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2009年4月15日水曜日

FileMaker Pro 10のツールバー

うちのMacBook Proに入れてあるFileMaker Pro 9は10にアップグレードしなかったのですが、職場で使う新MacBookの方に新品のFileMaker Pro 10を買ってもらいました。ファイル形式に変更はなかったので、FM Pro 9でつくったファイルをそのままFM Pro 10の方で問題なくつかえています。FM Pro 10には新しい特徴もいくつかあるようですが、とりあえずFM Pro 9でつくった既存のファイルを流用しているので縁がありません。私にとって大きく変化したところは、ツールバーの加わったUIだけです。

そのツールバーですが、まずアイコンが一目瞭然とは言えず文字がないと意図がよく伝わらない印象。アイコンってもともとは文字なしでも理解できて使いやすくさせるためのもののはずなのに、FM Pro 10のツールのアイコンは説明文がないとだめみたい。まあ、ほんとにツールチップなどの説明文なしで理解できたアイコンは、MacWriteやMacDrawなどで使われたものくらいかもしれないので、やむを得ないかもですが。


で、ブラウズモードのツールバーをアイコン+文字で表示してみると、バー自体がかなり幅広になってしまい有効な表示面積がかなり喰われてしまっています。しかもデフォルトでバーに用意されているツールは、⌘J、⌘N、⌘F、⌘Sなどのショートカットを使った方が簡単なものばかりで、はたしてバーに常駐させておく必要があるのか疑問です。この画面にはツールバーに置いておくツールを自分用に選択するウインドウも一緒に表示させてあるのですが、これらのツールもメニューバーから選べば十分なのではと感じます。


また、ツールバーを文字だけの表示にすればこんな風に半分近くに面積が減りますが、レコード間をナヴィゲーションするツールが使えなくなってしまいます。私としてはショートカットを使えば充分なので、ツールバーは非表示にしてつかうこととしました。



レイアウトモードに関しても、縦の表示の高さが食われてしまうことを別にしても、このFM Pro 10のツールバーより、FM Pro 9の縦長コラム形式のツールの方が使い勝手が良さそうに見えてしまうのは、単に慣れのせいだけでしょうか。FileMaker社のサイトからFM Pro 10の批評記事をいくつか読んでみると、FM Pro 9の縦長のツールコラムと比較して、この新しいツールバーはデベロッパーが独自のツールのボタンを導入するのに最適とのこと。ツールボタンを自作できる人でないと良さが実感できないんですね。

2009年4月12日日曜日

近世武家社会の政治構造


笠谷和比古著 吉川弘文館
1993年2月発行 本体8500円

専門書として出版されているのですが、選書として出版されてもおかしくないくらい、平易な叙述で分かりやすく、しかも非専門家にとっても面白い本です。私が購入したのは第3刷ですから、吉川弘文館から出版されている他の同じような装丁の専門書よりたくさん売れているのだと思いますが、それも面白いからなのでしょう。で、勉強になった点をいくつか紹介します。

近世前期に各藩で御家騒動を伴いながら、つまり上級藩士の意に反する点がありながらも、地方知行制の廃止と近世官僚制の確立が成し遂げられるようなイメージを持っていました。しかし
最近の知行制度について研究は、この「分散相給的知行形態」の導入が在地領主としての給人の自律性を否定し、藩主権力を確立すべく推進されたものとする従前の見解に疑問を提起している。この新しい近世的知行の形態は、年貢収納の豊凶に伴う危険の分散と、その均等・安定化の観点において、むしろ家臣団側からの要望によって採用されていたことがしだいに明らかにされつつあるのである。
また、地方知行が廃止されることによって家臣団の俸禄に対する保有が脆弱になり、その後の藩財政の悪化に伴って借知制が一般化するというふうにも思っていました。しかし著者によると、借知制は俸禄そのものが削減されるのではなく借り上げられるという形態であること、借知令発布の際には藩主の不徳により心外ながら借りるというような文言が添えられていること、借知令発布の当初には返済も考えられていたことなどを挙げ、俸禄保有は確固たるものだったと結論づけています。うまい解釈です。

また近世官僚制についても、江戸時代のごく初期には地方知行が存在していたために包括的な藩政が存在せず、大名は蔵入地を側近の家宰を通して支配していただけだった。分散相給的知行形態の導入後、それまで支城を守っていた最上級家臣が本城に常住することにより、藩政に関わる家老職が作り出されたということです。

