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2011年10月29日土曜日

江戸大名の本家と分家

野口朋隆著
吉川弘文館歴史文化ライブラリー331
2011年11月第一刷発行
江戸時代の大名には、特に初期に分家を創出した家が多くありました。その分家と本家との関係について、実際例をたくさんあげて説き明かしてくれている本です。本藩・支藩と呼ばれることもありますが、支藩という用語は同時代のことばではなかったことや、また廩米支給で独自の藩を持たない分家や旗本の分家があったことから、本家と分家というふうに著者は呼んでいます。
「別朱印分家は本家から『自立』的で内分分家は『従属』的という評価が一般的であった」と書かれていて、たしかに私もそういう記述をどこかで呼んだ記憶があります。しかし実際には「別朱印分家・内分分家という区分は、あくまで後の時代から見た場合の分家の形態であるということである。領知朱印状は近世初頭を除き、貫文印知以降、基本的に歴代将軍一代ごとに一回ずつ発給されることから、各大名家の分知時に、分家が領知朱印状を拝領するということはできなかった。つまり、すべての分家は、創立当初は、内分分家からスタートしている」と著者は鋭く指摘していています。
大名とは何か、本家分家とは何かというのが、江戸時代の初めから定まっていたわけではありません。実態を後追いして慣習法、そして一部は幕府の政策的意図も加わって成文法にまでなったわけです。また、家族・親族のことなので本家と分家の当主の個性や、分家派出後の時間の経過によって、各大名ごとに本家と分家の関係がさまざまだったことが予測されますが、本書を読むとその点がよく分かります。一般的には時間とともに疎遠になっていくばかりかと思っていましたが、財政窮乏から分家が本家を頼って、従属的な関係が強まることがあったという指摘には目から鱗でした。具体的な例をたくさん集めてくるのは骨の折れることだと思うので、実態から原則を探ろうとする著者の姿勢には頭が下がりますし、しかもこういう一般向けに読みやすく面白い本を書いてくれたことはありがたいことです。
本筋からは外れますが、本書のタイトル。「江戸大名の本家と分家」というのは「江戸期大名の本家と分家」の方がいいように思えますが、専門家からすると、そうではないんでしょうね。

2011年10月28日金曜日

正倉院文書入門

栄原永遠男著
角川選書55
2011年10月初版発行
正倉院には聖武天皇ゆかりの宝物だけでなく、文書がたくさん収められています。本書は、それらの文書のうち写経所文書を対象に、その由来、研究史(研究の難しい理由も)、研究の成果の例示、写経事業、などについて解説したものです。
写経所文書の多くは帳簿類でした。実務用の帳簿は重要書類ではなかったからなのでしょうが、他で廃棄された文書の紙裏を利用してつくられた巻物に帳簿として記録されていました。この写経所文書は江戸から明治にかけて「整理」を受けます。天保期の穂井田忠友は、写経所文書自体ではなく、その紙背にある奈良時代の公文の方に着目して整理を始めました。公文を取り出すため写経所文書の巻物を切断・分類し、各国の戸籍を復元するような形で、新たな巻物に仕立てたわけです。切断して得た紙どうしを新たな巻物として接続させる方法として、両方の紙の端かぶせるように表と裏両面に新たな白紙を貼りました。公文を見るためにはこの方法での整理でもいいのでしょうが、切断端が白紙で隠されてしまったため、元の写経所文書を復活させることが非常に困難になってしまっているのだそうです。写経所文書の研究は、書かれていることの研究もさることながら、この切断された物から元の巻物を復元することの難しさが加わっていることが本書を読むとよく分かります。正倉院文書の「整理」は元史料に手を加えることの意味・怖さをとても良く教えてくれるエピソードだと思います。
第3章では、苦労して復元された帳簿を元にした研究から、写経所ではどんな手順で仕事が行われていたのか、仕事をする技術者たちへの報酬、お役所仕事としての性質を持っていたこと、落書き・習書などの様子まで書かれています。技術者の一人一人の名前まで書かれていたりして、このあたりは読んでいてとても面白く感じます。また、写経に必要な物品(紙、糊原料の大豆、食糧など)を請求したのに調綿が支給され、その調綿を売却して得た銭で必要物品を購入することがあったことが掲載された史料に書かれていて、銭貨もそれなりに使用されていたのですね。
「はじめに」で「正倉院文書を研究するために必要な知識と方法を示すとともに、正倉院文書についての理解を深めていただくことをめざしている」と著者は書いています。著者には正倉院文書の研究を志す若い人を増やすためという意図もあるのかもしれませんが、本書を手に取った人の大部分は、正倉院文書の研究法の外観をつかみ、正倉院文書についての理解を深めることを求めて読んだのだと思います。実際、文書例が図と本文を組み合わせて、読みやすくかみ砕くように説明されていて、素人の私も躓くことなく読めたし、一般の読者のニーズには充分に答えてくれる本だと思います。そう考えると、本書が角川選書としてハードカバー・本体3300円で発行されたことは残念な感じで、新書やせめて選書版としもっと安く売られていたら、ずっと多くの読者を期待できるんじゃないでしょうか。
それと本題からは外れますが、第一章には「世界中を見渡しても、八世紀というとても早い時期のナマの文書が、これほど大量に残っているところはほとんどない」と書かれています。日本は古文書が多く残されている地域なのだということはよく見聞きしますが、世界中の他の地域には各時代の文書がどのくらい残されていて、具体的に比較するとどうなのかというあたりを知りたくなります。

