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2008年7月30日水曜日

宇宙の定数


ジョン・D・バロウ著 青土社
2005年3月発行 本体2800円


人間原理は、光速度やプランク定数などの物理の定数がなぜ今の値になっているのかを、炭素型の生物である人間が観測者として存在しうる宇宙になるには、そういった値でないと困るという点から説明してくれるものです。

人のような知性のある炭素型生物ができるには、ビッグバン後に星ができて、超新星爆発して超新星内で作られた重い元素がばらまかれ、それを元にしてまた星ができて惑星ができて、生命が発生して知性を持つまでに進化しなければならないので、ビッグバン後百数十億年経過しないとだめ。また、その間ずっと膨張を続けた宇宙はとても大きくなっている。また、原子が安定して存在できたり、複数の原子からなる化合物が安定して存在できたりなどの条件を満たすには、自ずと自然定数のとれる範囲が決まってくるわけですから、人間原理自体は、しごく当たり前の主張だと感じます。

また、本書の中では無次元の数である微細構造定数αが、過去からずっと一定だったのかということも論じられていました。
  α=e2/hc4πε で、
  eは素電荷、hはプランク定数、cは光速、εは真空の誘電率、
  1/α=137.036
西アフリカのガボンにあるオクロのウラン鉱山で20億年前に起きた天然原子炉現象など、さまざまな証拠からαは過去からずっと一定だったと考えられてきました。ただ、最近著者のグループが、αのごくわずかに変化した可能性を発見したのだそうです。αが変化するってほんとかな。

私たちの住む宇宙が空間3次元と時間1次元からなることも、人間原理から説明できるのだそうで、これは初耳。重力の逆二乗則や電磁気の逆二乗則空間が成りたつのは3次元の世界だけで、4次元だと逆三乗則になるので、惑星が恒星のまわりを安定して運動したり、安定して原子が存在できなくなっちゃうのだそうです。4次元以上の世界に人間は住めないというわけですね。

2008年7月28日月曜日

近世日本の市場経済 続き2

ブローデルの書いていたことでもう一つ想い出すのは、ヨーロッパ諸国では穀物の遠距離通商があまりされていなかったということです。「ふつう大商人たちは、危険を伴ううえに拘束の多い穀物通商にはあまり関心を払わなかった」とのこと。

また、「農村は自分たちの収穫で暮らし、また都市は剰余生産物で暮らしたのである」、「手の届くところで食糧を補給するのが都市の知恵というものであった。この食糧補給が20ないし30キロメートルという圏内で行われれば、高い金のかかる輸送や、いつどうなるかわからない外国依存をしなくてもよかった」とも「物質文明・経済・資本主義 日常性の構造1」(みすず書房、1985年) には記述されています。

実際、17世紀において「およそのところ、ヨーロッパの小麦通商の最大限は六百万キンタルだったのである。厖大な数字ではあるが、ヨーロッパの全人口が消費した二億四千万キンタルと比較するならば、おかしいほどわずかな数字である」とも記載されています。

それに比較すると江戸期の日本の米の遠距離流通の比率はかなり高いことになります。例えば、大阪は西廻り海運関係地方一帯を市場圏としていましたが、この地域の各藩は平均して石高の15−18%、藩の貢租収入の30−45%を大阪登米にあてていました。大阪に集まる米が年間百五十万石の他に、濃尾地方や仙台から江戸に送られる米も、江戸の人口が百万人近かったことから、かなりあったものと思われます。

日本国内の流通だからそれほど遠距離ではないのかというと、そうでもありません。Googleマップでおおざっぱな距離を調べてみると、赤間関から大阪まで450kmで、シチリアやサルディーニャからイタリア半島やマルセイユまでの距離とそんなに違いません。金沢から大阪までの1100km・酒田から大阪までの1500kmもダンツィヒからアムステルダムまでの1700kmとそれほど大きな差のない距離です。

本書の第八章「地方市場間の連関性と市場形成」では日本国内16カ所の米価の変動の連動性が検討されています。西廻り海運でつながる大阪・広島・赤間関・佐賀・熊本・金沢などの米価の変動の相関係数はかなり高くなっています。また、江戸の米価は名古屋の米価と関連して動いています。

本書第四章によると米一石(1000合)の一里あたり川舟運賃は約3−4合だったそうです。また、河川の舟運よりもずっと大きな船を使える海運の運賃はもっと安かったでしょう。なので、日本は海に囲まれていて重量のある穀物の輸送には有利な条件があり、また人口比で大都市居住者の割合が多かったということなんでしょう。

ただ、江戸や大阪に米を出荷するのに水運だけでは済まず、峠越えの駄送も併用しなければならない信州や会津の米価は、他の地点とは独立した動きを示しています。ヨーロッパの大部分の土地は海から遠く、この信州や会津のような状況だったということなのかも知れません。


近世日本の市場経済
近世日本の経済市場 続き

2008年7月27日日曜日

近世日本の市場経済 続き

本書には「米価の短期変動のコントロール機能、需給調整機能、米価平準化機能、価格保健機能、そして米市場の全国的ネットワークにおける市場中心機能などすべての点から見て、概して十八世紀中葉から十九世紀初期の大阪米市場は有効にワークしていたが、天保期以降にはこれらの機能の多くに衰えが見られるようになった」と記載があります。

その実例として、文化十四年以前は一年に百五十万石もの大阪廻米があったのに、その後廻米制限令が出され、解除後の天保十一年には百八万五千石しか廻米されなくなり、「廻米制限令解除後も大阪廻米は増加せず、これにより大阪米相場の相場平準化機能が失われてしまった」ことや、「幕末にかけて堂島の正米商内と帳合米商内が遊離し、帳合米商内がまったくの投機取引、賭博取引化し、米の実需業者にとっては無縁のものとなっていたこと」があげられています。

また、「天保末期以降の大阪米価の不安定性が大阪商業の動揺・衰退と深く関係」し、米以外についても「大阪への商品廻着量が減少」したことが、述べられています。中央市場大阪とライバル関係にある地方市場の成長が著しかったことが、真の原因なのでしょうね。

経済史に関心のある人なら、F・ブローデルの著作には目を通しているでしょう。この日本の中央市場としての大阪市場と、その後の地位の低下・衰退について読むうちに、なんとなくブローデルが書いていたことを想い出しました。大阪ってアムステルダムに似ているのかなって。

ブローデルは、「物質文明・経済・資本主義 世界時間1」(みすず書房、1995年)の中で「アムステルダムでは、倉庫がうまくゆけば万事がうまくいった」、「倉庫はすべてを呑みこみ、ついですべてを吐き出すことができた。市場にはじつに考えられるかぎりの大量の財貨・素材・商品・サービス業務が揃っていて、なにもかもたちどころに用立てられた。注文を出すと、機械が動き出したのである。まさにそのことによって、アムステルダムはその優越性を維持していた」と書いています。

イングランドやフランスの産物を買うのに、その原産国に買い付けに行くより、アムステルダムで買った方が安くつく状況があったのだそうです。きっと18世紀までの大阪もそれに近い存在だったのでしょう。アムステルダムはやがてロンドンに覇権を奪われますが、ロンドンは倉庫の街ではありませんでした。

