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2010年2月28日日曜日

コンテナ物語

マルク・レビンソン著 日経BP社
2007年1月発行 本体2800円
昔は海岸沿いの大きな都市には港があって、多くの沖仲仕が貨物船の荷役作業を行っていました。そして、荷役待ちで停泊する日数と人件費が海運のコストのかなりの部分を占めていました。この状況を改善するために、箱に梱包した状態で輸送することが世界各地で試みられましたが、大きな成果を上げることはありませんでした。現在のコンテナ輸送に結びつく試みを行ったのはアメリカのマルコム・マクリーンさんです。
マルコム・マクリーンがすぐれて先見的だったのは、海運業とは船を運航する産業ではなく、貨物を運ぶ産業だと見抜いたことである。今日では当たり前のことだが、一九五〇年代にはじつに大胆な見方だった。この洞察があったからこそ、マクリーンによるコンテナリゼーションはそれまでの試みとはまったくちがうものになったのである。輸送コストの圧縮に必要なのは単に金属製の箱ではなく、貨物を扱う新しいシステムなのだということを、マクリーンは理解していた。
彼は、コンテナを導入するだけでなく、コンテナの構造自体を扱いやすいものにする、コンテナ輸送用に改造した船を用いる、港の岸壁に荷役用のクレーンを設置するなど、コストと輸送期間を減らす工夫をしました。その結果、仕事を失う沖仲仕たちの組合の反対、モーダル輸送に非協力的な鉄道、規制する政府当局、海運同盟の反対などにも関わらず、やがて成功を収めることとなります。コンテナ輸送のコスト低減効果を知った海運他社や港湾当局も、コンテナ船・コンテナ埠頭の採用に動き、現在ではコンテナが主流となりました。
著者は、コンテナ化がグローバリゼーションに大きく関与したと主張しています。コンテナ輸送の普及によって物流コストが大幅に低下して貿易量が増加しましたが、単に原材料と製品の貿易量が増えただけではありません。注目すべきなのは、この物流コストの低下がグローバルサプライチェーンをもたらして、中間財の貿易量が大きく増えた点です。たしかに、コンテナ化がなければ、中国が世界の工場となるような事態も起きなかったかも知れません。経済史的にも重要な指摘です。例えば、ブローデルは「物質文明・経済・資本主義」の中で、輸送の問題についてきちんとページをさいて記述しています。いつか、21世紀のブローデルがあらわれて、20世紀の世界=経済の歴史についての本を出してくれるのでしょうが、きっとこのコンテナ化の話も詳細に触れられることになるだろうと感じました。
また、1970年代以降、ボストン、ボルティモア、ロンドン、バルセロナなど、ウォーターフロントの再開発計画が行われた都市がたくさんあります。本書には直接は触れられていませんが、それらの再開発が可能となったのは、コンテナ化によって大都市の中心に位置していた埠頭・倉庫などの港湾施設が利用されなくなったからでしょうね。本書を読んで、それも理解できました。
文章のテンポもいいし、訳も読みやすいし、内容も上記のように面白く、出版からちょっと間が開いてはいますがおすすすめの本です。

2010年2月27日土曜日

函館市史デジタル版 戦間期の日ソ関係の感想の続き

前回のエントリーの戦間期の日ソ関係には、北洋漁業には函館在住のロシア人が漁場の入札に参加したり、ソ連の企業に日本人漁師がやとわれて働いたりしていたことが書かれていました。ソ連側が、領域内で操業する日本漁船や缶詰工場の日本人労働者を保護するためにソ連の労働法規を適用するような動きをみせたことも書かれていました。また、操業に使う漁網なども日本側から輸出されていたそうです。そして漁業用品や水産品の輸出は主に函館港が使われていたそうです。
そこで、函館と北洋漁業についてググってみたところ、 函館市史デジタル版というサイトの存在に気付きました。「『函館市史』デジタル版は、『函館市史』の内容をテキスト化し、公開しています。現在通説編第1巻から第4巻を公開中です」とのこと。多くの自治体が市史などを作成していますが、書店に並ぶわけでもなく、その地域の図書館にでも行かないかぎりはなかなか手にする機会もないものです。それを想うと、いながらにして読むことのできるこのデジタル化の試みは素晴らしいと思います。函館市、GJ
北前船や開港によって、長らく函館港が北海道一の港でした。しかし、明治後半には北海道の鉱産物・農産物・工業製品の輸移出は小樽港・室蘭港・根室港などが担うようになり、函館を通さない取引が増えていったそうです。しかし、それにも関わらず函館が衰退せず繁栄し続けることができたのは北洋漁業の基地としての役割があったからだとか。こんな感じで、学ぶ点が多いサイトです。

