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2009年1月27日火曜日

FileMaker Pro 10 アップグレードはしないでおこう

FileMaker Pro 10へのアップグレードお勧めダイレクトメールが来ました。ひとつ前のバージョンのPro 9は2007年9月に発売されたので、一年半ぶりのバージョンアップになります。バージョンアップにかかる料金は22800円(2009年3月19日までは19000円)とのこと。

同封されている説明のチラシを見ると、今回のバージョンアップはあまり大したものではなさそう。少なくとも私がふだん使ってる範囲ではそうです。また「FileMaker Pro 10/Pro 10 Advanced データベースは、FileMaker Pro 9/Pro 9 Advanced および FileMaker Pro 8.x/Pro 8.x Advanced と同じファイル形式(.fp7)を使用しているため、これらのバージョンの間でデータベースを簡単に共有することができます」とのことですから、今回は見送っておくことにします。

Pro 10へのバージョンアップで気になった点ですが、インターフェースと見た目が大きく変更されています。「 ユーザの方々からいただいたフィードバックに基づき、能率的なナビゲーション、優れたワークフロー、時間を節約できるショートカットを提供できるよう、ステータスツールバーのデザインが新しく変わ」ったそうで、こんな風になってしまいました。

このソフトは初代のファイルメーカーProの頃から(もしかするとファイルメーカーIIの頃からかも)、ツール類がウインドウの左側のコラムにまとめられているインターフェースが特徴でした。レイアウトとブラウズと検索のモードの変更はメニューバーを利用して行い、各モードでは下の図のようにそのコラム内に配置されるツールが変化するというものでした。

この伝統的なインターフェースを捨て去ったのはなぜなんでしょう。むかしからの作法に慣れている人よりも、MS Office流のツールバーに慣れている新しいユーザーが多くなってきているからなんでしょうかね。でも、ワイド液晶のディスプレイを使うことが多くなってきている今日この頃、メニューやツールの類は左側なり右側なり、サイドに配置する方法が流行ってもおかしくないと思うのです。書類はふつう縦置きにして使いますから、その方が書類の表示範囲が広くなって便利なような気がします。特に、Mac OS Xでは下にドックがあって、実質使えるディスプレイの上下がより狭くなってますからね。

2009年1月26日月曜日

リンククラブ 退会確認のメールが来ました

リンククラブ事件の続報ですが、退会依頼を受け付けた旨のメールが来ました。内容は下記のようなものです。リンククラブのサイトから退会を申し込んだのが16日か17日なので、あまりに返事が遅い。また「受付日」というのが1月26日になっているのにも、すごく違和感を感じます。土日が休みなのは理解できるとしても、郵便で退会を依頼したわけではないのだから、受付日は本来なら1月19日のはずだと思うのです。

退会依頼だとか返金要求だとかが殺到して忙しいのでしょう。でも、オンラインの取引で受付の日付がずれていたら、困った問題が発生することもあり得そうなので、日付をこういう風に遅らせて返信メールに記載するのは、ふつうの企業ならしないような気がします。今後こことはお付き合いすることがないと思うので、まあいいのではありますが。





 受付日:       2009年1月26日

 会期満了日:     2009年2月末

会期満了月までのニューズレターの発送となり、翌年度の更新をお止め
させていただきます。

なお、こちらではリンククラブの退会のみの受付となります。

リンククラブの他サービスや、各種オプション接続サービス(LC ADSL50M、
LC HIKARIなど)の解約をご希望の場合は、お手数ですがそれぞれの窓口から
解約手続きを行なっていただきますよう、お願いいたします。

2009年1月23日金曜日

壬辰戦争


鄭杜熙・李璟珣編著 明石書店
2008年12月発行 本体6000円

2006年に韓国で開かれた国際的な学術会議での発表をもとにつくられた本です。16世紀末日・朝・中の国際戦争は、日本では文禄慶長の役、韓国では壬辰倭乱、中国では抗倭援朝と別々の名前で呼ばれ、それぞれの国の一国史の中で考察されて来ました。しかし、東アジアの視点からとらえ直すことの意義から、この会議の参加者一同は、この戦争を壬辰戦争と呼ぶことに賛同したのだそうです。妥当な名前だと感じます。収載されている論考の中から、知らなかったこと・面白く感じたものをいくつか紹介します。

晋州が落城した時に、論介という名の一人の妓生(歌舞や進級などに従事した官妓)が川のほとりの高い岩の上で日本軍を出迎えました。武士の一人が論介に近づくと、彼女はその武士を抱きかかえ道連れにして、川へ身を投げて死んだそうです。壬辰戦争後しばらくは、このエピソードが顧みられることはありませんでした。しかし朝鮮時代後期になると国のために死んだ義妓として称えられるようになり、植民地時代には「植民地期に男性の民族主義知識人たちが犯した罪を、代わりに贖ってくれる恋人」として多くの詩や小説に取り上げられました。そして、朝鮮戦争期には国連軍のために「憂国女性が自ら進んで奮起し、献身慰安の任務を担うこと」が求められましたが、国のために喜んで命を預ける存在としての論介像がこの時期に強調されたそうです。ある一つの物語が、社会の状況に応じて受け止められ方が変化していく様子が明らかにされています。

被虜人の本国送還の問題を扱う論考がありました。戦後、徳川幕府の働きかけで日朝の国交が回復するわけですが、初期に日本に派遣された朝鮮からの使節は、被虜人を本国送還することを主な目的の一つとし、刷還使と称しました。刷還使は帰国後の優遇措置などを謳って被虜人の招募を行いました。しかし、実際に使節とともに帰国した被虜人たちは、釜山到着後に新たに奴婢にされたり、食料にも事欠くような状態で留められたりしたそうです。朝鮮側では、朝鮮にとどまれた捕虜も日本に連行された被虜人も、日本側に協力したのではないかという疑いの目で見ていたそうです。なので、国家のメンツとして被虜人の本国送還事業が行われても、国内に連れ帰ればあとは知らないという状況になったのではないかと言うことで、興味深いお話です。あと、この論考の筆者は日本人なのですが、こんなことを韓国内の集会で発表してもOKな時代になっているのですね。