倉庫とサービスが中心市場としての地位を保証するのは資本主義の発達のある段階にしかあてはまらず、資本主義がさらに先の段階に進むと別の組み合わせが中心を規定するような感じなのかなと思います。大阪は江戸末期に衰退しましたが、明治から昭和戦前期にかけて復活・繁栄しました。この時期の繁栄は江戸期の経験を元にしてはいたのでしょうが、倉庫とサービス業がもたらしたものではなく、軽工業がもたらしたものでしたから。


近世日本の市場経済
近世日本の経済市場 続き2

2008年7月26日土曜日

近世日本の市場経済

宮本又郎著 有斐閣
1988年6月発行 本体7900円

大阪米市場分析というサブタイトルがついている本です。箱入りグラシン紙カバーという典型的な20世紀の専門書スタイルの装丁なので、これまで手に取ったことがなかったのですが、シンポジウム 歴史のなかの物価が面白かったので、読んでみることにしました。

制度史的分析を扱った第一部では、大阪米市場の成立史、農村での集荷から海運による大阪への登米、蔵屋敷での入札から払い米・米切手の機能など取引の仕組みが説明されています。第二部は物価史的分析で、大阪米市場の卸売市場として米価の変動を平準化する機能の検討、先物市場である帳合米取引のヘッジ取引の有効性の検討、大阪をふくめた全国16カ所の米市場間の米価の連動性の検討などが扱われています。

この本の内容についてあれこれ評価するほどの能力は持ち合わせていませんが、目的・方法・述語の定義などきちんと説明しながら論じてくれている本で、非専門家にとっても読みやすく面白い専門書でした。きっと、この人の講義は学生にも分かりやすいものなのでしょう。

本筋に関わらない疑問を少々。江戸時代にも米の値段には品質の違いによる差がありました。餅米はもちろんのこと、うるち米にしても上米・中米・下米や赤米と分けて売られていたようです。こういった米の品質の違いと米切手との関連はどうだったのでしょう。

というのも、時代とともに、入札後に米切手を入手してもすぐに米を払い出ししない、米切手が転々と流通するようになったからです。本書にも「米切手の発行から蔵出しまでの間に相当の時間が経過するようになったため、米切手と特定の米(入札された米)との対応関係は失われ勝ちとなり島本氏が指摘しているように、米切手は倉荷証券的なものから商品切手的なものへと、性格を変えることとなった」とありますが、これだと見本をみて入札しても意味がないような。

もちろん、「損じ米、痛み米、濡れ米、虫入り米などについても入札売りが行われたが、これは本勘定外で、『見せ米』として公示した上」入札されたそうですので、米切手と引き替えに変質した米が渡されることはありません。でも、変色や虫食いなどのない米なら、品種品質関係なくどれも同じ単なる米として扱われたのかが気になります。

農民は変色や虫食いの無い良い米を選んで年貢米として納めていたという話はどこかで読んだことがあります。でも、味がいい米とか見栄えがいい米とか、そういった方面での良質な品種の米は求められていなかったんでしょうか。

ただ、「播州米が酒造米として適していた」と本書には記載があり、実際に加古川河口の高砂の地で売却された姫路藩米の入札には伊丹・西宮・灘の酒造業者が参加していたそうです。これは、高砂と伊丹・西宮・灘が距離的に近かったからというだけではなく、米の品質的に優れていたから選ばれたということですよね。それなら、やはり江戸時代にも優れた品種の米を求める需要があったということかな。


近世日本の経済市場 続き
近世日本の経済市場 続き2

2008年7月25日金曜日

濃縮尿は知覚可能か

蒸し暑い日が続いていますね。ちょっと外を歩くと汗だくになってしまいます。また、余程のことがない限り我が家はエアコンで冷房することがないので(今シーズンはまだエアコンのスイッチ入れたことがありません)、MacBook Proをラップトップで使ったり、ベッドで眠ったりするだけでも、それなりに汗をかいてしまいます。

汗が多くなる季節と言うことで、TVの天気予報でも熱中症に気を付けるように呼びかけられています。飲水に心がけるようにしてはいても、汗をかかない季節に比較すると、おしっこの回数が少なくなりますよね。起床後すぐにトイレに行くと、その次のおしっこは午後になってからなんてこともあります。そういうときは尿の色が濃くなる状態、濃縮尿になっています。

で、トイレに行って濃縮尿が出るときって、水洗便器の水と混じりつつあるおしっこの色を見て濃いなと分かるだけでなく、なんとなく濃いおしっこが出つつあるのが自覚できる気がするのです。尿道のあたりが、薄い尿の時と比較して、なんというか、より暖かく熱く感じられるのです。濃縮尿は薄い尿に比較して浸透圧が高いでしょうから、尿道の粘膜がそれを感知しているのかなとも思うのですが、どうでしょう。

女性は尿道が短いから感じにくいかも知れないけど、男性なら同感してもらえますよね?もし、濃縮尿を感知できるようなら、膀胱炎や尿道炎の時に排尿痛や刺激を感じるのも、炎症に際して膀胱や尿道の粘膜の知覚閾値が低下して、ふつうの濃さの尿に対しても敏感になり、痛みとして感じてしまうのかなとも想像してしまいました。

とまあ、こう妄想していながら一つ気付いたことがあります。それはトウガラシです。一昨日・昨日とブログに書きましたが、 タバスコ入りトマトジュースにしてもカレーにしても、私はトウガラシの辛さがすきなんですね。キムチなんかもふつうの市販のものは辛さがちっとも気にならないし、毎日のように食べてます。

トウガラシに辛さをもたらす主成分はcapsaicinです。もしかすると、尿の浸透圧ではなく、食事として摂ったトウガラシの中のcapsaicinが濃縮尿の尿道への温感・熱感の原因なのかもしれません。尿道にカテーテルを挿入するとき、特に男性では痛みを訴えます。なので、尿道粘膜には痛覚のレセプターがある訳で、capsaicinが尿中にあれば温感・熱感をもたらすはずです。トウガラシを常食している人の尿中にはcapsaicinが排泄されていて、しかも濃縮尿ならcapsaicin濃度も普段よりいっそう高くなっているでしょうから、熱く感じても不思議ではないような。

そこでcapsaicinについてググってみました。capsaicinは腸管から吸収され他後は即座に肝臓で代謝され、代謝産物が尿中に排泄されるのだそうです。ここまでは予想通りです。ただ、capsaicinの代謝産物は、capsaicinの生理活性を持たないと書いてあるんですね。生理活性を持たないということは、辛くない、痛覚レセプターに温痛覚をもたらさないということなんでしょうが、本当なのかな?

