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2010年7月30日金曜日

外国人が見た近世日本



竹内誠監修 角川学芸出版
2009年11月発行
外国人が残した記録史料にとりあげられている、日本人や日本での出来事とそれへの評価を材料に、近世日本を考える会の成果をあつめた本でした。監修者の序論と、4人の著者が論考を寄せています。面白かった方の3つを紹介。
長崎のオランダ商館長は定期的に江戸の将軍を表敬訪問することになっていました。実際の謁見は形式的な儀式で、将軍と商館長の対話はありませんでした。しかし八代将軍吉宗は、謁見とは別に、側近を商館長の滞在する長崎屋へ派遣し、多くの質問をしていたことが、商館長日誌から分かってきたのだそうです。オランダで行われている犯罪に対する処罰のことや、オランダの政治・経済や、もし戦争が起きたらなど多岐にわたる質問でした。公事方御定書を制定した人ですから、他国の刑罰に関心のあることは理解できます。しかし政治・外交・戦争のことまで尋ねているのは、吉宗の国家論や吉宗の仮想敵国はどこかなども含めて享保の改革の再検討が必要になると書かれていました。このエピソードは知りませんでしたが、とても興味深く感じました。吉宗は都市政策の点でも近年評価上昇中だそうですが、このエピソード以外でも監修者が書いた序論は面白く読めました。
「日本人の名誉心及び死生観と殉教」というタイトルで、キリスト教の布教から禁教の時期について山本博文さんが書いています。布教にあたった宣教師たちの残した日本人観の紹介も読んでいて勉強になりますが、この論文ですばらしいと感じたのはキリシタン禁令と殉教に対する切り口です。大殉教の時代と著者は書いていますが、日本では宣教師と日本人信者の間に多くの人が殉教者が出ました。犠牲者が多かったことは迫害が激しかったことの反映でもあったでしょうが、施政者の側は当初からキリシタンを多数殺害しようとはしていなかったのだそうです。棄教を迫られてもそれを受け入れずに進んで死を選ぶ態度は、戦国時代から近世にかけて主君に対する忠が武士たちのあいだで当然とされるようになったこと、また主君の死に際して殉死者が多数あったことと似た機転があったことを著者は指摘していて、その鋭さに感心。さらに、殉教者の遺体を聖遺物として入手したがる多数の信徒がいたことも書かれていて、これは驚きました。
「十九世紀の日本人」という磯田道史さんの論文では、外国人の日本・日本人観を中国や韓国(や琉球やアイヌ)に対する評価と比較しています。16世紀には必ずしも日本人に対する評価は中国人に対する評価より高いものではなかったそうです。しかし、19世紀になるとヨーロッパの文化を取り入れようとする積極性の点で日本人の評価が高くなりました。ながらく中国・朝鮮(近世はヨーロッパも)から文物を取り入れてきた経験のある日本人と比較すると、自国の文明の優位を自負してきた中国人にとっては、欧米の文明とのスタンスの取り方が難しかったわけです。これは、竹内好の頃から言われてきたことですが、磯田さんの論の展開は面白く読めました。またいち早く中央集権的な国家をつくることに成功した日本にも、政府が「治者が治者を養う組織に堕落する危険と無縁ではない」と書かれていて、これは近代だけでなく、現在にもつながる指摘だと感じてしまいました。

