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2011年1月29日土曜日

大運河発展史

星斌夫著 平凡社東洋文庫410
1982年6月発行 本体1900円
元史・明史・清史稿の中で、税として収められた米が江南や江北から大運河を通して北京に輸送される漕運の様子を記した部分を日本語に訳して紹介した本です。正史の訳にはたくさん註がついているので、私でも何とか要旨は理解できました。またそれに加えて、大運河の始まりの頃から、清末に運河を利用した漕運が廃止されるところまでを、巻末にまとめて解説してくれています。
大運河は隋が完成させたと学校では習い、唐以降さかんに利用され続けていたものとばかり思っていましたが、そう単純ではなかったようです。隋・唐・北宋の首都は黄河沿岸の長安・洛陽・開封にありましたが、元や永楽帝以降の明や清の首都は、黄河からさらに北側の北京でした。黄河流域から北京への運河の建設には難渋したそうで、元代にはもと海賊を登用するなどしてもっぱら海運が利用されました。しかし、海運には倭寇の患があり海難事故も頻発したので、黄河と北京につながる御河をつなぐ会通河という運河を開通させて、明代は運河による輸送が行われ、清代にもそれが続きました。清代には毎年400万石(一石が日本の六斗くらい)の米が輸送されたそうです。その後、黄河の氾濫による大運河機能の低下、清初以来の海上交通の発達、河運を担う組織の弛緩などどもあって、1852年から永続的に海運が利用されるようになったのだそうです。
500石積みの船が使われ、船員が10名乗り込み、片道に長くて5ヶ月近くかかったそうです。大運河はすべての部分が水平な水路というわけではなく、途中には閘門で高低差を乗りこえる部分や、黄河などの川の運んだ堆積物で運河が浅くなり刳船という小舟に乗せ替えて通過しなければならない部分もあったと書かれています。また、河川・運河でも大風による遭難、死者の出ることもありました。これらを考えると、陸上輸送よりもましだとはいえ、水運だからといって非常にコストが低かったというわけではないようです。
正史の記述ですが、賄賂の強要や事故を装って荷物の米をだまし取ったり、正規の荷物の他に商人からの依頼の荷物を運んで利益を期待したりなどの不正があったことが多々書かれています。大官が心を尽くして不正を正そうとしても永年の積弊で困難で、ひいては制度の崩壊につながったとも書かれていました。これは、現代にも通じるのかな。
この本は売り切れで、Amazoneさんから入手しました。

2011年1月26日水曜日

北の十字軍を読んだついでに、アレクサンドル・ネフスキーについて

アレクサンドル・ネフスキーはそそられる映画です。21世紀(ほんとは20世紀を生きた経験の方がだいぶ長いのですが)に生きる日本人の私が観てもそそられる作品ですから、ロシアの人には格別でしょう。特に、1938年に完成して好評だったにも関わらず、独ソ不可侵条約の締結とともに表舞台から消え、1941年のドイツのソ連侵入とともに再び脚光を浴びたのだそうですから、当時のロシアの人たちの士気を鼓舞するには最高の映画だったでしょう。
実際に観てみてると、悪者はロシア人を酷使するモンゴルの支配者たちと残忍なドイツ人の騎士団、アレクサンドルは英雄でもあるし優しいし労働にも手を染める模範的な人物、労働にいそしむロシアの人たちは立ち上がって協力して悪いドイツ人騎士団を打ち破った。これがロシア人なら誰にでも分かるように、というかロシア人でなくても誰にでも分かるように描かれています。ある意味、素朴とも言える映像です。大粛清の時代に作られた映画ですから、スターリンの覚えがよろしくないとエイゼンシュテイン自体にも危険が及んだかも知れなかったのでしょう。なので、ソ連の国策に反しない、プロパガンダ的な面ももつ映画を作ったのだろうと思います。
このエイゼンシュテインの映像は目的にも沿った良いものなのですが、20世紀前半の技術で作られた素俗な表現が21世紀の私たちにも魅力的なものであり続けているのは、プロコフィエフの音楽がつけられていればこそだと私は思います。涙を誘うところ、怒りをおぼえるところ、盛り上げるところ、鼓舞するところ、喜びの場面、それぞれにふさわしい音楽がついているのです。もとは映画音楽として作られたアレクサンドル・ネフスキーですが、単独で聴ける作品であるカンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」としてまとめられています。私はプロコフィエフの作品が好きですが、これはその中でも好きなものの一つ。全部いいのですが、特に第4楽章の「起て、ロシアの人々よ」の合唱を聴いていると、日本人の私でもほんとにうれしくなって、勇気も出てきそう。
そして、このロシア人の士気を鼓舞するという点では、このアレクサンドル・ネフスキーを小道具として登場させたレッドストーム・ライジングも忘れることができません。これはトム・クランシーの小説で、冷戦下のソ連と東西の熱戦を扱っています。イスラム教徒の個人的なテロで巨大な油田・精油所を破壊され、石油製品が不足することが明らかになったソ連が、不足分を西側から輸入して弱みを見せるよりも、備蓄があるうちに中東の油田地帯を獲得する冒険に乗り出すことを決定し、その陽動のために西ドイツにも攻撃をしかけるのです。西ドイツを悪者に仕立ててNATOの分裂を画策したKGBは、クレムリン内で謀略の爆破テロを行い、ピオニールの子供たちなどが死亡します。ソ連は西ドイツ人が犯人であるとでっち上げ、西ドイツの報復主義に対抗するという名目で戦争を始めるわけです。そして、その戦争へのロシア人の協力をとりつけ戦意高揚のために、ニュープリントと録音をフレッシュにしたアレクサンドルネフスキーがTVで放映されるのでした。ここから先、東西両陣営間の戦争が始まります。むかし、私にも娯楽として小説を多数読んだ時代がありました。このレッドストームライジングが、トム・クランシーの一番の傑作だと思います。文庫本で上下巻あわせて1100ページ以上ありますが、飽きません。おすすめです。