本当かどうかは、ココイチで10辛のカレーを食べて、翌日朝一番のおしっこの味見をして辛さの有無を確かめてみれば分かるような気もします。でも、今のところそこまでの勇気はありません。

2008年7月24日木曜日

辛いものが食べたいときには

外食することは比較駅少ない方だと思うのですが、夜に会議や講義のある時には事前にどこかのお店に食べに行ったりします。そんな時にはよくココイチも利用します。ココイチのカレーだと安定した辛さのものが食べられるし、どこの街にもお店がありますからね。立川と府中のお店にはよく行きます。

だいたいビーフ・200・5辛を食べます。ふつう盛りだとご飯300グラムなのですが、300グラムは多すぎるので200グラムにします。ご飯を400グラムにしてトッピングにカツなどの揚げ物をオーダーしている人をよく見かけますが、私はあんなには食べられないな。

また、辛さの方はふつうの辛さじゃ食べた気がしません。3辛でも物足りなく感じるので、5辛くらいがちょうどいいような。10辛は大量に汗と涙が出てくるので、真冬なら体が温まっていいのかもしれませんが、気軽に食べるには刺激が強すぎです。激辛ごのみって程でもないとは思うのですが、辛いモノってしばらくすると、また食べたくなるのが不思議です。

2008年7月23日水曜日

夏はタバスコを入れてトマトジュース

トマトジュースって、子供の頃はトマトケチャップのような香りが強烈な印象だったので、どうしてこんなモノを好んで飲む人がいるんだろうって、不思議に思っていました。市販のトマトケチャップは甘ったるくもあるので今でも好きではないし、調理につかうこともありません(買ったことがないかも)。でも、なぜかトマトジュースの方は大人になって飲む習慣がつきました。

夏場の今頃はトマトジュース缶を一日に2本は飲みます。昔はふつうにスーパーやコンビニで買って飲んでいたのですが、15年くらい前から生協のトマトジュースを買うようになりました。生協のトマトジュースはふつうの市販のトマトジュースと違って食塩無添加なのです。煮込み料理などに使うには無塩の方が都合がいいのですが、ジュースとして冷やして飲むには食塩無添加だとちょっと味気なさすぎます。そこで、タバスコを加えて飲むようになりました。

辛みに対する感覚は不思議なもので、かなり慣れてゆくもののようです。初めのうちは2-3滴入れていただけだったと思うのですが、段々とそれでは物足りなくなりました。今では、カップの上にビンを逆さにして持って、おしりを15回ほど叩いてタバスコを入れてから、トマトジュースを注いで飲むようにしています。

ところで、トマトジュースの缶はなぜ190グラム入りなんでしょう。他のジュースの缶詰も同じ量のものが結構あると思いますが、中途半端な量のような感じで、これが何故なのかも不思議。一合でおおよそ190グラムになるのかな。

2008年7月21日月曜日

日本の哺乳類学1 小型哺乳類


本川雅治編 東京大学出版会
2008年5月発行 本体4400円

10本の論文が収められていますが、一番面白いのはアカネズミと堅果(木の実)に含まれるタンニンとの関連をテーマにした第10章です。屋外で捕獲したアカネズミに、コナラやミズナラの堅果を与えると体重が減少したり死んでしまいます。実は、タンニンは苦いだけではなく、消化酵素や消化管上皮細胞と結合して、消化の阻害や消化管潰瘍を来す作用があるのです。では、野生のアカネズミはタンニンを含む堅果を食べてどうして平気なのか。秋になって堅果を食べるようになると、唾液中にタンニン結合タンパクが分泌されるようになります。タンニン結合タンパクが結合したタンニンはタンナーゼ産生腸内細菌によって分解処理されるので、有害な作用を示さなくなるのだそうです。目からウロコでした。ヒトでもタンニン結合タンパクが発見されていると記載されていますが、このことも初めて知りました。生理学や臨床の講義・文献などでタンニン結合タンパクについて聞いたことは全くありませんが、ヒトの病気にもなんらか関係してたりするのかな。子供は苦い食べ物が嫌いだけれど、大人になるとビールや山菜がおいしく感じられるのは、もしかしてタンニン結合タンパクのおかげ?

第8章ではニホンリスが扱われていますが、日本ではリスが減少しているのだそうです。原因としては、ふつうに考えられる都市化などの影響のほかに、マツ枯れ病で松の種子が利用できなくなった西日本で減少が著しいのだそうです。また、リスと言えばなんとなくクルミを両手で抱えて囓っている図が思い浮かぶのですが、全てのリスがクルミを食べることができるわけではないそうなのです。クルミを食べるには殻を割らなければなりませんが、個体によって殻割りの技術に巧拙があって、上手なリスでは5分ほどで、また下手なのだと30分もかかるのだとか。さらに日本のリスでも、オニグルミが自生していない地域のリスにオニグルミを与えても殻を割ることができないので食べられないのだそうです。殻割りの学習はどうなってるのか気になりますね。最初は母親から学ぶのでしょうか?小児期にクルミと出会わないと学習は成立しないのでしょうか?などなど。

第9章は、アカネズミとヒメネズミという同じ場所に暮らしていて似ている2種の種間競争と共存についての調査結果をまとめています。この論文を読んで面白いのは結果もそうなのですが、調査する過程でした。仮説を立てて、それを検証するための実験を考案して、実際にフィールドで調査することを何年にもわたって行う様子がたんたんと書かれています。樹上生活するヒメネズミから樹上での活動の場を奪うために、0.7haの「調査区内のすべての立木に幅30cmのプラスティックフィルムを巻き付け」たのだそうですが、いったい樹は何本あったんでしょう。筆者はこの作業を大変だったとは書いていませんが、研究がとても好きでないとつづけられないだろうなと感じました。また、第7章のヤマネの研究についても、1haに1匹くらいしか住んでない小さな小さな樹上生活者の調査を5年も続けたそうで、同じくその苦労に感心してしまいます。

自然史的なテーマの方が読んでて面白いのですが、10本の論文のうち残り4本は進化に関するものです。うち3本が遺伝子解析を交えたもので、残りの一本が咀嚼筋の進化という形態に関するものでした。マクロの解剖を主テーマにしている人はやはり少ないんでしょうね。

生物地理に関して再確認できたこと。ユーラシアの東西のはしっこ位置する日本とイギリスですが、日本には40種の固有の哺乳類が生息するのに対してイギリスにはゼロ。本州島は東アジアで最大の島で南北に長く環境の変化も小さくなく、島とは言っても小型の哺乳類にとっては広い。

2008年7月20日日曜日

日本に古代はあったのか


井上章一著 角川選書426
2008年7月発行 税込み1680円

面白い本、おすすめです。どんな内容かというと、日本史の時代区分のうちの古代はなかったことにして、3世紀(卑弥呼の頃)を中世の始まりにしちゃおうという主張なのです。どうして、そんな説が出てくるのか。

中国史学者の宮崎市定は、ヨーロッパと中国史の比較から中国史の時代区分を行いました。ギリシアの都市国家の時代に対応するのが春秋時代。その後の強大な帝国を築いたローマに対応するのが秦漢帝国の時代。そしてローマ帝国にゲルマン人が侵入してくるように、漢の滅亡後には鮮卑・匈奴などの異民族が侵入して五胡十六国時代へつながります。 ヨーロッパの古代と中世の境目は476年の西ローマ帝国の滅亡の頃とされています。西ローマ帝国の滅亡が古代と中世の画期なら、中国史でも対応する東漢(後漢)の滅亡した220年頃が古代の終わりになるというのが、彼の説なのだそうです。そして、宮崎によれば中国の近世は宋に始まります。もちろん、隋唐までを古代とする説もあるのですが、宮崎説は説得的です。

東アジアのみならずユーラシアの大きな動き、当時ではこれが日本に関連する世界史でしょうから、この世界史の時代区分に日本史の時代区分を一致させようとすると、中国の中世の開始は日本でいえば卑弥呼の頃かそれより前くらいですから、日本史の中世も3世紀に始まることにしようとなります。飛鳥・大和の豪族や奈良平安時代の大寺社や貴族は大土地所有者でもあったのですから、その土地・荘園の管理者との間に封建的な関係があったのだろうと考えれば中世でもいいんじゃないかと。そして、3世紀より以前の日本は弥生時代になってしまいますが、弥生時代の日本に古代文明が存在したとは言い難いので、日本には古代はなかったとなるわけです。

