応受田額は理想ないし上限であり、均田制は一種のフィクションを内包していて、実際に全額支給されるわけではなかった。それに対して日本の班田制は、屯田制的要素だけを受け継ぎ、男一人二段の規定は全員に現実に支給する額なのであり、熟田だけを集中的・包括的に規制する制度である。園宅地も未墾地も律令国家の規制の埒外に放置されていた
などなどです。第三部の最後には「北宋天聖令の公刊とその意義」が載せられています。唐令は散逸していて日本令などからの復元研究が日本人の手で行われていました。しかし1999年に寧波の天一閣で唐令の情報を豊富に含んだ北宋の令の写本がみつかった(世紀の大発見)のだそうです。これまでの研究とあわせて唐令の復元や日本令の散逸した部分の復元や日本に特有な部分の研究がさらに進む可能性が示されていて、面白く読めました。

2011年12月24日土曜日

湾岸戦争大戦車戦 上・下

河津 幸英著
イカロス出版
2011年7月10日発行(上下巻とも)


もうこの湾岸戦争も20年以上前のことになります。当時、GPSという高度な装置の存在を知らされたり、テレビで誘導爆弾の命中する映像をみせられたりなどして、ハイテクを利用した戦闘でアメリカ軍がイラク軍に圧勝したという印象を受けました。でも本当のところはどうだったのか、著者は本書で、アメリカの公刊戦史や当事者の回想録などを資料に、上下巻合計で750ページ以上を費やし、アメリカ(多国籍軍)に勝利をもたらしたハイテク装備、兵站、部隊の練度・士気と、それらを利用した作戦、実際の戦闘の模様が多数の図・写真とともに解説してくれています。例えば、各戦闘に参加した部隊の編成を示すのに、M1A1が何輛、M3が何輛と文字で記すのではなく、M1A1のアイコンを編成に含まれている数だけ並べて図示するなど。そういう表現は近年のビジュアルな雑誌・ムックで多用されていますが、本書は雑誌に連載された記事をまとめたものなのだそうです。 背景説明や機動・戦闘の様子を示す地図もたくさん載せられていました。そんな本書を読んでの感想は以下の通り。
イラクは多数の東側兵器をもつ世界的にも有力な陸軍で、しかもイランとの戦争で実戦経験も豊富で、自信を持ってクエート防衛に兵力を配備しました。対するアメリカは相応の損害を覚悟して、かなり時間をかけて本国とヨーロッパから航空機、ヘリ、多数の戦車・歩兵戦闘車・支援車輛などを多数送り込んで準備しました。しかし実際に戦いが始まってみるとアメリカ軍の圧勝で、装備の質の差が大きく影響したようです。たとえば、イラク軍の主力戦車T-72は装甲防御でも徹甲弾の貫徹力でもアメリカのM1A1に大きく劣り、特にサーマルサイトによる暗視能力に大きな差があることもあって、遠距離から知らないうちに撃破されてしまうことがほとんどだったそうです。それにしても、装備の質の差は織り込み済みだったはずのプロの軍人どうしの予想が実際と大きくかけ離れてしまった理由は、本書を読んでも腑に落ちません。アメリカの軍人は大げさに考え、イラクの軍人は自軍の能力を過信していたというだけのことなのでしょうか。本書は丁寧に書かれていますが、史料の欠如からかイラク軍側の様子がほとんど触れられていません。その結果、アメリカ軍の圧勝だったという記憶を確認してくれただけという印象は否めません。とても本書の帯にあるような7000両の戦車が「激突」なんていう風には読めませんでした。

捕虜になることを希望して投降する者が多数出現して対応に困るほどだったそうですが、イラク軍兵士の士気はどんなものだったのか。イラク軍兵士の捕虜と戦死者の比率は推定戦死者数2万5千人に対して捕虜が8万6千人あまりだったそうですから、当時報道で危惧された不必要な虐殺行為が横行したわけではないようです。また、イランイラク戦争でもこの湾岸戦争でもフセイン大統領がヒトラーのように独裁者として振る舞い、陸軍の将校は積極性・自発性を発揮できなかったことも大敗の原因としてあげられていました。それなら、もっと士気の高い兵士がもっと能力の高い将校の指揮を受けて守っていればアメリカ軍の被害はもっとずっと増えたと言えるのか、その点についてはもっと突っ込んで解説してほしかったところです。

また湾岸戦争が、イラクの装備していた東側の兵器に対する評価を大きく下げたことは確かだと思われます。それら兵器を生産・装備するロシアや中国に与えた影響はどんなものなのでしょう。その後の20年で、アメリカの兵器に匹敵するようなものに更新してしまって、もう影響は残っていないのでしょうか。


