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2012年12月31日月曜日

近世米市場の形成と展開




高槻泰郎著
名古屋大学出版会
2012年2月10日 初版第1刷発行




米切手とは何なのか、大阪の米市場での取引の仕組み、米切手を利用した金融活動、幕府の米価政策・米市場に対する統制策の変遷などが分かりやすく解説されていました。米切手の取引の仕組みについては、本書にも引用されている、宮本又郎さんの書いた「近世日本の市場経済――大阪米市場分析」や石井寛治さんの「経済発展と両替商金融」などを読んだことがあります。でも正直なところ、すっきり理解できたとは言いにくい状態でした。その点、本書の説明は素人にも理解できるよう丁寧にかみ砕いて書かれていて、私でも大丈夫。
  • 米切手には蔵の中の特定の米とのつながりはなく、そのおかげで先物取引に利用されたり、また米の保有量以上の切手を発行することで大名家の資金調達手段としても利用されるようになっていた
  • 幕府は空米切手の発行を抑制する政策を掲げていたが、田沼政権期には米切手所持人の蔵米請求権を保証して米切手が円滑に流通することを実質的な政策目標としていった
  • 幕府は大名側からの「御国持方御領分御自由」という主張を崩せず、各大名の蔵屋敷の中に現物の米がどれくらい貯蔵されているのかを明らかにすることができなかった
  • 米飛脚や大阪の市況に関する相場状を状屋と呼ばれる業者が地方の商人に向けて頻繁に発送していた。のちには旗振り通信が出現し、大阪と大津の米相場をその日のうちに連動させるようになった
などなど、非常に興味深く感じ、学べました。ところで本書を読みながら疑問を感じた点もいくつかありますまず、 米切手が米と引き替えられずに市中に滞留していたのはなぜなんでしょう。広島・筑前・肥後・加賀といった大手の蔵屋敷が米の入札を行う時期は限定されているのに対し、米の実需は年間を通して存在している。実需者の買いに米の卸売業者が対応するためには、米を在庫しておかなければならないが、米切手という形態で在庫しておけば、蔵屋敷が保管してくれるので、米実物を自分の倉庫に保管するより安く上がるという理由だけなんでしょうか。というのも、本書で引用されている史料のなかに「切手之儀は盗難之愁無之候ニ付、金銀よりも切手ニ換、所持致候」と書かれているものがありました。こういった理由で米切手を所有していた人も本当にいたんでしょうか?

米切手は蔵屋敷の中の特定の米との縁がないということは、米切手を持参して払い出しを受けるまでどんな米が渡されるのかわからないということだろうと思います。もちろん、虫食いや水濡れなど傷んだ米は別扱いだったかもしれませんが。卸売業者から米切手を買う実需者・小売業者はこれで困らなかったんでしょうか。それともこの当時、米の品質というのはあまり重視されていなかったんでしょうか。

この大阪の米市場での取引手数料や両替手数料などの収入で米仲買、両替商など多数の人が生活していて、かなり大きな商人もいたようです。それら商人の収入などは米の取引高のどれくらいにあたったんでしょうか?また、本書の最後の方では、大阪米市場の効率性が検証されていて、幕末に近づく頃以外は、おおむね効率的な市場だったことが述べられています。 米市場の効率性を確保するためのコストはどのくらいかかったんでしょうか。米会所の存在、奉行所による司法の提供、情報提供業者などなど。

米切手には引換の期限がありました。期限が来れば無効になるので、それまでにはすべて米と引き替える請求がなされること必至です。それなのに、地元からの登米以上の米切手を発行してしまうのがなんとも理解しにくいところです。兌換紙幣やその類似物(例えば銭荘の発行した銭票)なら支払い準備以上に発行されることがあるのは当然ですが、米と引き替えることが運命づけられているはずの米切手でそれって変ですよね。米との引換ができない騒動に及んだ事件が本書にもいくつか紹介されています。資金調達の目的で発行された空米切手が騒動を引き起こしたんだと思いますが、そういった有り米量より多くの米切手を発行した蔵屋敷の関係者・蔵役人は騒動の後で、藩の名誉を傷つけたとして藩によって処罰されたんでしょうか?それとも藩命で米切手を発行して資金を調達し、しかも約束通りには返済せず、示談でかなり長期の債務にすることができたということで褒美を受けたんでしょうか?その辺も気になりました。

2012年12月20日木曜日

ポーランドを生きる  ヤルゼルスキ回顧録


ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ著
河出書房新社
1994年5月10日 初版印刷
1994年5月20日 初版発行

ワルシャワ蜂起 1944の感想にコメントしてくれた方のご推薦でこの本の存在を知りました。この回顧録が日本で出版されたのは1994年のことで、とうの昔に新刊書店からは姿を消しています。しかし、ググってみると中古品はAmazonさんで販売されていて、値段もわずか200円。早速注文したところ、2日後には入手できました。インターネットのありがたみを感じるのはこういう時ですね。

東欧の民主化運動について、私にはプラハの春の記憶はありません。しかし1981年のポーランドの戒厳令は憶えています。訳者あとがきに「あの悪者の書いた回想など読みたくもない、まして日本語にするなどは論外と感じたのが正直な話である」と書かれていましたが、私もヤルゼルスキさんには、正義の味方である「連帯」を弾圧するサングラスをかけた悪漢という印象をもっていました。しかし本書を読み始めると、私の浅薄な理解は変わり始めました。もちろん回顧録ですから割り引いて読まなければならない点もあるでしょうが、まじめで誠実な人なのかなと感じるようになったのです。

ヤルゼルスキさんは数百ヘクタールという大きな農地を所有する階層の出身です。貴族と訳されていましたが、彼のお父さんは領地の農作業に従事する雇用労働者を自分で監督していたそうです。またその領地は電気もきていない田舎にあったそうで、中等教育はワルシャワにある学費のお高い寄宿制の聖マリア修道会の学校で受けました。この学校はワルシャワ蜂起 1944でも触れられていてとても有名な学校だったそうです。

ドイツのポーランド侵入後、著者の一家はまず東に避難し、ソ連参戦の報を聞いてリトアニア国境を越え、しばらくリトアニアで過ごすことになりました。しかし独ソ開戦後、ソ連によってシベリアに強制移住させられ、はじめはタイガで伐採作業をしました、しかし、つらさに逃げ出して倉庫やパン屋さんに勤務。独ソ開戦後、アンデルス軍への参加を希望しましたが父の死もあって合流に間に合わず、ポーランド愛国者同盟の部隊に参加します。リャザンの新編成ポーランド軍士官学校へ向かう際の著者の感想は
理由や状況は異なるにせよ、私たちは全員が歴史の辛酸を嘗めていた。それでもロシア人を、また奇妙なことにはソビエト人一般を恨んでいなかった。公言はせずともソ連体制を嫌悪するものが私たちのなかにいたのは間違いない。しかし遺恨はロシア人に向けたものではなかった。これはシベリアで接した人々の態度によるところが大きい。彼らは私たちに悪意や嫌悪を示すことが一度としてなかった。強制移住であろうと流刑であろうと囚人であろうと収容所送りであろうと、その境遇はロシア人の大半とさほどの違いはなかった。
というものです。この回顧録ではソ連に遠慮する必要はなかったでしょうから、本当にソ連を嫌っていたのならそう書いていたはずで、著者がまだ若かったので逮捕・拷問などの対象にはならなかったことと、ソ連人自体もシベリアに送られることが当たり前だったスターリン体制という時代とが、こういう感想を抱かせたのでしょう。

著者はポーランド部隊のとびきり若い将校として戦闘を続けます。ワルシャワ蜂起の際にはヴィスワ川の前面まで達していましたが、前進に次ぐ前進で疲労や補給の不足という問題があり、またドイツが装甲師団を投入したことでさらなる前進は無理だったとしています。もちろん、著者らはワルシャワで戦っている人たちに許され範囲で援助を行いました。でも、スターリンの同意がなければ本格的な支援の手を差し伸ばすことはできなかったということです。
白ロシア、西ウクライナでの数週間、生き残ったポーランド人や住民と接触した結果、これらの地方でポーランド人がいかに異邦人であるかを思い知らされた。1939年の避難の際、つとに私が感じたことだ。白ロシアの住民がロシア兵を解放者として迎え入れる現場に私は立ち会ったのだ。そののちリトアニアでもいく世紀にもわたるポーランド・リトアニア両国間の係争の重圧がひしひしと感じられた。大戦後、ポーランドはその歴史と起源にふさわしい国境線を見いだしたと私は信じている。
ポーランドの新しい国境線に関する著者の感想は、書物でふつう目にするものとは違っていて、すこし驚かされます。こういう考え方をしているポーランド人はどのくらいいるんでしょう?ソ連に押し付けられたものと書かなかったのは、ドイツとの西部国境、オーデル・ナイセ線が正当なものであることに疑念を抱かせないために自己規制したのかなとも感じますが、どうでしょう。
戦後ポーランド社会の貧窮は今日では共産党政権の責任とされる傾向があるが、全国土の38パーセントが戦争により破壊された事実を忘れている。
ポーランドの大戦による被害の大きさには気付きにくく、この著者の指摘は重要だと感じました。物的被害のみならず、独ソともポーランドの若年労働者を強制的に狩り出し、また将校や大学教授などの知識人を計画的に殺害しした。戦後の復興に必要な若年労働力と知識人層の不足がポーランドに与えた影響は大きかったであろうことは理解できます。

戦後、著者は軍に残る選択をします。戦闘経験の豊富な著者は歩兵研修所(高等歩兵学校の前身)に入学しますが、ここでは士官としての知識だけでなく、戦争中には経験できなかった読書など知的刺戟が得られました。こういった経験で覚醒した著者は入党することにしたのだそうです。この時期について著者は
1947年1月の選挙は残念ながら完全に民主的とは言えなかった。だが45年から47年まで、わが国の政治はおおむね民主的だった。野党も存在した(野党を抹殺したのは48年のスターリン主義への方向転換である)。西側に戦禍を逃れた政治家、知識人の帰国が相次いだ。大物の帰国は華々しく報道された。祖国再建の大事業に人々が結集するという確信は深まった。
この時点で思いとどまっていたなら、50年代の状況下でも入党を決意したかどうかは確言できない。いずれにしろ47年当時、政治は希望に満ち、思想的自由も存在した。
しかし誤解されては困る。44年から48年が政治的に牧歌的な時代だったと言うのではない。それは熾烈な闘争の時代だった。
不法な逮捕、不当な強制移住、不正な裁判、裁判なしの処刑など、おそるべき不正の支配した時代である。だが「ポメラニアの壁」戦、ベルリン包囲戦を戦い、チェコ国境警備についていた私たちは、[ソ連の]人民内務委員部や悪名高いポーランドの公安局(UB)の活動を知るよしもなかった。こうした治安機関の暴虐が明るみに出るのは後年のことであり、なかにはつい最近、白日のもとにさらされた事実もある。
と書いています。これまでポーランド亡命政府の側からの見方しか知らなかったので、1945年から47年の時期をおおむね民主的とする著者の評価には驚かされます。ポーランド統一労働者党のトップまで勤めた人だからこう書かざるを得なかったのか、それともシベリアでソ連の実情を見た後に東部戦線でソ連側で戦った著者のような人には「ソ連よりはましだ」という当たり前の見方なのか、どちらなのか私には分かりません。ただそれにしても、NKVDやポーランドの公安局の活動を知らなかったとする著者の弁はさすがに信じ難い気がします。
その晩、私が最初に感じたのは不思議な満足感だった。言ってみれば、ポーランド人がオリンピックで思いがけず金メダルを獲得したかのような感じだった・・・。
1978年のポーランド人教皇誕生に対する著者の感想ですが、とても素直。さて、軍という機関で軍人という専門職に徹し、政治や党内の派閥争いとは距離を置いていた著者は、軍政治本部長、国防次官、参謀総長、国防大臣と昇進してゆきます。そして食料品の値上げに端を発したストと連帯の結成に際して首相に、ついには党第一書記に就任します。党に対する信頼が失われ、民主化運動に加わる党員の中も現れる状況に対して、ソ連や周囲の社会主義国からは正常化をもとめる強いプレッシャーがかけられます。プラハの春の際にドゥプチェクと会談した著者は
私はのちにこの会議のことをしばしば思い起こした。ドゥプチェクのこと、それからチェコスロバキア指導部の態度について、[「連帯」全盛の]1980年末と81年はとくにそうだった。彼らの弱腰が災いを招いたことを承知していたから、われわれが国内情勢を統御していないかのような印象は決して与えないよう私は心に誓った。
のだそうです。これは口からでまかせといった種類のものではないと感じます。東側からは圧力、他方西側からは
いつも同じ励ましの言葉――お願いだから、「連帯」と力を合わせて、ソ連の戦車がポーランドの街に乗り込むような事態は絶対に招かないように
という、ちっとも役には立たない言葉のみ。さらに著者が戒厳令の準備を命じていた大佐(ベトナム停戦監視団勤務時から20年にわたってアメリカのスパイ組織に協力していた)が、準備中にアメリカに亡命してしまいました。しかし
アメリカは沈黙を守った。白状するが、本当に助かったという思いだった。アメリカは、「連帯」指導部に警告しようともしなかったし、何かのシグナルを送って(その手段はあった)計画の断念をわれわれに強いることもなかった。アメリカのこうした対応についてはいまなお自問することがある。最も理屈にあった説明と思われるものは、ポーランド当局が(いかなる方法であれ)自分のやり方で危機を打開するほうがソ連の軍事介入よりもましである、とアメリカが考えたことである。
アメリカが戒厳令の阻止にむけての積極的な動きをみせかなかったこと自体が、ポーランドに対する戒厳令OKというメッセージだと著者が感じたとしても不思議ではありません。また本書の解題には、ソ連がポーランドへの軍事介入が切迫していなかった証拠がある旨書かれています。しかしポーランド党のトップだった著者に当時それを確認する術はなく、著者はポーランドを救うために戒厳令を布告する決断をしました。政権交替がルールとなっている西側の国と違って、社会主義兄弟国への配慮も必要な政府のトップとしては、ほかにやりようがなかったのでしょう。