李舜臣は、戦闘に対する方針の違いから国王宣祖によって左遷され、慶長の日本軍再侵攻への敗戦を受けて再度起用され大活躍後に戦死したエピソードがあり、宣祖在位中と次の光海君の時代には、公的には多くの勲功者の一人という評価にされていました。しかし、光海君がクーデターで廃位されると、正史が書き換えられ、身を投じて国家に忠節を捧げた英雄として顕彰されるようになります。ただ、日本の侵略に対する王朝の対応の失態を明らかにしないために、朝鮮王朝時代には日本に対する敵愾心を高める存在としては利用されることはなかったそうです。しかし、植民地時代に出版された本や小説では、王朝の政治の乱れが壬辰戦争初期の敗戦を導いたことと、愛国者李舜臣が国を救ったことが描かれるようになりました。ネルソンや諸葛孔明以上と称える表現もあり、朝鮮総督府がこういうナショナリズムを宣揚するものの出版を許していたことも驚きです。また、朴正熙政権は軍事独裁を正当化するために、軍人である李舜臣の民族指導的精神を強調し、宣揚事業を行いました。ソウルにある李舜臣の大きな銅像もこの時期に建造されたものだそうです。時代背景により李舜臣言説の変遷する様子は興味深いものです。

また、女真のヌルハチの壬辰戦争に対する対応を論じた論考も、東アジアの中の壬辰戦争という性格を明らかにしてくれていて、面白く読めました。戦争過程や戦闘の技術的な側面についての論考はありませんが、壬辰戦争が朝鮮の人たちの民族意識に与えた影響や史実と歴史意識の関係(火旺山城について扱った章がありこれもおもしろい)、外交的な側面に焦点を当てた論考がほかにも収められています。知らないことがたくさん書かれていて、面白く刺激的でした。

2009年1月20日火曜日

リンククラブ事件 返信メールとニューズレター最新号

リンククラブに送った返金依頼メールですが、2009年1月20日 2:11:39:JST付で、下記のような返信が来ました。返金してくれるとのことですのでしばらく待とうと思います。

このメールは午前2時過ぎに出したことになっています。私は電子メールのシステムをよく知らないのですが、これは送信時刻そのものなのですよね。内容的にはテンプレ貼っただけのメールのようですが、こちらが依頼のメールを出してから50時間以上経過しての返信なので自動返信だとも言い切れず、ほんとにこんな時刻までお仕事しているのだとしたら、御苦労なことです。

それにしても、メンバーズカードを発見する前に問い合わせた会員番号の件についてはまだ返事がありません。「ただいまお問合せが集中しており」とはいっても、今でも自分の会員番号が分からずに問い合わせ中の人は、そんな悠長には構えていられないでしょう。リンククラブさん、さらなるご尽力を。

などと考えながら帰宅してみると、ニューズレターの最新号が届いていました。これで、会員番号問題は解決です。そして、昨年12月に一万円を無断で引き落としたこととそれに不満なら一月中に連絡すれば返金するよというサイトトップにあるのと同じ文面の告知の印刷された紙が一枚入っていました。今回の問題に関しては、この紙を見て初めて知る人も多いと思います。きっと、返金を求めない人なんていないんじゃないかな。


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平素はリンククラブのサービスをご利用いただきまして、
誠にありがとうございます。

ただいまお問合せが集中しており、お返事が遅くなり申し訳ございません。
ご返金依頼のメールは確かに受領させていただきました。

また、この度の件につきましては、
大変ご迷惑とお手数をお掛けして申し訳ございませんでした。

ご返金につきましてはクレジットカードでの決済の場合、
弊社からクレジットカード会社への手続きは、〆の関係で
来月中旬の手続きとなります。
クレジットカード会社によってご返金の時期は異なりますが
2009年3月〜4月頃にお客様の口座へ入金される予定ですので
ご了承頂きます様お願いいたします。

また、口座振替での決済の方は、ご依頼いただいた順に、
ご登録のお口座へ順次ご返金させていただいております。

ご返金につきましては、現在最優先で処理させて頂いておりますので、
今しばらくお待ちいただきますようお願い申し上げます。


複数のメールを頂いている場合は、同様のご連絡が重複してしまう
可能性がございますが、ご了承お願い致します。

2009年1月19日月曜日

経済発展と両替商金融


石井寛治著 有斐閣
2007年7月発行 本体4400円

幕末明治期の日本では、不平等条約下ながら外商の内地での自由通商が許されず、また買弁も根付きませんでした。輸入品の国内での流通は日本人のしかも新興の商人が主に担いましたが、開港場での買い付けには多額の資金を要しました。また、19世紀の世界の常識とは違って、日本は外債を排除して自力経済建設路線で産業化することをめざしました。これにも多額の資金を要しました。輸出入品の取引に際しては、手形の取引を通じた商業金融の担い手として、また産業化に対しては銀行の設立を通じて、江戸時代以来の両替商(著者曰く、商人=高利貸資本)が重要な役割を果たしたことを主張し、それを実証するために両替商の取引の実態を史料から分析して見せてくれている本です。一つ一つの帳簿の例示と解釈は素人には難解ですが、そこから導き出される論点が面白い本です。とくに勉強になった点をいくつか紹介します。

江戸時代の両替商の中には維新期に没落するものがあり、通説では1868年5月の銀目廃止をその原因としていました。しかし著者は、1868年1月の鳥羽伏見の戦いの後に、幕府や幕府側の諸藩の御用を勤める両替商が長州や薩摩による現金の分捕りにあって資金ショートから閉店を余儀なくされたことを、書簡などの史料から示しています。