第10章の大名改易論では、広島の福島正則・肥後の加藤広忠の改易について論じています。一般的には幕府が外様大名の廃絶政策をとっていて、ささいな理由や陰謀で次々と改易されたようなイメージもありました。しかし本書で著者は、福島正則については史料から広島城改築が無届けであったこと、穏便に済まそうとする老中の意向により一度は城の破却で合意したのに福島正則が条件どおりの破却を実行しなかったことから改易につながったと論証しています。加藤忠広の場合にも、問題となった怪文書が実在し、しかも息子の光広との関連を忠広が否定していないことを史料から示して、幕府の陰謀とは考えられないこと、当時の他の大名も改易止む無しと考えていたことを示しています。また改易の際には、他の大名の動揺を防ぐために、諸大名を江戸城に集めて事情を説明する場を設けたりなどもしていて、無嗣断絶以外の改易を積極的にすすめる意向が幕府にあった訳ではないようです。

第12章の大名留守居組合論では、この組合の重要性が述べられています。幕府が全国に向けて発する法令を各藩が自領内で実施するには、その法令がどういう意義を持っているのか、具体的にどう実施すべきかなど、法令の解釈や施行細則にあたる部分が必要です。それらの解釈・施行細則を幕府関係者や他藩に問い合わせて国元に伝達する役目を留守居役が担っていました。幕府が全国の升を京升で統一する幕令を出した際、幕府は京都・江戸の指定業者のつくった升で統一するつもりだったのが、大名留守居組合の総意で、寸法が京升どおりの升ならどこで製造した升でもよいことになってしまったそうです。また、田沼時代末期の全国御用金令は、大名留守居組合がこの幕令そのものの受け容れ困難ということで一致して対応し、当初は延期、そしてついには廃止を勝ち取ったのだそうです。武家諸法度で徒党は禁止されていますがこういうこともありえたのですね。江戸時代には議会はありませんでしたが、非公式な議会とも言えそうな印象を持ちました。

ほかにも駈込慣行とか、大名家における意思決定の「持分」的構成論とか、関ヶ原の戦いがその後の江戸幕府の体制に与えた影響とか、一読の価値ありでした。

2009年4月10日金曜日

室町幕府と守護権力


川岡勉著 吉川弘文館
2002年7月発行 本体8500円

本書の序章「中世後期の権力論研究をめぐって」では、研究史の整理と著者の見解が紹介されています。研究史の整理は勉強になります。

高校時代の日本史の時間には、室町時代の政治体制については守護領国制と習いました。「守護領国制とは武家勢力による荘園侵略と守護への被官化というシェーマを軸に中世後期社会を把握する議論であり、1950年代まで通説の位置を占めていた」そうですが、「在地領主制の発展を軸とする中世社会論が後退し、荘園制の成立・発展・解体を軸に中世社会を議論する方向へシフトし」ていったために、廃れていったのだそうです。日本史のどの時代についてもそうですが、マルクス主義史学の興亡は学説と時代の空気との関係を明らかにしてくれていて、興味深いものです。

その後、守護領国制に代わって、「幕府ー守護体制」「地域社会論」「国人による領主制」などが論じられるようになりました。しかし、著者によると
幕府ー守護体制という概念が必ずしも明確に性格規定されてない上に、幕府・守護・国人という三者の相互関係に視野が限定されており、在地社会の動向を踏まえた中世後期の権力総体の構造や特質が示されていない。守護支配については求心的な側面が強調され、幕府支配体制の一環として、公権による領域支配を軸に守護権を理解する傾向が強くみとめられる。結局、守護領国制論に十分代わりうる権力構造論が提示されたとは言いがたい状況にある。
のだそうです。

そこで、著者の主張ですが、室町時代の政治体制は南北朝の内乱を通して形作られたものであることを重視して、
王権が分裂し地域社会の自立化が進行した南北朝期においては、将軍権力の強化と守護権限の拡大のうち、いずれが欠けても内乱を克服することができなかった。守護の裁量権を大幅に認める国政改革がなされ、これによって全国的な統治・収奪体系の再建がはかられたが、このことは中世国家が在地秩序に思い切って依存する体制に切り替え、一定の分権化を認めた上で求心性の回復をはかろうとしたことを意味する。いわば、自立性を高めた地域社会を、守護を媒介に中央国家に接合することによって、内乱は克服されたのである。
というように、主張しています。そして、いったんは安定したように見えるこの体制も、嘉吉の乱後に指導力のない幼少の将軍が続いたことで変容してゆきます。
嘉吉の乱は、将軍の天下成敗権と守護の国成敗権の重層的・相互補完的な結合に亀裂を生じさせ、そこから体制の変質が始まる。上意不在状況が大名間の扶持・合力関係を展開させる中で、将軍の天下成敗権が弱体化し、幕府は地方政治から後退していくことになる。これに対して、守護は国成敗権の担い手として自立性を高め、幕府ー守護体制の諸要素を模倣しながら、分国の一体化を進めた。
「政治史を組み込んだ考察」ということで嘉吉の乱後の状況が重視されていますが、はたして義教が暗殺されずに、指導力のある将軍が続いていたらどうなっていたのだろうかという疑問がわいてしまいますが、それ以外の点ではここまでかなり説得力のある議論で、とても勉強になりました。

