このページの記事一覧   

2012年4月25日水曜日

共同研究 転向 1 戦前篇 上、2 戦前篇 下


共同研究 転向 1 戦前篇 上
 東洋文庫817
共同研究 転向 2 戦前篇 下
 東洋文庫818
思想の科学研究会編
2012年2月24日 初版第1刷発行
転向というテーマに興味があったことと、いろいろな本の中で参照文献として挙げられているのを目にしていたので、いつかは読んでみたいなと感じていた本でした。しかし、それなりの価格の古書でないと入手できない状態が続いていて、なかなか購入する踏ん切りがつきません。幸いこのたび東洋文庫に収められて出版されることになったそうです。なぜ平凡社ライブラリーでなくて東洋文庫の方に入ったのか、著作の性格的には不思議な気もします。平凡社ライブラリーなら一冊1500円くらいの定価しかつけられないのに対し、東洋文庫なら一冊3000円の値付けができるからでしょうか。当初は戦前編の2冊だけですが、ぜんぶで6分冊で刊行される予定だそうで、しめて1万8000円也は「幸いに」とはいえないようなお値段ではありますが、折角ですから購入してみました。本書の序言で鶴見俊輔さんは、
「転向」という言葉の意味には、強制と自発性のからみあいが、ふくまれてる。他の類語は、この微妙な相互関係をこの言葉のように見事に指示しない。
私たちは転向を「権力によって強制されたためにおこる思想の変化」と定義した
と述べています。特定の国の特定の時代に限らない定義で、一般的に転向について考える際に役立つ定義です。しかし、転向というテーマ一般がそれ自体でとても魅力的かというと少し疑問です。もちろん、転向の事情やそれにまつわるエピソードは、三面記事的に面白いに違いありません。でもそういったこととは関係なく戦前日本の転向が私の関心をひくのは、共産党員の少なからぬ部分が転向したという事実があったからです。
迷走する戦間期の日本において、なんといってもマルクス主義は輝ける希望の思想でした。また、天皇制打倒(本書を読むと必ずしも日本人党員が積極的だったわけではないようですが)と反帝国主義・反戦平和の旗幟を鮮明にしていた共産党は、支持者・シンパ・自由主義者のみならず、日本の支配層にも一目置かれる存在だったはずです。その党の中央委員長だった鍋山貞親と佐野学が転向の声明を発表したことが、党員やシンパや日本社会の知識層一般に大きな衝撃を与えたことは想像に難くありません。彼らの転向の事情と、彼らの転向が共産党の党員にどんな影響を与えさらなる転向を誘ったのかは本書に詳しく述べられています。
この転向とその後の一連の弾圧によって日本の共産党は姿を消し、戦前の日本にはこういう真っ当な主張を掲げた政治運動は存在し得なくなりました。それどころか、共産党を擁護することができなかった他の左翼・自由主義者などにも圧迫が及ぶようになります。結局のところ、あの戦争への道をとどめることができなかった原因の一つとして転向があったわけで、本書はこの面からも転向の例をあげて、解説してくれています。
転向者を多数出して運動としては敗北してしまった日本のマルクス主義も、他に代わるものがなかったため、戦争に向けて変化してゆく日本社会の中での自分の立ち位置を測る基準、北極星という地位を担い続けることになりました。そのため、敗戦後にも新たにたくさんの日本人がマルクス主義を真理であると信じることになり、マルクス、レーニンにつらなる日本共産党に対して盲目的ともいえる期待をもつようになりました。その日本共産党の指導層の中には獄中十数年という非転向の党員が存在しました。勇気をもって節を屈しなかった本当に立派な人たちだと私も感じますから、日本共産党の党員やシンパの人たちには、一層まばゆかったことでしょう。
では、その輝ける党は誇るべき成果を達成することができたのか?私は現在の日本の政治・社会の閉塞状況の一因に、1970年代までの日本共産党をふくめた左翼勢力の不適切な運動方針・実践の問題があったと考えています。あの頃なら、たとえ政権は取れずとも、もっとましな日本にする選択枝があったろうにと思うと残念です。1930年代の転向というできごとは、戦後の日本共産党に獄中十数年の非転向者を無謬の指導者としてもたらしたことで、不景気と不平等と原発事故を解決できない現在の日本の状況に間接的に関わっているし、また現在にいたっても外に向かっては決して誤りをみとめない日本共産党の伝統につながっているのだと思います。
ざっとこういった関心を持ちながら本書を手に取りましたが、読み終えて感じたことは、転向ってそんなに重大な問題だったんだろうか?ということです。もちろん、鍋山・佐野の転向声明とそれに引き続いた党員の転向は社会的にも大きな事件でした。また実際、主張の急角度の変化がみられたわけですから、鍋山・佐野や彼らに関連して転向した人たちも大きな痛みを感じながらの行動だったでしょう。しかし、21世紀の日本に生きている私の目から見ると、その他の事例についてはそうそう目くじら立てることもないような気がしました。序言で鶴見さんが
転向問題に直面しない思想というのは、子供の思想、親がかりの学生の思想なのであって、いわばタタミの上でする水泳にすぎない。就職、結婚、地位の変化にともなうさまざまの圧力にたえて、なんらかの転向をなしつつ思想を行動化してゆくことこそ、成人の思想であるといえよう。
と書いていますが、成人の思想ってそういうものですよね。権力と無縁に生活することなんて不可能ですから「権力によって強制されたためにおこる思想の変化」があるのも当たり前。例えば、元新人会のメンバーとして赤松克麿がとりあげられていますが、彼なんかは、親がかりの時代に共産党員に名を連ねてしまったことの方が若気の至りともいうべき誤りで、その後の変化・経過は転向というより、彼にとっての当然の途を歩んだだけだっのではないかなと感じてしまいました。まあ、日本思想史の叙述という意味ではそういう例も含めて考察することに意味があると研究会はお考えなんでしょうが。
また、本書には転向後に作家や評論家として歩んだ人たち、島木健作、亀井勝一郎などの例もとりあげられていました。転向がこの人たちの作品に及ぼした影響を考慮すると言う意味では、これらの章も必要なのでしょう。でも、政治的に意味を持つ出来事・エピソードをつらねて叙述できる政治家や主体的に政治運動にかかわる人たちの例と違って、作家や評論家では作品分析のような手法が用いられているためか、私の理解力のせいか、腑に落ちない感じの章が少なくありませんでした。本書は研究会のメンバーが分担して執筆しているわけですが、筆者ごとの筆力の差が大きいことも作用しているかなと感じます。例えば鶴見俊輔さんの書いた埴谷雄高の章は、その他の作家や評論家を論じた章に比較して、読みやすい・読む気にさせる・分かった気にさせる文章でしたから。
その他、興味を引いた点
われわれは転向研究の途上でかなり多くの転向調書に出会い、調書を読むという作業をとおったが、これらに重点をおいて転向例を記述することを意識的にさけた。
調書の類いは、近頃多く市に出ており
と書かれていましたが、こういう事実があったのは初めて知りました。敗戦後の生活苦などが原因で、司法省や警察の職員が調書を持ち出して換金したということなんでしょうか。
もっともはっきりした転向的指導者にとって、転向波内非転向波は、不愉快かつ不気味な存在であった。明白な非転向者にたいしては、評価の感情も一色である。あいつは気違いだとか、馬鹿だとか、謹厳すぎるとか評価しておけば、それで気持ちも片付いてしまう。つまり、自分たちと同類の問題ではない。だが、一度は人間並に転向していながら、なおも完全にすぱっと転向しきらないような仕方でいるタイプの人、原理から離れてしまっていながら、なおも原理に近づこうとしているタイプの人は、あいまいな感情をよびさまし、不安をつねに感じさせる。たとえば中野重治、鹿地亘、大宅壮一のような転向内非転向波にたいする妙な反撥が、転向波内転向波の談話や著作の中に見えがくれするのはこのためである。
とても面白い指摘です。中野重治、大宅壮一の立ち位置ってこういうものだったかと勉強になりました。