通説では、維新から銀行の設立される時期までの明治初年は両替商不在の時期とされていたのだそうです。しかし、銀目廃止で金銀両替からの手数料収入が得られなくなった両替商ですが、戊辰戦争の混乱が落ち着くと手形の扱いはきちんと再開して活動していたことを史料から明らかにしています。

1873年に印紙税収入を目的に、手形に印紙を貼付しなければならない制度が始まりました。大阪では引き続き手形がおおいに利用されましたが、京都では手形の流通する範囲が面積的に狭いからか印紙制度開始の影響で手形の利用が激減したのだそうです。また、送金手形と貸し付けの証書とでは貼付すべき印紙の額が違う制度でしたが、当座貸し越しをどう扱うかなど、旧来の手形取引ではその両者が厳密には区別されていなかったそうです。

また、為替使用の実態を明らかにするために、両替商の大福帳・当座帳・手形帳などの史料がつかわれています。同じ史料を分析して論文を書いている方が過去にいる場合、その史料の解釈が間違っていることを指摘している場面が本書には散見されます。しかも、二つの両替商のうちどちらが親両替でどちらが子両替かなどの基本的な解釈が違っていたりなど、重要な点で理解が食い違うことがあるようです。どちらの主張が正しいのか、素人の私には判断しかねますが、たかだか150年前の江戸時代の史料の解釈でもこういうことが起きるとは少しびっくり。帳簿の記載の仕方が事情を知る人だけに分かるようなメモ程度なものなのと、近代以降は帳簿の記載が西洋式になってしまって過去のやり方が伝承されなかったからこういうことになるんでしょうね。

2009年1月18日日曜日

リンククラブ一万円無断引き落とし事件 詐欺?


2chでMac初心者質問のスレを覗いていたら、リンククラブ被害報告まとめwikiについての情報が寄せられていました。そのwikiを見ると、連絡なしに無断で一万円引き落とされる被害が多数発生しているとのことなので、自分の通帳を確認してみると2008年12月29日にNS リンククラブ名義でしっかり一万円引き落とされていました。

リンククラブというのは、20世紀の頃、Macの情報を扱ったニューズレターを発行する組織として発足したものだと記憶しています。まあ、当時は道具としてだけでなくMac自体にとても興味があったし、現在のようにインターネット経由で情報が入手できる時代でもなかったので発足当時から入会しました。Macを買うとパッケージの中に勧誘のチラシがいっしょに入っていたんじゃなかったでしょうか。入会時に送られてきたメンバーズカードにもAppleのロゴが入ってましたし、なんとなくアップルジャパンの外部組織みたいな雰囲気を漂わせていました。

その後は定期的にニューズレターという小冊子が送られてきています。はじめの頃はMacに関する情報ばかりだったのですが、段々とライフスタイルを語るような感じに内容は変化していきました。昔のMacPower誌も終刊前にそんな風に変化していきましたが、インターネットの普及で紙媒体はいろいろ試行錯誤しているのだろうくらいに思っていました。また、このリンククラブ自体がインターネットのプロバイダも始めて、読者がMacユーザーだけではなくなったのからかなとも思っていました。

ISPはすでに別のところと契約していたので、私はリンククラブの提供するインターネットに関するサービスを利用したことは一度もありません。ニューズレターが送られてくるのにちらっと目を通すだけの存在だったのです。当初の年会費がいくらだったのか記録・記憶ともに不明ですが、通帳を確認すると2007年2月には3480円、2008年2月には3780円引き落とされています。改めて考えてみるとニューズレターの年間購読料としては高いような。でもまあ、とくに気にもとめず、今日まできました。

そこに、今回の一万円無断引き落とし事件の発生です。 リンククラブのサイト を見ると、トップに以下のような文章が載せられていました。


いつもリンククラブをご支援いただきまして誠にありがとうございます。
リンククラブはユーザクラブとして発足し、多くの会員様からの ご支援・ご協力とともに発展して参りました。
昨今ハッカーによるハッキング技術が飛躍的に進化しており、 さらに今後数年で驚異的な進化を見せると予想しております。
リンククラブでは今後もさらなる情報管理と情報保護の一層の強化のため規約に基づきその費用の一部を、2008年12月に会員様ご負担(10,000円)とさせていただきました。
ご理解・ご協力をお願い申し上げます。
ホームページなどで事前にお知らせさせていただいたのですが、 ご案内が不十分であったことをお詫びいたします。
なお、ご理解・ご協力いただけない場合は、返金にも応じております。
返金をご希望の方はお名前、会員番号、利用サービス、ドメイン名など明記の上 2009年1月末日までにご連絡下さい。  メール:customer@linkclub.jp


これを読むと、ハッキング対策に必要な費用として一万円徴収したと言うことのようですが、私としてはまったく納得できません。ニューズレターを送ってもらってるだけで、ホスティングサービスやプロバイダとしては全然利用してないのに、なんでハッキング対策と称して一万円も取られちゃうんでしょう。また、ニューズレターには事前にこの一万円徴収の件についてはまったく掲載されていませんでした。ホームページで事前にお知らせしましたって書いてありますが、リンククラブのサイトにアクセスしたのは、今回の事件を知ってからが初めてなくらいのです。

そこで、上記の文章にある返金を申し込もうと考えたのですが、会員番号が分かりません。ニューズレターの封筒に会員番号が書いてあるのですが、捨ててしまって手元にはありません。リンククラブのサイトには会員番号照会というのがあったので問い合わせてみたのですが、今日でもう5日になるのにまだ返答がありません。ふつうのサイトだとこういうサービスはすぐに返事が返ってくるものなんですけどね。


会員番号を入力しないと退会の手続きもできないので、仕方なくいろいろ探してみるとでてきたのがこのメンバーズカードでした。紙製で会員番号も自分で書くようになっているのですが、よくぞ書きこんどいてくれたと当時の自分を褒めてあげたい。当時はインターネットではなくてファクスでの情報提供サービスなんてのもやってたなと想い出しながら、早速、返金お願いメールを送り、退会の手続きをしました。まあ、返事があるのか、いったい本当に返金されるのかどうか、今後のリンククラブ側の対応を待とうと思います。