2010年7月27日火曜日

「在日企業」の産業経済史

韓載香著 名古屋大学出版会
2010年2月発行 本体6000円
「在日企業」というのは在日朝鮮人が創業したり所有している企業で、本書は在日企業の業種に偏りがあることや民金(民族系金融機関)との関わりなどについて論じています。
建設業、資源回収卸売業、繊維・ゴム・皮革製造業などに在日企業の多いことは知られています。これらの業種に在日企業が多い理由としては、敗戦前にこれらの業種に従事する朝鮮半島出身者が多かったことが想定されます。本書ではまず京都の繊維工業についてとりあげて論じています。京都では繊維工業の中でも、蒸・水洗業に在日企業が集中し、しかも在日企業の比率がとても高くなっているそうです。3Kにあたる業種で敗戦前から朝鮮半島出身者が多く重々していたため、この業種に関するノウハウが在日朝鮮人コミュニティの中に蓄積し、それがこの業種への参入を促したことが書かれていました。
またもう一つの業種の例としてパチンコホールの経営が取りあげられています。パチンコ産業は敗戦後にスタートしたという点で、他の在日企業が集中する業種とは異なります。1950年代に人気機種の開発で急拡大し、先駆的にはこの頃から在日企業の参入がみとめられました。しかし、換金に暴力団の関与があったため、1955年に社交性の高い機種が規制されてブームが頓挫した事情があり、パチンコ産業にはマイナスイメージがつきまとうこととなりました。3Kではないもののこのマイナスイメージにより在日以外の日本企業が参入をためらう事情を背景に、パチンコホール経営が儲かること、パチンコホールの経営のノウハウなどの情報が在日朝鮮人のコミュニティに共有されたことで、在日企業がこの分野に集まりました。特に高度成長期以降、先行きに不安のある製造業から成長の著しいパチンコへの業種転換も見られました。
在日朝鮮人と金融機関の関わりについて、預金は容易だが、事業資金を借りる点で日本人よりも不利であったことが想定されます。これを解決するために民金がつくられました。南北対立の影響が在日朝鮮人コミュニティに少ない時期に創立された最初期の民金は総連・民団系が協同で起業しました。しかし朝鮮戦争後の対立激化で協同は不可能となり、総連系の朝銀と民団系の商銀が相対することとなります。民金は起業時の資金の提供には大いに役立ったそうです。しかし、大阪・東京などを除くと在日朝鮮人コミュニティはそれほど大きなものではなく、都道府県ごとの信用組合という形態では必然的に小さな金融機関となってしまうこと、しかも南北の対立で二つづつつくられるわけですから余計に零細になってしまったわけです。1960年代に商銀に対しては韓国政府から融資がされていて、創業期にある商銀にとっては預金の中の少なくない比率を占めていたことが本書で紹介されていて、驚きました。多くの地域の民金の零細性から、成長してゆく在日起業に必要なだけの資金を低利で融資することが必ずしも可能ではなく、在日企業も大きくなるほどふつうの金融機関とも取引する比率が増えていきます。
ざっとこんな感じで、在日コミュニティのなかに蓄積された情報が在日企業の起業・展開に役立ったという主張が本書の特色でしょう。エスニックエコノミー論に一石を投じているようなのですが、私にはその点の知識がないのであまりぴんと来ませんでした。しかし、在日企業それぞれについてのエピソードや著者の解釈は、学ぶ点が多かったと思います。ただ、本書に書いてない点で気になる点はいくつか。
  • 敗戦後ながらく新規の移民がほとんどなかったので、規模的には在日朝鮮人のコミュニティは大きくなることがなかったものと思われます。本書の分析の対象としている1980年代頃までは、例えば在日企業も在日朝鮮人も民金との取引を続けるロイヤリティを持ち続けていたように、在日コミュニティへの帰属感は高く維持されていたのだと思われます。でもそれ以降はどうなっているのでしょうか。在日コミュニティのメンバーは、時間とともに日本で生まれ育った人、二世だけでなく三世・四世が増えているでしょうから。
  • 1980年代以降のニューカマーは従来の在日朝鮮人のコミュニティにそのまま入ってきているのでしょうか。
  • 本書の民金の分析は、資料の入手の点からその多くが民団系の商銀に関するものでした。本書の対象とする時期に関する朝銀の分析がほしいのはもちろん、いつの時期(南北対立の当初からか)から20世紀末の朝銀・商銀破綻の種がまかれたのかを知りたいものです。