戒厳令布告をソ連や東側諸国は歓迎しましたし。しかしこれで民主化を希求する動きがおさまったわけではなく、著者をトップとするポーランド統一労働者党と政府は、連帯、教会などとともに円卓会議をもち、部分的な自由選挙の実施に合意します。その後も政権を維持できるだろうという著者たちの思惑を裏切って、選挙は連帯の圧勝に終わります。その後は大きな流血を伴わない政権の交替につながったわけですから、著者の功績は小さくないものと感じました。

本書の中にはヨーロッパの国や指導者に対する言及がたくさんみられます。しかし日本とポーランドの遠さを反映してか、日本に対するものは2つだけ。著者が大統領として会った指導者のリストに「中国の鄧小平」の前、後ろから2番目に「日本の中曽根」と書かれていました。また大統領として出会った実業家として 「斉藤」という名前が挙げられていますが、これは誰なんでしょう?この頃経団連会長だった斎藤英四郎さんかな。

2012年12月16日日曜日

国宝第一号広隆寺の弥勒菩薩はどこから来たのか?


大西修也著
静山社文庫
2011年5月5日 第1刷発行

静山社って聞き覚えのない名前ですが、ハリーポッターの出版社なんですね。タイトルに国宝第一号なんてわざわざつけられると下品な印象しか受けませんが、内容はとてもしっかりしていました。仏像の形態の意味、様式の変遷などから、日本にある仏像のルーツを中国の南北朝や朝鮮半島の三国にたどれることが述べられています。日本で生まれ育った人が拝するに価する威厳ある正しい様式の仏像をつくるには、そのお手本となるものが必要でしょう。例えば、法隆寺金堂の釈迦三尊像は止利仏師のチームがつくったものですが、その止利仏師も渡来人の孫で日本で生まれ育った人ですから、外国にある仏像を直接自分の眼で見たことはなかったはずです。 もしかすると設計図にあたる絵図面も中国・朝鮮から渡来していて、それを参考にしたこともあったのかもしれませんが、それよりも渡来した小さな仏像をお手本に大きな仏像をつくる方がずっと容易だし自然です。古代の日本でつくられた有名な大きな仏像と面影や様式の似た仏像が外国や日本の他の地で見つかるのはそういった関係なのかなと理解しました。広隆寺の弥勒菩薩だけでなく、善光寺如来、法隆寺の釈迦三尊、東大寺の大仏様などなどについても触れられ、関連するエピソードも豊富なので面白く読めました。

ただし、親切とはいえない論の進め方も見受けられます。たとえば、冒頭では「いつ日本に仏教が伝えられたのか」として、仏教の公伝について538年説と552年説があることを紹介します。当然、著者がどちらの説を正しいと考えるのかを次に論じるものと期待しますが、そうは続きません。日本書紀に552年説が採られたことがその後に与えた影響として、200年後に東大寺大仏の開眼会、500年後に平等院が建立されたことが述べらているのです。肩すかしを食らった感じ。また、その200年後、500年後であることが当時の人に本当に意識されていたのかどうか文献的根拠が挙げられるのかと思うとそうではなく、そのまま他の話題に転じてしまいます。そして、大仏開眼会が200年後を意識していたという説を唱える人のいることが紹介されるのはようやく179ページも後のことで、しかもその根拠についてはやはり一切言及がありません。これには不満。

また第10章は、熊本県の「鞠智城址出土の百済仏」持物が蓋付きの円筒形の容器でめずらしいこと、仏舎利を入れた容器は宝珠と同じ意味をもつこと、わが国の宝珠捧持菩薩を代表する作品は法隆寺東院夢殿の救世観音像と話をふり、救世観音のルーツや他の法隆寺の仏像について話が展開します。しかし読者としては話が展開する前に、話の枕として出された鞠智城址出土の仏像がなぜ百済仏と同定できるのか、なぜめずらしい様式の仏像が熊本県から出土したのかについて疑問なまま読むことになってしまいます。ようやくその答えが示されるのは25ページも飛んだ第10章末で、しかもそこでも、冒頭でとりあげられた仏像についての疑問に対する答えという書き方にはなっていません。思わせぶりに興味をひいておいて素知らぬ顔をする、こういうあたりはとても下手くそ。素人向けの本を書いた経験が少ないんだろうなと感じました。

2012年12月10日月曜日

ワルシャワ蜂起 1944 下


ノーマン・デイビス著
白水社
2012年10月10日印刷
2012年11月10日発行

第2巻はワルシャワ蜂起の終焉とその後を描いています。戦闘員の資格を確認してもらってドイツ軍に降伏した人たちだけでなく、地下に潜った人も、戦線のソ連側に逃れた人も、逮捕されて拷問や過酷な収容所生活を経験したり、また戦後にも引き続きつらい生活を余儀なくされる場合が多かったも触れられていました。ずいぶんとむかし、アンジェイ・ワイダ監督の地下水道、灰とダイヤモンドを観たことがありますが、その時には彼のいいたいことの10分の1も理解できていなかった感じ。この本を読み終えた今なら、なぜああいう映画が撮られたのかを考えることのできる観客になれそうです。

本書の終章は中間報告と銘打たれています。著者はワルシャワ蜂起失敗の原因がソ連だけにあるわけではないと述べていますが、スターリンの悪意にもとづく無作為に最大の問題でしょう、やはり。また、チャーチルをはじめ、イギリス政府の中にはワルシャワ蜂起を充分に支援できなかったことに対する後悔があります。ワルシャワ蜂起の時期、イギリスがソ連にもっと強い態度に出ることができなかったのはなぜなんでしょう。すでに第2戦線は開いたし、1944年春夏の頃ならソ連がドイツと講和を結んでしまう可能性なんてゼロでしょう。それとも終章に述べられているように、イギリスは戦争も国民生活の維持もアメリカに大きく依存していたから、日本へのソ連の宣戦布告を希望するゆえか否かは不明だが、ソ連に対して融和的なルーズベルト大統領はじめアメリカの意向を考慮して、ソ連に対して遠慮しなければならなかったということなんでしょうか。だとするとアメリカの責任も小さくはないわけですね。また、もっと根本的な問題として、ポーランドへの侵入を理由にドイツに宣戦布告したイギリスとフランスが、同じようにポーランドとの条約を破ってポーランドに侵入したソ連に対しては宣戦布告しなかった理由がなんだったのか不思議に思え、本当はこのへんのイギリスの対応にも遠因があるのだろうと感じます。ドイツだけで手一杯で、できればソ連とドイツを戦わせたかったのは分かるんですが、当時、それへの宣戦布告は検討されなかったのか、気になってしまいました。

本書のテーマからは少しはずれますが、本書からもスターリンのソ連は際立って異常だと感じてしまいました。スターリンが異常な人だったのは確かですが、弾圧を実行するには末端で実際に手を下す人たちが多数必要なわけで、スターリンが異常だっただけではなく、NKVDなどの下っ端職員も含めて異常だったんだと思います。もちろん中には自分の身を守るため、生活のために仕事をしただけという人もいるのでしょうが、それだけではああいうことにはならなかったのではないか。スターリンだけでなくソ連の抑圧旗艦の職員にも、理想の社会を作り上げるためには敵と敵からの妨害を排除しなければならないという使命感があったからこそ、ああいったことが実行できたんでしょう、きっと。戦後のポーランドの初期の施政者の中には同じような使命感をもった人が少しはいたのかも知れませんが、その下の公務員たちはやはり生活のために働いていただけなんだろう、だからポーランドの統一労働者党政権が長期間の安定をみることはなかったんでしょう。世紀を単位とした長い目で見ると、スターリンの奸策もポーランドの人のロシアに対する見方をさらに一層厳しくしただけに終わったと感じます。

ワルシャワ蜂起 1944 上の感想

2012年12月1日土曜日

ワルシャワ蜂起 1944




ノーマン・デイビス著
染谷徹訳
白水社
2012年10月10日印刷
2012年11月10日発行





近所の書店で平台に並べられていた本書。だいぶ前に同じ著者のヨーロッパ史を扱った4巻本を読んだことがありますが、ポーランド史の専門家だったとは知りませんでした。 ワルシャワ蜂起というテーマに惹かれて、まずは上巻を購入してみましたが、上巻だけで556ページもある厚い本です。そのうちの373ページはワルシャワ蜂起よりはるか昔、チュートン騎士団やリトアニア・ポーランド王国の頃からポーランド分割、第一次大戦、戦間期のポーランドなどの歴史を説明する第一部にあてられています。著者は
中東欧地域の多数の国々では、第二次大戦の終結は、ひとつの全体主義国家による占領の終わりではあったが、同時に別の全体主義国家による占領の始まりでしかなかった。
蜂起が終焉を迎えた時点、または1945年5月の時点で物語を打ち切り、その後に生き残った人々が幸せに暮らしたかのような書き方をするとしたら、それは決して公平なやり方とは言えない
と記していて、第一部に書かれているような知識が基礎にないと、ワルシャワ蜂起や第二次大戦後のポーランドについての理解が難しいと考えているようです。でもまあ、私はそういったあたりではなく本書には汗握る場面の方を期待していたので、多少じれったく感じたのも確かです。第一部には歴史に加えて開戦後の様子も描かれています。
地下国家が機能し得たのは、すべての国民が抵抗運動を支えることを暗黙のうちに了解していたからである
イギリスから飛行機で潜入したポーランド亡命政府の密使がワルシャワで国内軍の秘密会議に出席し、会議のあと街に出たところでゲシュタポに呼び止められ、どこから出てきたんだと尋ねられます。咄嗟に彼は近くの歯科で治療をして出てきたと答えました。ゲシュタポは裏を取るためその歯科に電話を入れますが、歯科医はそういった人をたしかに今まで治療していたと答え、見ず知らずの人を亡命政府の密使とは知らずに助けます。戦闘シーンだけでなく、こういったエピソードの中にもポーランドの人たちの気持ちがみえるようです。

第二部ではワルシャワ蜂起のありさまがイギリス、ソ連の意向など外部の状況ともあわせて述べられていました。本書の特長の一つは、ワルシャワ蜂起をいろいろな立場で経験したポーランドやドイツやイギリスなどの人々の日記や手記を、囲み記事として紹介していることです。これらに記されたエピソードにはとても興味を持ちました。もっとたくさん載せて欲しいくらいですが、生き残った人は少なそうですから、そうも行かなかったしょうね。