この事件はふつうのクレジットカードの不正使用などより、ずっとたちが悪い行為だと思います。不正使用の場合には、犯罪に利用するために不正にクレジットカードの情報を入手して行使するわけでしょう。それに対して、リンククラブの場合には、正常な手続きで入手した利用者の情報を、不適切な請求に利用したのですから。こういうのが許されるのだとしたら、公共料金や定期購読などでの口座振替やネットでの通販などが心配で使えなくなっちゃいます。そういった社会的なインフラに対する信頼を守るためにも、行政かまたはもしかすると警察の出番なんじゃないかな。

2009年1月17日土曜日

ドーピングと処方薬

昨日、下痢と嘔気を主訴にした患者さんを診ました。10代後半の人で周囲に同症状の人はいないとのことでしたので、ウイルス性かどうかは不明ですが、急性胃腸炎といったところでしょうとお話ししました。すると、患者さんの方から、近々スポーツの国際大会に出場するので、ドーピングに抵触しないクスリを処方して欲しいとの要望がありました。ドーピングなんて、自分とは縁のない世界のことかと思っていたので、少しびっくり。

ふだん薬剤を処方する際は、副作用歴、妊娠、授乳中、併用薬、合併症などに注意が必要です。特に妊娠についてはいろいろと問題があるので、妊娠中に処方可能なクスリや禁忌薬をリストした本や冊子が診察室に置かれていることが多いと思います。また、その他の注意事項もクスリの添付文書に記載があります。日本医薬品集という、日本の全処方薬の添付文書を集めた3000ページ近くもある分厚い赤い本が出版されていて、おそらくどこの医療機関にも一冊は置いてあるので、必要な時にはチェックします。

でも、添付文書にもドーピングに関する注意が記載されていたような記憶はありません。一般的な急性胃腸炎はself-limitedな疾患です。脱水などの症状が強ければ補液が必要になりますが、この患者さんは幸いに食事も摂れている状態でしたので、充分な水分摂取を心がけることをお勧めして、ご希望の乳酸菌製剤を処方しました。

帰ってからぐぐってみると、日本アンチ・ドーピング機構というサイトがみつかりました。ここには、世界ドーピング防止規定の2009年禁止表国際基準を日本語訳したものがあって、禁止されている薬剤名が分かりやすくリストされていました。やはり、こういった調べものをするのにインターネットが役立つのを実感。複数の医療機関で仕事をしていますが、診察中にインターネットにつながったパソコンにアクセスできない所では不便を感じます。

2009年1月14日水曜日

植民地期朝鮮の知識人と民衆


趙景達著 有志舎
2008年12月発行 本体5400円
植民地近代性論批判というサブタイトルがついています。最初の章に、植民地近代化論・植民地近代性論に対する著者の評価が明らかにされ、その後にその論拠となるようなエピソードが各章で紹介されています。在日朝鮮人に関する2つの章など、勉強になった点もありますが、各所でかなりの違和感を感じさせられました。

「かつて朝鮮史では内在的発展論が風靡し、植民地研究においても大きな影響力を持ったが、植民地近代化論の登場はこの議論を真っ向から否定するものであった。これは社会経済的な発展のさまざまな数値や指標から、植民地においてお資本主義や近代が実現されたということを強調する議論である」
「しかし、この議論は確固とした近代主義に立脚し、突き詰めていけば帝国主義を擁護する方向に帰着せざるを得ないという問題を持っている」
 植民地近代化論が、帝国主義擁護に帰着せざるを得ないという主張には全く賛同しかねます。朝鮮総督府の施策が近代的な所有権制度の確立などなどにつながったのは確かです。しかし、植民地近代化論は、朝鮮が独立国のままでいたらその種の近代化施策が行われ得なかったと結論づける説ではありませんし、また朝鮮国が植民地化されずに存続していたら朝鮮総督府が行った施策より劣ったことしかできなかっただろうと決めつける説というわけでもありません。論者によってはそう主張する人もいるかも知れませんが、それはその論者自身の問題であって、植民地近代化論自体の問題ではないと思うのです。専門家でないので間違った理解かもしれませんが、植民地近代化論は、植民地化で近代化が進んだ事実があったことを主張しているだけなのではないのでしょうか。その「近代化」にともなって大きな弊害の存在したことももちろん考慮に入れなければなりませんが。

「それに対して、近年勢いを増してきたのが植民地近代性論である。これは植民地近代化論とは違って近代を是とするのではなく、それを批判する立場からなされる議論である。この議論は、もっぱら社会経済的発展指標を重視することによって単純な近代化論に帰着してしまうような近代化論とは違い、近代的制度や規律規範の浸透性に着目し、近代的な主体形成や同意形成、さらには植民地権力との協力体制がいかに形成されたかなどを解き明かそうとするものである。従って、そこでは支配と抵抗という二項対立図式が批判され、植民地権力のヘゲモニーが成立していたとされる」
「植民地近代性論は、近代の国民国家に見られる包摂の論理と現象を不用意に植民地にも適用しようとしているのではないか」
「国民国家は確かに包摂度の高い支配と秩序を指向する。しかしそれは『上から』見た場合の事実の一面であって、それを打破しようとする『下からの契機』は常に存在し続けており、そのことは異民族支配下の植民地においてはなおさらのことになるはずである」
 植民地近代性論では、抵抗と協力が交差する地点に公共領域・植民地公共性が成立していたとし、植民地近代化論以上に民族主義を相対化しようとする問題意識が濃厚だというのが著者の評価です。
 しかも、「『植民地公共性』なるものは、都市・知識人社会が総督府からの暴力を民衆に委譲し、ともに民衆を排除することによって成立していたと考えるべきもので」民衆史的地平から見た場合、どれだけ多くの民衆が植民地権力に同意を与え、「植民地公共性」に包摂されていたか疑問であると著者は述べています。