2012年4月20日金曜日

飢餓の革命





梶川伸一著
名古屋大学出版会
1997年11月30日 初版第1刷発行
先日、日中戦争下での徴兵・食糧の徴発などが中華民国の自壊に深く関与していたことを興味深く説明している中華人民共和国誕生の社会史という本を読みました。同書ではロシア革命にも同様のメカニズムのあったことが触れられ、本書の名前が参照文献として載せられていまし。それがきっかけで、ロシア十月革命と農民というサブタイトルをもった本書を読んでみることにしました。本書によると

  • ケレンスキーの臨時政府の時期から、不円滑な流通が原因で穀物の不足をきたす地域があり、価格が上昇していた。その対策として1917年8月に穀物価格の固定制が導入された。十月革命の後にも、価格の改訂はされたが穀物価格の固定制は継続された。インフレーションのため生産農家は紙幣との交換で穀物を売りたがらなかった。商品との交換による穀物の買い付けも試みられたが、革命後の都市での生産減退と流通の問題から農家の欲する生産材・消費財の供給は不十分で成功しなかった。この結果、都市で配給量が削減されてかつぎ屋も横行した。
  • 「国内に食糧はある。地主、クラーク、商人の所に腐りかけの大量の食糧がある」との前提で、ボリシェビキ政府は安い固定価格による強制的な収買と私的商業を廃しての専売制をめざした。しかし、農家の売り惜しみ、高値で買うかつぎ屋、地方ソビエトの非協力に加えて、休戦後に復員兵や武器が農村にも流入し中央政府の施策に武装して反抗する機運が強くなったことで、目論見通りには進まなかった。ペトログラード、モスクワ両首都では食糧切符で入手できる量が減って飢餓は進行し、強制的な徴発を行うため武器を携えた食糧部隊が都市の労働者を主体に創設された。農作物の勝手な刈り取りや徴発に抵抗する農民と食糧部隊との間ではしばしば武力抗争が発生し、死傷者もみられた。
  • 農村ではクラークだけでなく、農村革命で生まれた多くの小規模自営農も「プチブル」的性格を持っていたので、ボリシェビキの食糧独裁・専売制に反抗した。都市で起こった革命を農村にも波及させ、農村でのボリシェビキ権力の確立のため、 穀物の余剰をもたない落ちこぼれ的存在である貧農に依拠する名目の貧農委員会がいったんは設置され、その後、地域のソヴェトにボリシェビキ支持者を選出させることで発展的に解消された。
という流れが、本書の扱う1919年初頭までにみられたのだそうです。もともと、革命前からボリシェビキの依拠するプロレタリアートの居住する都市部では食糧が不足していて、ボリシェビキは農村から穀物を奪って都市を養おうとした。それに反抗する県や郷や村のソヴェト(とそれを構成するクラーク・中農・商人・聖職者・役人)には武力を用いた弾圧(著者曰く「都市によって宣告された農村への戦争」)を加え、中央の言いなりになるソヴェトを作り出していったということのようです。そして、これがその後の中央集権的で恐怖の支配する1950年代までのソ連の姿を規定したわけです。
ロシアの十月革命に限らず、食糧不足の状況下でおきる暴力的な政権の交替には、飢餓や徴発などの混乱は必発なのかと思います。ただロシアの十月革命が異常なのは、 ボリシェビキの積極的なメンバーが、農村の飢餓や徴発、商人・クラークへの弾圧などなどを、階級闘争として必要かつ正当な行為として信じて実施したことかなと感じます。正しいことだから、容赦がない。その後のスターリン時代の大粛正も、帝政下での地下活動の経歴のあるスターリンが異常に残忍だったからということだけで説明できるわけではなく、スターリンをはじめとした共産党員が、革命を防衛するために必要かつ正当な行為と感じていたからあんな風になってしまったのでしょう。
農村での強制的な収買・徴発に対しての武力抵抗で多くの人が死傷したように本書には書かれていますが、具体的にはどのくらいの犠牲者が出たのでしょう。しっかりした統計はなくて、数を上げることが難しいのかも知れませんが、本書を読みながら知りたく感じました。十月革命後の早い時期にそういった情報が世界中に知れ渡っていれば、20世紀の悲劇の一部だけでも減ったものか、それとも日本をはじめ各国の共産主義の信奉者は革命なんだから正義の実現に犠牲のともなうことは当たり前と感じるだけで無意味だったか、どっちでしょう。
本書は専門書なので、きちんとした基礎知識をもった読者を想定してるのだと思います。私がその水準に達していないからいけないのだとは思いますが、見知らぬことばが少なくありませんでした。クラークくらいはわかりますが、以下のようなことばも有名なんでしょうか。
  • サモスード:説明なく使われ続け、なぜか本書のなかほどで(リンチ)という注をつけられていました。
  • アルチェリ
  • クスターリ
  • フートル
  • オートルプ
  • バトラーク
また、本書の日本語は難しいというわけではありませんが、指示語の使い方や表現については、上手な日本語ではないという印象をもちました。