さて、本書の文章はこなれた日本語で、翻訳臭さはほとんど感じません。そういう意味ではよくできているのですが、問題点も多々あります。まずは訳語で、本書冒頭の口絵写真の説明文をみたところで、がっかりしてしまいました。ドイツの軍用車輛の説明文なのですが、自走強襲砲StuGとか機甲兵員輸送車っていうのはないでしょう。当然、慣用されている訳語である突撃砲、装甲兵員輸送車と訳すべきで、そうでないと雰囲気ぶちこわしです。なぜ訳者が自分独自にあみだした言葉を使うのか、その意図が分かりません。また本文中にも、例えばテレタイプを「電信印刷機」と訳していたり(どうしても商品名を使いたくないのなら、Printing Telegraphなんだから印刷電信機とすべきでしょう)、二重星形エンジンを「双座星形エンジン」と訳したりなど、訳者独自の用語が散見されます。同じ訳者の「スターリン 赤い皇帝と廷臣たち」を読んだ際にはちっとも気づかなかったのに、ひとたび気になるとこういう違和感は強くなるばかりです。

誤訳と呼ぶべきものも見受けました。例えば、ノルウエー戦の「ナルヴィクでは、またポーランド海軍の戦艦三隻が作戦に参加した」とか、フランス敗北後にアルジェのフランス艦隊がイギリス部隊に攻撃され「戦艦数隻が撃沈され」たとか。事情を知らない人が読んだら、ポーランドは3隻も戦艦を保有していたんだとか、ほんとうに戦艦が沈没したんだと思っちゃうでしょう。プロの翻訳者ならば戦艦ではなく軍艦と訳してほしいものです。ただ、このあたりは原文が想像できるからまだましな部類です。読んでいて本当に困るのは誤訳なのか、原文に誤りがあったのか判断に迷うような文章です。いくつか例をあげると、
1944年当時、無線電信と無線電話の開発はまだ始まったばかりだった。 29ページ
日露戦争についての本ならばいざ知らず、1944年の時点で無線電信の開発が始まったばかりだったはずはなく、一読しておかしいと感じる内容をもつ文章です。ただおかしさの原因が、原文の「1944」という数字に誤りがあったからなのか、上記の例のように「無線電信」という単語が一般的に使われているものと違った意味を持つ訳者独自の日本語の単語の使用によるものなのか、判断に苦しみます。
パレスチナに到達したアンデルス軍は予備役部隊として英国第八軍に編入された 79ページ
ソ連からイラン経由で脱出したポーランド軍団についての説明ですが、予備役は変。きっと予備として控置されたということなのだろうと想像します。でも著者独自の「予備役」の用法なのかもしれないし、また原文に予備役と書かれていた可能性も否定はできないし、どちらがこのおかしな文章の原因なのか私には分かりません。
強制移送作戦のために親衛隊集団指導ユルゲン・シュトロープ中将に率いられてゲットーに入った約3000人のドイツ軍兵士と武装警官に対して、手榴弾と銃弾の雨が降り注いだ。 315ページ
ユルゲン・シュトロープさんはワルシャワ蜂起の鎮圧に失敗したSS指揮官の後任としてワルシャワに赴任した人物のようですが「親衛隊集団指導」っていう肩書きは何なんでしょう?親衛隊指導者というのが親衛隊の中将に相当する階級のようですから「者」を落としてしまっただけでしょうか。ワードプロセッサの入力ミスみたいなのはほかにも散見されますからそうなのかもしれません。でも上記のような訳者独自の単語の可能性も完全に否定はできず、ふだん見慣れない単語だけに迷います。
ワルシャワ郊外の鉄道線路上には機甲列車が配置され、高性能爆弾の一斉砲撃に最適の地点を探して移動していた 397ページ
機甲列車なんていう日本語の単語にはお目にかかったことがないし、当然、一般的につかわれる「装甲列車」と訳すべきでしょう。事実430ページには装甲列車という単語がつかわれていますし。また高性能爆弾の一斉砲撃という表現にも違和感ありあり。砲撃につかうのは砲弾で爆弾ではないでしょう。原文にはhigh explosiveとあったので高性能爆弾としてしまったものかもしれませんが、榴弾とすべきですよね。

ワルシャワ蜂起 1944 下の感想

2012年11月22日木曜日

東アジア書誌学への招待





大澤 顯治編著
東方書店
2011年12月20日 
初版第一刷発行

中国や日本の書誌学者が学習院大に招かれて行った漢籍に関する連続講義を二分冊にまとめたものです。この第一巻は、漢籍の基礎的な知識を扱った第一章、中国国内や日中間などでの漢籍の移動を扱った第二章、学習院大学に所蔵される漢籍コレクションの来歴・内容などをまとめた第三章に別けられ、それぞれ数人の筆者が執筆しています。漢籍に関するオーソドックスな知見も読んでいて勉強になりますが、専門家ではない読者の私の興味をひくのは雑学の方。いくつか例をあげてみます。
中国で当たり前にいう「西漢、東漢」という言い方が日本ではまず用いられないのも知識人のフィルターに掛けられた中国知識の性格を示している
日本では漢(前漢)・後漢と呼ばれる王朝が、中国では西漢、東漢と呼ばれていることを不思議に思っていました。日本で中国の歴史書を読んだのは知識人ばかりだったので漢書・後漢書を手に取った、中国では一般の人も白話で書かれた史書を読み、それら俗な史書の書名や記述に西漢、東漢がつかわれていたので、それが続けて使われることになったのだそうです。
広東語由来の表記をする日本語と上海語由来の表記をとる現代中国語で漢字表記が異なるようになった
仏国と法国、米国と美国といった具合に、日本と中国とでは異なる漢字表記をする国名がありますが、これもなぜなのか不思議でした。もともとは広東語による漢字表記が一般的で日本はそれを使い続けているのに対して、その後さらに広く普及した上海語による漢字表記が中国では一般化したからなのだそうです。
日中間の古典籍の流れは両国の政治情勢や社会経済の活動と密接な関係があり、一般的に言えば、古典籍の貴重書は経済的な実力があり、比較的安定した地域に流れていった。そのため、日本にあった中国の古典籍は明治初期には大量に中国にわたったが、明治30年代以降になると、流れの方向が徐々に変わり、中国の社会経済の衰退と政治情勢に不安定とを背景として、とくに1900年の義和団事件と1911年の辛亥革命などの戦乱や革命の影響によって、大量の古典籍が安い価格で日本に渡ってきた。
日本所在の宋、元版漢籍の価値は高い
漢籍の中でも古く貴重な宋本・元本を所在地ごとにみてみると、中国に3500、日本に1000、台湾に712、アメリカに125くらい。韓国とベトナムについてはしっかりした統計がないそうですが「いくらか」しかないそうです。朝鮮半島にはかなりたくさんあるのかなと思っていたのと、日本にこんなにたくさんあるとは知らなかったのでとてもびっくりしました。またこれらの貴重な漢籍の日本への流入は、明治以降ずっと続いていたのかなと思っていましたが、明治30年代頃までは流出していたという指摘にも驚かされます。でも明治維新で多くの人々が漢籍からヨーロッパの文物に目を転じた事情を考えれば、これは当たり前ですね。

日本に1000あるという宋本・元本を、日本への輸入時期ごとに分類して数を示した研究なんかもあったら面白いだろうなと思います。平安・鎌倉時代には古典籍としてのプレミアムはついていなくとも、最先端の技術の産物ということでやはり高価ではあったでしょう。また、江戸時代に輸入された宋本・元本があったのかどうかも気になります。この頃にはすでに相当のプレミアム付きでないと輸入できなかったでしょうから、日本人が買い付けにいったわけでもなく、見込みで仕入れる中国人輸入商が運んできてくれたものかどうなのか。また江戸時代については漢籍の年ごと・船ごとの漢籍のおおまかな輸入数を推定した論考が本書に載せられています。数の推定ができると、次には金額の推定も欲しくなります。生糸や砂糖や漢方薬原料の国産化がいったん完成した時期、書籍の輸入額は日本の対中国輸入額のどのくらいを占めていたのか。などなど、まあいろいろと興味をかきたててくれる本でした。

2012年11月9日金曜日

イスラエルとは何か




ヤコブ・M・ラブキン著
平凡社新書643


イスラエルとパレスチナおよびその周囲の国々の関係をみていて不思議なのは、アメリカ合衆国をはじめ西側先進国のイスラエルに対する依怙贔屓とも思える態度です。古くはバルフォア宣言以来、イスラエルにはイギリスなどからの支持がありました。その支持を背景に六日戦争、ヨム・キプール戦争に勝利し、エジプトと平和条約を締結してその地位を盤石なものとしたかに思えたイスラエルですが、パレスチナの人々との関係を安定させることはできませんでした。パレスチナ側にとって厳しい条件のオスロ合意に対してもイスラエル国内での合意は得られず、インティファーダにつながってしまいました。遠くの日本に住む私の目からは、狭い自治区に押し込め、外部との交通を制限し、低い生活水準・高い失業率をパレスチナ人に余儀なくさせているイスラエルの理不尽な仕打ちが諸悪の根源だとしか思えません。それなのになぜ自由と人権を旗印にしているはずのアメリカ合衆国や西側先進国がイスラエルを支え続けるのか?という私の疑問に本書は
西洋がイスラエルに差し伸べてやまない支持の背景には、実際に移住を目的として生まれてきたこの最新の植民地国家が、いくつもの点で、かつてイギリスとフランスが世界中に所有していた植民地の歴史にもつうじる深いヨーロッパ的性格にねざしたものであるとの認識が横たわっています。
シオニスト国家が西洋との間に保つ――そして絶えず補強に努める――同族感情の有機的な絆に目を向けるならば、イスラエルが、ヨーロッパの諸列強や、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどヨーロッパの旧植民地から身を起こした大国の側から常にとりつけている一種の免責特権もおおかた説明づけられるでしょう。
依怙贔屓にも似たイスラエルの処遇には、かつてナチス・ドイツが手を染めたジェノサイドの蛮行について西洋が抱き続ける罪悪感が関係していると見る論者もいますが、この要因も、今日イスラエルが中東地域において肩代わりしている西側の利害関係に比べるならばさしたる重みをもたないように思われます。
と答えてくれていました。ナチス・ドイツの蛮行に対する償いが主な理由ではないという指摘は意外な感じがしましたが、最後の植民地国家だと説明されれば、ああそうかと納得できます。さらに
イスラエル=パレスチナ紛争に持続可能な解決策を求めるなら、それは一種の脱=植民地化のかたちを取らざるを得ないはずです。しかし、シオニストの入植者たちは、かつてのアルジェリアにおけるフランス人入植者とは異なり、もはやほかに帰る場所をもたないわけですから、パレスティナの脱=植民地化は、南アフリカ共和国の先例を参考にする以外にないでしょう。
という指摘も、とても鋭いと感じました。
本書の出版の経緯について訳者あとがきには、「トーラーの名において」のフランス語版オリジナル原稿を大幅に圧縮し、そこへ新たに以下の四章を付け加えるかたちで、日本語の新書版を念頭に置きながら書き下ろしたものです、と解説されていました。2012年7月に読んだ「トーラーの名において」もとても勉強になる本でしたが、税込み5670円と安くはありません。その点、本書は924円とふつうの新書の値段です。しかも日本人の私から見ると同じものとして捉えてしまいがちな、ユダヤ教とシオニズム、ユダヤ教徒とイスラエル国民、イスラエルといったものの関係を分かりやすく説き明かしてくれていますから、まずこちらを手に取ることをオススメします。