 ただ、この考え方だと、「民衆」と植民地権力との関係をどうとらえるべきなのかが疑問です。日中戦争下の華北などとは違って、朝鮮半島では30年以上も総督府が統治していたわけで、こういった状態が暴力と抵抗・服従の関係のみで維持されていたとはとても思えません。著者によると、民衆は近代性も皇民化も内面化できていない存在とのこと。皇民化しないのは当然としても、洋服を着て、所有権制度を受け入れ、郵便や鉄道を利用し、植民地統治のための税を支払う人たちについて、著者は「それらは外形的なこと」「『心の砦』は容易には近代性に浸食されず」と述べるのです。官吏や知識人は生活のために植民地権力と折り合って行かなければならない場面が多いし、またその記録が残りやすかったから「植民地公共性」との関連が見えやすいだけで、「民衆」の方も「植民地公共性」的なものと無縁だったとは言えない気がするのですが、どうなんでしょう。また、こうした近代性に背を向ける民衆の生が、結局は植民地支配を切り崩していくとも著者は書いていますが、この辺は朝鮮の解放の経緯を考えれば全く説得力がありません。

 民衆の実態を知るためには、目に見えるものの記録から、目に見えない思想・考え方を明らかにすることが必要になります。優れた民衆思想に関する著作を読むと、その鋭さに感心させられるものです。しかし、著者の挙げたエピソードとその解釈はおおむね凡庸で、とかく「民衆」を知識人とは違ったもの、著者の主張に沿った単一の集団として描き出そうとしているように感じられ、説得力に欠けます。

例えば、田植えや除草の際のトゥレという共同労働をとりあげている章があります。この共同作業には農楽や飲酒などの娯楽と饗宴がつきものだったそうで、この慣行の存在から著者は近代の勤倹型労働観と対比して、前近代の朝鮮民衆の労働観を牧歌型だったと評しています。一年中こういう労働形態だったのならそう呼ぶことも理解できなくはありませんが、あまりに大げさで誤解を生みそうな呼び方かなと感じます。

2009年1月11日日曜日

ルンガ沖の閃光


ラッセル・クレンシャル著 大日本絵画
2008年9月発行 本体3800円

ガダルカナル島をめぐっておこなわれた多くの戦いの最後のもので、日本海軍駆逐艦隊が勝利を収めた最後の戦いでもある、タサファロンガ海戦(日本側呼称ルンガ沖夜戦)について、両軍からそれぞれ見た戦闘経過と、著者によるそのまとめ、評価が述べられています。著者は実際に駆逐艦の砲術士官としてこの戦闘に参加していて、本書を1995年に出版しました。ページ数と本の大きさの割に値段が高いのが欠点ですが、わくわくしながら読める好著でした。

第一章では、ガダルカナル島陸上での戦いの推移と、それに並行した海戦が紹介されています。そして、日本側が輸送船を駆逐艦で護衛してガダルカナル島への輸送を企図していることを1942年11月29日に知り、アメリカ側は5隻の巡洋艦と6隻の巡洋艦で迎え撃つこととなり、30日夜に戦闘が行われました。

第二章から五章までは、アメリカ側の戦闘の計画、アメリカ側から見た戦闘の推移、戦闘後の報告書での述べられています。そして、第六章から八章には日本側から見た戦闘の様子が述べられています。アメリカ側は巡洋艦1隻沈没3隻大破し、日本軍の巡洋艦2駆逐艦4輸送艦3沈没、輸送艦2大破の戦果をあげたものと判断しています。しかし、実際には日本側では駆逐艦が1隻沈没したのみで、巡洋艦はこの戦いに参加していなかったのでした。

戦後かなりたってからの著作だからなのか、熾烈な戦闘が非常に淡々と描写されています。「戦場の霧」の存在で、戦闘に際してはお互いに相手の戦力の把握が不十分、また戦闘後にも自分のあげた戦果が不確実なのだということが、本当によく伝わってきます。参加した艦艇や戦闘の結果を読者である私の方は知っているので、刑事コロンボ風のドラマを見せられているような感じです。

また、両軍の報告をまとめて、この戦いが日本軍勝利で終わった原因を著者が分析しています。代表的なのが魚雷。アメリカ海軍の魚雷には命中してもうまく爆発しない欠陥があったそうですが、魚雷を製造管理している部門の構造には問題はなく使用法に問題があるという主張があって、開戦後一年近くたったこの時点でも解決していなかったのだそうです。また、日本側はlong lanceとも呼ばれるようになった酸素魚雷を使用していたのが、戦果につながったということです。

2009年1月10日土曜日

貴族院


内藤一成著 同成社
2008年2月発行 本体2800円

明治憲法制定過程などでの議会制度導入の検討から、戦後の廃止までを見通した、貴族院に関する通史を記した本です。面白い。

・初期議会の頃でも必ずしも貴族院は藩閥政府を支持していた訳ではなかった。
・しかし、第一議会の予算審議ではわずか五日間の審議期間しかなかったのに賛成したりなど、「近代日本の挑戦は議会政治のような高等で複雑なシステムは非西洋人には不可能であるという『常識』とのたたかい」という意識が各議員に強くあった。
・伯子男爵の互選では単記制ではなく連記制・委託投票制度が採用されたが、これを決定した伊藤博文は後日の弊害までは見通していなかった。
・解散のない貴族院が己の意志を貫こうとすると天皇にしか止めることができず、実際伊藤博文首相は政府を支持する勅語を出してもらってこともあったし、また却ってそういう事態にまで至らないように第二院として行動するように考える議員が多かった。
・有爵議員互選が連記制だったので、研究会のような大組織が生まれた。
・貧乏な華族にとっては議員歳費が有り難く、複数の華族で投票の際に協定して1人を代表として選出し、その歳費を分配していた例もあった。
・第二次大戦中に、衆議院議員の中には招集された人もいたが、貴族院議員にまでは召集令状は送られず、衆議院と違って翼賛選挙があるわけでもなかったので、東条内閣に対する批判的な雰囲気があった。
  などなど、いろいろなエピソードが紹介されていて、面白く読めました。