2012年4月9日月曜日

Silent Victory

Clay Blair Jr.著
Naval Institute Press
第二次大戦中に潜水艦で2回のパトロールに参加した経歴を持つジャーナリストが、潜水艦長の記したパトロールの報告書などのさまざまなアメリカ海軍の公式文書に加えて、書簡や関係者に対するインタビューなどをもとにまとめた、潜水艦対日戦物語といった印象の本です。かなり分厚い本で、本文が870ページあまり、太平洋戦域での潜水艦による全パトロールのリストや索引などのおまけを含めると、全体で1070ページ以上もあります。ただし、ボリューム豊富なわりには安価ですし(アマゾンさんで3000円)、つかわれている英語も難しくないので、太平洋戦域でのアメリカ潜水艦の活動のようすや、アメリカ海軍から見た日本海軍・日本の欠陥といった点を日本人の読者が知るのにもふさわしい本だと感じます。私が購入したのは、Naval Institute Pressが2001年から復刊したものの第14刷ですが、原著はLippincottから1975年に出版されています。もう40年近く前の本ということになりますが、アメリカ潜水艦の行動や戦果を日本側の記録と照らし合わせたり、潜水艦長や暗号解読従事者などの関係者にインタビューするには最適な時期だったんでしょう。現在でも某所の第二次大戦中の潜水艦に関するオススメの本のリストに挙げられていました。
冒頭の章は、アメリカ独立戦争でのTurtle号、ジュールベルヌの海底二万マイル、潜水艦設計・建造を試みたアメリカ人Hollandの苦労話、第一次大戦の潜水艦戦、軍縮条約下での潜水艦などの対日戦前史にあてられています。これを読んで驚いたのは、アメリカがワシントン海軍軍縮条約交渉の頃から日本の外交暗号を解読していて、その後も暗号解読の努力が続けていたということです。レインボープランはあっても、ドイツ海軍が決定的に弱体化され、イギリスとの戦争も現実にはありそうにないというのが第一次大戦後の状況では、日本の海軍が対米戦を意識していたのと同様に、アメリカの海軍士官たちも主に日本海軍との戦争を想定した軍備に余念がなかった、しかも日本よりずっと手広く準備していたということですね。
開戦後、太平洋のアメリカの潜水艦はハワイと、オーストラリア東岸のブリスベンと西岸のフリーマントルにある前進基地から作戦に従事しましたが、それぞれの基地から出撃した潜水艦の行動・戦果が数ヶ月ごとにまとめて一つの章として記述されています。そのあいまに、珊瑚海海戦、ミッドウエイ海戦、ソロモンキャンペーンなどの有名な海戦が触れられ、潜水艦とそれら海戦との関わりが説明されています。日本の艦船が撃沈された話は有名なもの(信濃や大鳳など)もそうでないものもたくさん載せられていますので、それ以外で興味深く感じたことをいくつか挙げてみます。
連合軍全般の例に洩れず、緒戦期は潜水艦もかなり苦労しました。ソロモン諸島などで、日本の潜水艦が孤立した部隊に食糧や弾薬を運ぶ輸送任務について大きな犠牲を出したことは有名ですが、アメリカの潜水艦もたびたびコレヒドール島に銃弾、食糧を搬入し、これヒドールから魚雷、潜水艦の部品、金塊・銀貨を運び出す作戦に従事させられました。艦長たちは乗り気ではなかったそうですが。
アメリカ側は魚雷に大きな問題を抱えていました。一つは魚雷の不足で、1942年前半は、魚雷の生産が消費に追いつかないので、攻撃目標ごとに発射本数が制限されました。また、主力であるMark XIV魚雷に設定深度より深く馳走してしまう欠陥があったこと、磁気信管に信頼性がなかったことも大きな問題で、この時期には命中するはずなのに命中しない、命中したのに不発という自体が多発しました。現場でこういった問題を経験した艦長たちはすぐに問題を把握し、改善するように求めましたが、魚雷の設計・生産を取り仕切っている部門の官僚主義的な姿勢から、完全な解決には1943年までかかりました。日本の艦船の被害が緒戦期に予想より少なくて済んだのは、このおかげが大きいようです。
戦前には飛行機の脅威が強く意識され、潜望鏡深度に潜航したまま雷撃することなどが勧められていましたが、実際には浮上しての攻撃が危険ではないことが判明していきました。しかし、開戦後も戦前の教えを踏襲する艦長も少なくなく、積極性に乏しいとして問題視されるようになりました。でもこれに関しては、不発魚雷が多かったことも関連していそうで、更迭された艦長さんたちがかわいそうな感じも受けます。