「トーラーの名において」を読んだとき、著者と同じような立場に立つユダヤ教徒がどのくらいの数いるのか、少数派だとしてもイスラエル、アメリカ合衆国、ヨーロッパなどのユダヤ人のなかでどのくらいの比率を占めているのか、知りたく思いました。本書には
シオニズムの支持者との比較においていうならば、それに異を唱える人々は少数にとどまり、世界全体でもおそらく数万人の域を出るものではないでしょう
と書かれてあって、予想よりかなり少ないようです。近代は人が宗教に依存しなくなる時代なので、こういった考えを支持する人の基盤である敬虔なユダヤ教徒の数自体が減ってきているのでしょうから、こういった数字なんでしょうね。また著者によるとユダヤ教の平和主義は徹底したもので、
もしもシオニズムの罪がなかったら、ヨーロッパの惨劇は起こらなかったであろう。
破壊は、シオニストたちの罪に対する報いとして起きたのだ。
というように、ヒトラーとナチズムさえもシオニズムの直接の帰結と解釈します。そういった悲劇に武器をとったり、新たな国を建てることで立ち向かおうとするのではなく、正しいユダヤ教の信仰を守ることで悲劇を防ごうとするものなのだそうです。日本国憲法の平和主義は平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼してというものですが、ユダヤ教の方は諸国民がどうかは問題とせず自らの信仰を信頼するというものですから、もっと徹底しています。日本でも平和ボケなんていう言葉で平和主義を馬鹿にする人がいますが、周囲の国との緊張がさらに高く、うちにもパレスチナ人や被ユダヤ教徒の住んでいるイスラエルでは「平和ボケ」以上にきつい口調で著者等の立場を受け入れない人が多いのかもしれません。

2012年11月4日日曜日

新しいiPad(第4世代)買いました


新しいiPad(第4世代)を買ってきました。miniではなくて、大きい方のiPadです。2011年5月にiPad2を手に入れてからまだ1年半ほどしかたっていませんが、自宅でのweb siteの閲覧にはiPad2が欠かせません。しかし、7月にretinaのMacBook Proを買ってretina displayに眼が慣れてしまうと、iPad2のディスプレイでは満足できなくなってきました。これまで長い時間おつきあいしてくれたiPad2さんにはとてもとても感謝しつつも、第3世代の「新しいiPad」にすこし興味がわいてきながら、さすがに2世代続けて購入するのはどうかなと思っていたところ。ちょうど、そんなところに、予想されていたiPad miniに加えて、このA6搭載の新しいiPadが発表されたわけですから、もう我慢できずに買いに行ってしまいました。近くのビックカメラにiPad miniの在庫はありませんでしたが、iPadはふつうに買えました。iPad2は64GBモデルをもっていたのですが、私の使用状況だとメモリが半分以上あまっていたので、今回は32GBモデルを選択しました。色は当然、黒。ディスプレイの周囲が白は下品です、私的には。

ごく短時間ですがつかってみての感想をいくつか。箱から取り出したときから99%充電されているのは親切ですね。そして、母艦のrMBPとつなぐのにLightningコネクタを使いましたが、これって細くて短くて頼りない感じがします。接続コード一般に、コネクタとコードの接続部がだめになりやすいと思うんですが、Lightningコネクタは、コネクタ自身と本体との関係が心配。でも本当は、みかけや触ったかんじよりもっと丈夫にできているのかもしれませんが。あと、うちのiPhoneは4Sなので、しばらくLightningコネクタと30pinコネクタの両方を用意しなければならないのが少し面倒ではあります。

ディスプレイに指が触れると、iPad2よりもしっとりしていました。持ってみると、iPad2より重く感じました。実際に重さをはかってみると、iPad2は594.5gで、新しい方は648.0gでした。自宅内だけで使用している者の希望としては、充電の回数が増えてもいいから、もっと軽くして欲しい。

文字がくっきりしていて、retinaディスプレイは美しい。また、iPhone用アプリの2倍モードの時の文字のぎざぎざがずっと目立たなくなりました。大満足です。私のiPadは、自宅内でなにか読むのに使うことがほとんどですから、ディスプレイの美しさ、文字の読みやすさはとてもありがたいのです。

アップル製品のいいところは、買い換えた後の設定が楽なこと。iTunesにつないで「バックアップから復元」とすれば、一般的な設定はそれでおしまい。そしてiPadの起動が済んでからもう一度iTunesにつなぐと、今までのiPad2でつかっていたアプリなんかを全部コピーしてくれます。iPad2の方のSafariで開いていたページまできちんとそのまま再現してくれるんですから、こういうところは本当に良くできています。

ところで、iPad miniを買う人たちはどんな風につかうんでしょうか?外に持って出るという用途であればiPad miniもありだとは思いますが、自宅内でしかつかわない私にとっては小さすぎます。ふつうのiPadを縦長にweb siteをみるんでも、小さいと感じることがあるくらいなので。

2012年10月22日月曜日

近代日本語の思想




柳父章著
法政大学出版局
2011年5月10日 初版第2刷発行


翻訳文体成立事情とサブタイトルにあるように、私たちがふだんつかっている近代日本の書きことば(現代口語文とも呼ばれるが話しことばとしてはつかわれない)は、西洋語の翻訳をとおしてつくられたのだということが、たくさんの実例とともに示されていました。たとえば「主語」が翻訳でつくられたことの証拠として大日本帝国憲法をあげ、各条文のほとんどが「~ハ」ではじまる様子を悪文だと述べるとともに、文体の調べの異常さを十七条憲法や武家諸法度と比較して示しています。「主語」、過去を表すとされている「た」、終止形の起源など、どれもこれも納得させられてしまう説明ばかりでした。

ひとつ疑問なのは、新しい書きことばがつくりだされた理由です。明治以前にも、抽象的な議論を記した文章やそれを集めた書物が存在していました。それらに用いられていた文体、漢文の書き下し文・和漢混淆文に西洋語から単語だけを借用して、西洋由来の近代的な概念を表現することはできなかったのでしょうか?

たとえば「~は」という文体で抽象的な概念を扱った文章というと、私の貧弱な知識の中でも、高校の漢文の時間に習った孟子の四端説のところの書き下し文「惻隠の心は仁の端なり、羞悪の心は義の端なり、辞譲の心は禮の端なり、是非の心は智の端なり」が思い浮かびます。こういった表現があったのだから、この流儀だけで西洋文翻訳を行うことはできなかったのか。また大日本帝国憲法も
第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス 
第二条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ繼承ス
ではなく
第一条 大日本帝国ノ事 万世一系ノ天皇之ヲ統治スベシ 
第二条 皇位ノ事 皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承スベシ
などと書いてもよかったのではと思うのですが、どうなんでしょう?まあ、そういった旧来のやり方も不可能ではなかったけれど、単に時代の気分が新しい文体を求めていたということなのかもしれませんが。あと、本筋からははずれますが、『我が輩は猫である』は、斬新高級ハイカラな「~ハ」文体への風刺だという指摘など、鋭い指摘もたくさんあって、とても勉強になりました。

2012年10月14日日曜日

日中危機はなぜ起こるのか

リチャード・C・ブッシュ著
柏書房
2012年1月25日 第1刷発行

今年の尖閣諸島をめぐる日中間のトラブルを予見するかのように、本書は2年前に書かれました。著者は日本人でも中国人でもなくアメリカ人で、この問題の背景にある日中両国政府の情報・意思決定システムなどの機能不全、両国の国民感情、領土問題の解決を難しくさせている歴史問題など、両国の事情を比較しやすいかたちで説明してくれています。日本とアメリカとは日米安全保障条約を結んでいますから、アメリカ人を公平な第三者とみなすことはできません。しかし本書の内容を読むと、とても公平に書かれていると私は感じました。勉強になった点は、以下のようにたくさんあります。
もし台湾と中国のあいだの政治的紛争から突如、衝突が勃発し、アメリカが台湾防衛に駆けつけることになれば、アメリカの同盟国である日本は、最終的に中国と戦争することもありうる。実際には、中台間に紛争が起こる可能性は、2008年の台湾の政権交代以降、大きく減少しているため、最初の二つの争点の方が気がかりである。
二つの争点というのは尖閣諸島/釣魚島の領有権問題と、海上油田とガス田の開発権問題です。アメリカ人の著者の目からも、現在では台湾海峡をはさんだ二国(台湾も国家)間の問題よりも日中間の問題の方がより厄介なものにみえるわけで、それは本書のサブタイトルが「アメリカが恐れるシナリオ」となっていることからも明らかです。尖閣諸島周辺では海上保安庁と中国海監総隊という法執行機関同士が対峙しています。海上保安庁が警察行為として最初に武器を使う可能性は小さくないと著者は指摘しています。たしかに、最近も巡視船が台湾の船に対して放水を行っていますから、日本の主張する領海に侵入・上陸しようとする「民間人」が武器を所持していたりすれば、それが巡視船側の武器使用に結びつく可能性は否定できません。さらに法執行機関の後ろ盾として両国海軍の艦艇が介入し、その現場指揮官の独断専行により衝突が段階的に拡大する。目にしたくない光景ですが、たしかにあり得るシナリオです。
衝突が長引くほど日本側が戦術的勝利をおさめる可能性が高いと考える専門家もいる
と著者は述べていますが、
日本が緒戦の勝利を受けて和解の用意を示しても、人民解放軍が強硬で強制的な対応(沖縄上空へのミサイル発射、尖閣諸島占領など)を要求する
こうなると和解は実現しがたく、強硬な姿勢を声高に主張する者に発言権が移り、日本は苦境に陥いることになります。事態をこう展開させないためにはどうすべきなのか。両国の政府・国民やそれぞれの背景をみてみると、
日本は人民解放軍の増強とその照準に相矛盾した感情を抱く。どのように対応するべきなのか。友好関係に期待するのか。自国の軍事力を増強するべきか。それともーー戦後ずっとそうしてきたようにーーアメリカとの同盟関係をあてにするのか。 
アメリカ政府にとって、同盟国を守るか、それとも世界的な協力を求めている新興大国との関係を維持するかという選択は、悪夢である。アメリカがこの選択を迫られた場合、国益についての明確な認識、紛争を激化させる誘惑を避けるための決意と技能が必要となる。紛争の激化を防ぐためには、そもそも紛争がはじまる可能性を下げるために、すべての当事者が努力しなければならない。 
日本が特別な民主主義体制、中国が権威主義体制という両国の政治体制の違いにもかかわらず
見捨てられることを怖れる日本と、戦う準備をせず同盟の責任を果たさない日本の紛争に巻き込まれることを怖れるアメリカ。先だっては尖閣諸島も日米安保条約の適用範囲だとアメリカから口先介入がありましたが、実際に実力行使の応酬となったときにアメリカは何をしてくれるのか。せいぜい停戦を呼びかけるくらいでしょうか。本書の中で著者は日本を「特別な民主主義体制」と述べています。「特別な民主主義体制」はなんぞや?特に定義は述べられていませんが、当然ふつうの西欧民主主義国とは別物という認識でしょう。日本をサポートするとしても喜んでというよりは、見捨てると他の同盟国に対して示しがつかないからということになるのだと思います。フォークランド紛争でイギリスに対して示したほどのサポートは期待できないところ。
中国も日本も、外部の者に信じさせようと思っているほど、あるいは外部の者が期待するほどには軍事作戦行動において平和主義者ではないのである。中国は日本よりも明白な戦略文化をもっている。専制的な性格の文化である。そのうえ、人民解放軍は自衛隊よりも文民当局から自立して戦略文化を作る自立性がある。しかし、みてきたように、日本の戦略文化の防衛的かつ妥協的な側面は、任務が国内に近づくにつれて目立たなくなり、もっと攻撃的で専制的な態度がはっきりみえてくる。 
日本は東アジアの海上における現状に比較的満足している。その点はアメリカと同じだ。自国と、自国の安全保障に対して認められる潜在的脅威のあいだに、より大きな戦略的緩衝地帯を築くために現状を変えようとしているのは中国である。 
この空間には、両大国を誘い込み衝突の危険を発生させる摩擦点がいくつか存在する。人民解放軍にも自衛隊にも、衝突を封じ込めるのではなく激化させうる制度上の特徴がある。 
中国と日本の実力組織が衝突する可能性は低いかもしれないが、両政府が衝突を封じ込めて外交的危機を防げる見通しは、低いと断定できる二つの理由がある。まず、どちらの政府も危機管理体制が整っていない。また、どちらの国でも、日中関係に関する政治はすぐにとげとげしくなり、それが危機を封じ込めようとする政策決定者の手を縛る。
この夏の中国国内の反日デモを見ても分かるとおり、この二つの理由のうちの後者は重要です。両国政府の能力と、両国国民の相手の国に対する感情を考えると、いったん武力の応酬が起これば事態の収拾は極めて困難になってしまうでしょう。たとえ中国政府が善意に満ちていたとしてもです。
日本と中国の国防組織にも文民政府にも、政治指導者による対外関係の処理を面倒にする側面があるが、両国の政治がそれをさらにむずかしくしている。日中間の偶発事件に両国の世論が大きく反応すると、選択枝が狭まり、両国の強硬派が勢いづき、両政府が互いに強攻策をとる誘因となる。 
中国世論の一部が日本に抱いている敵意はあまりにも強く、政治行動に繋がる潜在力があるため、日中の軍事組織の舞台が衝突した場合、中国の指導部は抑制された対応をとるのが困難になる。世論の圧力のため、強力に対応せざるを得ないと結論するだろう。そのうえ、国家主義的な大衆の一部は、体制側が管理できないサイバー攻撃能力を有している。中国に対する国民感情はかなり否定的である。他方、中国は日本の政治においてとくに目立つ争点にはなっていない。メディアは国民感情の形成に重要な役割を果たしているが、それも日本人の恐怖につけ込む形である。両国の軍隊のあいだで衝突が起きた場合には、その力学が働くだろう。 
中国についての日本人の世論は二十五年前には好意的だったが、いまはまちがいなく相当に否定的である。 
反中感情は日本の行動の原因というよりも中国の行動に対する反応である。いい換えれば、北京の言動が日本人に以前の肯定的見方に疑問を抱かせるにつれ、日本人の中国についての考えはますます否定的になっている。 
客観的な利害のためには両国が瀬戸際から撤退する必要があるとはいっても、指導者は降伏したとの印象を与えるような結末よりも、紛争の拡大のほうがましだと思うかもしれない。瀬戸際からの撤退をやり遂げるには高いスキルが必要だ。 
日本政府は過去を十分に償っていないと批判されることも多いが、実際には(朝鮮の)植民地支配と(中国などに対する)軍事的侵略を謝罪しており、過去の日本の行いを償おうとしてきた。しかし、日本の懺悔の程度は、最も適切な比較対象であるドイツに遠く及ばない。
和解の最大の障害は、歴史問題を長引かせることで政治的利益を得る勢力が両国に存在するという現実だ。
日中間の問題を難しくさせている大きな原因に歴史問題があります。土下座外交だとか日本はもう充分に謝罪したではないかという日本人もたくさんいます。でも、西ドイツのブラント首相はワルシャワで文字通り跪いたし、ヴァイツゼッカー大統領は過去に目をつぶる者は未来に対しても盲目となると演説しました。日本の政治家はそれに匹敵するようなパフォーマンスはしてこなかったし、国内からは施政者の努力を無にする批判が絶えませんでした。20世紀前半の日本の中国に対する行為が謝罪に値することは確かだし、謝罪というのは相手側の赦しを得ることで完成するものなのに。たしかに中国の人たちや国家から赦しを得ることが困難だったことは分かるし、謝罪を続けることを苦痛に感じる日本人のいたことも理解できないわけではありませんが、日本の国益を考えるなら、中国の赦しを得ておくことが上策でした。敗戦から数えてももう70年近くになるのに、それを達成できなかったことは日本外交の失敗です。そして中国の現状をみると、今後もこの上策の達成はまず不可能でしょう。上策の実現が無理なら、せめて中国以外の世界の国々から、日本は充分に謝罪したからもうこれ以上の謝罪は不要だと声をかけてもらえる状態にするのが次善の策だと私は思います。この次善の策を実現してゆく過程で、日本国内から謝罪疲れなどと発言をするのは、国益に反する妨害行為だと私は思います。謝罪という行為に対してどういう考えをもっているにしろ、日本のためを思うならせめて口をつぐんでいてほしいものです。こういう事態になった主な責任は20世紀前半の日本の政治家にあるわけで、戦後の施政者が無能だったからではありません。あの人たちが馬鹿なことをしなければ謝罪は必要なかったし、尖閣諸島や竹島どころか台湾も朝鮮半島も日本領のままでした。植民地独立の波に乗って朝鮮・台湾が独立していったとしても、その際には日本の思った通りの国境線を画定することが充分に可能だったでしょうから、こんな小さな島の問題で争う必要なんてなかったのに。