日本には古代はなかったと書くと意外な感がありますが、ゲルマン人の歴史も同じなのだそうです。ライン川以東、ドナウ川以北の地域には古代的な文明は存在せず、ゲルマン人の歴史は中世から始まることになっているそうです。西ローマ帝国滅亡後に出現するゲルマン人の国はみんな中世のお話なのです。

また、ずっと時代は下がりますが、西ヨーロッパで農奴が解放され資本主義が形成されつつある時代に、東ヨーロッパでは再版農奴制、ラテンアメリカで奴隷労働がみられました。この時期の東ヨーロッパを中世、ラテンアメリカを古代と呼ぶことの滑稽さをかつてウォーラーステインの著作から学びましたが、日本史を中世から始めようというのも同じような感じがして素直に納得。

著者は、「今後も『日本古代史』は、きえさるまい」と書いていますが、いつの時代どの分野でも若い研究者は新しいことを打ち出さなければ名を揚げることはできませんから、古代がなくなることも夢ではないような気がします。

ただ、本書にも書いてない点があります。それなら3世紀以前の日本や5世紀以前のゲルマン人の時代はなんて呼んだらいいのか? 「歴史」以前の段階だから時代区分的呼称は不要といことか、先史時代とでも呼んでおけばいいのでしょうか。また古代って何?中世って何?という定義が本書には全く述べられていません。著書はマルクス主義は嫌いだとおっしゃるけれど、奴隷制の古代、封建制・農奴制の中世ってことでいいんですよね。

史学史の思いっきり自分流のまとめを提示してくれているのも、本書が非専門家の読者である私にとってありがたい点です。日本史で中世を鎌倉時代からとする考え方を著者は関東史観と呼んでいます。なんとなく、マルクス主義者が鎌倉時代を日本中世の始まりとしたのではと思っていたのですが、そうではなく、ソ連で教えられていた日本史では、大化の改新が農奴制・封建制度のきっかけになり、そこから中世とされていたのだとか。

実は、京都を中心とする古代的な封建制を健やかな武士が打ち破って中世が始まるという図式は、明治以降に日本で始まった考え方なのだそうです。そして、こういった関東史観は主に東大系の研究者を中心に受け継がれ、京大系の研究者は鎌倉幕府を画期とせずに中世を遡らす方向で研究を続けたことが述べられています。以前から、東大と京大の歴史解釈の違いについては読んだことがありますが、本書には特にはっきり書いてあって面白い。

例えば、「かつての露骨な関東史観は、さすがに影をひそめている。だが、今でも東の学会には、そのなごりがある。本郷和人のように、はっきりその色合いをうちだす研究者も、あらわれている」などと。だから本郷氏の書いた武士から王へを読んで、すごく違和感を感じたんですね、私は。東京生まれで東京育ちですが、黒田俊男の「日本中世の国家と宗教」などの方が私にはしっくりきます。

また、本書には保立道久著「黄金国家」(青木書店、2004年)についても言及があります。この本は、奈良から平安時代にかけての東アジアと日本の関係史をまとめたものですが、「はじめに -- 世界史の時期区分について」が17ページもあって、世界史上の中世と日本史の古代とのずれを論じているんです。そのせいもあってか、この黄金国家を読んだときに、変わった本だなという印象を持ちました。でも、「日本には古代はなかった」という発想をもとに読んでみると、腑に落ちるっていう感じ。保立氏は歴史の専門家だから本書の著者とは違ってかなり抑えめに書いていて、私にはその言うところが伝わっていなかったのでした。この本もしっかり読み直してみなければ。

2008年7月18日金曜日

農耕起源の人類史


ピーター・ベルウッド著 京都大学学術出版会
2008年7月発行 本体5200円

インドからヨーロッパにまで分布しているインド=ヨーロッパ語族や、台湾から東南アジア・マダガスカル・オセアニアと広範に分布するオーストロネシア語族のように、地球上には分布範囲のとても広い語族がいくつもあります。こういった同系統の言語の地球上における分布を、「完新世前期に農耕が発生した少数の特定地域で、語族が発生しそこから広がったとする考えかた」で説明しようとしたのが本書です。

かつて完新世の頃、肥沃な三日月地帯、長江・黄河流域、ニューギニア、サハラ以南アフリカ、アメリカ合衆国東部、メキシコ中部、南アメリカ北部などで、それぞれ独立して農業が発明されました。地球上にはそれ以前から狩猟採集を行う人たちが広く薄く住んでいました。しかし、農業を発明した人たちの人口の増えるスピードが速かったので、農業を発明した人たちはそれぞれの農耕の起源の地から、よりよい土地を求めて移動して行きました。その過程で先住民と交流をくり返しながら言語と農耕を広めていったことが、農耕と語族の地球上での現在の分布をもたらしたというのが本書の主張です。

この考え方を、著者は「初期農耕拡散仮説」と呼んでいます。本書を読みながらもった感想は、これって仮説というより当たり前のことなんじゃない?というものです。ベルウッドさんがこの説を本という形にしてまで世間に問うているということは、他の学者の説も参考にしたかもしれないけれども、たしかにこれが彼のオリジナルの説だということでしょう。でも、腑に落ちない感じ。

その点は本書の訳者も同じように感じたらしく、巻末の解題で解説してくれています。欧米社会では、現生人類が絶対で、現生人類とそれ以外のネアンデルタール人のような先住民との間に交流があって言語や農耕文化が広まるということは考えにくいのだろうということです。

私にはとても当たり前に思える「初期農耕拡散仮説」ですが、だからといってすべての農耕・言語の分布状況がこれだけで説明できるわけではないのだろうとも思います。ほかの言語については知識がないので、記述された通りに読み進んだだけですが、日本語についての、「日本語は紀元前300年頃に朝鮮半島から弥生時代の稲作民とともに日本にひろがり、その結果、縄文時代の『狩猟採集民』の言語と入れかわった」というのは、かなり気になります。

日本語の起源はまだ定説がない状況だと思うのです。朝鮮語と日本語とは文法に似ている点があっても、ある言語どうしを同系と判定するのにつかわれる単語の対応がほとんどみつからなないんでしたよね。開音節のみからなる点は南の方に似た言語があるそうですが、朝鮮語とは一致しません。本書では採りあげられていない日本語クレオール起源説なんかの方が、私にはもっともらしく聞こえます。なので、日本語と日本の農耕の起源に関する本書の記載はイマイチという印象でした。なお、本書にはドラヴィダ語族の分布に関する記載もありますが、日本語とドラヴィダ語との関連については触れられていませんでした : )

本書の終わりの方に、第11章「遺伝子、古人骨、人々の身体特徴からさぐる」があります。ここには骨の形質や、ミトコンドリア遺伝子、Y染色体上の遺伝子の特徴の地域的な分布が触れられています。これに加えて、いつの日か化石からDNAを抽出して分析できるなどの革新が加われば、農耕や言語・民族の起源に関する研究がかなり進歩すると思われるので、期待しましょう。

本書の半分以上は、農耕が各起源地からどのように拡がっていったか、各語族がどのように世界に分布しているかの詳しい解説になっています。これを読むだけでも勉強になりました。