戦争が進んで新たな就役艦が増えるにつれ、若い世代が新たに艦長として任命されるようになりましたが、それでも艦長になれるのはほとんどNaval Academy卒業生でした。予備仕官で潜水艦長になれたのは数名だけ。かなり厳然とした区別があったようです。似たような話として、日米開戦前の頃のアメリカの潜水艦には、士官・下士官・徴兵された水兵とは別に、黒人かまたはフィリピン人のstewardが2名乗り組んでいたと書かれてあります。stewardだからボーイとして下働きをしたんでしょうが。もっと平等主義的なのかと思っていただけに意外です。
1943年1月、ニューギニア北で日本の陸軍部隊を運ぶ輸送船を撃沈した潜水艦Wahooは、浮上して海面に漂う数千名(?)の生存者や救命ボートを砲撃して殺しました。艦長はこのことをパトロールの報告書に記載して提出しましたが、特にお咎めはなく、このパトロールで5隻を撃沈したことで勲章をもらいました。ただし、こういった生存者の殺害を殺人だとみなす艦長も少なからずいて、同様の行為をあえて行う艦長はほとんどいなかったそうです。本当にそうだったのかどうかは別にして、少なくとも1970年代のアメリカではそういう風に受け止められていたから著者はこう書いたのでしょう。
撃沈後の海面に多数の生存者をみかけることはおそらく少なからずあったと思われます。しかし、日本人の生存者を救助したというエピソードはほとんどなく、情報収集のために一名だけ連行したというような記述がいくつかみられるのみでした。無制限潜水艦作戦下では、それが当たり前だったんでしょう。例外的なのは日本人以外の遭難者です。大戦中にアメリカの潜水艦は4隻のソ連船を誤って撃沈してしまいましたが、うち一隻が生存者を救助したエピソードが書かれています。一隻目の撃沈は外交問題になりましたが、二隻目に当たるこの撃沈では、救助されたソ連人が、日本の潜水艦に撃沈されて漂流中にアメリカの潜水艦に救助されたと報告してくれて問題化しなかったのだそうです(ソ連側も真相を把握していたが抗議しなかっただけかも)。また、連合軍捕虜も乗せられていた日本の輸送船が撃沈されて、日本人の遭難者が船団の他の船に救助されたのに、見捨てられてしまった連合軍捕虜の遭難者を潜水艦が救助し、一隻だけでは足りないので、別の潜水艦も派遣してもらって救助に当たったというエピソードが紹介されていました。
アメリカの潜水艦にSJレーダーが装備されるようになると日本の艦船の発見が容易になり、魚雷の欠陥の克服ともあいまって、1943年以降は潜水艦による被害が急増(日本人としては読むのがつらいくらい)するようになりました。本書で紹介されている戦闘の様子を読むと、レーダーで日本船を探知すると先回りして待ち伏せし、夜になって浮上して雷撃する戦術が一般的だったようです。レーダーを装備した日本の艦船は数が少なかった、またレーダーを装備していても潜水艦を探知することは商船を探知するより困難だった、といった事情があるのでしょう。それにしても、レーダー波を検出する逆探を製造・配備することも難しかったんでしょうかね?レーダー自体を製造するよりは容易なような気がするのですがどうなんでしょう。
日本の艦船にもレーダーを装備しているものがありました。ルソン島へのアメリカ軍の上陸後、1944年2月にルソン島にいたパイロットを台湾に避難させる任務に当たった呂号潜水艦4隻もレーダーを装備していました。しかし、レーダーを作動させていたため、アメリカ潜水艦のAPRという装置(おそらく逆探でしょう)に探知され、撃沈されてしまったことが紹介されていました。
軍艦にしろ商船にしろ、潜水艦による被害があれほど大きくなったの、暗号解読により日本の艦船の航海の情報(航路、正午の位置、出入港の日時など)がアメリカ側に知られてしまっていて、これをもとに潜水艦に攻撃を指示していたからだそうです。レーダーやソナーが行き渡らなかったことや、護衛艦艇の建造が遅れたことなどは、技術的限界からやむを得なかったのたかもしれませんが、商船暗号がばれていたことに関しては、ソフト的な問題ですから変だと気づきさえすればやりようがあったろうにと思われて仕方がありません。インド洋・太平洋戦域で失われたドイツ船・潜の撃沈の原因にもなっていたそうなので、ほんとに申し訳ないというか情けない。