戦間期の日ソ関係


富田武著 岩波書店
2010年1月発行 本体6000円
干渉戦争から国交回復後の両国関係の概観が第一章で述べられ、漁業交渉、日露協会、情報・宣伝戦がそれぞれ一章づつにまとめられています。ドイツと並んで日本のスパイであるというでっち上げの罪状で多数の人を処刑した大テロルを引き起こすことになるスターリンが、満州事変にめだった干渉をせず、またその後に中東鉄道を満州国・日本にあっさり売却したことなど疑問でした。でも、国内の政情をきわめて不安定にさせる飢餓輸出(この時期はかなり外国為替の交換レートもかなりのルーブリ安だった)をしてまでも第一次五カ年計画をすすめて、軍事力を充実させたい事情があったということで、納得。その結果、内戦とその後の一時期に極東に置いた軍事力が減少したことはありましたが、二流の陸軍である日本陸軍(日本は大きな海軍を維持していたので仕方がない)よりもロシア・ソ連の陸軍の方が充実していることが常態だったわけです。
北カラフトの石油や漁業など、ソ連領内に日本の経済的な利権が存在したことも、知ってはいましたが、不思議な感じでした。漁業利権はもともとポーツマス条約にもとづくもので、石油の方はシベリア出兵時に占領した北カラフトからの撤兵の見返りに獲得したものです。北洋漁業はソ連領海内の漁場を入札で獲得して操業するもので、ソ連人との競争や、日本の漁業者の間での競争もありました。必ずしもソ連側が日本の漁業者を閉め出そうとしていたわけではなかったとのことですが、競争に勝てないと日本の漁業者は国に頼ったり世論に訴えたりしました。「漁業問題は国民的感情を刺戟し政治問題化しがち」だったのは、現在の地中海クロマグロや捕鯨の問題と同じですね。ただ、日本政府も
露領漁業における邦人の有利な地位といっても、革命の混乱に乗じて得たもので、その後のソ連の秩序回復、産業発展に応じて日本側の勢力維持が困難になるのは当然だ
という認識を持っていて、ことを荒立てないように対応していたことが本書では明らかにされています。蟹工船の操業の裏側にあった事情がよく分かります。
学ぶ点が多い本ではあるのですが、本書の対象とした期間は1937年までで、張鼓峰事件、ノモンハン事件、独ソ不可侵条約、日ソ中立条約など面白いできごとの続く時期が扱われていません。これについては大テロルの影響で史料の存在や信頼性に問題があったからと終章で著者も述べていますが、残念ではあります。

2010年2月16日火曜日

鏡 タルコフスキー



当時、一般の人たちは大粛正(大テロル)をどんな風に感じていたのか。その点に関する私の印象に強い影響を与えたのは、このタルコフスキーの鏡という映画です。この映画はタルコフスキーの自伝的な要素を持っているそうですが、スペイン内戦の記録映像やスペインからの亡命者が描かれたり、レニングラードを経験した傷痍軍人が軍事教練の教官として登場したりなど、スターリン時代のソ連を連想させるイメージに満ちています。


映画の中で、タルコフスキーのお母さんにあたる女性は印刷所で編集者として働いています。ある夜、彼女は自分が編集し終えた「例のあの本」に誤植があったという夢を見ます。夢の中だけではなく、現実にも誤植があったのではと心配になり、緊張した表情の彼女は早朝の雨の中を印刷所に向かって走ります。編集室にはその原稿は見つからず、「例のあの本」に誤植があったかもと知らされた同僚が泣き出します。次に植字室、印刷室と順に探して、ようやく手にしたゲラを一心不乱に確認する彼女のバックにはスターリンのポスターが貼られていました。 確認を終えて長い廊下を歩いて戻る彼女は、安心したとは思えない固い表情のまま。そして、編集室に戻って彼女がうれし泣きをするのを観て、私たち観客も行き詰まるような緊張感からやっと開放されます。