2011年1月25日火曜日

北の十字軍


山内進著 講談社学術文庫2033
2011年1月 本体1150円

キリスト教を受容したゲルマン人によるフランク王国の成立で、今あるヨーロッパができあがったような気がしてしまいます。しかしその東方には広く異教を信じる人たちが住んでいて、それら東方の地をも併せて現在のヨーロッパが出来上がったわけですね。バルト海沿岸のプロイセンからクールラント、リヴォニア、エストニアまで、ローマ・カトリックを奉じるラテン・ヨーロッパの東と北への拡張を担ったのは、もうひとつの十字軍とも言える活動だったことを教えてくれる本です。
デンマークがバルト海で力を持っていたこと。異教徒を改宗させてキリスト教を広めるという名目で教皇から教勅を授けられ、この地域に統治する領域(国家)までも獲得し、その国家を守るためにキリスト教ヨーロッパに十字軍を募ったドイツ騎士修道会。騎士修道会国家の圧迫(非道)に抗するためにポーランドとリトアニアが同君連合を形成したこと。その連合との決戦に敗れてドイツ騎士修道会国家が危機に陥ったことなど。これまで個々のエピソードは耳にしたことがあっても、その脈絡がはっきりしなかったのですが、本書を読んでよく理解できました。
また、本書の対象となる年代は日本で言えば鎌倉時代にあたりますが、ドイツ修道会は異教徒が相手ということで殺戮・奴隷化・略奪などなど、かなり惨いことを平気でたくさんしていたことを知り驚かされました。たとえば、軍旅と言う異教徒の土地への略奪行が定期的に実施されたそうですが、
軍旅は、聖戦としての宗教的性格を大幅に喪失しつつあった。それは、中世後期の騎士たちの楽しむ一種の「サファリ」であり、軍事的スポーツであった。アンリ・ピレンヌによれば、それは、もはや単なる「人間狩り」にすぎなかった。
などというのを読むと本当にびっくりします。「異教徒」と呼ばれた側もお返しに同じようなことをしたのは確かですが、「正しい聖なる戦争」の実態は読んでいてとても同感できるものではありませんでした。この地域には住民が安住できない期間が長く続いたわけで、より安定した生活と資本の蓄積が可能だった地域と比較すると経済的に差がついてしまったのかなと感じます。長期の16世紀以降にこの地域、東ヨーロッパ(中央ヨーロッパと呼ぶべき?)が、西ヨーロッパを中心とする世界経済によって周辺化された遠因の一つがこのあたりにあったりはしないものかとまで感じてしまいます。
また、十字軍を募り聖戦を続けるためには、異教徒にキリスト教へ改宗されるとかえって困る事情がドイツ騎士修道会側にはあったのだとか。さらにタンネンベルクの敗戦後にコンスタンツ公会議で騎士修道会は、ポーランドの教会法学者からそういった矛盾点を、異教徒も神の被造物で殺害や盗みの対象にしたりは非合法で、キリスト教信仰の強要もいけないことだと鋭く衝かれたのだそうです。著者は、この公会議でのポーランド人教会法学者の主張が異教徒の権利を擁護するものであり、国際人権思想の先駆者として高く評価しています。コンスタンツ公会議は1414年のことで、日本なら南北朝時代にそんな主張をした人がいた訳ですから、著者の評価にもなるほどとうなずかされます。
本書の冒頭ではアレクサンドル・ネフスキーが触れられています。彼はプスコフを襲ったドイツ騎士修道会を氷上の戦いで打ち破ったことで有名で、エイゼンシュテインが映画化もしました。しかし、史実としてみると
チュード湖「氷上の戦い」は、スケールの点からみると、それほど大きなものではなかったと思われる。しかし、その歴史的意義は少なくない。なによりも、この戦いによって、ドイツ騎士修道会が東への展開を完全に断念したことは重要である。その結果、東北部における「(カトリック)ヨーロッパ」とギリシア正教会世界との境界線がほぼ確定した。
とのことで、勝利の伝説とは別に、ロシアがヨーロッパとは異なる独自の途を歩むことを決定づけたという点で、遠い東アジアの私たちにとっても重要な戦いだったわけですね。