2008年7月16日水曜日

竹島なんて、いらない

昨日の新聞などの報道をみると、竹島問題を学習指導要領でとりあげることに韓国の側からは反発があったとのことです。日本が現在抱えている領土問題には、この竹島の他にもロシアとの北方領土、中華人民共和国・中華民国との間の尖閣諸島がありますが、これらの中で一番争う意義に乏しいのが竹島でしょう。

なんと言っても竹島を実効支配しているのは韓国です。北方領土の日ソ共同宣言にあたるような合意も一切存在しないわけで、いくら日本国内で勇ましい言動をとってみても、韓国が竹島を日本の領土として譲り渡してくれる見込みはゼロだと思います。まともな政治家や外交官なら、それを理解できないなんてことはないはず。

それなのに竹島問題を政治家・マスコミが煽り続けるのは何故なんでしょう。いつの日にか韓国と戦争したいのでしょうか?日本国憲法では国権の発動たる戦争行為は禁止されていますから、竹島という日本国固有の領土に対する外国軍隊の占有状態に対する自衛のための行動として、いつの日にか自衛隊が出動させたいとか。まさかね。

ナショナリスティックな世論に配慮してでしょうか。でも、竹島問題に関するナショナリズムの発現は、無責任なマスコミの言説の影響が大でしょう。大新聞やNHKなどのマスコミがナショナリズムを煽る行為をやめれば、現状よりはずっと沈静化するはずです。

経済的な問題を重視してのことでしょうか。竹島に対する領土の主張を引っ込めれば、日本海における専管水域が狭くなってしまうのは確かです。しかし、 実効支配していない竹島周辺の海域で、漁業以外に何らかの利益ある経済行動がとれるとも思えません。直接の利害をもつ漁業関係者には、金銭で解決がつきそうなものです。

まあ、冷静に考えてみれば、竹島に対する領土としての主張を続けても、得られるものはほとんどなかろうというのが私の考えです。どうせちっぽけな島一個なんだし、韓国の領土として認めて、韓国との間で紛争が少ないようにしておく方が望ましいと思うのです。というのも、北朝鮮の核問題に関する6カ国協議のように、東アジアには懸案を話し合うような場がこれからも設置されるでしょう。そして、すぐにEUやASEAN並みとは行かなくとも、ゆくゆくは何らかの機構が常置されてゆくでしょう。そんな場での主役は、間違いなく中国になります。

ただ、中国が主導権を握るにしても、日本の主張を中国に是非とも受け入れさせたい状況だってきっとあるんだと思うのです。そんな時に、一緒に説得に当たる国としては韓国が最適です。東アジア諸国の中で自由主義の経済的な先進国として利害の一致しそうな国は韓国と台湾になります。ただ、台湾には別の意味で問題があるので、中国と上手に付き合うためには韓国との協調を重視することが必要となるわけです。

もしかすると日本人の中には韓国嫌いの人も少なくないのかもしれませんが、政治家・ジャーナリズムには好き嫌いより国益重視で国民をリードする言動を望みたいものです。鶏肋に未練を残すことなく。

2008年7月14日月曜日

ベルリン終戦日記


山本浩司訳 白水社
2008年5月発行 本体2600円

ある女性の記録というサブタイトルの付いている本書は、ベルリン在住の34歳の女性ジャーナリスト(匿名を希望していた)が1945年4月20日から6月15日までをつづった日記です。彼女は、戦前ヨーロッパ12カ国に旅行したことがあり、パリ・ロンドン・モスクワに住んだこともあり、フランス語やそしてこの敗戦前後から重要になるロシア語をつかうことができました。

この日記は、まず1954年にアメリカで出版され、ついでノルウェー・イタリア・デンマーク・フランス・フィンランド、そして日本でも1956年に抄訳が出されました。しかし、ドイツ語版は5年後にしかもスイスから出版されました。ドイツ国内で出版されなかったのは、当時のドイツが真実と向き合う覚悟を持てなかったテーマ、敗戦時のレイプの真実をも本書が扱っていたからです。ドイツ国内では出版後に非常な不評で迎えられたそうです。その後長らく絶版となっていましたが、生前の再出版を望まなかった著者が2001年に死亡し、再び出版されることになったものなのだそうです。

4月20日から日記の記述は始まります。前線がだんだんと近づいてくる中でも配給に並んだり、職業安定所に行ったり、略奪に参加したり、水道が出なくなったので井戸の手押しポンプに水を汲みに行ったり、また夜はアパートの住民がみな地下壕で空襲に備えて過ごすのですがそこではうわさ話に興じたりなどで過ごしていました。

4月27日にロシア人が彼女の住む地区に、そして彼女のアパートにやってきました。著者は読んでいてとても気丈な女性だと感じられる人なのですが、さすがにその後の3日間は日記の記載がありません。しかし、5月1日から、過去の3日間のできごとを含めて「声は出さない。ただ下着がばりっと音を立てて破れたときにだけ、思わず歯がみの音が漏れる。無傷のものはもう残り少ないというのに」「強い狼を連れて来て、他の狼どもが私に近づけないようにするしかない。将校、階級は高いほどいい、司令官、将軍、手の届くものであれば何でもいい。何のために私は知恵と多少とも敵性言語の知識を身につけているんだ?」などといった具合に、また詳細な記述を始めるのでした。

レイプのようなつらい体験を、こんな風にしかもリアルタイムで表現できるとは、読んでいてとても驚きです。これは彼女の気丈さがさせることですが、ただそのためだけではなく、周囲のほとんどの女性が同じ時期にごく近くで同じようなつらい体験をしたということが、影響しているのでしょう。

というのも、女性達は自らの体験を女性同士でかなり積極的に話し合っているんです。例えば、「『イルゼ、あなた何回やられた?』『四回よ、あなたは?』『わかんないわ。輜重隊の兵隊に始まって少佐まで出世しなきゃいけなかったの』」とか、「多少とも親切なロシア人に笑いかけてみることはできないの?そうすれば、少しは食料を分けてもらえるんじゃない?」などと食べ物の手持ちがない女性に勧めたりなど。また、性病や妊娠の心配も話し合われています。

女性同士はとても連帯感を持てていたようです。それに対して男性は、妻や娘を守ることがほとんどの場合できず、さらには女性がロシア人から贈られた食料を食べる羽目になったりなど、とても情けない状況です。なので、1950年代にこの日記がドイツで出版されたときに酷評された、きっとそれはみんな男性達からの悪罵のようなものだったんでしょうが、事情は分かる気がします。

5月7日にはロシア人との最後の強制交遊(お役所はこう呼ぶことにしたそうです)。彼女の地区のロシア兵達が帰還し始めたので、5月8日には久しぶりのシーツの洗濯。ベルリンはこの時期でも水道が完備していたのでしょうから、井戸なんて各地区にたくさんあったわけではないのでしょう。なので、水道が止まってしまうと水を手に入れることが困難で、井戸の水くみは行列で2時間待ちでした。レイプに関連して、シャワーで汚れを思いのまま洗い流したい、寝具や衣服もきれいに洗いたいという希望が切実だっただろうと思うので、余計につらかったでしょうね。

5月11日には新しい配給切符が配られ、14日にはロシア軍がパン屋に小麦粉を配給し、パンが焼けるようになりました。15日に空襲で壊れた部屋の屋根の修繕をしてもらう。19日には、アパートの水道がつかえるようになり、27日には電気も使えるようになりました。敗戦の混乱の中でも、少しづつこんな風に都市機能が復旧していくものなのですね。