しかし本当に難しいのは、その後の戦国時代まで一貫した見通しをつけることだと思うのです。
後北条氏などの東国大名こそ戦国期権力の典型だとする理解は、戦国期の諸段階と地域的多様性を踏まえた上で統一的時代把握にむかうためには、むしろ有害ではないだろうか。
と著者は主張して、本書では山城国一揆、伊予河野氏、そして大内氏関係の史料をつかって戦国期への変化を説明しようとしています。大内氏の例では、安堵・宛行の主体や軍忠状の宛先が将軍家から大内氏に変化したことなどを材料にして、15世紀中葉を画期に国人を大内氏の「御家人」として編成するような守護の領域支配の進化があったをと論じています。そして、
室町幕府ー守護体制の動揺・解体は、地域ごとに多様な権力形態を生み出した。ある地域では国人一揆体制、別の地域では土豪レベルの地域的一揆体制、そして大内氏分国のごとく守護権力への領主階級の結集が生み出された地域もみられた。
というようにまとめています。

しかしこのあたりは、前半の議論と比較すると受け入れやすいものではありません。荘園制が存続していることを理由に守護領国制論を葬り去り、主に畿内近国や西国での史料をもとに室町幕府ー守護体制を構想するのが本書ですから、戦国時代への移行も畿内近国・西国の状況を取りあげるのが当然なのは分かります。しかし、荘園制の終焉・戦国時代への展望を語るということであれば、東国の大名を典型例として取り上げられる方がふさわしと考える人がいてもおかしくないような気がします。また、本書の主張する室町幕府ー守護体制論自体、東国や九州の状況をうまく説明できないのではとも感じました。そもそも京から遠い辺境地域は政治体制論の対象外とされているのかもしれませんが。

あと、本書の内容とは直接関連しませんが、室町時代の政治制度について素人の私が最も興味を惹かれるのはやはり天皇制がなぜ存続したのかについてです。ただ、専門家からすれば、天皇は室町時代政治史において脇役未満でしかないのでしょう。本書でも、南北朝時代の記述や治罰の綸旨が少し触れられていた程度で、端役としての扱いでした。室町時代の天皇には実態として政治的な意味は全くなく、放っておけば能や華道や茶道の家元のような存在になったはずなのに、戦国・安土桃山・江戸期の大名のせいで政治的な意味を持つようになってしまっただけのことだから、室町時代政治史では天皇制について触れる必要はないというスタンスなのかもしれませんが。ただそうは言っても、現代に生きる素人としては、天皇制存続に関する最大の危機の時代である室町時代についてなんらか言及がほしいところです。今谷明さんの一般向けの著作が素人にうける(講談社学術文庫などに旧作が収録されているのは人気があるからですよね)のは、このへんに答えてくれようとする姿勢があるからでしょう。

2009年4月7日火曜日

つかいにくい新MacBookのトラックパッド


ディスプレイもキーボードもアルミユニボディも素敵な新MacBookですが、トラックパッドもかなり美しい。ボタンの部分も一体となった一枚のガラスでできているそうですが、銀色をしていてガラスには見えません。しかし、周囲のアルミの部分と比較すると触った感じがとてもすべすべしていて、指もスムーズに動かせるのでマルチタッチにも最適なのでしょう。ただ、個人的にはこのトラックパッドが新MacBookの最大の欠点だと思うのです。


トラックパッドはどんな風に使うのが一般的なのでしょうか。新MacBookのユーザーズガイドをみてみると、Appleはこんな風に人差し指と中指で使うことを想定しているようです。でも私の場合は、親指と中指をつかっています。これまでMacBook Proを使うときには、右の小指球を右のパームレストに、右手の親指をトラックパッドのボタンの上に常時置いておいて、そして中指でカーソルを動かしていました。しかし、このやり方を新MacBookの一枚板トラックパッドの上ですると、親指が常時トラックパッドの上にあるものだから、2本指での操作だとシステムが勘違いして、変にスクロールしたり画面が拡大縮小してしまったりするのです。とても不便です。