また、中国側の尖閣問題の取り扱い方もけっして上手だとはいえないと私は思います。様々な社会問題を抱えた中で国内の統合をはかるため、領土問題と歴史問題で日本を敵として国民を団結させる政策をとって、日本の世論を敵にまわしたこと、世界のリーダーを目指す国としての度量を示せなかったことは、中国が将来、東アジアや世界でリーダーとして振る舞う時にきっと不利益をもたらすことになるでしょう。日本人だけではなく、世界中、特に南シナ海上で中国と係争中の国々、チベット、インドもこの問題を注視しているでしょうから。でも、日中危機の解決に立ちはだかる問題点は複数あって、
第一は、両国の軍事組織と統治機構の問題だ。日本と中国が何らかの形で衝突すれば、両国の機構・制度は事件を封じ込めるよりも激化させる方向に作用するだろう。第二は、国内政治の問題だ。とくに中国では、衝突事件自体よりも大衆の反応のほうが深刻な事態を招くだろう。 
米中和解が成功したのは、何よりもまず毛沢東が、もうろくしていたとはいえ、確固たる最高指導者だったからだ。第二に、当時の中国に世論は存在しなかった。第三に、米中両政府は完全な秘密外交を行うことができた。今日では、どんなに素晴らしい外交政策も、統治機構と国内政治に由来する要素によって実施を妨げられるだろう。
また国際仲裁については、
日中が自分たちだけで実質的な合意に達する可能性を諦めて、国際法廷にこの問題の審判を仰ぐ手法だ。しかし、両国が同じように受け入れ可能な判決よりも、どちらか一か国には受け入れられない判決が下る可能性の方が高い。実際のところ、日本は中国よりも多くを勝ち取ることを期待して、国際仲裁を歓迎するようだ。そこで中国は二国間交渉の方を選ぶ。二国間交渉は進まないが、国際仲裁の結果は対日関係を改善するどころか悪化させる可能性が高いので、良い選択枝ではない。
とのこと。著者が本書ラストの第13章「何をなすべきか」で示している打開的な進展の提案も、「中国で政治が主導しなければならない」と繰り返されていて、日本側ではなく中国側がその気にならなければ進展しないものです。最後まで読んでみて、日中危機に容易な解決策のないことがよく分かりました。さらに著者が指摘するように、この問題の解決を国際的な組織に委ねることを中国が拒むのだとしたら、素直に白旗を掲げる、つまり尖閣諸島が日本の領土だという主張は取り下げ(中国領だとみとめると台湾に申し訳ないが)、日中間の国境を画定させるくらいしか手がないような気がしてしまいます。国際仲裁を拒むなんて中国人はひどい奴らだと感じる人もいるでしょうし、私もそう感じはします。でも、満州事変のリットン調査団の報告に対して「連盟よ、さらば」と席を立った松岡洋右を歓呼で迎えた日本のマスコミ・国民のことを思うと、そうそう中国を批判もできませんよね。

あと気になるのは、尖閣諸島問題について、沖縄の人たちはどう考えているのかという点です。とくにまとまった見解というのはないのかしらん。なんでこんなことを気にするかというと、沖縄に独立の動きがあるのなら私はそれに反対しない立場だからです。米軍基地の移転問題などで独立をなんとはなしに考え始めた沖縄の人は少なくないでしょう。もし本当に独立の途を歩むのなら、私はサポートするつもりです。そして沖縄に独立の見込みがあるのなら、尖閣諸島の将来については、北緯27度線以北にすむ日本人ではなく、沖縄の人が中国や台湾と交渉して決めるべきで、沖縄の人の希望が実現するよう支持することに徹するべきだろうなと思うのです。

2012年9月29日土曜日

戦友会研究ノート




戦友会研究会著
青弓社
2012年3月14日 第1刷発行


私の親にも従軍経験はないので、戦友会というのは縁が遠い存在です。戦友会と聞くと、旅館で宴会する老人の団体さん、むかしむかし上野広小路の松坂屋の入り口のところでハーモニカを吹きながら物乞いしていた傷痍軍人さん、TVでみた寮歌祭みたいなものを思い浮かべてしまっていました。でも、軍隊体験者たちのうち、将官や佐官は別として尉官・下士官・兵は若い世代でしたから最初から高齢者の集まりだったわけではありません。また徴兵された人たちは、エリートまたはエリート意識をもち続ける旧制高校出身者とも違う存在で、私の連想がかなり見当外れだったことが本書を読んでよくわかりました。さらに、集まれば宴会になることが多いわけですが、
見た目は普通の宴会と特に異なるわけではない。事務報告や挨拶・スピーチがすめば陽気で賑やかな宴会風景となる。ただ歌のあいだも、献酬のあいだも、語り合いが続けられていく。宴会で、そして小部屋に分かれてから夜遅くまで語り合われるのは、もちろん共通の戦争体験である。そして、あの時だれがどうしたという話が繰り返しなされていくなかで、個々の記憶は寄せ集められて「集団の記憶」となっていく。その多くは悲惨な戦闘についての話であるが、どの戦友会にもそうしてできあがった「物語」がいくつかある。
とのこと。戦後の日本では軍・戦争に関することを表だって語る場がなかったから戦友会に寄り集まったというのはとっても説得的です。もちろん、私を含めた従軍経験のない人の高校大学のサークルの同窓会なんかにも似た点はありますが、死没者に対する慰霊の意識を持った集団である点が大きく異なるわけですね。
戦友会が政治化しなかった最も大きな理由は、戦友会に集う多くの戦闘・軍隊体験者が、政治家やいわゆる知識人に対して根強い不信感を抱いていたため
戦友会も、日本遺族会のような政治性の強い組織なのかと思っていただけに、多くの戦友会が政治から距離を置いていたという指摘はとても勉強になりました。また多くの戦友会が立ち上がってゆく際に、第一・二復員省、厚生省、防衛庁といったお役所の側からの積極的な援助がなかった点も意外でした。恩給受給者などのリストを役所はもっているでしょうに。あと、一般的に女性に比較して男性の中には、会合に出たがらない・群れたがらない人の割合が多い気がします。軍隊経験者はほとんど男性ですから、戦友会の存在を知らされながらまったく出席していない人たちがどのくらいいるのかも知りたいところです。
こうした団体は外国にも存在する(→アメリカの戦友会)。だが、その数や規模の点で、また、メンバーが戦友会にかけた情念やエネルギーの強さといった点で、戦友会は日本独特の現象であると言っても過言ではない。
本書には第一次大戦後のドイツやイタリアの退役軍人・復員兵団体がとても積極的に活動したことが触れられていて、そういう意味では敗戦国(第一次大戦のイタリアもちっとも得しなかった戦勝国)の方によりみられやすい活動なのしょう。ただし、戦間期とは違って、第二次大戦後は復仇を目的とすることの無意味さが軍隊経験者の間にも一般化していたから、日本の戦友会も旧領土の再獲得を目指したりはしなかった。それだけヒト種も賢くなったんだと思います。

私は仕事柄、これまでに4桁の数の患者さんのお宅を訪問(往診・訪問診療)しています。部屋に軍隊時代の写真や乗り組んでいた船(重巡高雄でした)の写真なんかを飾ってある患者さんがいて、その頃の思い出を語ってくれる人もまれではありません。内科医にとって患者さんのお話を傾聴することも重要な役目ですし、私はその種の話を聞くのが嫌いな方ではないので、時間に余裕があるかぎりお聞きしています。高齢になった方ですから同じ話の繰り返しが多く、 家族の人あいてだとまたその話かという反応をされるでしょうからね。

2012年9月22日土曜日

日本統治と植民地漢文

陳培豊著
三元社
2012年8月31日 初版第1刷発行



近代の台湾で使われた書き言葉の変化を論じた本です。ちょうどこの時期、台湾は日本の領有下におかれていたため、日本人の使った和式漢文や和製漢語が大きな影響を与え、また標準化・規範化された辞書教育システムに乏しい中での変化だったことが、台湾の漢文再編の特徴でした。本書ではこの変遷を