また本書のエピローグでは、異教徒の土地に出かけてキリスト教を布教するという名目で行われた北の十字軍の精神が、新大陸の征服やその他のヨーロッパの植民地での所行のもととなっているのではないかということ。そして、それを抑制するような異教徒の人権を擁護する議論があったことともあわせて、著者は指摘してくれています。奥が深い、非常に勉強になる本でした。

2011年1月22日土曜日

カブラの冬


藤原辰史著 人文書院
2010年1月発行 本体1500円
興味深いテーマなので、つい買ってしまいました。第一次大戦中のドイツの食糧不足は米騒動を経験した日本でも関心を持たれたことから始まり、ドイツの公式の統計でも多数の餓死者が出たこと、大戦前の時期に小麦はアメリカ・ロシア・アルゼンチン・カナダなどから大麦はロシアからたくさん輸入していたにも戦争は短く終わると考えて準備なしに開戦してしまったこと、パンにジャガイモを混ぜるなどの工夫や代用食、馬の徴用や男性労働者が徴兵され肥料の輸入も不能となり食料生産が低迷したこと、配給制度、不公平感の増大から革命の機運が高まったこと、大戦期の食糧政策の失敗がユダヤ人にあると目されたこと、休戦後も封鎖が続けられ食糧の輸入が制限されたこと、戦間期にこの食糧不足の経験を利用して子供たちに充分なパンをと訴えたナチスが伸びたこと、食料の自給自足を目指した広域経済圏が求められるようになったことなどが紹介されています。ナチスは、敗戦の責任者であるユダヤ人を追放することで所有者から取り上げた家財や不動産をプールして第二次大戦中の戦争被害者の救援に使っていましたが、そんなことまでも思い起こさせてくれる本でした。
面白く読めたのは確かですが、不備な点が多い本だとも感じました。まず、20ページには「餓死者76万2769人の衝撃」という見出しがついています。本文では「大戦期ドイツの飢餓および栄養失調が原因の死者の数」書かれていますが、これを「餓死」と呼んでいいのかという点。ふつうの人が餓死という言葉から連想するのは、不十分な食事のために骨と皮ばかりになったアウシュビッツのユダヤ人たちのような状態で死ぬことだと思います。しかし、本書でつかわれている「餓死」の定義がそれだとは思えません。もしそうなら、この時期のドイツ人のやせ衰えた骨と皮の姿の写真がもっと出回っているはずだと思います。また、21ページにあるドイツ人の第一次大戦期世代別女性の死者数の推移というグラフを見ると、明らかに冬に増えて夏が最少になるという波が見て取れます。もし、食糧の不足だけが原因の「餓死」であれば、収穫後の冬ではなく、端境期の夏に死亡数のピークがこないと変です。
以下は私の推測ですが、ドイツの公式の統計で「餓死」と判定された人の数はなんらかの推計値でしょう。推計の方法の一つに超過死亡という概念があります。例えば、近年の日本では年間に数千から一万数千人がインフルエンザによって死亡すると考えられています。これは、死亡診断書の死因欄にインフルエンザと書かれた人を数え上げたものではありません。インフルエンザの大流行年の死亡数と平年の死亡数からの推定した死亡数との差を比較して、インフルエンザの大流行年に余分にみられる死亡者の数を、インフルエンザによる死者とするのです。21ページのグラフにも冬多いといった明らかな季節性が見て取れますから、直接の死因は呼吸器感染症や心不全などでしょう。しかし、大戦前の時期に比較して開戦後の死亡者数は年々増加していますから、それらの疾患を死につながりやすくさせる因子が食糧の不足だったと考えることは十分に可能です。食糧不足による超過死亡が「餓死」の実態なのではと思われます。