2010年7月22日木曜日

日本の植民地支配と朝鮮農民



樋口雄一著 同政社近現代史叢書13
2010年6月発行 本体2500円
タイトルには明示されていませんが、主に戦時下の様子が取りあげられています。で、冒頭に1930年代の慶尚南道蔚山の子供たちの身長について触れられています。当時の日本人成人の平均身長が157cm程度だったのに対して、同地の成人農民の平均身長は164cmと日本人平均より高くなっていました。ところが、子供たちの平均身長は日本人のそれと比較して各年齢ともに低くなっていたのだそうです。被植民地化以前に成長した当時の成人は日本人より平均身長が高く、それに対して植民地化後に生まれた子供たちは日本人の体格に劣るということは、日本の支配の影響が朝鮮の人たちの栄養状態に強い影響を与えていたことがうかがえます。これは京城大学医学部関係者が行った調査だそうですが、こういった事実はまったく知らなかったので驚くとともに、これを冒頭でとりあげた著者のセンスに感心しました。
日本への米を移出を第一の目的として朝鮮総督府は農政を行っていました。朝鮮には天水田の割合が高かったこが知られていますが、1939年の朝鮮の大旱害は日本でも米の不足を引き起こします。日本で消費される米の一部は朝鮮に
依存していたわけです。太平洋戦争開戦後1942年以降も、肥料・農具の不足や、徴用・徴兵・離村などによって労働力が不足したり、また統制のきびしさから生産意欲が阻害されたこともあって、やはり米の生産量は大きく減ったそうです。それでも一定の移出量を確保することを日本側は求め、朝鮮半島の食糧事情は日本よりも悪化し、朝鮮在住の日本人が古いカビの生えた豆粕を食べるようなこともあったとか。
内心は別という人もいたかも知れませんが、戦時中の日本人の多くは欲しがりません勝つまではの態度を見せ続けなければならない状況だったと思います。しかし、朝鮮の人たちには日本の勝利のためにすすんで自分たちの生活を犠牲にする意欲はまったく持たなかったでしょう。戦況の悪化によって経済状況が悪くなると、農業生産意欲の低下、農村からの離村、兵営からの逃亡、商工組合などで日本人から主導権を奪うなどの事例が多々あったことを本書は紹介しています。また、徴兵などによって朝鮮半島在住の青壮年日本人男性が減少しました。敗戦前から日本による統治が持続しそうもない状況が生まれていたように読めました
一般的によく語られている単なる植民地化による被害だけでなく、よその国が起こした戦争の被害を引き受ける羽目になった時代のことがよく書かれていて
学ぶ点の多い本でした。
どうでもいいような細かい疑問
  • 農具の不足が米の生産減少を来した点。不足があったのは確かだと思うのですが、これはどのくらい影響があったのでしょうか。私は農具の耐用年数を知らないのですが、あまり長持ちしないものなのでしょうね。また、101ページに「小作農民の多くは必需品たる農機具の新たな入手は困難になっていたと言えよう」とあります。もともと小作農は農具をほとんど所有せず、地主の所有する農具を借りていた旨の記載もありますが、それとの関係はどうなんでしょう。小作農が農具を新たに購入できなかったことが、生産の減少とストレートに結びつくのか、不思議です。もちろん小作農の存在と農具も充分に持てなかったことは問題なのですが。

  • 223ページに、朝鮮について「アジアでもっとも高いインフレ」とありますが、これは何かエビデンスがあるのでしょうか。満州・朝鮮よりもインフレ率が高かったことは朝鮮銀行券の発券高などをあげて書かれていましたが、朝鮮のインフレは占領下の中国や東南アジアに比較しても高かったのかどうか、気になります。