  1. 正則漢文(伝統的な文語体):中国だけでなく広く東アジアでも使われていた。台湾にやってきた日本人統治者と台湾島住民との間の意思疎通にも使われた。
  2. 植民地漢文:漢文の「クレオール現象」によって台湾で生まれたもの。近代的な概念を表す語彙として和製漢語が取り入れられ、和式漢文の語順の影響も受けている。
  3. 白話文運動: 中国白話文にならって、台湾でも言文一致を目指そうとしたもの。日本の進める国語教育に対抗して、祖国との文化的アイデンティティの共有を確認するためのものでもあった。
  4. 台湾話文:中国白話文の基準としていた北京語と台湾の口語とがかなり異なっていたため、独自の台湾話文を形成することになった。正則漢文とは違って、漢学の素養のある日本人でも正しく理解して読むことが困難だった。
といった段階に分類して、理解しやすく解説してくれています。台湾の書き言葉の成り立ちについてなんて、考えたこともなかったので、本書を読むことでまさしく蒙を啓かれたという感じがしました。正則漢文では無視できた口語の違いが白話文運動によって明らかになってしまい、台湾語台湾文を生むことになったわけですね。こんな風に日本統治と祖国の間をうまく処理して独自の記述言語を確立した台湾でしたが、日本の敗戦後、中国国民党が支配者となって君臨し始め、特に二・二八事件後は事態が逆転します。
戒厳令や白色テロによる危険思想の取り締まりや言論統制などの理由で、台湾知識人は自由に意見の陳述ができなくなった。 
政治上の弾圧のほかに、台湾人が文化界、言論界から姿を消したもう一つの大きな理由は、新しい支配者が持ち込んだ国語、つまり中国白話文の標準化、規範化がもたらした絶対的な権威であった。
とのこと。なんとも皮肉な現象が起きていたわけですね。だとすると、本書の主題からは外れますが、中国本土ではどうだったのかも気になってしまいます。中国本土でも北京語がひろくつかわれていたわけではなく、台湾と同じ口語をつかっていた地方もありました。そういった北京語以外の話されている地方の人たちは、政治的・文化的統一の維持のために言文不一致のまま白話文運動を受け入れざるをえなくなったのでしょうか。また現在の中華人民共和国でも口語は地方によって大きく違うと思うのですが書き言葉は全国的に統一された状態になっているんでしょうか。
古代の中華文明が大量の漢字漢文を生み出したように、19世紀以後、日本は明治維新で夥しい和製漢語を作り出した。この「言文一致」と新語彙の二本柱に支えられて近代において中国語、ベトナム語、広東語、日本語、朝鮮語は著しい地域差を持ちながらも、一定の共通項を持った言語群として形成されていった。
「言文一致」の影響で、東アジアにおける文体は一元的から多元的へと変貌し、一つの巨大な文体解釈共同体から多数の小規模の文体解釈共同体へと再編されていく。例えば、「言文一致」のプロセスを経て、中国白話文を含めた現代中国語文も漢字を並べて書くという点では、従来の漢文と変わりはないものの、文法的には正則漢文と大きく隔たって一種の変体漢文となっていった。この文体の変容によって、中国白話文は中国人の占有物となり、これまで漢文理解者だった多くの日本人は、その解釈共同体から排除されるようになったのである。
といった指摘も本書にはあり、とても刺激的に感じました。かなり特殊なテーマを扱った専門書にしては3400円と価格も手ごろで、お買い得な本だと感じました。近所の書店で平台に並べられていたのを発見して買ったのですが、平台に並べられているとカバーの装幀がちょっとチープ過ぎかな。

2012年9月14日金曜日

iPhone 5の生産方法は互換性生産方式を越えている?


昨日、iPhone 5が発表されました。少し大きくなったり、Dockが小さくなったり、CPUが速くなったりなどの変化がありましたが、正直なところ、iPhone 4Sから乗り換えようという気分にさせてくれるほどではありませんでした。もちろん、今までのiPhoneたちと同じく素晴らしいiPhoneであることは確かなんですけど。

アップルのサイトで公開されている、iPhone 5についてのビデオを見ました。このビデオを見ていていちばんびっくりしたのは、5分30秒前後から説明されている、筐体の組み立てに関する説明です。部品を筐体にシームレスにはめ込むため、筐体の写真を撮ってミクロン単位で725通りに分類して、ぴったり合う部品を選んではめこむというところです。これって、互換性部品による大量生産の概念を越えているように感じたのです。

銃、ミシン、収穫機、自転車、自動車へと発展していった互換性部品をつかった大量生産のアメリカン・システムは、熟練工による部品の調整を不要にしたことが、画期的だったんだと理解しています。非熟練者でも互換性の部品なら簡単な作業で組み付けることができるからこそ、T型フォードの大量生産が実現したわけです。ところが、このiPhone 5の製造では、互換性部品をさらに分類して、ベストな組み付けの可能な筐体にはめこむのだとか。分類もはめ込むのも機械が行っているので熟練工が不要である点には変化はありません。でも単なる互換性生産の上をいっているような気がします。

現在の機械の製造工場ではこういったことが当たり前に行われているんでしょうか?もしかすると私が知らないだけだったのかもしれないのかな。

2012年9月9日日曜日

大恐慌!


スタッズ・ターケル著
作品社
2010年8月5日 第1刷印刷
2010年8月10日 第1刷発行

500ページ以上もある大冊ですが、スタッズ・ターケルさんの著書の例に洩れず、たくさんの人へのインタビューが載せられています。大恐慌前後の頃について語られていますが、インタビューが行われたのは1960年代後半でした。ですから、これらのインタビューを、大恐慌の記憶そのものとして受け取るべきなのか、第二次世界大戦と戦後の好景気に1960年代の公民権運動やら若者のプロテストを経験したことにより変容を受けた大恐慌の印象として受け取るべきなのかは難しいところではあります。でも、
  • 貨物列車の有蓋・無蓋貨車に無賃乗車して遠くの地域まで職探しに出かける人がたくさんいたこと、警察は取り締まったが、車掌の中には同情的な態度の人が少なくなかったこと
  • 都市では物乞いに歩く人が多かったこと。彼らは自分たちの縄張りの中にある家の勝手口などに、「お金はもらえないが、食べ物だけはある」などの意味の符牒をチョークで書いたりして、お互いに助け合っていたこと。
  • 社会党、共産党といったアメリカの左翼政党の様子。共産党にとっては独ソ不可侵条約の影響が致命的だったこと。労働組合、AFLとCIOとの関係。革命前夜だったと語った人もいるけれど、違うという人の方が多い印象。あるアメリカ社会党員は「われわれが愚かにも連携の重要さを理解しなかったこと、ヨーロッパの左派と強調できなかったこと、アメリカの政治思想の主流から孤立したこと、誰も理解できない特殊な言葉を使い続けたこと。それを認めるのは胸が張り裂けそうです」と語っていました。
  • 破産して競売にかけられた農場・家財のオークションには外部の人が参加できないよう地域の農民が邪魔をして、仲間うちで安値で落札して元の持ち主に戻してあげたこと
  • ニューディールの施策であるWPA、AAA、フェデラル・アート・プロジェクトなどに参加した人の経験談いろいろ。WPAの人間はシカゴのどこでも掛け売りしてもらえなかったとのこと。シカゴ以外でもそうだったんでしょう。この頃でもアメリカは現金ではなくクレジットカードとか小切手で買い物する社会だったんでしょうか?それならかなりの屈辱だったかも。
などなど、語られている個々のエピソードは大恐慌の時代を知らない異国の人間である私には、初めて知ることも少なくなかったし、興味深く読めました。ルーズベルト大統領に対して、評価の低い人は少ないようです。それでも、大恐慌から本当に抜け出せたのは戦争のおかげだと思っている人が多いようです。
大恐慌なんて、黒人にとっては、たいした意味はなかったのさ。ワシらにはひとつ、大きな強みがあった。それは、女房たちさ。商店に行き、袋詰めの豆や大袋に入った小麦粉や豚の脂身を買ってきて、それを料理できる。ワシらはそれを食べられる。ステーキだって?ステーキなんて食べた日にゃ、トタン小屋に入れられたラバみたいに、胃の中で暴れ出すだろうよ。話を戻すが、白人だったら、こういうわけにはいかないだろう。白人の女房は、こう言うだろうからな。「ねえ、この程度のものしか食べさせられないんだったら、私は出て行くわよ。」そういう場面を見たことがあるのさ。ステーキや鶏肉じゃなくて豆を家に持ち帰るなんて、連中には耐えられないだろうさ。
白人に不況が襲いかかったから大恐慌で、恐慌の有無にかかわらず、黒人の就職口はどっちにしろ掃除夫かポーターか靴磨きくらいしかないと語っています。立場によってみえるものが違うんですね。あと、アメリカ南部に生きるという本を読んだときにも感じたことですが、ステーキは無理でも、豆や小麦粉と豚の脂身(つまりラードですよね)で料理したものが食べられるのなら、同時代の日本人と比較すると決して悪くないように思えてしまいます。また、白人の失業者の人は生活保護を受けながら「肉を食べられるのは一週間に一回、土曜日だけです。買うのは二ポンドだけ。あとの日は半ポンドのボローニャソーセージで食いつなぎます。半ポンドで二五セントでした」とのこと。食習慣の違いとはいえ、今の私の食事と比較しても贅沢に感じてしまいます。


2012年8月20日月曜日

森林飽和

太田猛彦著
NHKブックス1193
2012(平成24)年7月30日 第1刷発行

知的な刺激を与えてくれる良書でした。まず、江戸時代から明治の日本がはげ山だったことを示す浮世絵や写真の口絵から始まり、はげ山が飛砂という現象の原因なのだったことと教えてくれます。むかしむかし「砂の女」の映画を観て、安部公房さんはどうしてこんなことを思いつけたのだろうととても不思議に思った記憶がありますが、海岸地帯での飛砂の被害のひどさから着想を得たのだ書かれていました。それにしても、飛砂という言葉を「ひさ」と読むことも知らなかったくらいに飛砂とは縁のない私ですが、それはなぜかというと、
飛砂の害が少なくなったのは海岸林が砂を防いでいるからだけではなく、そもそも飛砂の発生量が減ったからというのが理由であり、なぜ減ったのかという原因を考えていくと、砂浜からは遠く離れたところで、日本の自然環境に大きな変化が起きているという現実に突きあたるのである 
日本全国の砂浜海岸で砂が減り、砂浜の幅が狭くなる事例が報告されている。以前から砂浜が消えることはよく話題になった。原因は地盤沈下だとか、川の上流にダムをつくったからだとか、護岸工事や港湾整備をやりすぎたせいだとか、突堤やテトラポッドのような人工物を設置したためだとか、玉石混淆の議論がなされており、ご存じの方も多いだろう。しかしこれらがいずれも見落としているのが、より根源的な環境である山地・森林の変化なのである 
江戸時代に生まれた村人が見渡す山のほとんどは、現在の発展途上国で広く見られるような荒れ果てた山か、劣化した森林、そして草地であった。この事実を実感として把握しない限り、日本の山地・森林が今きわめて豊かであることや、国土環境が変貌し続けていることを正確に理解することはできないと思われる 
里山とは荒れ地である
山々の木々は、薪炭、農業用の緑肥、建築用材、製鉄・製塩の燃料として使われ、日本の山は荒れていたわけです。しかし、高度経済成長期以降、原燃料としての石油や外材を安価に輸入するようになり、日本の森林の木材の現存量はどんどん増えてきているのだそうです。しかし、使わず手を入れなくなったために里山は
森の植物は生態遷移の法則にしたがって本来の日本の豊かな自然環境を取り戻そうとしているのである
また第二次大戦後に盛んに造林された人工林も
手入れを前提としている森で手入れができなければ荒れるのは当然である 
森林の回復は、実際には”量的に”回復したに過ぎないのであり、日本の森林を”質的に”豊かにするためには、なお多くの問題が待ちかまえているといえる
とのこと。さらに
十四世紀ころまでは日本全体で見れば山地からの土砂流出量と海岸での浸食量はほぼ平衡していたと考えられる。あるいは平衡した状態で日本の海岸線が形成されたと言っても良い 
十七世紀以降半世紀前までは土砂流出過剰時代であり、その国土保全対策がこれまでの治山治水事業であったといえよう
ところが、山に木の増えた過去半世紀で土砂の流出は著明に減少して、河床の低下、汀線の後退、海岸浸食が問題になってきているのだそうです。ダムの建設が原因なのだとばかり思っていましたが、それだけではなく森林の変化の影響が大きいという指摘は、目から鱗でした。そして、こういった状況に対して著者は、
森は保全するだけでよいわけではない。手入れが必要であり、できる限り使うべきなのである 
里山は選んで残せ
と、提言しています。ただ、言うは易く行うは難し。経済的に引き合わなくなったので放置されている木々を利用しろということは、国産材に対する補助金を出さないと無理でしょう。また、古いことばですが3K職種の典型ともいえそうな山林労働者を確保するには、都市でのふつうの仕事で得られる賃金より相当多い額を提示することが必要な気がするし、例えそうしたとしても日本人は働きたがらないんじゃないでしょうか。中央政府も地方政府も大きな財政赤字を抱え、しかもこれから人口の減ってゆく日本ですから、森林には金をかけずに放っておくというのも一つの策だと思うのですが、どうでしょう。