さらに、本書を読んでいると、誤射誤爆同士討ちで少なからぬアメリカ軍人が損害を受けています。アメリカ(イギリスも)の戦死傷者の原因はイラク軍によるものと比較して誤射誤爆によるものがかなり多く、アメリカの戦死者の四分の一は同士討ちだったと述べられていました。両軍の武器にハイテクで格段の差があった湾岸戦争でこの結果ですから、もしかすると第二次大戦などでも誤射誤爆による死傷は無視できない数だったのかも知れないと感じました。

2011年12月18日日曜日

江戸城 本丸御殿と幕府政治

深井 雅海著
中公新書1945
2010年5月30日 5版
江戸時代の大名を類別する際に一般的に用いられるのは、将軍との親疎関係により親藩・譜代・外様の三つに分ける方法である。しかし、江戸幕府が大名をこのように分けた史実はなく、大名の家格としては存在しなかったのである
では史実ではどうなっていたのかというと、武鑑の毛利家の項を例に、江戸城に登城した際の控えの間=出席する大名たちの殿席と官位によって大名が類別し統制されていたと述べられています。大広間詰とか帝鑑之間といった言葉については知っていたので、本書もそういった説明で終わる本なのかなと思って読んでいくとそうではありません。江戸城の本丸御殿の絵図が示され、大広間や帝鑑之間といった部屋の大きさがどのくらいでどこにあり、将軍のいる奥との距離はどうかといったことが図示されていて、幕府の大名に対する扱いが客観的かつ具体的に理解できます。
また、老中の執務室である御用部屋とが時期によって変遷し将軍のいる奥から離れていったこと、老中が出勤して執務室に歩いてゆくルート、老中が執務時間中に部下たちの勤務場所を歩いてまわる「廻り」を毎日行って情報交換をしていたことなどが絵図上に示されています。老中・若年寄を表の長官・副長官とし、奥右筆を政務秘書官と呼んでいることともあわせて、理解しやすく工夫されています。
このように、江戸幕府の政治の仕組みとその動き方を54のテーマにわけて、表と奥と大奥に分かれた江戸城本丸御殿の構造・部屋割り、幕府の各部署に所属した人の数・出身・在職期間といった客観的な証拠から、説明している本でした。 本書には以前に読んだことのある旧事諮問録からもいくつか引用されていますが、本丸御殿の内部が示されているだけに一層理解が深まります。本書には本丸御殿と幕府政治というサブタイトルが付されていますが、まったくそれにふさわしく、しかも斬新な内容の本で、とても感心させられました。本書の方法は、例えば発掘された平城宮などの構造から朝政・朝儀の様子を考えたり、日記や記録類に加えて内裏の建物や部屋の配置図を平安時代の政治活動を理解に役立てたりすることと、似ている感じですね。現在でも、国会や地方議会の議事堂の内部構造には似ている点が多いし、裁判所の法廷も類型化されているので、そういった材料から、政治活動や裁判の実際の進められ方を論じることもできそうです。

その素晴らしい本書ですが、収録されている図版が小さくて説明に付されている文字が小さくて読みにくいという点だけが欠点です。収録されている図版は著者の他の著作などに収められていて、それらはもっと判型の大きなものだったのでしょう。新書版の小さなスペースに収まるように図が縮小されたので、文字も小さくなってしまったものと思われます。あらためて本文の文字と同じくらいの大きさで説明を入れ直してくれている図もあるのですが、 老眼の私が近視用の眼鏡をはずして、ようやく文字を読み取れるという図版がいくつもありました。
「小姓」が本書の中では「小性」と書かれています。「小性」と書くこともあるとは知りませんでした。そんなことも学べます。

2011年12月17日土曜日

読書雑志

吉川忠夫著
岩波書店
2010年1月27日 第1刷発行
中国の史書と宗教をめぐる十二章というサブタイトルがついていますが、その通りに、史記、漢書、三國志、高僧伝など中国の仏教、道教に関する書物とそれをめぐるエピソードを紹介した文章が集められています。あとがきで著者は「一般の読者を対象として執筆した文章」が集められているとしています。たしかに、それぞれの章で対象としている書物、その章に登場する人物やその時代背景などがもれなく説明され、また対象の書物からの引用も、白文ではなく読み下し文になっています。なので、門外漢にも一通りは見通しがつくようになっていました。ただ、とても面白いと感じて読むには、中国史・漢籍についてのある一定の基礎知識が必要のようです。勉強が足りないのか興味の方向が違うのか。 少なくとも現在の私は著者のいう「一般の読者」の域には達していないことが分かりました。残念。