2010年7月19日月曜日

ペリリュー島戦記

ジェームス・H・ハラス著 光人社NF文庫638
2010年4月発行 本体1000円
太平洋戦争中の上陸作戦のうちで、硫黄島・沖縄とならびアメリカ海兵隊が多くの被害を出した戦いであるペリリュー島の戦いを描いた本です。原著は1994年にアメリカで出版されています。著者はライターで、この戦いに参加した人たちに取材して本書をまとめたそうです。
2年前に講談社学術文庫から出版されたペリリュー・沖縄戦記を読みました。ペリリュー・沖縄戦記の方は実際に戦いに参加した海兵隊員の著作です。こちらは海兵隊に入隊してからの訓練の様子や沖縄戦についても扱っているので、ペリリュー島での戦いについての記述は文庫本で180ページほどの量(本書は500ページ以上)でした。ただ、戦いの激しさについてだけではなく、三十数年後に振り返って記したものとは思えないくらいに、自分の周囲で起きた小さな出来事・エピソードがもりこまれているてんが特徴でした。ディテールを知りたい人にはこちらもおすすめ。
本書にも戦いの激しさや読んでいてつらくなるようなエピソードもたくさんとりあげられています。しかし本書の特色は、ニミッツやマッカーサーの意向、ウルシー環礁以外の攻略を無駄として反対していたハルゼー、上陸前から第一海兵師団の師団長の楽観的すぎる見方を持っていたこと、同時期に行われたフィリピンの戦いが順調にすすんだために2ヶ月にもわたる激戦で攻略したペリリュー島が戦略的には意味のないものとなってしまったこと、日本側の指揮官であった陸軍の中川大佐がパラオ本島の司令官に連日送った報告などにまで目を配って説明してある点です。個々の島の守備隊の抗戦意欲とは別に、この時期の日本軍の弱体化がアメリカの予想を超えていただったことがよくわかります。
ペリリュー・沖縄戦記を読んだ時にも感じたことですが、死傷者の多さ、暑さや水の不足、排泄物の処理の困難さなどなどに海兵隊が悩んだことが書かれていると、守備側の日本兵は同じ問題にもっと苦しんだろうと思われて仕方がありませんでした。

2010年7月17日土曜日

カチンの森



V・ザスラフスキー著 白水社
2010年7月発行 本体2800円
カチンの森の虐殺といえば、独ソ不可侵条約の秘密議定書によりポーランドの東側を領有することになっていたソ連が、ドイツのポーランド侵攻後にポーランドに侵入し、捕虜としたポーランド軍の多数の将校たちを秘密裏に殺害し多事件で、独ソ戦開始後にドイツがその死者たちの埋葬地を発見して世界に向けて発表した事件です。ソ連は、ドイツの発表を虚偽であるとし、逆に虐殺はナチスドイツによるものだと反論しました。ただ、ソ連の主張は信頼されず、その後はこの虐殺事件がソ連の犯罪的行為として世界中で受け止められたものと、理解していました。事実関係の理解はたしかに私の思っていたとおりで大体いいのですが、本書を読むと1990年代のソ連崩壊、というより現在にいたるまでソ連・ロシアはこの事件を隠蔽しようとする傾向を持ち続けていたことが分かり、驚きました。
第二次大戦後、ソ連はこの事件に関する多量の関係書類を処分しました。しかし、ポーランド軍将校捕虜の殺害処分の提案に対してソ連共産党政治局が同意した書類が残されていて、その後のソ連共産党書記長は就任後にその存在をしらされるようになっていました。グラスノスチを唱えるゴルバチョフもその存在を知らされ驚きますが、彼もやはり党機関の人間であり、ポーランドからの真相究明のための証拠の捜索の求めに対しては、その種の資料は存在しないという態度をとり続けました。その後、別に残されていた資料が発見され、また指導者がエリツィンに替わって、ポーランドへの謝罪や秘密文書の公開への姿勢がみられ始めました。しかし、プーチンに替わると逆戻りの方向なのだそうです。


国家の手でこういう犯罪がなされるのはなぜか、特に直接手を下す人たちはどういう神経をしているのだろうと不思議に感じます。ソ連の場合、国内で大粛清を実施しているから、外国人を殺すことなんかへっちゃらなのかと漠然と思っていました。しかし本書には
「少なくともこの世代のポーランド人を共産主義者にすることは不可能だ。全員が例外なくわれわれの敵である」そのうえ、敵はかならず「極端」な敵だったから、その抹殺戦争が正当化された。 
と書かれていました。自らの理想である共産主義社会の実現のために、障害となるモノ・ヒトは積極的に破壊・殺害することを自らの使命として感じていた人がいたわけです。「ポーランド指導階級の抹殺」とサブタイトルにありますが、まったくそれを意図したものだった、なんとも言葉がありません。