本書によればスギの人工林も広葉樹林と比較してそれほど遜色のない機能をもっているそうです。また手入れされずにもやしみたいになってしまったスギが台風や大雨(温暖化で増えるのでしょうね)で倒れてしまったとしても、1000年やもっと長い目でみれば、日本の自然環境に適した樹種の森に自然に遷移してゆくでしょう。また森林を放置することで中山間地や川の下流に土砂災害の危険が増えるのだとしても、そもそも中山間地の限界集落、限界集落化しつつある地域の住人に福祉・医療などの公共サービスを提供すること自体が財政的に困難になってきているのですから、著者のいう減災の観点からも、また日本国憲法の公共の福祉の観点からも、都市に移住してもらうべきでしょう。そして森林の手入れと災害の防止に必要な資金は、都市を守るために必要なものに集中させる。海岸線についても、放棄できない規模の集住地は財政資金を投入してがっちりした防御施設を建設するとして、それ以外は十四世紀の汀戦まで後退することを覚悟すべきなんじゃないかと思います。

以前、ポメランツという人の書いたThe Great Divergenceという本を読んで書いたエントリーがあります。その本は、18世紀までの経済発展の程度に違いがなかった西ヨーロッパと中国・日本なのに、その後に西ヨーロッパだけが産業革命に成功するという相違が生じたのはなぜかという点を論じた本でした。ポメランツさんの主張の骨子は
  1. 西ヨーロッパ・中国・日本の中核地域はどれも18世紀には食料・繊維原料・燃料・建築用材という土地集約的な資源の入手の点でエコロジカルな限界に到達していた
  2. エコロジカルな限界を解決できなかった中国・日本は勤勉革命indsutrious revolutionにより、一人当たりの生活水準を低下させない途を選ばざるを得ず、袋小路に入り込んだ
  3. それに対して、イギリスを代表とした西ヨーロッパは、エコロジカルな限界に直面していた木材に代わって燃料となりうる石炭が利用しやすい地域に埋蔵されていたことと、新大陸を土地集約的な資源の産地・商品の市場として利用できたことから、産業革命industrial revolutionに成功した
というものでした。温暖湿潤な日本は、西ヨーロッパよりも木材の生育が速いのでしょうが、稲作のおかげで人口密度が高く、やはりエコロジカルな限界に突き当たっていたわけで、本書はその点を強く再認識させてくれました。また、勤勉革命を成し遂げた日本の姿は「江戸システム」として、平和でエコロジカルな世の中だったと賞賛されたりもしますが、本書の中のはげ山の写真や絵を見ると、袋小路に入り込んでしまったという評価の方が妥当な気がします。開港以後の日本の進路を見れば、少なくとも「江戸システム」の下で暮らしていた人たちが打開策があれば抜け出したいと思っていたのは明らかで、例えば長州の塩田では燃料として筑豊から石炭を移入し始めるなど、工夫していたわけですから。

2012年8月18日土曜日

東アジアの日本書紀


遠藤慶太著
吉川弘文館歴史文化ライブラリー349
2012年(平成二十四)8月1日 第一刷発行

史料として重要な日本書紀ですが、そもそも書物としてどんなものを材料にどのように作り上げられたのかについて述べられています。葬礼の際に誄として述べられた日嗣(帝紀)や神話や歌にくわえて、日本書紀の中には百済関連の記事もたくさん含まれています。また日本書紀の分注には以下の三つの百済の史料からの引用だと記しているものも多数みられ、

  1. 百済記:百済と日本の四世紀代の交渉開始頃から、475年の漢城陥落までを扱う、古代の朝鮮漢文によくみられる文末辞「之」使用が認められる
  2. 百済本記:六世紀の聖王の時代を扱う、正格漢文
  3. 百済新撰:熊津における百済の再興を扱う
こういった百済の史書が使われたことや、太歳紀年の採用は百済史書や朝鮮での習慣に倣ったものと考えられるので、著者は
後代の実例とフミヒトの役割を重ねて考えれば、船恵尺ら百済系書記官が何らかのかたちで推古朝の歴史書に関与したとみるのは有力な仮説である。
というように、日本書紀の成立に、百済から渡来したフミヒトたちの貢献が大きいだろうと考えているそうです。また、百済の史書についての著者の見解をのべたところを本書から引用してみると
百済記」は日本を「貴国」、君主を「天皇」(『日本書紀』神功皇后六十二年など)、「百済新撰」も日本の君主を「天皇」(『日本書紀』雄略天皇五年七月)と書いた箇所がある。このことから、百済史書は百済において独自にまとめられたものではなく、日本の朝廷に提出する意図があったと理解する点は、研究者の間で意見が一致している。 
ところが百済史書の成立を天武・持統朝とみる見解が大勢のなか、あえて和田萃氏が「推古朝に百済から渡来した人びとが、百済と倭国との交渉のいきさつや百済の歴史を史料にもとづいて記述し、倭国の朝廷に提出したものである可能性が高い」と書かれたのが注目される。私見は和田氏の見解に賛成で、六世紀に百済史書が出来たとする旧来の意見を捨て去ることはできないと思う。
などとあります。「百済史書は百済において独自にまとめられたものではなく、日本の朝廷に提出する意図があった」ということは他の日本の研究者だけではなく、著者の見解でもあるんだろうと思います。ということは百済からの渡来人が日本で書いたということになるわけですが、百済記に朝鮮漢文の特徴がある、つまり百済習があるのに、百済本記が正挌漢文なのは、二つの史書の書かれた時期に大きな差はないが、百済記は日本に渡来してから代を重ねた人たちが書いたのに対し、百済本記は百済で正しい漢文を学んだ渡来第一世が書いたというようなことなのでしょうか?

また、日本書紀に引用されている百済史書からの文が百済に特徴的な音仮名をつかっていたり、百済習をそのまま残していることは、修正を加えずに引用する編纂方針だったことを示すのでしょう。すると「天皇」という言葉もそうなのでしょうね。著者は推古朝に天皇記ができたと書いているので、推古朝につくられた帝紀はそのものずばり「天皇記」という名前で、六世紀に編纂された百済史書が「天皇」ということばをつかっていることが「天皇記」実在の証拠になるという立場なのでしょうね。

本書の内容とは直接関連しませんが、三つの百済史書はいつごろまで日本に存在していたのでしょう。本朝書籍目録には載っていなかったと思うので、奈良時代に失われてしまったんでしょうか。現存していれば、とても面白かったろうにと思うと残念です。でも、書物というよりは、消失した天皇記や、日本書紀編纂の資料とするため日本で渡来百済人によって倭国の朝廷に提出するために書かれただけで、残されなかったのかな?

本書のカバーには少女漫画みたいに目が大きく(目はつぶっているが)まつげが長い男性人物像が載せられています。誰なんだろうと思ったら、安田靫彦の描いた聖徳太子像なのだそうです。たしかに安田靫彦さんの描く人は武士なんかでも優しい顔してるから、納得。でも、本人を見て描いた本当の肖像画ならいざしらず、こういった想像図(7ページの舎人親王も)をカバーに載せるのって、歴史の本としてはどうなんでしょうね。著者の意思ではなく、出版社が決めたことなのかな。

2012年8月15日水曜日

社会経済史学の課題と展望


社会経済史学会編
有斐閣
2012年6月30日 初版第1刷発行

社会経済史学会80周年ということで、31の分野がレビューされています。担当している執筆者の多くは、当該時期の文献の中から代表的なものをいくつか選んで、この10年あまりの研究の動向を紹介し、最後は「本格的な検討はまさに今後の課題である」「広い視野からの研究の進展が期待されるのである」「今後の課題として残されている」ってなかたちで、ありきたりな感じでまとめていました。こういったレビューが多い中で出色だったのは5番目の章の「中近世における土地市場と金融市場の制度的変化」でした。

この第5章は、中近世1000年ほどの農地に関わる制度の変化が農業技術と農業生産性の変化に応じて起きてきたことを、制度経済学的な言葉を使ってすっきりまとめています。例えば、田畑の支配権を持つ地主がその農地を雇用労働力を用いて直接経営するか請負経営にするか賃租にするかは、その時期の農業技術を用いて耕作する直接生産者がどれだけのリスクを負うことができたかに規定されていたとか。 また、田畑永代売買禁止令というのは売買を実際に禁止するためのものではなく、村境を越えた土地売買取引を統治する司法業務を提供しないというものだった。村境を越えた土地取引に司法業務が提供されたその前後の時代には村境を越えた農業金融が実現していて、予期せざる事情により不作から債務の累積が起こると、室町時代なら徳政を要求する一揆がおこり、明治時代には松方デフレに対する困民党事件のような事態が生じたわけで、江戸幕府の政策はそれを避けたものとして一定の合理性を持っていたとか。こういった具合に、墾田地系荘園、公廨稲制、国免荘、荘園公領制、職の体系の成立、地主の農地経営方法、本百姓制度の確立といった現象が、日本史の論文でふつうに使われるのとは違った用語を用いてすっきり説明されていることにとても感心させられました。この章は主に西谷正裕さんの「日本中世の所有構造」という著書をもとにまとめたとあるので、この説明のすっきり感は西谷さんの著書がとても優秀だからなのか、それともまとめた筆者の能力が高いためなのか、どちらなのでしょう。確認のために西谷さんの著書の方も読んでみたくなりました。

同じく農業史をあつかった27章も、世界的には例の少ない減免付定額小作が日本でひろくみられ、小作人の土地改良の誘因となって自作地と小作地の土地生産性が同等であったこと、チャヤノフ理論の日本での実証、東アジアでもほかに例のない単独相続制が日本の農村に信頼をもとにした関係構築を可能としていたことの指摘など面白く読めました。ほかにも勉強になった章がいくつかあります。

でも、分かりにくく表現する書き手もいて、例えば14章「イギリス帝国の森林史」(この章が最悪というのではなく、もっと悪文の章がありました)。
本章では、グハの研究の前提となっている植民地を支配する側とされる側(支配と抵抗/西洋と非西洋/近代と伝統)にわける単純化されたフレームワークが、植民地期の林学・森林政策の理解を画一化、固定化してきたという問題意識から、この二項対立からの脱却によって新たな地平を切り開こうとする研究を取り上げる。
という文章があります。この中には「から」という助詞が2回も使われています。さらに「~~は」と文の主題を提示した後に続く部分が長く複雑になので、提示されたテーマと、その後の文がどう関係するのか見通しにくくなっています。この例に挙げた文章は
グハの研究の前提となっている植民地を支配する側とされる側(支配と抵抗/西洋と非西洋/近代と伝統)にわける単純化されたフレームワークが、植民地期の林学・森林政策の理解を画一化、固定化してきたという問題意識から、本章では、この二項対立からの脱却によって新たな地平を切り開こうとする研究を取り上げる。
というように「は」という助詞を文の中ほどに下げるだけでも多少見通しがよくなるでしょう。でもこれもいい文章ではないので、もっと達意の文章を書いてほしいものです。