2012年3月20日火曜日

中華人民共和国誕生の社会史

笹川裕史著
講談社選書メチエ510
2011年9月10日第一刷発行
日本との戦争を続けるために、税や強制借入として現物の食糧を無理に徴発し、嫌がる人たちを兵士に仕立て、対日戦「惨勝」後にも兵士の多くはお金がなくて故郷に帰れなかったり戦傷を負っていたりなどして、耕し手を失った小作農は地主に土地を取りあげられてしまうなどといった問題が山積していた、そんな日中戦争から国共内戦にかけての時期の四川省の様子を描くことで、タイトルにある中華人民共和国誕生の理由を実感させてくれる本でした。この時期には人口(政府が徴税のために把握していた人口)が大きく減少したことも書かれていて、中国の王朝交代時の大幅な人口減もこういったものだったのかもと思わされます。また、プロローグには
十数年間にわたる戦時下の混乱と変容が、中華人民共和国の誕生とその政策展開における社会的土壌を準備した。その点では、1949年革命の必然性を、日中戦争の開始以前からの社会矛盾に求める通説的な中国近代史像とは異なっている
とありました。日本でも厭戦感情や困窮した生活をそのままに敗戦後数年以内にもうひとつ戦争を戦わなければならなかったとしたら、社会の混乱はただごとではなかったでしょう。中国は日中戦争後に国共内戦を経験することになったんですから、ただでさえ国内を統合する力の弱かった国民党政権が統治の正統性を失い、役人や軍閥なども沈む行く船から逃げ出すような有り様になったのも頷けます。ああいったかたちでの日中戦争がなければ中国に共産党政権ができていなかった蓋然性はかなり大きいのではという点も含めて、本書を読んで著者の見解はかなり正しいだろうと感じました。
日本軍が戦闘・占領した地域はもちろんのこと、重慶爆撃などの例外を除くと日本軍の戦闘行為による直接的な被害を受けなかった四川省でも、日本が社会の混乱と共産党政権誕生の主たる原因とみなされていたでしょうから、この時代を生きた人やこの時代のことを学んだ人たちの対日観がこの戦争に大きく影響されることはやむを得ないことでしょうね。
国民党統治下では統制しきれなかったため、 戦中の日本よりも「報道の自由」があったそうです。本書の史料としてもこの時期の中央・地方政府の文書に加えて、 地元の新聞もつかわれていました。こういう混乱期の新聞なんかは散逸して図書館などでも読むのが難しい気もするのですが、どこに保管されていたものを著者は読んだのか(中国の文書館だそうです)、そんなことも気になってしまうほど、興味深く読めて情勢を理解させてくれる。そんなエピソードの選び方・取りあげ方にもセンスを感じました。また、
アメリカ合衆国に次ぐ世界第二の国内総生産(GDP)を誇る現代中国の経済大国化を考えてみても、その直接の起点は1949年革命ではなく、1978年末の「改革開放」に舵を切った政策転換に求めるのが妥当であろう。 
硬直化した一党独裁体制、拡大する貧富の格差、都市と農村との格差、暴走する人権侵害、党幹部の特権と腐敗、先鋭化する少数民族問題、荒れ狂うナショナリズムなど、今日の大国化した中国が抱える深刻な問題を思いつくままにあげてみても、そのどれもが、1949年革命で誕生した中華人民共和国という国家の特質や、その歩んだ道程と切り離しては理解できない
という点も鋭い指摘で関心。文句なくおすすめできる好著です。また、本書の内容とは直接関連するわけではありませんが、安全な後方にあって臨時の首都がおかれた四川省の様子がこんな状態だったとすると、国民党政権の統治歴の浅い台湾をなぜ保持し続けることができたのかが気になります。大戦中も台湾の食糧事情は比較的良かったようですからそういった要素が効いていたのか、植民地時代の比較的しっかりした統治機構を入手できたからか、それとも文字通り海を挟んでいて共産党軍がおいそれとは攻めて来れなかった状況下で台湾省民の不満は銃剣で押さえつけることができただけなのか。このあたりについて解説してくれている本も読んでみたいですね。