本書は、本文の下の方に註のためのスペースがあります。リープクネヒトやローザルクセンブルクのような有名人にまで注をつけるのであれば、「餓死」が何ものなのかという定義をなぜ注で説明しなかったのか本当に不思議です。
また、食料の不足の影響として「餓死」だけでなく体格の変化を示す統計数値などは入手できなかったのでしょうか。徴兵検査がきっとあったと思うのでその際の身長・体重や、学校での身体計測の数値など。それらの数値があれば、もっと説得力が増すのにと思われます。本書には体重減少を来した人のエピソードが少数とりあげられているのみでした。
74ページには「家畜頭数を減らすことで、それに見合う大量の植物性食料を人間のために浮かす」ことをねらって、1915年に豚の屠殺が促進されたことが書かれています。しかし、実際には短期間に大量に屠殺されたので加工が間に合わず、肥料にされたり腐ってしまったりなどの不手際や、その後は、豚肉やラードの入手がさらに困難となるなどの問題が発生しました。ここまで読めば、この「豚殺し」が失敗だったことはよく理解できます。
しかし著者はこれに加えて「栄養学的にいえば、豚肉はタンパク質と脂肪を人間に供給するのであり、エネルギー源としての炭水化物を供給する穀物の役割とは異なる。動物性脂肪は、穀物では代替にならない、貴重な脂肪源であったのである。学問の細分化および縦割化のひとつの帰結としても、豚殺しは記憶せねばならない教訓であろう」と意味不明・理解不能なことを書いているのです。豚肉のタンパク質と脂肪が豚の食べた穀物などの飼料に由来することは明らかです。その穀物の不足の際に、エネルギー効率の観点から飼料を人間の食物に転換することは現在でも想定されている対策です。また「動物性脂肪は、穀物では代替にならない」というのも、ラードとして料理の風味づけに使うという点ではそうかも知れませんが、カロリー摂取という観点からは代替にならないわけがありません。そもそも味付けすべき食材が不足している状況下で味付けのためのラードや豚肉の不足にだけ文句を付けても仕方がないでしょう。栄養学的にみても必須脂肪酸はラードの中に少量しかないはずですし、少量含まれている必須脂肪酸でさえ豚が作り出したものではなくもともとは豚の飼料の中にあったものです。中世のように森の中でドングリを食べさせたり、人が食べない人糞や残飯のような飼料を与えるのでない限り、「豚殺し」は見習うべき政策でしょう。
76ページには「1915年の豚の大量屠殺は、結局、食糧危機を打開するうえでほとんど意味をなさなかった。それどころかむしろ危機を深刻化させた」とも書かれています。ロスを発生させる無計画な大量屠殺が責められるべきだとしても、もっと計画的に行われていたとしてもやはり危機を深刻化させたのでしょうか?または、食糧不足がさらにきびしくなった時期に、豚肉・ラードを入手できないドイツ国民にドイツ政府の失政を強く印象づけたという意味で「危機の深刻化」と呼んでいるのでしょうか。それなら理解できなくはありませんが。
76「輸入に頼る必要のないドイツのジャガイモの収穫高は、1915年には約5000万トンだったのが、1916年には26万トンにまで激減したのである」とあります。32ページにはジャガイモ収穫量が1918年に2900万トンと書かれています。1916年の26万トンは食用ジャガイモだけで、1918年の2900万トンは食用・飼料用・醸造用などをひっくるめての量でしょうか?
本書とは関連しませんが、この文章を書いていて、屠殺という言葉がATOK2007の辞書に登録されていないことを知りました。Just Systemも何を考えているのやら。