「例のあの本」というのはきっとスターリンの著作か何かで、誤植したかもしれない言葉はスターリンの名前だったのではないかと、映画を見ながら感じました。そしてこのエピソードから、この時代のソ連の人たちが絶え間ない緊張・不安・恐怖にさいなまれていたはずだと私には印象づけられたのでした。ところが、一昨日のエントリーのスターリン 赤い皇帝と廷臣たちには
新指導部は収監されていた人々の釈放を開始した。釈放された人々の反応は判で押したように同じだった。キーラ・アリルーエワは自分自身も釈放されたばかりだったが、ルビャンカ監獄から釈放される母親のジェーニャを出迎えに行った。自由になったジェーニャ*の第一声は人々の反応の典型的な例だった。「ああ、とうとうスターリンが私たち全員を救い出してくれたのね!」
というエピソードが紹介されていました。大テロルはスターリンの知らないところで取り巻きの悪い連中が行ったことで、スターリン自身は手を汚していないと考えていた人もいたのだそうです。この本を読んで、一番びっくりさせられた点でした。

*ジェーニャはスターリンの妻ナージャの姉

2010年2月14日日曜日

スターリン 赤い皇帝と廷臣たち


サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ著
白水社 2010年2月発行
上巻 本体4200円、下巻 本体4600円
赤い皇帝と廷臣たちというサブタイトルがついていますがその通りで、ソビエトの歴史自体をえがいた本ではなく、スターリンの評伝です。同種の本は過去にもあったのでしょうが、本書はソ連崩壊後に利用できるようになった史料、例えばスターリンの家族への手紙などもつかって書かれている点と執筆準備中にまだ生存していた関係者へのインタビューを行ってオーラルヒストリーとしての性格を持つ点が売りなのだと思います。
私も、ソ連が存在していた時代に生まれ、まさかソ連が崩壊する日が来るとは思っていなかった頃のある世代の一人ですので、独ソ戦緒戦の大敗の原因がスターリンにあったことや、レーニンやトロツキーとの関係、スターリン批判、大粛清、などごく常識的なことは知っていました。でも、本書を読んで、スターリンとソ連の政治家たちとの関係や、スターリンの家族関係など、さらに一層よく理解できました。本書の上巻は630ページあまり、下巻は本文528ページと参照170ページという大著ですが、75歳まで生きた大政治家の評伝ですから、これでも深く掘り下げるには足りないという印象です。
スターリンはトロツキーはじめ政敵を追い落とすことに成功してはいましたが、1930年代前半までは同僚の中の第一人者にしか過ぎず、共産党の幹部たちの間では会議でも率直な意見交換がなされていました。彼らの多くは同じビルに住んでいて、小さな村に住む村人たちのように家族ぐるみで近所づきあいをしていました。
ナージャに見捨てられたスターリンは、傷つき、辱められた。スターリンの中にほんのわずかながら残っていた人間的共感の最後の糸がナージャの自殺によって切れてしまった。一方、残忍性、嫉妬心、冷淡、事故憐憫などの性向は以前に倍して強まった。
こういった革命前から続いていた革命家たちの間の良い関係が一掃されて、スターリンが独裁者となったのは大粛清(大テロル)後です。スターリンが共産党の幹部や軍人たちをも対象とする大粛清に踏み切るきっかけは、妻ナジェージダ(ナージャ)がスターリンとの不和から拳銃自殺したことだったと著者はしています。
ネップ廃止後の拙速な農業の集団化による飢饉で犠牲者を多数出したり、1932年には重工業の建設のための外貨を獲得するための穀物の飢餓輸出でウクライナに数百万の餓死者がうまれたりなど、もともと自国民に対して信じられないような蛮行をおこなっていた素地があったわけで、何かのきっかけでそれが支配者集団の中にむけられたとしても不思議はなく、著者の主張には頷かされました。それにしても、カーメネフ、ジノヴィエフ、トハチェフスキーはじめ、政治家、軍人、政府職員、文化人、専門家、そして一般の人が無実の罪で逮捕され、拷問でありもしない陰謀に関与した旨の証言をさせられ、殺されてゆく記述で本書は充ち満ちています。拷問のことを読むのは嫌な感じですが、これがソ連の実態だったのだから仕方ないですね。拷問の犠牲者はもちろんのことですが、仕事として拷問を行う立場の人たちも、ベリヤのように喜んで拷問に携わった人は別にして、精神的に病むことになったに違いないと思われてなりません。
ゾルゲをはじめ、多くの人がドイツがソ連を攻撃することを警告していたにもかかわらず、スターリンがそれを受け入れず、独ソ戦の緒戦では大敗を喫しました。ドイツからの攻撃を否定し続けていただけに、この時ばかりはスターリンも気落ちして執務できなくなりました。この時が唯一のスターリン失脚の危機だったのですが、当時のソ連指導部はスターリンをトップとすることを再確認してチャンスは過ぎました。戦争なの政変は避けるべきだったと思われたこともあるでしょうし、またスターリンの気落ちした態度が政敵を暴き出すポーズに過ぎないかも知れないと感じられたからでもあったそうです。
1950年代になると、さらに気むずかしい人になっていったようです。同じはなしの繰り返しなど、もしかすると認知症のはじまりなのではと思われる記述も見られます。それでも、死の直前まで殺人医師団事件という陰謀による新たなテロルの発動を計画していました。スターリンは、失語を伴う脳卒中の発作で倒れましたが、独裁者の睡眠を妨げることをおそれて、警護の人たちに発見されるまでに数時間がたっていました。また、発見した警護の人たちや連絡を受けた共産党の幹部たちは、最初からこのままスターリンが死亡すると思っていたわけではないので、殺人医師団事件の最中にスターリンを医師に診せることにためらいがあり、医師の診察を受けるまでには発症後まる一日近くかかりました。診察時、スターリンの衣服は失禁した尿で汚染されていたそうです。因果応報か。
スターリンは、たくさんの人を殺す、人が死ぬ政策を実施した政治家であったことはあらためで確認できました。でも、多数の人に死をもたらしてまでもスターリンが求めたものがなんだったのかは、本書を読み終えてもちっとも分かりません。共産主義社会の実現だったんでしょうか?単に自分の権力を守るためだけだったら、ここまでしなくてもよいだろうにと思われてしまいます。私のような普通の人間には、分からないのが当たり前かも知れませんが。