第3編には地域と題して[1]中国、[2]インド、[3]ヨーロッパと三つの章があります。中国の章では、機械製糸業、機械性綿紡績業などの機械性近代工業の展開、通貨金融制度の統一、中央集権的な財政制度の確立などをメルクマールに近代的国民経済の形成が述べられています。それに対してヨーロッパの章では、冷戦、経済成長の黄金時代、福祉国家志向、戦時統制経済の経験を背景に「経済史学において一国史的研究、あるいは国民国家を分析単位とする研究の優勢は第二次大戦後、1950~1970年代初頭に一つのピークがあった」が、ヨーロッパ経済統合、ベルリンの壁崩壊を背景に1980年代以降「地域の経済史」が流行してきたことが述べられていました。清朝の時期の中国には、ヨーロッパの一国をしのぐ規模の地域経済圏がいくつも存在していましたが、それらがどのように統合されたのか、真に統合されたといえるのかといったことの方を扱ってほしかったところです。政治的には統合されてはいて経済的にはどうなんでしょう?現在の中国の抱える問題に経済の地域間格差がありますが、これは近代以前の構造に由来するものではないんでしょうか?経済史で研究されるテーマにも流行があるはずですから、もしこのあたりが注目を集めてないのだとしたら不思議な気がします。

2012年8月10日金曜日

OS X Mountain Lion Up-to-Dateを利用してみました


そろそろ締め切りが心配になってきたので、OS X Mountain Lion Up-to-Dateを利用してみました。アップルのサイトでrMBPのシリアル番号を入力して申し込むと、間もなく2通のメールが届きました。一つにはロックされたPDFが添付されていて、もう一つにはそのPDFのロックを外すためのパスワードがついていました。きっと、こういう風に2通のメールにわけた方がセキュリティが向上するんでしょうね。

Mac App Storeを立ち上げて、ナビリンクにある”iTunes Card/コードを使う”を選択して、ロックを解除したPDFに書かれているコードを入力します。すると山ライオンさんのダウンロードが始まりました。ダウンロードには10分弱かかったでしょうか。その後にインストール。30分くらいかかると表示されましたが、そんなにはかからなかった気がします(時計を見ていたわけではないけど)。

OS Xを山ライオンさんにしてみての感想ですが、うーん違いがよく分かんないというのが正直なところです。というのも、つい先日までつかっていたMBPにはレパードが載っていて、ライオンさんの使用経験はrMBPが届いてからの2週間ほどしかありません。ライオンさんが2週間ほどで、いま入れたばかりの山ライオンさんはまだ十分くらいの使用経験ですから、分からないのも当然ですね。

でも、ひとつはっきりしているのは、Safariのスクロールがとてもスムーズになったこと。ライオンさんのSafariでもかくかくしていると感じたことは一度もなかったのですが、山ライオンさんにしてみてヌルヌル感が向上したのは確かです。

2012年8月7日火曜日

日本の古典籍 その面白さその尊さ


反町茂雄著
八木書店
平成5年6月30日 第3刷発行

先日読んだ「古典籍が語る 書物の文化史」が面白かったでの、同じ分野の本を読みたくなりました。ちょうど同書の巻末ページの広告に、同じ八木書店が発行したこの本が載せられていました。著者の反町さんは有名な方ですが、これまでその著書を手に取ったことがありません。いい機会なので購入して読んでみました。

まず、中身でない外側の印象から。しっかりとした箱に入っています。ページを見てもどことなく古めかしく感じます。印刷された文字に指で触れると凹凸を感じるので、活版印刷なのでしょうか。手に取ったのは第3刷で平成になってから印刷されたものですから、活版印刷なら珍しいかもしれません。紙自体はごくごく薄いクリーム色で中性紙のようです。でも、このところふつうに読む本の用紙に比較して、厚手で単位あたり重量はかなり重そうです。また昔の方の文章らしく、漢字の使い方が古めかしい。しかし、日本の古典籍のノウハウ、欧米でのヨーロッパ産古典籍の実見談などなど、中身はとてもとても興味深い本です。 勉強になった点を列挙すると、
  • 十世紀以前の古写本というと、東洋の他の諸国には極めて少ない。文化の古く且つ優秀な中国やインドにしてもそうである。長期にわたって世界最大の文化国の一の地位を保ち続けた中国でも、八世紀乃至それ以前のものは今世紀初めまで殆ど知られて居なかった。
  • 中国の文化に接する事日本よりも早かった朝鮮の地でも、十三・四世紀以前の古書はいま殆ど伝存して居ない。
  • 一口に結論を云ってしまえば、スエズ以東では、日本の古典籍は最も古く、又その数も多い。
  • 日本の古典籍の世界的な地位は相当に高い。これが、私の十七、八年の外遊見学の結論である。ところが、この事実は、不思議なほど一般にも、又学会に於ても認識されていない。私たちは我々の固有の文化の誇りの一つとして、古典籍の質及び量の優秀性を高唱したいと思う。
  • (平安時代の)四百年間を通じて、現存の数では、漢籍は約三、四十種、国書は百四、五十種くらい。国書の方がずっと多い。
  • 鎌倉時代は先ず文治元年(1185年)から元弘元年(1331年)までとみて約百五十年、平安朝時代の半ばにも足りません。その古写本の現存数は、ごく大ざっぱに見て、平安朝時代に四、五倍するでしょう。国書と漢籍の比では、国書が漢籍に五倍乃至八倍するだろうと思われます。
  • 古今・伊勢・源氏等は、前述の通り、この時代の古写本として、比較的に多く遺存している事は、まことに慶賀すべき現象ではあります。英・仏・独・伊・スペイン等のヨーロッパ諸国の大図書館を訪問しても、その国の国語による著名な文学作品の、十二世紀乃至十四世紀頃に遡る古写本は、寥々として希少、一つ一つが完全に宝物視されて、大切にとり扱われて居ります。萬葉集と源氏物語はいうまでもなく、古今や伊勢も、日本の古典中の古典で、世界的見地に立って見ましても、その成立年代の古さ、アンソロジーとして、短編小説集としての文芸的価値に於て、独自の評価を要求し得るものです。これらの古写本は、更に更に重宝視されるべきでありましょう。
  • (室町時代、)権力と富力と、二つながらを喪失した公卿貴族は、文権の大部分を放棄し、それの切り売りによって、辛うじて生計を維持して居りました。両者をほしいまゝに入手した地方の武家たちは、文芸を継承し、さらに発展させるだけの素養はなく、余裕も持ちません。受け入れるだけでした。必然的に文化は、はかばかしく発展せず、文学は衰退しました。写本の生産も不振だったらしく、その現存は予想外に少ないのです。
  • 近衛稙家が大内氏の家臣阿川淡路入道に与えた詠歌大概の奥書「不顧入木之不堪、書之訖、最可恥外見者也」
  • (春日版で大般若経六百巻という大部なものも出版されていた時代でもある)鎌倉初期と言えば、いわゆる新古今時代で、藤原俊成や後鳥羽上皇を主唱として、和歌の最も流星だったエポックですが、しかも勅撰集の太宗である古今集さえ上梓されて居ない事は、和歌・物語の読者の数は、お経の読者数よりも、ズッと少なかったことを想像せしめます。
  • (伊勢・源氏・狭衣など四、五の古典を除くと)古活字版の古さは、古写本の古さに、そう劣るものではありません
  • 私達の古い書物の価格につきましても、やはり不易と流行の二つがあるのでございます。不易と流行と、も一つその書物の稀覯性と、この三つの掛合わせ方によって、その時の相場が生まれてくるのでありますが、それらをどのように掛合わせるか、どちらをどの程度に重く考えるか、という点に重大な問題があるのでございます。この場合にやはり日本だけを見ていたのでは考え方に徹底を欠く、なにか不安の起ることを禁じえない。それらを、広い世界ではどのように考え、どのように取り扱っているだろうか、ということを知りたいと云う念のきざすのを禁じがたいのでございます。この点を欧米に行って自分の目で見て、確かめて来たい、その上で、云わば、世界的な視野に立って、日本の古典籍を正しく評価し直したい、そんな風に考えたのでした。
こういったことを論文としてまとめるには、きちんとした根拠・史料・資料を提示しなければならないでしょう。ですから、仲間うちでは話しあうことができても、私のような素人の読む本にこういうことがらを書くことが学者さんたちにとってはかえって困難なのだろうと思います。その点、古書取引の世界では大きく成功した反町さんには、ご自身の取引の実体験からつかんだ知識があり、それをわかりやすく打ち明けることができるんだなと感じました。信憑性も高そうですよね。先日「古典籍が語る 書物の文化史」を読んだときに私の抱いた疑問、
日本には古いモノが数多く残っているという意味の記述は、他の歴史関係の書物でもしばしば目にします。著者の指摘するように、大戦乱が少なかったこともたしかに一因でしょう。でも、利用されなくなった「旧態の典籍」を捨てずに大事に取っておく行動様式や「博士家などの学問の世襲化」といったような過去の「日本人」の特質とされているようなことも原因なのだろうと感じます。日本人論などでよくいわれるこの種の「日本人の特質」を具体的に証明することはきわめて困難だと思うのですが、もし他国との文化財の残存状況の差を示す資料があるのなら、それを明かす貴重なエビデンスになってくれるんじゃないかと思うので、見てみたい気がします。
に対する素晴らしい回答が得られた感じがします。さらに、本書の巻末にはビブリオグラフィカル=デカメロンと題して、これまでの取引の経験談が載せられています。都の委嘱で蔵書家を歴訪し特別買い上げした本を疎開させた話、にせ物をつかんでしまった話、仕入れた品を調べ買い手がその価値を分かるようにして売りさばくという商売の秘訣のようなエピソードもいくつも載せられていて、なかなか面白い。この人の書いたものが面白いということはよく分かったので、これまでなんとなく避けていた感じもあった平凡社ライブラリーから出ている一古書肆の思い出の方も読んでみようかなと思っています。

2012年8月4日土曜日

【図説】民居


王其鈞著
恩田重直監訳
2012年7月31日 初版第1刷発行
イラストで見る中国の伝統住居というサブタイトルの通りに、中国の各地方、漢民族以外のものも含めた伝統的な住居をカラーのイラスト入りで紹介した本です。また、印象としては大人のための絵本といった感じです。中国では地方ごとにずいぶんと違った家に住んでいるんだなと私が初めて感じたのは、1986年から発行された民居シリーズの普通切手を目にしたときでした。このシリーズでは本書にも載せられている北京の四合院やモンゴルのパオ(ゲル)のような有名なものも取りあげられていましたが、特に興味をひかれたのは、瓦で屋根を拭かれた建物が同心円状に配置されている福建民居でした。いったいこれは何なんだろうと疑問だったのです。今回この本を読んで、円形の要塞状の家屋であることが分かり、疑問が氷解しました。同地方にはこの円形土楼だけでなく、長方形の建物を連ねた方形土楼というのもあるそうです。
第4章専守防衛の砦では、ほかにも防御を目的とした形の民家として江西省の贛南囲屋、広東省の梅州囲攏屋などが紹介されていました。銃眼やサーチライトまで備えているものがあったり、建築資材を欧米から輸入して20世紀になってから建てられたものもあったそうです。これら砦タイプの家は物騒な土地に建てられていたことが触れられていましたが、対象とした外敵というのが具体的にどのくらいの規模のどんな集団だったのかまでは書かれていないことが残念です。また、円形土楼の大きなものには全体で288室あると書かれていて、おそらく百人以上が住んでいたんだろうと思われます。むかしの中国には城壁で囲まれた集落・都市がありましたが、城壁都市の一番規模の小さいものと比較すると、円形土楼の規模というのはどのくらい?比較にならないほどずっと小さいものなのかどうかも知りたくなりました。
本書冒頭の日本語版前書きを読み始めたときには、中国人の著者自らが日本語で書いた文章かしらと思わせるようなぎこちない表現が散見されました。監訳者というのがいる本の翻訳はろくなものではないというのが私の一般的な認識で、本書もやはりそうなのかと危惧しました。しかし中身の方は「永春県の紅磚は色味が深く、豚の血のような深紅色」などというような、日本人ならとても思いつけないような比喩を使った説明文があったりはしても、訳文自体はこなれた日本語で興味深く読めました。