犬飼隆著
笠間書院
2011年10月30日
増訂版第1刷発行
郡評論争に決着をつける決め手となるなど、日本史の分野での木簡の重要性は知っていたつもりです。しかし、日本語研究の分野でも重要な史料となっているということは本書を読んで初めて知りました。本書の中に取りあげられた木簡の例は面白いものばかりです。また著者の指摘はとても勉強になったので、その中からいくつか例を挙げてみると、
日本語史の研究は記紀万葉語がすなわち上代語とは言えない時期に入ったと筆者は考えている。王朝文学語がすなわち平安時代語と言えなくなって久しいが、八世紀以前についても同様の認識をもつ必要がある。訓点語や古記録語を見ずして平安時代語を語ることができないのと同じく、出土資料を見ずして八世紀以前を語ることはできない。
万葉集や古事記などの文献史料や金石文ももちろん大切な史料ではありますが、出土した木簡は当時の日常的な文字・書法の実態を知らせてくれるという点で非常に画期的な史料なわけですね。
ここで述べようとするところをたとえをもって提示してみたい。欽明朝から推古朝にかけてを明治維新期にたとえ、天武・持統朝から藤原京時代を明治三十年代にたとえることができるかもしれない。あるいは、七世紀後半を現代にたとえることができるかもしれない。
古い時代には漢字を文字として受容するにとどまり、その後に当時の文語中国語である漢文の使い方に習熟するようになったので、かえって後の時代の方が正格に近い漢文がつかわれることがあったのだそうです。もちろん、中国語として習得できた人は稀で、漢文訓読レベルの人が多かったでしょう。その点、近代の英語の受容のたとえは分かりやすく感じました。
中国中原の本来の字義と異なる意味用法を、従来は、日本に輸入してからの和習ととらえた。今後は、東アジア一帯における漢字受容の一環としてとらえなおす必要がある。
日本への文字・書記の伝達に朝鮮半島の人の果たした役割は大きく、古い時代には朝鮮半島出身者が日本語を書き、日本の原住民にその技法を教授した場面があったと思われます。日本で出土する木簡にみられる中国に由来しない特徴的な書法は日本独自のものだけではなく、朝鮮半島由来の部分が少なくなかったということですね。
行書で書かれた書簡や木簡には、文意に従って字の大きさが変化したり、意味上まとまりをなす漢字列が筆致の上でもまとまっていたりなど、読みを助ける視覚的なキューがそなわっていた。木簡にみられる褻の書記法と古事記にみられる晴れの書記法の違いの一因がこういうものだという著者の主張は非常に説得的ですね。
古事記が清濁の書き分けや一字一訓などの晴の書法をとったのは、一行十七文字の楷書で書かれた可能性が高く「漢字列の均一性・等間隔性に規制されながら、日本語の構文を書きあらわし、その一義的な読解を可能にするための必要な処置であった」。
行書で書かれた書簡や木簡には、文意に従って字の大きさが変化したり、意味上まとまりをなす漢字列が筆致の上でもまとまっていたりなど、読みを助ける視覚的なキューがそなわっていた。木簡にみられる褻の書記法と古事記にみられる晴れの書記法の違いの一因がこういうものだという著者の主張は非常に説得的ですね。
七世紀末、宮廷における典礼の一環として「歌」が確立した。さらに、それらは、漢詩の影響を受けて、日本語による文学作品になった。
典礼で歌を詠み記録することも律令官人たちの仕事だった、典礼に備えた歌の手習いのために習書した難波津の歌の木簡が多数出土している、旧来のうたから「歌」が制度化され、その中のすぐれたものが文学作品としての和歌に昇華したということが述べられていて、これも目から鱗の意見でした。
上代特殊仮名遣い・8母音・母音調和という現象は確固たるものなのかと思っていたのですが、木簡にみられる表現からは必ずしもそうでもないようで、驚きました。
本書の内容と直接は関係ないことですが、日本語学の世界では「木簡ども」「『歌』ども」という表現を当たり前のようにつかうのでしょうか?ちょっと不思議に感じました。
また、木簡や削りクズは燃料として使われてしまったりはしなかったのでしょうか?多くは燃やされてしまったが、多くの木簡が出土しいる遺跡は燃やさない特別な事情(木簡を扱った担当者の流儀とか、付け札としての木簡を一定期間保存する習慣があったところとか)があったところだけなのでしょうか?
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