2010年2月7日日曜日

アメリカ南部に生きる

セオドア・ローゼンガーデン著 彩流社
2006年5月発行 本体5000円

本書は、あるアメリカ黒人男性の80年以上の人生についての聞き取りの記録です。彼は1885年に南部アラバマ州の農村で生まれ、生涯、その土地で生活しました。彼は文字を知らなかったとのことなのですが、厖大な量の話をよく憶えていたものと感心します。ただ、私も仕事柄、高齢者の話を聞く機会がとても多く、高齢者の話にはきわめて繰り返しが多いこと、相手が理解できるかどうかにかかわらず話を進めることなどを実感していますので、聞き取り手である本書の著者セオドア・ローゼンガーデンさんも、二段組みで600ページ近い分量をまとめるには、かなり苦労したろうなと思われます。

彼の生まれた土地は綿作地帯でした。彼の父親は農業に熱心ではなく、妻や子供たちに抑圧的で、しかも4回結婚して、そのほかに婚外子も複数いたような人でした。彼は自分の父親のやり方をとても嫌っていて、独立して結婚した後は、妻を野良には出させず、自分の力で家族の生活を安定させるように努力しました。綿やトウモロコシの栽培に力を入れるだけでなく、白樫で籠を編んで売ったり、製材業でアルバイトをして、稼ぎました。鋤や馬車をひかせるのにこの地方ではラバを主に使っていましたが、努力のおかげで、まずはラバを手に入れ、その後はウシやブタなどの家畜に加え、自動車も所有するなど、黒人の小作農の中では良い生活を送れるようになっていました