2011年1月21日金曜日

歴史入門


フェルナン・ブローデル著 中公文庫
2009年11月発行 本体800円
ふだん、本屋さんで中公文庫の棚を覗くことはほとんどないので、ブローデルさんの著作がまさか中公文庫から出ているとは知りませんでした。本書は1976年にアメリカのジョンズ・ホプキンス大学で行った「物質文明・経済・資本主義」の大まかな内容を紹介するための講演の際のテキストだったのだそうです。「物質文明・経済・資本主義」はブローデルの代表作で、3巻からなる大著です。日本ではみすず書房から6冊に分けて出版されています(日本語版は段ボールのケースに入った仰々しい本でとても高価。もっと安くならないんでしょうか)。
ブローデルは、人間の日常生活を支える経済活動を物質生活、市場経済、資本主義経済の三つのレベルに分けて説明します。一番下のレベルには、交換を介さない経済活動があった(そして現在でもそういう活動がたくさんある)というのです。「日常性の構造」と銘打たれた第一分冊では、15~18世紀の衣食住、エネルギー源、技術、貨幣、都市の様子が多数の具体例をもとに紹介され、物質生活のありようが語られています。第二分冊「交換のはたらき」では、行商や村の市から大市、そして遠隔地交易など15~18世紀の商人の活動が紹介されています。遠隔地交易に従事する大商人は、市場経済以下をになう層とは質が異なり「資本主義」を担っていたとされています。 第三分冊「世界時間」は「物質文明・経済・資本主義」という作品全体の目的である「資本主義を、その発展と活動様式を、世界史全体に結び付けて考えること」に当てられて、その説明のために「世界=経済」という概念を提案しています。「世界=経済」は世界経済とは違っていて、非奢侈品の日常的な交換が行われる完結した地域的なまとまりで、かつては地球上に複数の「世界=経済」があったわけです。ヨーロッパの属している「世界=経済」は、この本の時代であれば、ヨーロッパと地中海世界に新世界が加わっていた範囲で、時代とともにそれが拡がっていき、ついには現在に至るわけです。「世界=経済」には中心と周辺があり、 外側の地域が中心の地域を養い、 経済の上下動とともに中心が移動し、資本主義は不平等の産物で、周辺の人々は周辺に位置するからこそ周辺の地位と境遇に生きることになっている、とされています。
三分冊あわせると厚さ30センチくらいにもなる「物質文明・経済・資本主義」のエッセンスが、こんな風に本書の中で述べられています。訳者は解説の中で本書を「最高の『ブローデル』入門と言えるであろう」と書いていますが、私にはとてもそんな風には思えません。本書を読んですっきり内容を飲み込むことができるのは、「物質文明・経済・資本主義」をきちんと読んだ人だけでしょう。既読者は本書を「物質文明・経済・資本主義」のエッセンスが何であるのか、ブローデルの見解を確認して自分の理解を確かめる目的に使えるとは思いますが、とてもとても入門用には使えないでしょう。そういう意味では、LA DYNAMIQUE DU CAPITALISMEというタイトルだった本書を、歴史入門などという名前で売ることにした人(訳者?編集者?)は、嘘つきと呼ばれても仕方がないでしょう。
ブローデルの著作は「物質文明・経済・資本主義」「地中海」など訳者は異なっても、ああブローデルの本だなと感じます。本書もそうで、訳文自体は合格点の出来です。また、1995年に別の出版社から出ていた本を復刊してくれたということなので、文庫本で800円という価格には、あまり売れなさそうだし目をつぶりましょう。
しかし全部で193ページの本のうち、目次、訳注、訳者の解説のページ数がやたらと多くて、本文は135ページしかありません。特に無駄な訳注が多すぎで800円に見合うページ数を稼いでいるだけなんじゃないという印象を受けました。フッガー、ルターなんて訳注が必要ですか?また、 アダム・スミスやガーシェンクロンには訳注が付けられているのに、ヴィトルド・クーラ(58ページ)には註がないんですよ。こういう点はひどいね。