2012年3月18日日曜日

記憶の歴史学

金子拓著
講談社選書メチエ519
2011年12月10日第一刷発行
「史料に残る戦国」というサブタイトルにたがわず、戦国期の各種史料を分析して得られた興味深い知見を紹介してくれている本です。どれもかなり細かいところまで考察されていて、面白く読めました。どんなことが取りあげられているかというと、

  • 織田信長が天正二年の賀茂祭の競馬に出席したかどうか、神社の記録と奉行だった太田牛一の記録とで異なる
  • 細川ガラシャ(明智玉子)の死は自害だったのかどうか
  • 天正十年の兼見卿記に一年分の正本と本能寺の変のあった6月まで記載の別本があるのは、追及を怖れての日記改竄なのか
  • 永井荷風の断腸亭日乗は修正を加え続けられた作品と考えるべき
  • 上杉家の家臣たちの家では過去のどの戦いを重視していたのか
  • 家の衰退で中世以来の文書が散逸しかかったが、秋田藩の修史事業でまとまって伝わることになった例
など。著者が経験した各種の史料から話題がとられているので、オムニバスな論集になっています。テーマが一貫していない感を著者はもったのかもしれません。そのため「記憶の歴史学」というタイトルがつけられていて、
史料の成り立ちに関わる記憶、史料のなかからすくい上げることのできる記憶、記憶を意識することにより可能となる新たな史料解釈、記憶という紐帯によってむすびつけられる集団のあり方、そこからあらたに生みだされる記憶など、多角的に記憶という現象のありように迫り、それを史料学のなかに位置づけたいと思う
と著者は述べています。でもこれが成功したかというとはなはだ疑問です。というのも、本書でとられている史料の分析・解釈が、他の史書のなかで行われていることとちっとも違わない、ふつうの史書という印象しか私は受けませんでした。「戦国期史料よもやま話」とかいうタイトルの本になったとしても恥ずかしくはないと思うし、本書のやり方は気取りすぎ。
本書が取りあげている話題で一番驚いたのは、秋田藩の修史事業の件です。秋田藩では家譜を編纂するため、家中の諸士に伝来の文書や系図の提出を求め、担当部署である御文書(記録)所で吟味され、原本の場合にはその旨を記した青印状を添えて、原則的に提出者へ返却されましたが、写しもつくられて現在でも「秋田藩家蔵文書」として残されているのだそうです。ただ、この提出された文書が「原則的に提出者へ返却」というのが曲者で、家中に別に嫡家があれば嫡家の文書とされることになっていて、藩当局から見て所持するいわれのない文書を提出した人は有無をいわさず没収され、本来所持すべき正統性をもっている者に返付されたとか。
これってかなりひどい仕打ちですね。家伝来の大切な文書を藩の修史事業のために提出したのに取りあげられてしまった事例が本書には載せられていました。原本は裏を破って提出者に返付し、写しを「本来所持すべき」者に与えるとかいうようにしなかったのは何故なんでしょう?