しかし、南部では黒人に対する人種差別が存在していて、取引で不利な取り扱いを受けたり、また日常の生活の場面でも、白人に対してへりくだった態度をとることが身の安全のために必要でした。彼は正義漢でこの状態に満足してはいませんでした。大恐慌中の1931年、シェアクロッパーズ・ユニオン(分益小作農組合)結成目的で北部からオルグが来ます。かれはユニオンの主張に共鳴して加入します。しかし南部の白人たちは危険な組織であるユニオンをつぶそうとし、それに反抗した彼は銃撃事件を起こした廉で逮捕されます。ユニオンを組織しようとしたのはアメリカ合衆国共産党だったそうで、逮捕後の彼の裁判にはシンパの弁護士がつきましたまた、有罪判決を受けて、1933年から1945年まで刑務所で過ごしましたが、服役中はユニオンから月に5ドルづつ家族に支給されたのだそうです。

刑務所での生活は、わたしの刑務所のイメージとは違い、労働に従事させるものでした。彼は、農業・鍛冶・籠づくりなどさまざまな技能を持っていたことと、またもともと仕事熱心だったこともあり、重宝されました。刑務所の中の仕事の方がラクだったと書いているくらいです。また、刑務所の中では外とは違って、白人からの不正義な差別扱いは受けなかったとのことです。出所後はもとの土地に戻ります。ただ、13年も不在だった間に、子供たちは成長していました。息子の一人が農業をにない、その他の息子娘たちは都会に出て行っていました。妻と死別して再婚し、80歳過ぎるまで仕事をつづけ、その後は政府のお世話になっているとのことです。彼の逮捕後、この土地でのユニオンの活動は消滅してしまったわけですが、彼自身はユニオンに関わって服役することになったことを悔いてはいません。公民権運動が盛り上がる時期にかれは晩年を迎えますが、運動のさらなる進展をみてみたいという希望も持っていました。ただ、1973年に死去して、オバマ大統領の就任まではみられませんでした。

こんな感じの人生が、個々のエピソードについて細かく語られています。厚い本ですけど、翻訳も上手で、読みやすく感じました。本筋とはあまり関係ないところで、いくつか気付いたことを。
  • この人の父親がそうですが、本書に出てくるこの地域の黒人たちは、死別・離別すると高齢になっても再婚するようです。また、親類どうしで結婚することが多いように感じました。
  • 黒人小作農というとかなり貧しかったのかなというイメージなのですが、 自立して結婚した直後の1910年には百ドルのラバを手に入れています。また、1920年代にはフォードとシボレーの二台を所有していますが、シボレーは700ドル以上しました。1920年代は100円38-44ドルくらいだったと思いますが、日本では自作農だって2000円近くする自動車なんてとても所有できなかったと思います。また、食べ物なんかもじきゅうしているせいかかなり豊かな生活に読めました。
  • 彼の生きてい頃の世界的に大きな事件というと第一次世界大戦。これについては黒人の復員兵が故郷に戻った際にひどい扱いを受けたということが書かれています。しかし、第二次大戦に関しては全く言及がありません。したがって、「日本」という単語は本書の中には見あたりませんでした。
  • ユニオンに関わったことを悔いていないということですが、彼自身はユニオンがなんだったのか、共産党との関わりとかについては語っていません。そのへんについては知らなかったということなのでしょうね
  • 本書を読んでも、小作農と地主の間の契約が一般的にどうなっていたのかなど、分益小作制じたいについて分かることはあまりありません。エピソードについてはとても細かく触れられていても、一般論を語ることについては、得意ではないようです。地に足のついた人なのです、彼は。

2010年2月2日火曜日

雪かきでiPhoneの落下

今朝は雪のせいで青梅線が止まっていました。青梅線が動いていないと、立川駅の通路はいつもより空いているし、青梅線から直通のはずの中央線上り電車は立川始発になるし、いいことばかり。青梅線利用者の方々には申し訳ありませんが、このまま永久に青梅線不通のままの方がいいなと思った立川駅利用者は、私の他にも少なくなかったことでしょう。

出かけてから、職場の前の道路の雪かきをしました。iPhoneで音楽をききながらしていたのですが、途中でポケットからiPhoneが飛び出して、アスファルトの歩道上に落下してしまいました。でも、落下の衝撃にも関わらず音楽はそのまま続いたし、特に大きな傷もつきませんでした。iPhoneを買ってからこれまでに片手で数えるくらいは落としていると思うのですが、故障もなく使えています。けっこうタフですね、iPhoneは。