ニュルンベルク裁判の頃までは、この事件の真相究明を求める人たちの意見をアメリカ・イギリスも無視しました。冷戦開始後、アメリカはカチンの森の虐殺がソ連によるものとして避難するようになります。しかしイギリスは、対ソ関係・経済上の利益のために1990年代にいたるまで真相は不明とする態度をとり続けたのだそうです。
この種の犯罪的な行為に対する隠蔽・否認は、隣国との関係をいつまでもすっきりとさせません。これは日本にとっても決して他人事ではないと感じさせてくれます。また、読みやすい翻訳で、文章の量は新書程度でお値段は少し高めですが、読む価値のある本だと思います。ただ、「コミンテルン」「白軍」といった言葉にまで訳注がついているのには少しびっくりで、もうそういう時代なんですね。

2010年7月15日木曜日

キリスト教の歴史


アラン・コルバン編 藤原書店
2010年5月発行 本体4800円
ふつうの日本人の私からすると、キリスト教の世界の中でもローマにいる教皇は特別なんだろうと感じてしまいそうな存在です。しかし、古代のローマ帝国にはローマだけでなく、コンスタンティノポリス、エルサレム、アレキサンドリアなどにも総大司教座があって、ローマの大司教も同輩中の第一人者に過ぎなかったことや、また異境の地であった西・北ヨーロッパに布教を行ったことによって、西方教会におけるローマ教皇が確立したことなどが書かれていて、東方教会が帰一教会主義を肯んじないこと理由がよく分かります。
異端審問、なにやらおぞましい感じを受ける言葉です。しかし、異端審問の始まった13世紀の人々にとっては、異端審問は信仰の自由への抑圧などではなく、異端こそが信仰への冒瀆だったとか。実際、異端者が自白すれば禁固刑や巡礼に赴かせるなどして罰し、悔い改めなければ火刑に処するといった行為が、統一性と調和への回帰を示す改悛と清めの儀式として好意的に熱狂的に受け入れられていたのだそうです。たしかに、多くの庶民の支持がなければ、こういった制度が永く続きはしないでしょう。それにしても、この指摘には驚きました。
中世に多くの修道院が作られました。制度化されると修道院の多くが貴族階級出身者で占められ、土地を含めた財産を持ち、またその知己たちのために死後のミサをあげたりなどしていました。14世紀にフランシスコ会・ドミニコ会といった托鉢修道会ができました。托鉢修道会は旧来の貴族階級出身者の組織とは違って、都市の成長で力を付けてきた都市エリートをも取り込める組織として発展していったのだそうです。アッシジのフランチェスコも織物商人の息子だったわけですしね。フランチェスコについては、Brother Sun Sister Moonしか知らなかったのですが、組織の長として投げ出したくなるほど苦労したこと、など書かれていました。
こんな感じで面白く読めるエピソードをつむぎながら学べる本です。教会が西方と東方、西方の中でもカトリックとプロテスタント、プロテスタントの中でもいくつもに分かれてゆく課程、また聖遺物がありがたがられ偽造されたりもすることなども、日本の宗教を思い出しながら読むと興味深い。500ページほどでキリスト教2000年の歴史のハイライトを教えてくれるし、翻訳もこなれていて、分かりやすく読めるのでおすすめです。