また、タップでクリックの代わりができるのですが、これも慣れないせいかとてもやりにくい。なので、親指でトラックパッドの手前の部分をクリックするのですが、今までのボタン付きのトラックパッドと違って、クリックするのにかなり力が必要なのです。親指のトレーニングのためにはいいかもしれませんが、頻繁に繰り返す動作だけに、この重さはうっとうしいだけです。
パソコンを新しく使い始めた人にとっては、Apple推奨の人差し指と中指でのトラックパッド操作に慣れてゆけばいいだけの話なので問題はあまりないのでしょう。しかし私の場合、PowerBook540cの頃から親指と薬指でのトラックパッド操作を続けてもう15年以上になります。これまでの操作法になじみすぎていますし、しかもこの新MacBookと並行して自宅ではMacBook Proでボタン付きトラックパッドも使い続けている訳ですから、 Apple御推奨のやり方に変更するのはとてもとても無理な話です。

昔からのAppleのノートパソコンのユーザーの中には、新MacBookのトラックパッドに不満を感じる人が少なくないだろうと想像します。でもそのわりに、Mac系のブログとかでもあまりそういう評判を目にしないのは、まだ実際に使った経験のある人が少ないからなのかな。

2009年4月3日金曜日

西武国分寺線


国分寺で中央線を降りて、西武国分寺線に乗りかえます。国分寺から出ている西武線には国分寺線と多摩湖線の二つがありますが、行き先が似ていて、他の西武線との連絡が複雑で、しかも乗る機会もこれまでなかったので、複雑怪奇な路線とのみ感じていました。通勤に使い始めて二つの違いがやっと分かってきました。

国分寺線は、国分寺を出て恋ヶ窪、鷹の台、小川、そして終点の東村山を10分で結ぶ短い路線です。短い路線なので6両編成で走っています。6両編成はこれまで利用していた南武線も一緒なのですが、驚くべきことに国分寺線は単線なのです。東京に住んでいて、通勤に単線の鉄道を利用するようになるとは思いませんでした。

でも、幸いなことに朝の時間帯でも国分寺発の電車は空いています。空席をちらほら残したまま発車するので、座って行けます。反対方向の国分寺に到着する電車の方がかなり混雑しています。

単線なので、反対方向の電車と途中の駅ですれ違います。国分寺駅は線路が一本しかありませんが、恋ヶ窪、鷹の台、小川、東村山駅の部分は複線になっています。朝の時間帯は、この4つの駅で反対方向の電車とすれ違います。でも、帰りの時間帯は電車の本数が少ないためか、恋ヶ窪と小川の2カ所だけですれ違うようになっています。



で、鷹の台駅のホームの使い方がとても変わっています。鷹の台駅は二つのホームの間に2本の線路がある駅です。朝のラッシュ時間帯にはこんな風に2本の電車がそれぞれ別々のホームを使用します。ところが、朝のラッシュ時間帯以外、すれちがいのない時間帯には、東村山行きの電車も国分寺駅行きの電車も下側(西側)のホームを利用しています。改札口が下側のホームにしかないからこんな風にしているのでしょうね。あと、下側のホームに面した線路を利用すれば、駅の前後のポイントを直進で進めるので乗り心地にも配慮しているのかも知れません。



もう一つ、国分寺線に乗っていて気付いたことがあります。それは、こんな感じの、債務の整理をうたった広告が多いことです。ここには例として2枚紹介してありますが、一つの車両の中にこういう広告が他にもありました。南武線や中央線の中にもサラ金の広告はたくさん掲示されていますが、こういった債務整理の広告を見た記憶はありません。JRにはこういう債務整理の広告を受け付けないような規定があるけれど、西武鉄道はどんな広告でも受け入れているということなのでしょうか。それとももっと別の理由、例えばJRでも山手線と中央線と南武線の車内の広告の雰囲気は全く違いますから、その延長として理解すべきものなのでしょうか。

2009年4月2日木曜日

朝の中央線の上り電車

4月1日から主な勤務地が変わることになり、通勤に中央線を使い始めました。朝の通勤ラッシュ時の中央線上りにはもう十五年以上乗ったことがなかったので、どのくらい混雑しているものなのか、かなり心配でした。

立川駅につくと電光掲示板には7時42分・44分・46分と、2分おきに発車時刻が表示されていて、さすがに朝は本数が多いものと感心。立川は特快の停車する駅なので、追い越しができるように上り線と下り線のホームが別々なのですが、特快のないこの時間帯には、上りホームの両側の線路に交互に電車が入って来るようになっているようです。42分発の電車の扉が閉まると、反対側の線路に次の上り電車が入ってきました。たくさんの電車をさばくために、こんな風にしているんですね。おそらく、前後の電車の間隔が詰まってるからでしょうが、休日に乗るのに比較して電車のスピードがかなり遅いようでした。