また、桂園体制、護憲運動・政党政治などなども、衆議院の側からみるだけでは理解できない面があるという指摘には納得させられました。

2009年1月8日木曜日

自爆する若者たち


グナル・ハインゾーン著 新潮選書
2008年12月発行 本体1400円

戦闘適齢期と言える15歳から29歳の人口が全体の30%以上になると人口ヒストグラムにふくらみ(バルジ)が目立つようになり、著者はこれをユース・バルジと呼んでいます。ユースバルジの生じているときには、父親一人のもとに息子が数人いることになります。息子のうちの1人(ふつうは長男)は父の地位を継ぐことができますが、他の息子には居場所がありません。15歳から29歳の男性は戦闘適齢期にあるとも言え、こうなると次男坊以下は野心を満たすために、テロ・戦闘・戦争・革命を始めるというのが著者の主張です。

現在ではこのユースバルジを呈している国、または15歳以下の子供層に同様のバルジが見られ数年後にユースバルジを呈するだろう国の半数以上がイスラム圏に存在しているそうです。現在、イスラム原理主義に基づくと称する男性の若者の行動が多く見られるのはこれが原因だとのことです。

また、ユースバルジによる活動は現在のイスラム圏で見られるだけではなく、歴史を振り返ってみればヨーロッパにも存在したことがありました。ヨーロッパはペストによる人口激減の後、それまで産児調節を担ってきた産婆たちを1485年から始まる魔女裁判で産婆を根絶やしにしました。これによって産児調節は困難となり、人口増加・ユースバルジが生じて、次男坊以下が世界中に出かけて、征服・植民地の獲得を行ったというのが著者の説です魔女裁判が人口増の原因というのは本当かな??)。

また、アメリカ独立戦争、ロシア革命、第一次二次大戦を引き起こしたドイツ、戦前の日本のアジア侵出などもユースバルジによるものなのだとか。その際に掲げられるイデオロギーは、キリスト教(キリスト教原理主義と呼ぶべきかも)だったり、マルクス主義だったりいろいろで、現在のイスラム原理主義も身近にあるイデオロギーを旗印として利用しているに過ぎないとのことです。

ユースバルジが紛争など特有の現象をもたらすという主張については、おおむね正しいのだろうと思います。例えば近いところでは、日本でもヨーロッパでもアメリカでも、第二次大戦後にベビーブームがありました。ベビーブーマーは著者の基準からするとユースバルジに当てはまるほどの出生数ではないのに、先進国では1968年が特別な年になりました。また、日本では団塊の世代と名付けられたベビーブーマーは自殺率の高いコホートとしても有名です。紛争を起こすだけでなく自殺につながっているところが日本の特徴かも知れません。

アメリカによるアフガニスタン・イラク攻撃やイスラエルがガザ地区などのパレスチナを攻撃するのはユースバルジによる問題が深刻化することを防ぐ意味を持っているのだ、第二次大戦前夜には英仏に厭戦気分が強くてヒトラー・ドイツや日本が大戦争を始めるまで放置してから対処することになってしまったからアメリカやイスラエルはその轍を踏まないように行動しているのだ、それに対してヨーロッパは文句をつけたが、60歳以上の人がアメリカには6人に1人なのに、ヨーロッパや日本は4人に一人以上とヨーロッパが高齢者の多い国になっていて覇気がないからだ、全地球的にユースバルジ問題が下火になる21世紀中頃までは予防処置を続ける必要がある、本当は内戦が起こってその国内でユースバルジ層の男性が殺し合って減少して欲しいものだ、などというのが本書で著者の最も訴えたいところのようです。この主張に対しては、私としてはにわかには賛同しかねます。

「イスラム原理主義」者の活動の主因がイスラム教徒だからなのではないという点では同じような意見の、エマニュエル・トッドとユセフ・クルバージュ共著の 文明の接近では、ユースバルジ問題を移行期危機と呼び、そのうちに解消するのだからあまり心配するなというスタンスで、移行期「危機」に対する解決策をはっきりとは示していませんでした。ヨーロッパの知識人としての矜持が、予防戦争や内戦の煽動・放置などといった手段を挙げることを許さなかったのでしょう。そう考えると、本書がアメリカ人でなくドイツ人の著者の書いたものというのは驚くべきことかも知れません。

2009年1月7日水曜日

新しいMacBookPro、iWork、iLife

アップルのサイトのMacBook Pro紹介のビデオ を見ると17-inch MacNook Proはバッテリーが最大の売りのようです。ユニボディ(上のアップルのサイトではユニボティってなってますが)に直接バッテリーを組み込むことによって、従来のものより40%大きなものを摘んでも同じ重さで、しかもバッテリー駆動時間が最大8時間になるのだそうです。MacBook Proの背面は一枚のアルミ板で、周囲に小さなねじがいくつか見えますが、バッテリー交換用の仕組みがありません。新しい技術で充電可能な回数が1000回と従来品の3倍になっているので、ユーザーが直接交換する必要がないということのようです。おそらく交換用バッテリーも販売されないでしょうから、ユーザーによる交換は不可能でしょうが、交換不要なくらい性能の劣化がないのなら歓迎です。

ディスプレイの周囲が黒枠なこと、LEDバックライトの採用、キーボードのキートップが黒いことなどは、昨年発売された新MacBookと同じようです。まあ、新しいMacBook Proも魅力的ではありますが、うちのMacBook Proは快調そのものなので、買い換えの予定は当面なしです。

iWork’09、iLife’09も発表されました。iWorkはMacBook Proの上で毎日使っています。Pages’09ではMathTypeとEndNoteがPagesの中でつかえるようになったのが目新しい点です。もう、論文を書いて投稿するようなことはしそうにないのでEndNoteには魅力を感じません。難しい数式の入った書類をつくることもないでしょうが、それでもMathtypeは美しい数式を簡単に表現できていい感じ。まあ、時際に8800円払ってバージョンアップするかというと、考えてしまうところではありますが。