2012年3月10日土曜日

「清明上河図」と徽宗の時代

伊原弘編
勉誠出版
2012年1月 初版発行 
以前、この本の編者である伊原弘さんが編んだ「清明上河図を読む」を読んだことがあります。そちらは張擇端作の清明上河図に描かれた人とモノ、舟や建築や情景などを専門家が読み解いたり日本の同種の図と比較したりといったスタイルの本でした。その本が好評だったことから続編として本書を出版することになったそうですが、私も前著を楽しく読んだので本書を購入してみました。こちらは前著と違って、張擇端作のオリジナルの清明上河図の分析が主眼ではなく、清明上河図の描かれた北宋、特に徽宗の治世下の社会や、明代以降の美術史に与えた影響などを分析した論考などが20本集められています。論点は多岐にわたりますが、個人的にとても勉強になった点を挙げてみます。
冒頭には、清明上河図の描かれた北宋とそれをとりまく時代状況を編者が解説してくれています。北宋は経済が繁栄し、科挙に合格した文官・士大夫が優遇された時代で、軍事力が非常に弱体だったものと思っていました。たしかに亡国の憂き目にあったのですから強力な軍隊を保有していたいたとはいえないのでしょうが、軍隊に組織されていた兵の数は決して少なくはなかったのだそうです。しかし、大量の兵の常備は、土地を失った流民に対する社会政策的な意味をもっていて、その点で強兵ではなかったということです。
国の統治にあたり、徽宗は有効で効果的な政治手段として『芸術が役立つ』と考えていた。そして、未曾有の規模の芸術文化のパトロンであり続けただけでなく、彼自身も多くの作品を生みだした。才能ある人材を自身の代理として使い、御書や絵画を大量生産して、それを朝廷の重要な人物に見せたり、下贈したのである。
徽宗は日本の国宝としても有名な桃鳩図などの作者で、痩金体という特徴ある魅力的な書体の使い手でもあり、芸術に理解のある皇帝だったのだと思っていました。しかし、本書に収められたマギー・ビックフォードさんの「芸術と政治」には、徽宗と芸術との関わりは個人的な娯楽ではなく自らの治世を天が認めた証として現れる瑞祥を記録したものだったこと、瑞祥画の制作は統治の一手段でもあったので臣下への恩恵的な公開・下賜が行われたこと、瑞祥画を多数制作するための組織が設けられていたこと、皇帝の下す命令書類などに書かれた痩金体も彼の書体を真似た秘書役たちが署名を含めて記していたことなど、目から鱗の指摘がなされていました。卓見だと感じますがこれはすでに常識化した見解なんでしょうかね。ともかく、徽宗作とされている絵画は必ずしも画家徽宗個人の作品と考えるべきではなく、彼自身もたしかに筆を執ったのでしょうが、主には(工房の長としてでもなく)パトロンとして振る舞ったということのようです。例えばレンブラントのようなヨーロッパの画家たちや日本の狩野派なんかも集団で制作していたのですから、同じような感じなんでしょうね。
仇英はおそらく伝聞により知り得た宋代の「清明上河図」構図に基づき自らの画巻を書いた。 
十六世紀から十八世紀までの二百数十年間、実際には二十世紀に至るまで、存在していることが知られていながら、誰も見ていない張擇端の「清明上河図」の構図が中国の画巻を支配し続けたのである。
張擇端作のオリジナルの清明上河図は開封の失陥後は金朝の所有に帰し、その後は長らく行方不明でした。清代の1799年に軍費乱用で家財を没収された文人官僚のコレクションから朝廷のものとなり、それが現在では北京の故宮博物院に収蔵されているのだそうです。張擇端作の清明上河図の名声を慕って、清明上河図の画題や構図を参考にした作品を明代の仇英という画家が描き、その後、都市繁盛図が流行すると販売を目的として江南の絵画工房で多数の模作が制作されたのだそうです。それにしても、幻であったはずの作品に対する高い評価がなぜ生まれ、どうやって流布したのか、またみたことのない作品を範として絵を描くなんてことがどうして可能だったのか、これらに対する詳しい説明をしてくれる論考は含まれていなかったので、とても不思議な感じがしました。
さらに「東アジアにおける都市図と風俗画」という論考では、江戸時代の鍬形蕙斎の東都繁盛図巻が清明上河図の影響を受けたと論じられています。しかし、注文主の松平定信と清明上河図との接点のみならず、日本での清明上河図の輸入・受容の様子を示す史料がまったく記されておらず、にわかには信じ難い印象を受けてしまいました。日本の複数の美術館に清明上河図が収蔵されているそうですが、その来歴なんかははっきりしてはいないんでしょうかね。
徽宗時代の捉え方は人それぞれであろうが、筆者は「北宋突然死」説を採っている。もし、徽宗時代の主潮であった王安石学派の経学がその後も順調に展開していたら、東アジアの近世思想文化史は実際にそうなったものとは大きく様相を異にしていたことだろう。
「天を観て民に示す」という儒学史に関する論考で小島毅さんはこう書いています。私には宋学の展開過程はよくわかりませんが「北宋突然死」という考え方には共感できます。コークスを利用した製鉄や市場経済の目覚ましい発展のあった北宋は、思想史とは別の意味でも画期的・魅力的な時代だったと思うのです。もし北宋が金に滅ぼされずに続いていたなら、その後の中国の経済成長がどうなっていたか、また世界は600年以上も早く近代を迎えることにならなかったのかというような経済史的な妄想をたくましくさせてくれる、そんな時代ですよね。