ロシア人は腕時計を奪っていくつも腕にはめたり、また寝物語でドイツの物の豊富さに驚いたことを語ったりなどなど、野蛮人だという風に描かれています。負けた側だけど、心の中で精一杯見下しているのです。こういうロシア人に対する感情は戦前からあったようです。中国人は整列して待てないとか、中国のトイレは汚いとか、ゴミを平気で捨てる人たちだとか、現在の日本人の中国人に対するそういった感じ方に、ドイツ人のロシア人に対する感じ方は似ているのかなと感じました。

2ヶ月弱の日記が300ページもの本になっています。文章を書くことについては素人ではなく、元々ジャーナリストだった人の日記ですから、読み応え満点です。重いエピソードが淡々と書かれているので、かえって読んでいるこちらがつらくなってしまうところもありますが、戦時のレイプに関する関心がある人にも、文明国の敗戦にともなう混乱に興味がある人にも、とってもお勧めの本。傑作ですね。

2008年7月13日日曜日

献血の採血

今日は立川の献血ルームに行きました。アルバイトとかではなくて、献血しに行ったのです。医学生だった頃は赤十字に献血の登録をしてあって、胸部外科で心臓の大きな手術があるときなど、血小板の成分採血になんども呼び出されて協力しました。でも、ここ数年はご無沙汰だったので、なんとなく行く気になったのです。

日曜日のせいかかなり混んでいました。暇はあったので待つのは別に苦ではなく、置いてあった横山光輝の三国志のマンガを見ながら順番を待ちました。順番が来て、まず献血可能かどうかチェックのための採血をしました。その際、担当のNrsの人に、これまで献血途中で採血できなくなったことがないか尋ねられました。

献血でも健診の検査の採血でも、一般的には肘にある静脈を使います。肘の屈側(内側)には、正中(まん中)・橈側(親指側)・尺側(小指側)とだいたい3本の目立つ静脈がありますが、ふつうは正中の静脈が一番太くて、しかも肘の凹んでいる場所に位置していて採血しやすいのでこれを使うことが多いと思います。しかし私の場合、右も左も正中の静脈が細いのです。そこで橈側皮静脈から採血するのですが、ここは凸になっているし、私の場合皮下脂肪も少なくてすぐ下が筋肉なので固定しにくいし、血液が出てくるスピードもかなり遅いのです。

Nrsの人は私の血管の状態に気付いて、採血途中で中断したことがないかどうか尋ねてくれたのでしょう。過去に数十回献血で採血されたことがあります。たしかに、時間は普通の人よりかなり長くかかるのですが、中断したことはない旨説明しました。チェックでも献血可能な状態だということで、またしばらく三国志を読みながら待ちました。

室内は冷房が効いているので、本採血に呼ばれる頃には手足が冷え冷えとなっていました。採血用のリクライニングチェアに横になり、右の橈側皮静脈に針が刺されます。16G(ゲージ)か17Gの、輸血や献血用以外には使わない太い針ですが、すっと痛みもほとんどなく刺入してくれました。献血担当Nrsの太い針の刺し方が上手な点には、いつも感心します。

で、上手に採血針が血管に入ったのはいいのですが、ちっとも血液が採血セットのチューブの中に流れ出てきません。針先が血管壁にあたって出てこないこともあるので針の角度を変えたり、駆血帯を巻き直したり、右手に握るものを持たされて握ったり開いたりなどしましたが、寒さで皮静脈は虚脱していて、チューブに10cmほど流出したところでストップ。

そして、右手を握ったり開いたりしているうちに、右手に痛みを感じるようになってきました。右手と右前腕を見ると、血の気が引いています。左手で右の橈骨動脈の拍動をさぐってみましたが、触れません。かなりきつく駆血帯をしばったので、動脈の血流も遮断されてしまったようです。動脈が流れていなければ、皮静脈に血液が流れてくるはずはなく、したがって採血できないのも当たり前です。右手に軽い痛み感じる旨、Nrsに伝えたところ、今日は困難と言うことで献血は中止とされました。残念。

患者さんの採血をする際に、採血が難しいと駆血帯を扱う手にも力が入って、だんだんときつく巻いてしまうことは自分にもあることです。今日の教訓ですが、動脈圧以上にきつく巻きすぎていないか注意することもかなり必要なんですね。特に採血が難しいときって、アツくなってしまっていることが多いので。

2008年7月11日金曜日

脱出


ハンナ・ダイアモンド著 
朝日新聞出版局
2008年5月発行 
本体2400円

難民の大量発生・逃避行が道路を渋滞させ、自国の軍隊の作戦行動に妨げになることがあったとの記述を読んだことがあり、実際のところどうだったのかが以前からずっと気にかかっていました。5月に、韓国戦争第一巻を読んだのもそんな興味からだったのですが、その点では空振り。ところが、タイムリーに6月29日付け朝日新聞の書評に本書が取り上げられていて、「大脱出」がテーマとのことなので早速購入しました。

第二次大戦は1939年9月にドイツのポーランド侵攻に対してフランス・イギリスが宣戦布告したことで始まりましたが、その後の8ヶ月間、西部戦線では大きな戦闘がありませんでした。しかし、この間にもアルザス・ロレーヌやマジノ線近接地の住民は公的な疎開計画に従ってフランス南部の県へ移送されたし、50万人ものパリ市民が自主的に避難しました。しかし、予測された戦闘行為が起こらないので、非難した人たちも戻っていったそうです。

1940年5月10日に西部戦線でのドイツ軍の侵攻が始まると、ベルギーやついでフランス北部・東部の県からの避難民がパリにやってきました。5月下旬から6月4日のダイナモ作戦や、6月3日のパリ空襲、6月8日の政府のパリ脱出などの情勢から、パリ市民だけでも200万人が家を後にしたのでした。裕福な人は自動車で、幸運な人は鉄道で、自転車や多くの人は徒歩で、農民は荷車で。

みんな、避難の道中で水や食料が買えるものと思って出かけたそうでですが、道路を埋め尽くし歩行者の渋滞をひきおこすほどの人の多さだったので、食料の入手は困難でした。道中、たくさん持ってきてしまった衣類や家財道具を捨てる羽目になったり、子供がはぐれたりなど様々な悲劇が発生しました。しかし本書には、悲劇個々の描写は期待できません。というのも、本書はイギリスで2007年に出版された本だからです。「大脱出」から60年以上が経過しているので、本書はインタビューなどを主材料としたルポルタージュではなく、史料に基づいて書かれた歴史書的なのです。