2009年1月5日月曜日

今昔物語集を読む


小峰和明編 吉川弘文館
2008年12月発行 税込み2940円

源氏物語や大鏡などは難しくて歯が立ちませんが、説話や軍記物語なら分からない部分は少なからずあっても、なんとか大意が読み取れる感じがします。なので、今昔物語集は本朝の部だけですが学生の頃に角川文庫で読みました。その際ふしぎに感じたことの一つは、欠話・欠文・欠字などの注記が少なくないことでした。本書の最初の章である「今昔物語集とその時代」を読むと、今昔物語集は未完で、編者の構想を実現しにくかった部分を欠巻・欠話のままにしてあるのだろうとのことで、目からウロコの感ありでした。

また、石井公成さんという人の書いた「仏教史の中の今昔物語集」では、天竺の部の釈迦の入滅のエピソードを採りあげています。釈迦の息子の羅睺羅は父の死ぬのを見るのがしのびなくて、天まで逃げます。しかし、天の住人に諭されて戻り、釈迦と会話します。今昔物語集では、泣いて戻った羅睺羅を見た釈迦も涙を流し、周囲にいた仏たちにこれは自分の息子だから情けをかけてやってほしいと言って亡くなったことになっています。しかしこの話の元となった教典では、今日限りで親子の縁が切れると申し渡して、他の弟子たちと同様に修行するように言って死んだことになっているそうです。仏教では、子への情愛は煩悩と考えるべきものですから、臨終に際し息子に対する思いを告げる釈迦というのはおかしな話なはずです。仏教がインドから中国・朝鮮をへて日本に渡来する間に、親子関係で言えば中国では考を重視した教えがされるし、日本では親子の情は当然とする教えに変化していったとのことでした。仏教でも、本朝仏法の部は往生の話と法華経関連の奇跡の話ばかりだったので辟易した覚えがありますが、こんな風に思想史っぽい今昔物語集の読み方があるとは、勉強になりました。

本書には今昔物語集について9人の方が、仏教、兵、京と地方と外国、生業、諸道諸芸などさまざまな観点から文章を寄せています。今昔物語集は1120年頃に書かれたと推定されていますが、その後しばらくはこれに触れた文献はなく、15世紀の史料でようやく言及されるようになったそうです。このあたりの書誌来歴について、もっと詳しく説明する章があってもよかったかなと感じました。

今昔物語集では日本の66カ国のうちの62カ国が触れられ、石見・筑後・壱岐・対馬の4カ国は登場しないそうです。石見・筑後はおいとくとして、朝鮮との交流だけでなく、中国へ行くのにも重要だったはずの対馬が登場しないのが不思議ですが、天竺・震旦・本朝の部の三国から構成されていて朝鮮が無視されていることや、また高麗や遼とは外交関係が緊張していたことにも関連しているのかも知れないとのことでした。

2009年1月4日日曜日

「萬世一系」の研究


奥平康弘著 岩波書店
2005年3月発行 本体4900円

この本が出版されたのは、女帝を容認するかどうかなどの皇室典範改正が論議になっていた頃です。しかし、著者によるとその数年前から用意していた原稿をもとにしたものなのだそうで、敗戦後の皇室典範制定過程と明治の皇室典範制定過程での論議を、天皇の退位・女帝・庶出の天皇という三つの観点から、検討しています。2006年9月に悠仁親王が誕生して以来、皇室典範改正論議は下火になってしまいましたが、それにも関わらず読んで面白い本でした。

皇室典範という特別な名前がついているので幻惑されやすいのですが、現行の皇室典範が法律の一つに過ぎないことが指摘されています。GHQから示された英文草案では単にiImperial House Lawとなっていて、本来なら皇室法とでも訳すべところを皇室典範と訳すことによって、国体が護持されたこと、大きな変化がなかったかのように装った訳ですね。

天皇制は萬世一系を誇っていますが、男系で続いて来れたのは庶子でも天皇になれた点が重要でした。キリスト教圏の君主国で女帝・女系の王位相続があるのは、嫡系の子しか王位に就けないので女帝をみとめないと王位継承者がすぐに払底してしまうからだそうです。明治天皇も大正天皇も庶出で、明治の皇室典範は近世以前からの伝統をついて庶出の天皇をみとめていました。現行の皇室典範は嫡系男子しか天皇になれない決まりですから、皇嗣
が絶えてしまう恐れが現実のものとなっているのです。今後も、この恐れは続くでしょうね。

終章では、天皇の脱出の権利・退位の自由を主張していますが、著者の天皇制に対する考え方は私の日頃考えていることとかなり一致するかなと感じました。現在の日本には、声高に天皇制廃止を求める人は少ないと思います。私も、改憲して天皇制を廃止してしまえとまでは、求めません。ただ、次のような風な、消極的な天皇制の消失についてはあってもいいのではと思います。

皇族が特別な地位にあり、生活費が日本国から賄われているなどの「特権」を享受していることはたしかです。しかし、彼ら彼女らは、学問・職業選択・意見表明・婚姻・居住・信教などなどの自由が大きく制限されているし、プライバシーにも問題があるでしょう。「特権」と不自由の入り交じった立場に違和感を感じない皇族のヒトもいれば、嫌で仕方がない皇族のヒトもいるだろうと思うのです。現在の皇室典範では内親王と、王・女王(三世以下の嫡男系摘出の子孫のこと)には、その意思に基いて皇室会議の議をへて皇族の身分から離脱することができる規定になっています。これを天皇・皇太子を含めた皇族全員に拡大するような皇室典範改正はなされるべきなんじゃないでしょうか。 まあ、引退後の山口百恵が取材の人たちにつけまわされて、ゴミ袋まで持ち去られて調べられたエピソードもあるので、皇族から離脱しても完全な「ふつうのヒト」にはなれないでしょうが。