2012年3月2日金曜日

南北戦争記

ブルース・キャットン著 
益田育彦訳
バベルプレス
2011年4月30日
本書を読んで、この有名な内戦について勝敗と奴隷解放くらいしか知らなかったことを再確認させられた感じです。奴隷制をめぐる対立が続いていた状況のもと、リンカーンの大統領選出により南部の州が離脱を決意。しかし双方とも本気で戦争を想定して準備していたわけではなく、北軍の兵士のあいだでは戦争の意義が明確ではなかったのに対して、郷土防衛のために参戦した南軍の兵士たち。人材的にも南軍指揮官に利があり、当初は互角以上に戦うことができ、一時は英仏など外国からの承認を取り付けることに成功しそうな状況だったこと。しかし、総力戦になれば経済力・人口の差が大きく、北部海軍によって綿花の輸出・軍需品の輸入が封じられ、ミシシッピ川が制圧されて南部連合の領域は分断されてしまいました。それでも、長引く戦争と多数の戦死傷者は北部の人たちに厭戦気分をもたらし、リンカーン大統領の再選が危ぶまれる時期もありました。しかし決定的な南軍の勝利は得られず、防勢においこまれた南軍は各個撃破され、降伏にいたったということです。著者はジャーナリスト出身の作家だそうで、この4年超の戦争を読者が理解しやすいよう、主要人物とエピソードを配して綴っていて、日本でいうと司馬遼太郎の作品みたいなものなのかもしれません。訳文もこなれていて、興味深く読めました。
リンカーンの大統領選出を機に南部の州が離脱を決意してから、4年余り。南北の首都がわずか100マイルしか離れていないことを考えると、こんなに長く戦争が続いたことが不思議でしたが、開戦後に兵を募って訓練するところから始めていたことや、南軍の最強軍団がリッチモンドを守りワシントンを脅かす位置にいたことなどから、こうなっていたわけですね。
合衆国軍隊は、南部連合に役に立っている資産を接収するように指示されていたが、実際にわかったのは、南部で最も有用な財産は黒人奴隷である、ということだった。北軍兵は、奴隷に対して人としての同情をほとんど示さなかったし、奴隷を資産であることに、特に反対を唱えたわけではない。 
資産としての奴隷は、南部の戦争継続を支えた。そのため、奴隷を所有者から引き離す必要があり、連れ去られる時、その奴隷に何かしてやれることといえば、自由を与えてやることだけであった。
奴隷解放宣言は有名ですが、著者によると北軍兵士も北部の人たちも、必ずしも奴隷解放をめざして戦ったわけではなく、戦争後期に行われた南軍の経済的基盤を破壊する戦争行為の一環として考えるべきものなのでした。以前、アメリカ南部に生きるという、アラバマ州で19世紀末から20世紀を生きた黒人農民の聞き書きをまとめた大著を読んだことがあります。奴隷解放から一世紀以上経過したその頃でも差別が厳しく残っていて、南北戦争が奴隷からの解放ではあっても、経済的に不利な地位からの解放を本気でめざしたものではなかったことがよく分かります。
また、第2期の当選後のリンカーンは統合のため南部に対して寛大な政策をとる意向だったが、その政策を公にする前に暗殺されてしまった。そして、後継大統領をはじめ連邦政府の政治家たちは戦争でハイになった北部の民衆を善導することができなかったという主旨のことが書かれていました。この本は専門書ではないので、それを裏付ける史料などは載せられていませんが、これが一般的な理解なんだとすると、リンカーンの評価がアメリカの歴代大統領の中でもトップクラスである理由が理解できた気がします。
本書には戦争中の南部の様子についてはわずかに記載があるものの、戦後についてはほとんど触れられていません。南部の人たちの生活や意見や、またカーペットバッガーや北部の人たちの生活者としての本音についても読んでみたい気にさせられました。それと、イギリスの「圧制」から独立してから一世紀もたっていないのに、同じように独立しようとした南部連合を容認しようとする意見が過半数を占めなかったことも不思議に感じます。このへんも詳しく知りたい感じです。