2011年1月15日土曜日

世界の駄っ作機番外編 蛇の目の花園2


岡部いさく著 大日本絵画
2010年7月発行 本体2600円
おなじみの世界の駄っ作機シリーズの番外編で、イギリス機ばかりを集めた蛇の目の花園の第2巻です。取りあげられた機種には戦間期のものやジェット機も含まれてはいますが、前作の蛇の目の花園と比較すると第二次大戦に使われた機種がかなり多くなっています。また各々の機種の解説に当てられている紙数も増えていました。私は飛行機に詳しいわけではなく、ほとんどが知らない機種ばかりなのですが、それでも楽しく読めるように書かれている点は、このシリーズの他の本と同様です。

2011年1月14日金曜日

品種改良の世界史 作物編


鵜飼保雄他編著 悠書館
2010年12月発行 本体4500円
穀物、野菜、イモ、果物からバラまで、21の作物の品種改良の歴史が紹介されています。エピソードをいろいろとりまぜて私のような素人が気軽に読めるように工夫されています。
580ページもある本ですが、取りあげられている品種の数が多いので、詳しい専門的な記述がされているわけではありません。しかし、私の無知を反映して、あらたに学んだことがたくさんあります。例えば、イネでいえば中国で開発された直立穂の品種。普通のイネは実れば頭を垂れますが、直立穂は実がついても立ったままで、1ヘクタールあたり12トンという驚異的な多収をもたらしてくれるのだそうです。その写真が収められていますが、異形のイネといった印象でした。また、大麦の裸麦の裸の由来は知っていましたが、二条大麦と六条大麦の違いはこの本で学びました。トマトの品種改良で一平方メートルあたり30kgが実現していて、最終的には100kgが目指されているなんてことも初めて知り、果実だから水分込みだといえ、その多さにびっくりしました。
などなど、面白く知識が得られる本です。昨年読んだ、鉄道の世界史と同じ出版社から出されたもので、編者あとがきには同じシリーズの本だと書かれてありました。両方とも肩がこらずに読める本で、おすすめ。

2011年1月8日土曜日

ハングルの誕生


野間秀樹著 平凡社新書523
2010年5月発行 本体980円
ハングルは、子音・母音を表す字母をもち、それを組み合わせて文字にしている、とても合理的、論理的なシステムだということはなんとなく知っていました。そのハングルがいつごろ、なぜ、どうやって作られたのか、ハングルの持つ優れた性質、ハングルの使われ方、ハングルを用いた朝鮮語の表現・作品、日本の植民地化での動き、光復後にもっぱらハングルのみが使われるようになった事情などまで、新書というコンパクトな中に過不足なく納められ、分からせてくれます。本書は新書ですがきちんとした年表、リファレンス、索引が載せられていて、さらに学びたい人のために参考となる書籍の紹介もされています。平凡社はしっかりした新書を出す出版社ですが、この本はその中でも上等な部類だと感じました。
ハングルを作る際に、朝鮮語を子音・母音という音素に分解して、それぞれに字母を与えました。この音素という考え方が言語学の中では20世紀の発見だったことが説明されていて、ハングルの先進性に驚かされます。また、字母はその音を発する際の構音器官を模倣して形態を与えられたそうで、ハングルを創造した人たちのセンスには脱帽させられます。さらに、アクセントの表現や、正しい漢字音を普及するために朝鮮語にはない中国語の音を表す字母まで作られたそうで、本当に周到に計画されたことが分かります。
私がハングルを目にするのは、JRの駅の表示やウエブ・ブラウザ上くらいなので、デザインされたフォントしか知りませんでした。しかし、本書の中には宮体と呼ばれる毛筆で流れるように書かれたハングルが紹介されています。朝鮮語を知らない私には文字自体は読めないのですが、とても美しいということは直感的に感じ取れます。こういう世界もあるのですね。
ハングルが公布されたのは1446年でした。日本で仮名がひろくつかわれ、古今集や土佐日記などなどの文学作品が仮名で書かれるようになったのは10世紀ですから、それより500年ほど遅いわけです。日本列島に在住の人たちよりも、朝鮮半島に住む人に漢文・儒学・漢文学に堪能な人が多かったのは確かでしょう。でも、自分たちの母語で自分の思いを書きたいという希望はなかったのでしょうか?ハングルが創造されるまで、自国語用の文字が作られ広く普及することがなかったんでしょうか。また ハングルが創造されるまでは、朝鮮語による文学作品などはどうなっていたのでしょうか。そのあたりが気になりました。