迫真のルポルタージュが期待できないからと言って、本書が無価値になるわけではありません。本書を読むことによって初めて知ったことがたくさんあります。
①難民の総数は800万人にも達していたこと。うちフランス人はパリ市民の200万など、620万人で、その他はベルギー・オランダなどの外国人でした。
②フランス政府はパリを脱出する際に、共産主義者によるパリコミューンの再来をおそれていたそうです。
③フランス政府はトゥール、ついでボルドーへと移転しました。しかし、各政府機関が建物に電話もないなど、準備不足が明らかでした。この重要な時期に政府・各大臣などの情報交換が迅速に行えなかったことは。戦局の推移に悪影響を与えたでしょうし、徹底抗戦ではなく、休戦の申し入れをする一因ともなったでしょう。
④避難民だけでなく、それを受け入れた地方の住民も、大脱出を適切に処理する能力が第三共和制政府にないことを認識しました。敗北の責任ともあいまって、ペタン元帥による新しい体制を受け入れることに人々が抵抗しなかったのはこのためだと考えられているそうです。
⑤ペタンが受け入れられたのとは対照的に、亡命して抵抗をというド・ゴールの呼びかけは当初は共感されませんでした。ダイナモ作戦でイギリスに脱出できたフランス兵もその例外ではなかったそうです。
⑥800万人もの人が避難したわけですが、休戦成立後に、可能な人は徐々に自宅へ帰還していきました。避難し帰還したパリ市民の中には、パリにとどまれば良かったと感じる人がたくさいました。
⑦命令により「大脱出」に加わった人もいましたが、多くの人はパニックにとらわれて避難民の流れに加わっていったようです。戦争中なので、当然若い男性は少なく、女性・子供・高齢者が多い集団でした。

全く関係ないことですが、いつかは来るはずの東京大地震の際にビジネス街からの帰宅難民の出現が予想されています。人が道にあふれ、水や食料が入手できず、野宿することになる点では、この大脱出に似ています。そう言えば、本書には触れられていなかったけれど、トイレはどうしていたんだろう。

2008年7月8日火曜日

社会史と経済史

A・ディグビー/C・ファインスティーン編 
北海道大学出版会
2007年10月発行 本体3000円

英国史の軌跡と新方位というサブタイトルの付いた本書は1985年に創刊された学術誌Refresh(Recent Findng of Reserch in Economic and Social History)に掲載された14本の論文をまとめたものです。Refreshは、経済史と社会史の領域での新たな重要な解釈のいくつかを、それを唱えた専門家自身が教師や学生など多くの読者に解説することを目的にしています。

近年の「多くの新研究のきわめて明白な特徴の一つは、漸進主義的な解釈の強調である」と本書の序文に書かれれていますが、本当にその通りです。産業革命・農業革命のほかにも、議会エンクロージャーやドゥームズデイ・ブックなどのテーマについて、以前の研究を特徴づけていた劇的変化に代わって、いまでは経済の成長と変化の長期的な性質を高く評価することが流行のようです。「革命」なんてなかったというわけですね。日本の経済史で江戸期の評価が上がってきたり、戦後と戦中の継続が重視されるようになったのも、そういった流行の反映なんでしょうか。

また、あるテーマに関して新しい理解をもたらした研究も紹介されています。 例えば、帝国主義というと、原料と商品の市場を確保するために植民地の獲得が目指されたのだと一般に理解されていると思いますし、また中学校や高校の教科書でもそういった扱いがされていたような気がします。こういった見方に挑戦するのが第6章。

本書の第6章の「イギリス帝国主義ー再検討と修正」は、ジェントルマン資本主義の帝国(名古屋大学出版会、1997年)の共著者の1人であるA・G・ホプキンスが担当しています。彼はその著書で、イギリス帝国主義が産業資本主義の内的論理の所産ではなく、イングランド南部の金融・サービス部門こそが、イギリスの海外での存在に支配的な影響力を持っていたことを論証しています。数年前にこのジェントルマン資本主義の帝国を読んだ際には、既存の理解を大きく変える斬新なものだと、とても感心したのを覚えています。

産業界の経営者たちと違って、シティやイングランド南部の金融サービス部門の代表者たちは、社会的に許容されうる方法で財を得たので、資本家であるとともにジェントルマンの地位にもあったわけです。また、地理的にもロンドンの近くに在住していて、地位の有利さとも相まって、首都における政治・政策に影響を与えることができたために、「19世紀における帝国主義者の衝動は、金融・サービス部門の発展を分析の中心にすえることなしには理解されえない」ということになる訳です。こういったエレガントな分析が、現著者の筆でサマライズされた文章を読めるのが本書の売りですね。

第6章の最後には、「この小論でとられた視角からすると、近年の展開はより深遠な歴史的意義をもつかもしれない。1980年代に課せられた新しい保守党政策は、自由主義的職業のジェントルマン的価値に対して不断の、一見成功したかにみえる攻撃を加えた。古い制度や世界的野望の多くは存続している。しかし、その顔ぶれは変わった」と書かれています。サッチャー政権のとった新保守主義はシティを変えてしまったんでしょうか。現代史に関する知識がないので、ここのところの意味は分かりませんでした。

全体としては本書の企画・内容に満足していますが、翻訳には多少気になる点があります。英語の原文が透けて見えてきそうな生硬な訳が散見されるのです。例えば「こうしてこれらの研究の多くが、1820年以後の所得の改善の規模についてある程度の懐疑を生むかもしれないが、しかしリンダートとウィリアムソンの実質賃金の数値がもつ広範な射程と権威主義的な性格は、依然としてその楽観論的解釈に挑戦する試みが直面する障害であり続けた」なんて、ひどいでしょ。まあでも、複数の訳者がいるので、全部が全部と言うわけではないので、読むに値する本です。

2008年7月7日月曜日

10.5.4 アップデート


今日は、Mac OS X 10.5.4のアップデートがありました。Air Mac ユーティリティやQuick Timeなどのアップデートと合わせて合計4本ものアップデータが実行されたためか、ファイルが大きかったためか、かなり時間がかかりました。計測したわけではありませんが、2回も自動的にジャーンと再起動したりなどして、10分以上かかった印象です。

今回のアップデートはMobileMe関連のアップデートだと記載しているブログもあるのですが、アップルのサイトでみてみると、特にその点にはなにも触れられていませんでした。今はこのMacBook Pro一台しかOS Xの動くMacを持っていないので、現在の私にはMobileMeは縁がない感じです。でも、来年度にはMobileMeが必要な状況になりそうな予感もあり、どんなサービスなのか、使い勝手など気になるところです。

2008年7月4日金曜日

近代経済成長を求めて

浅沼信爾・小浜裕久著 勁草書房
2007年11月発行 本体2800円

開発経済学への招待というサブタイトルが付いているように、クズネッツ流の近代経済成長という概念を、今日の途上国の発展の分析に使ってみようというコンセプトで書かれた本です。200ページ余りの小さな本ですが、日本をはじめとして、多くの途上国の発展や政策がエピソード風にたくさん載せられていて、気軽に読めました。

「過去半世紀の記録を見ると、途上国で近代経済成長に成功してきたあるいは成功しつつある国の方が失敗例よりはるかに多いことが分かる」と述べられているように、かなりの楽観性が特徴の本書です。もちろん、サブサハラ・アフリカ諸国は例外とされています。でも門外漢として気になったのは、こういう風に途上国はうまくやっていると評価するのが現在の開発経済学の主流なのかとうことです。一昔前とはずいぶん風向きが違う印象です。

過去の歴史から見て、輸入代替工業化を目指した諸国の失敗と輸出主導工業化がもたらした東アジアの奇跡の対象性は明らかです。では、すべての国が輸出主導工業化を目指してうまくいくのかというと、著者はそれに対して懐疑的です。私は本書で初めて知ったのですが、重力理論というのがあるそうです。