車内は混雑していますが、立川から国分寺の間では他人と接触しなくても済む程度。新宿に近づくにつれもっと混雑してゆくのでしょうが、心配していたほどの混み具合ではないので安心しました。まあ、立川駅だともっと早い時刻の方が混むのかもしれません。

2009年4月1日水曜日

近代製糸技術とアジア


清川雪彦著 名古屋大学出版会
2009年2月発行 本体7400円

中国起源の養蚕・製糸業がヨーロッパに伝わり、19世紀には機械を使用した工場で生産されるようになりました。その近代製糸技術がアジアに里帰りしてアジアの国でも使われるようになったわけですが、本書はインド・中国・日本での技術の受け入れ方の違いを論じています。本書で学んだ点をいくつか紹介します。

日本は近代製糸技術を最も巧みに受容しました。同じ軽工業の綿紡績業などと比較しても、ヨーロッパの製糸技術は在来技術との格差がそれほど大きくなかったので、当初は折衷した設備として実地に応用することができました。また、若い女工を寄宿舎に集めて成績別の賃金制度で競争させたり、蚕業に関する学校が多数つくられて教婦(女性のこういう存在は当時としては世界的にも珍しいとのこと)などの現場管理者が養成されるなど、工場の制度面での日本独自の取り組みがみられました。その後も機械の改良と同時に蚕の品種改良や養蚕の技術も洗練されていったことで、19世紀末には日本が生糸の輸出の世界一になりました。レーヨンの発明以降、生糸では高級な製品(ストッキング用の均質な細糸)が需要されるようになりましたが、日本は生産した生糸の輸出向けの比率が中国やインドよりも高かったことから、迅速に対応しました。この結果、大恐慌後に中国の生糸輸出量が激減した際にも、日本産生糸は輸出額が減少したものの輸出量は維持することができたわけです。戦国時代から江戸時代初期に中国から大量の生糸を輸入していた日本ですが、ようやくこの時代に製糸業での中国へのキャッチアップを果たせた訳です。

中国の場合、土着の蚕の繭の品質が良かったので、上海などでは上質で競争力のある生糸を生産していました。しかし、中国の多くの地方では製糸業者が工場の土地・建物を借りて生産にあたる租廠制が一般的で、独自の工夫をこらして工場のレイアウトを変えたりしにくい事情がありました。また、輸出には外商があたっていて、海外との取引の情報が各地の養蚕農家・生糸生産者にまで伝わりにくかったことや、製糸業者が受注制生産をしていたことも、主体的に生産技術を改良し難い一因でした。また、養蚕業においても、桑の所有者と養蚕農家が別々で、養蚕農家は流通している桑の葉を買っていました。分業の高度化のようにも見えますが、桑の木の所有者は上層農家で、価格変動の大きな養蚕を自営するリスクをとりたがらなかったからこうなっていたのだそうです(租廠制と似た事情)。市場で購入する桑の葉を使っていては蚕の成長時期にあわせた適切な給餌など、より綿密な管理への改善がきわめて困難で、日本産生糸に品質で遅れをとるようになっていきました。

インド産生糸の場合、もともと国際競争力がなかったと著者は考えています。このため、フランス・イタリアが微粒子病による大打撃からの回復と、日本・中国の発展によって輸出市場を喪失したのだそうです。インドの蚕の多くが熱帯性の多化蚕で原料繭の品質が不良だったこともその一因です。しかし、1化蚕が用いられているカシミールでも、藩政府・藩営工場による独占的な繭買い上げが養蚕農家のインセンティブの欠如をもたらし、蚕糸業教育がなされなかったことから繭の品質が低い状況でした。また、インドにはごく身近に粗放生産の典型のような野蚕糸市場が存在し、「品質こそが生糸の生命」という意識を形成し難かったことも大きい(ほんとにこんなことあるの??)と著者は記しています。インド産生糸の主な用途はサリーで、現在でも経糸用生糸には中国からの輸入品が使われている程なのだそうです。

結局のところ、中国やインドにはなかった近代製糸技術を受け入れる能力が日本には備わっていたということのようです。一般的に言われていることとですが、開国前から日本はすでに商品経済の真っ只中にあり、商人だけでなく農家も、より有利な農作物や副業の選択を通してより経済的な労働力分配に心がけていた。そんな訳で日本にはその後の製糸業の発展の準備ができていたということになるのでしょう。