2011年1月3日月曜日

ノモンハン航空戦全史


D・ディアルコフ著 芙蓉書房出版
2010年12月発行 本体2500円
ノモンハン戦の本を読むと、激しい地上戦を追うだけでも混乱してしまって、航空戦の推移がどうだったのかまで理解できな感じがしていました。その点、本書は地上戦についてはぜひとも必要な記述に絞り、おもに日ソ両軍の航空機、地上の施設、戦術、航空戦がどう推移したのかなどを分かりやすく解説してくれます。著者はブルガリア空軍パイロットでブルガリア国防大学空軍学部長の方なのだそうです。日本人以外の人にもよめるように書かれているので、日本人の非専門家にも読みやすいのでしょう。もとは英語で書かれた本なのだそうですが、引用文献のリストをみると半数以上がキリル文字なので、ちょっとびっくり。でも、両軍の真の損害を知るにはソ連の史料にあたる必要があるので、当然なんでしょうね。
戦場に投入された航空機・パイロット・地上要員などはソ連側の方が常に上回っていました。少ないながらも緒戦期は日本側が優勢でしたが、中期は互角、後期は戦場上空の航空優勢はソ連側にあり損害数もわずかに日本側が上回るようになったそうです。ソ連側は初期中期の戦訓を活かして戦い方を変化させたこと、スペイン内戦の経験者など熟練のパイロットもつぎ込んだこと、そして黒海やバルト海方面からも航空機・パイロットを移動させ常に数的優勢を維持したことなどが、この推移の原因とのことです。
日本も対抗してどんどん機体やパイロットをつぎこめばよかったのでは、とも考えますが、日中戦争をしていたこと、また機体については当時最新の九七式戦闘機の月間生産数がたった38機で、しかも生産機のほとんどがノモンハンに投入されたように精一杯だったこと、またパイロットについては損失に補充が追いつかない状況だったそうです。
英本土航空戦が1940年上半期に決定的な段階に入っていたとはいえ、ノモンハン航空戦の規模を勘案すれば、これに匹敵する航空戦は、それまで生起しなかったと言わざるを得ない。80キロメートルに満たない狭隘な空域において、あるときは300機以上の航空機が同時に空中戦を行ったという事実を踏まえれば、航空戦史の中で、このような大規模な航空戦は皆無であったと断言できる。
と著者は書いていて、ノモンハン航空戦がかなり大規模な戦いだったことがよく分かりました。また、撃墜された僚機のパイロットを救うため九七戦が地上に着陸して地上にいる被撃墜機のパイロットを自機に収容して離陸したことが複数書かれていたり、ソ連が飛行場にダミーの機体を置いていたとか、蚊の多い地域の夏なので駐機中の飛行機のプロペラをまわしっぱなしで風で追い払って眠ったエピソードとか、面白い話もたくさんありました。
本筋とは関係ありませんが、
15ページの一番上の写真のキャプションに三菱九八式重爆撃機とあります。九七の誤りでしょう。
187ページの資料の九八軽爆の諸元の表の右側の最大速度・巡航速度・最大航続距離・上昇率などなどがずれていておかしくなっています。
193ページの史料のイ式重爆撃機の説明に「日本軍のパイロットたちは、すぐに本機の武装では戦闘機を効果的に撃退できないことを学んだ。ノモンハン事件では、武装以外の欠点も明らかとなり、ノモンハン事件終結後、本機は退役した」と書かれています。スペックを見ると九七重爆とあまり違わないようにも見えるし、本文読んでも具体的にどう劣るのかいまひとつはっきり書かれていないように思います。

2011年1月1日土曜日

高松宮と海軍


阿川弘之著 中公文庫
2006年7月2刷 本体648円
昭和天皇の弟で敗戦前は海軍士官だった高松宮の日記が、死去後の1990年代になってから発見されました。その後中央公論社から出版された高松宮日記に
、本書の著者は編纂責任者として携わりました。その間のいきさつ、日記の中の興味深いエピソードの紹介、海軍に関する思い出などをつづった文章が3編収められています。元は、中央公論に掲載されたものでしょうか。
「千年に一度出るか出ないかといった国宝級の歴史資料」といった言葉が書かれていますが、これはちょっとほめすぎな感じ。でも、他の資料とつきあわせるための材料としては重要でしょうね。出版された高松宮日記は数百ページが8巻もあって素人が読むには大変そうですし、現在では入手も難しそう。本書でとりあえず雰囲気を知ることができて、今のところは満足な感じです。