2国間の貿易量はその2国のGDPに比例し2国間の距離(取引費用の代理変数)に反比例するというものです。輸出主導工業化が成功するには、近場に輸入を受け入れる大きな先進国市場が必要で、東アジアの場合にはアメリカと1980年代からは日本がその役割を果たしたことが、東アジアの奇跡の実現につながったというのです。逆に、サブサハラ・アフリカ諸国の近くにはそういった輸入を受け入れてくれる市場がないことが、停滞の一因と考えられるそうで、納得してしまいます。

サブサハラ・アフリカ諸国の停滞の原因として、ガバナンスの問題が重視されるようになっています。単に政府は無能なだけではなく、かえって国民を食い物にする有害な存在になっていると。これに対しては、「途上国の指導者あるいは指導層が自らのグループの利益を最大化するような経済運営を行っていて、国の指導者層自体が経済成長の阻害要因になっている場合がある。このような場合には、どのようなガバナンス改善の政策も有効ではないだろう」とのこと。つい先日、ジンバブエで大統領選挙があり、現職のムガベ大統領が勝利したとのことですが、ああいう事例を見るにつけ、同意してしまいます。

また、途上国だった頃の日本経済のガバナンスとして官業払い下げ事件を取り上げてあるのですが、「戦後の公共事業と与党の癒着の方が日本経済のガバナンスとして問題は大きいかもしれない」などと付け加えてあるのには同感です。年金や居酒屋タクシーの問題など、日本の政府には政治がらみ以外でも問題山積のようですし。

あと、本書の編集者に尋ねたいところですが、きちんと校正してるの?仮名漢字変換のミスだけでなく、國なんていう旧字体が使われていたり、文章中の「あいうえお」にあたるところに「はひふへほ」がつかわれているところがあったりなど。著者の略歴を見る限り、旧仮名遣いで書くような年齢ではないようなのですが、不思議です。

2008年7月3日木曜日

シンポジウム 歴史のなかの物価


原田敏丸・宮本又郎編 同文館
1985年10月発行 本体2800円

1984年8月に開催された社会経済史学会の「前工業化社会の物価と経済発展」というシンポジウムの記録として出版された本です。20年以上前に印刷発行された本でページにやけやシミが見られる状態なのですが、ジュンク堂新宿店で購入しました。ジュンク堂は不思議な本屋さんでこういう古い本がなぜか置いてあったりします。

このシンポジウムは6つのセクションに分かれていて、物価史における問題意識という総論のセッションと西欧の前工業化期をあつかったセッション以外の4つは江戸時代に関するものでした。江戸期をざっと通してながめると、米価上昇の一世紀だった17世紀、米価安の諸色高の享保中期、元文改鋳から文化期までの物価安定と綿菜種生糸の米に対する相対価格の低下、インフレ的成長の文政天保期、開港後の万延改鋳と価格革命ということになるでしょうか。

現代の価格統計などでは実質価格が主に扱われているの、物価史でもそうなのだとばかり思っていました。しかし、なんらかの基準通貨で換算した実質価格を対象とする研究者だけでなく、名目物価を対象とする研究者も多数存在するのは興味深い点です。換算することが困難だからと言うわけではなく、改鋳や貨幣量の変化などの貨幣的要因が物価のみならず実質経済に与える影響を重視する立場(例えばインフレ的成長論)から、名目物価を重視するとのことで、勉強になりました。

米価上昇の一世紀だった17世紀は前近代日本にとって大きな変化・成長の時期であり、人口もこの間に1200万から3000万程度にまで増加しました。この米価上昇と人口の増加に関連があったことが想定されますが、さらに貨幣的要因(流通通貨の増加)が加わっていたかどうかについては決着がついていないようです。その他、興味深い点としては、米価以外の物価、特に農産品価格と工業生産物価格の歴史的変動がありますが、これについてもまだ研究が少ないと言うことでした。

私が大学の附属病院でポリクリをしていた5年生の時に岩波書店から講座日本経済史が出版され始めました。それまで不勉強だった私は、数量経済史や歴史人口学に関する知識が全くなく、この講座の第一巻「経済社会の成立」を読んで、非常に新鮮な驚きをおぼえたのを覚えています。その後、6年生の10月には第二巻「近代成長の胎動」も第6回配本として発売されました。この講座は第三巻以降も全般的に面白いものなのですが、ことに第一巻と第二巻は江戸時代に対する新たな見方を与えてくれるなど、私にとっては影響力の強い2冊となりました。

第一巻の中の「概説17-18世紀」の物価を扱ったところと、第二巻の中の「物価とマクロ経済の変動」とは、本書の編者のうちの1人の宮本又郎さんが書いています。2つとも面白い論文ですが、専門書の中の文章ですから、整理された書き方がされていて、素人の私にはその背景までは見通せませんでした。本書と岩波講座日本経済史の時間的関係から、宮本さんは本書のシンポジウムの経験も生かして、2つの論文を執筆したはずです。なので、江戸時代の物価に関する本書を読んでみると、宮本さんの整理された論文の裏にはいろいろな学者の仕事や違った考え方などが反映されているのだということがよく分かったような気がしました。本書のようなシンポジウム記録や、学生院生向けの入門書などは、そういう意味で素人にとっては利用価値があります。

講座日本経済史が続けて出版されていた頃は医師国試から研修医としての修行の時期でした。なので、そうそう趣味の読書に耽るわけにもいかなかったのです。もしその頃がもっとひまだったら、20年も早く本書「シンポジウム 歴史のなかの物価」に巡り会えていただろうと思うのです。今となっては、1980年代までに発行された江戸時代物価史の本は入手困難なものばかりなのでちょっと残念です。

2008年7月2日水曜日

ニンニク皮むき器


5月にフードプロセッサを購入してから、餃子をつくることがかなり多くなりました。netで調べると、中国ではニンニクを餃子の具の中に入れずに、たれに混ぜるのだそうです。でも、うちでは昔ながらの日本風の焼き餃子なので中にたっぷり入れています。

ニンニクは青森県産、とくに田子町産が有名ですね。一個が300円前後と少々高めですが、ひとかけらが大きいし、うす皮がむきやすいのもさすが。ただ、ちかくのスーパーには置いてないこともあるので、中国産のニンニクを買うこともあります。

中国産のニンニクは3個で150円くらいと値段はかなり安いのですが、ひとかけらが小さいのと薄皮を剥きにくいのが欠点。ひとかけらが小さいので、同じ量をつかうためには、日本産より剥かなきゃならない薄皮も多くなる訳ですが、そうするとニンニクに傷がついて指がニンニク臭くなってしまう確率も増えます。

そんな風に感じながら、新宿の東急ハンズで先週みかけたのが、この白いシリコンゴム製の円筒です。使い方ですが、手で剥く時と同じように、かたまりから外したかけらのおしりの部分を小さく包丁で落とします。そしてこの筒の中に入れて、まな板など平らなところで押すように転がします。薄皮はこのシリコンゴムの筒の内側にくっついて、きれいに剥けるっていう仕組みです。手間がすごく減るという程ではないけれど、剥きにくいものでも爪の痕などつかずにきれいに剥けるのがいいですね。値段も500円しなかったので、買って良かったと思える道具です。

ニンニクやラッキョウの漬け物を食べるのも好きです。売られている物は、小さなニンニクやラッキョウでも爪痕を付けずにきれいに剥いてあるので、どうやって薄皮を処理しているのか昔から疑問に思っていました。こんな道具があるところをみると、工場でもなにか似た仕組みの薄皮剥き用の機械を使っているんでしょうね。