2010年7月7日水曜日

フォークの歯はなぜ四本になったか



ヘンリー・ペトロスキー著 平凡社ライブラリー693
2010年1月発行 本体1700円
このタイトルはむかし見た記憶があります。1995年に平凡社から出版されていたそうで、今回はライブラリーとして復刊したものだそうです。
「フォークの歯はなぜ四本になったか」というタイトルを見て、いろいろなモノがどうしてそういう形態をしているのかをいくつも解説している本なのかと感じていました。たしかにそういう面もあるのですが、ちょっと違う印象。原著のタイトルはThe Evolution of Useful Thingsで、本書のサブタイトル「実用品の進化論」をそのままタイトルにすべきで、「フォークの歯はなぜ四本になったか」と名付けたのは奇をてらって売り上げを伸ばそうとしたのでしょうが、とても誤解を招きやすく良くないやりかただと思います。
東アジアのノコギリは引いて切るのに対して、欧米のノコギリは押して切るといった違いがあることから分かるように、 form follows function(形態は機能に従う)という俗説は誤りだと著者は述べています。ではどうしある機能を果たすためのモノの形態が変化していくのかというと、既存のモノの使いにくさを何とかしたいと感じる人たちがいます。その人たちの中で能力のある人は実際にその欠点を取り除いて使いやすくすることを意図して新しいデザインを作り出すからというのが著者の主張です。長い歴史のあるモノでも、現在あるカタチが最良とは言えないわけです。
それに加えて、時代があたらしくなるほど、マーケティングのための差異化が意図されたりもしています。そんなことが、フォークやクリップやジッパーや缶詰などなどを例に挙げて分かりやすく論じてくれている本でした。

2010年7月3日土曜日

思い出袋

鶴見俊輔著 岩波新書1234
2010年3月発行 本体760円
小学生の頃からの人(著名人がたくさん)との交流などの思い出、そして思いが、新書の2ページ半づつくらいにまとめられて納められています。元は図書に連載されていたものだとか。著者の思い出と思いが伝わってくる本でした。80歳から87歳までの連載だったそうですが、男性で80歳代にこれだけ書ける人は少ないと思います。年齢に関する言及がしばしばあったり、また同じはなしが繰り返されることがあるのも、強調する意味ばかりではなく、年齢のしからしめるところでもあるのでしょう。

2010年7月1日木曜日

戦時下のアルザス・ロレーヌ



ピエール・リグロ著 白水社文庫クセジュ819
1999年9月発行 本体951円
1940年6月に結ばれた独仏の休戦協定には触れられていなかったのに、その後、この地域はフランスから切り離され、ドイツに事実上併合されました。行政官のトップにドイツ人が就任したり、フランス語の使用禁止や地名の変更、男女を問わず若者はドイツへの労働奉仕のための団体に強制的に加入させられるなど、ドイツ化されてゆきました。志願兵が募られ、志願兵の数の少ないことが分かると、徴兵制がしかれました。この地域出身の兵士は、東部戦線に送られて後にソ連の収容所でつらい経験をしたり、フランス国内でドイツ兵として虐殺に参加したとして戦後に裁判にかけられた人もいました。また抵抗運動に参加して処刑された人も多数いたそうです。
ドイツに占領されたフランス内地の人たちには、ドイツに併合され不本意ながらドイツに協力せざるを得なかったアルザス・ロレーヌの人たちの経験・感情は理解されず、この本の書かれた1990年代にいたってもそういう状態が続いたそうです。フランス国内でも、この地域の特殊な経験についての知識・関心が欠如していることが、本書の書かれた理由の一つのようです。しかし日本人の私としては個々の史実の叙述がとても勉強になりました。
普仏戦争後、約50年に渡ってこの地域はドイツ帝国領だったわけですが、ドイツ人意識をもつ人、ドイツ寄りの人はどのくらい出現したのでしょう。そういった人たちは、第一次大戦後のフランス領への変更時にドイツへ移住・帰国してしまったのでしょうか。日本統治下50年のあとに中華民国に復帰した台湾と同じように。
英仏がドイツに宣戦布告した後、1939年9月頃からこの地域の住民のほとんどはフランス南西部に事前の計画に従って避難させられたそうです。マジノ線の外側から内側に避難させた方が安心という感覚があったんですね。
併合後のこの地域の人たちはドイツのやり方に唯々諾々と従ったわけではなく、不服従や積極的なレジスタンスに参加した人たちもいました。ルクセンブルクもこの地域と同じようにドイツに併合され、抵抗活動があったそうなので、それについても知りたいところ。