そして、そういう改正の後、皇族にとどまりたいと思うヒトがいなくなってしまって、天皇制が消滅してしまうのはありだと思うのです。もし、そんな改正は無理だというのなら、日本国憲法によって基本的人権が損なわれている人たちが、なるべく「ふつうのヒト」に近い生活(北欧の王室なんか、そんな感じなのかな)が送れるようにすることは日本国政府の責務だろうと思うのです。もちろん、家や職のないひとの生活・基本的人権を守ることも急務ですが。

2009年1月3日土曜日

中世の銭の使われ方についての疑問

①江戸時代なら下層の町民でも懐の巾着にいくらかの銭を持っていて、それで細々とした買い物をしたり、食事をしたのだと思います。では、中世の京の住人も食料は銭で買ったのでしょうか。また、地方の農民は塩や鉄製品など自給できない物を買う際に銭を使うことがあったのでしょうか。

②中世は識字率が高くはなかったでしょう。文字を読めない人たちは、銭を銭面の文字の違いで識別することが可能だったのでしょうか。使い古されて文字の読みにくくなった銭や、最初から文字が不鮮明な私鋳銭が多く流通していたと思うのですが、銭面の文字を識別して区別するのは誰にでもできたものなのか、それとも、撰銭する必要があったのは貢納・遠隔地交易に携わる人だけだったということなのでしょうか。


③ある程度以上の大口の支払い用の銭は、こんなふうに銭緡でまとめて使われました。で、この銭緡にまとめられている銭の枚数は取引ごとに数えたのでしょうか?一貫程度なら1000枚ですから数えてもいい気はしますが、数十貫のやりとりとなると、数万枚になるので数えるのは嫌になりそうです。枚数を数えるかわりに、重さを量って確認する方が現実的に思えますが、どうでしょう。一貫というのが重さの単位にもなっているので、重さを量ったのかなと想像しました。もしそうなら、欠け・割れなど重量の少ない銭が忌避されたのは理解しやすいと思います。

④欠け・割れのみならず、銭の種類までを撰銭の対象にしようとすると、銭緡にまとめられている銭をばらさなければなりません。紹介されている史料によると年貢の現銭納では数十から百貫以上の銭が送られることがあるようですが、実際に数万〜数十万枚の銭のすべてを目で見てたしかめて選り分けたんでしょうか。すごく手間がかかりそうです。

ざっと考えてみて、このあたりのことが分かりません。実態はどうだったのか、気になります。

2009年1月2日金曜日

戦国期の貨幣と経済


川戸貴史著 吉川弘文館
2008年12月発行 本体11000円

本書の構成は、悪銭の出現・撰銭問題などを中心とする中近世移行期貨幣流通の研究史に対する著者の整理と問題提起が記された序章から始まり、その後は7つの章にわたって史料とそれに対する著者の解釈が披露され、序章での問題提起に対する著者の見解が示されている終章で終わっています。史料に基づいた7つの章では、頼母子講、代銭納から現物納への変化の過程、悪銭の出現過程と処理のされ方、九州・関東といった地域ごとの撰銭の実態などが扱われています

撰銭の出現はほんとに不思議で、納得のゆく説明を得たいと常々感じていて、それが本書を購入した動機の一つです。終章で示された著者の悪銭・撰銭出現の説明は、私の理解だと、 
ーーー 戦乱などによる「路次物騒」が原因で京都と地方を結ぶ遠隔地交易が混乱して地方への銭貨の拡散が阻害されたために、地方では銭貨不足を来した。その対策として、各地で私鋳銭がつくられてその地方内で流通することになった。各地で作られた私鋳銭はその地域で信任を受けて地域内流通には支障がなかったが、地域外との取引では受領してもらえないことがあり、悪銭と認識されるようになった。京に本拠を置き、地方に荘園をもつ領主は、地方からの年貢に悪銭が含まれることを忌避して撰銭を行うこととなった ーーー
という、感じでしょうか。黒田明伸さんが中国の例で示した現地通貨と地域間決済通貨の関係が、国の料足と精銭というかたちでこの時期の日本にも存在していたという説のようです。

「路次物騒」なら京の物価は上がりそうですが、応仁・文明の乱の頃、京では米価が低下していたとか。在京武士の帰国による人口減少が原因とされていますが、前近代の物価下落では中国でもヨーロッパでもみられた貨幣の不足が背景にあったことは十分に考えられます。京も地方も銭貨不足→私鋳銭というのは理解しやすい構図です。また、以前は為替によって京在住の領主へと年貢が送られ、為替が地域間決済通貨の役割を担っていましたが、「路次物騒」によって京から地方への商人の訪問が減少したことにより、地方では京向けの為替の入手が困難になったので現銭を送らざるを得なくなったということも、悪銭問題が表面化したことの説明としていい感じです。

というわけで、筋道の通った仮説を提示してくれた点では本書に満足しています。ただ、これですっかり疑問が解消したとまでは言えません。例えば、この説明だと撰銭を始めたのは大名や荘園領主になってしまいそうですが、在地で自然に発生したものではないのでしょうか。また、大名や荘園領主が地域間決済目的で精銭を求め始めたのだとすると、永楽銭の評価が西日本と関東で異なる点が気になります。関東から京へ年貢を送ることはすでに無く、一般の商品流通の面でも関東と京はほとんど交渉がなかったからOKということなのでしょうか。

あと、本書を読んでいて気になったことが、もう一点。この本の著者の日本語の表現がかなり下手だということです。一つの文の中の句と句の流れ・接続が不自然で、しかも精一杯せのびをして難しい言葉をつかって書いてみましたというようなぎこちなさ、まるで山田盛太郎を呼んでいるかのような印象を受けました。歴史の専門書でも、最近こんな不自然な日本語を使っている人はいないので、個性とでも呼ぶべきなのかもですが。