2011年10月26日水曜日

iPhone 4S、買いました

今日、iPhone 4Sが手に入りました。予約したのが11日なので、2週間+1日で手にはいるという噂はほんとなのかもしれません。
買ったのは32GBの黒です。これまでの経験から私には32GBで充分です。またこれまでは3GS白をつかっていたのに、今度は黒にしました。ディスプレイの周囲が白くなっているデザインはとても変に見えるのです、私には。なのでiPad2もこのiPhone 4Sも黒。
高精細なretinaディスプレイのせいか、 これまで使っていた3GSと比較するとディスプレイが小さく感じられます。また3GSはフィルムもケースもつけずに裸でつかっていましたは、4Sの方は周囲のエッジの感触が手にはっきりと感じ取れます。フィルムは貼るつもりは全くありませんが、バンパーくらいはつけた方がいいのかなと思い始めています。

2011年10月21日金曜日

関ヶ原合戦







笠谷和比古著
講談社学術文庫1858
2009年12月第3刷発行




以前、笠谷さんの書いた近世武家社会の政治構造を読みましたが、その中には関ヶ原合戦の過程・結果が幕藩体制の前提となり、徳川幕府を拘束することになったと論じる「関ヶ原合戦の政治史的意義」という論考が収められていました。本書にはその論考も収められていますが、それに加えてこの合戦の前史・参加者の動向・家康の働きかけとその成果などを典拠とともに記されています。本書の主張は、
  • 多数の豊臣恩顧の武将が家康麾下で戦ったこと、小早川秀秋が内通したことの大きな理由には、北の政所と淀殿との対立、そして石田三成・淀殿ラインが政権を握ることへの危惧があった。
  • 秀忠率いる徳川主力軍が合戦に参加できず、東軍は豊臣恩顧の大名の働きで勝利した。
  • 戦後処理では、没収した土地の80%豊臣恩顧の武将に与えられ、豊臣系の国持ち大名が多数出現した。
  • 合戦後も豊臣秀頼の権威は揺るがず、この時期の家康もそれを尊重する姿勢だった。秀頼の将来の関白就任と矛盾しない形で政権を運営するため家康は征夷大将軍の地位を選んだ(著者はこれを二重公儀体制と呼んでいます)。
など。それに加えて、関ヶ原の合戦は豊臣と徳川の覇権闘争ではなく、東軍の勝利も徳川家の盤石な支配体制をもたらしたわけではないという点で、従来の説とは異なるのだそうです。ただ、笠谷さんの本はどれもそうですが、史料をもとに理解しやすく書かれていて、素直にその通りと思えてしまいます。例えば、小早川秀秋に内通を求める書状には、内通への反対給付が示されていなかったそうです。著者はここから、反対給付などなくても北の政所を守るには家康に与することが当然と観念されていたからだろうと論じていて、目のつけどころがシャープかつ説得的だなと感じました。


また、豊臣家が単なる一大名でなかったからこそ大阪の陣が起こったと考えれば、著者の二重公儀体制論は無理がない感じです。ただ、この時期は二重公儀体制を築くことにしていた家康が、その後になって何故、大阪の陣を起こそうと考えるようになったかは謎だとも述べられています。これに関してもいつか説得的な論考を読んでみたいところです。
本筋からは外れますが、関ヶ原戦につながる対立で、毛利輝元が総大将として担ぎ出されることを承知したのは何故なんでしょう?史実通りの動きしかしないのであれば最初から三成に与しなければ、領地没収なんてことにならなかったでしょうに。また、総大将として動くつもりなら、秀頼を先頭に立てて出陣(淀殿が許さなかったんでしょうね)するなりなんなりしなければ、意味ないでしょうに。輝元は背景の人物としてしか本書では触れられていませんが、単に彼は上に立つものとしての器量がない人だったということなんでしょうね。
あと、織田信長の嫡孫の三法師がその後どうなったのか知りませんでした。成人して秀信と名乗っていた彼は、西軍として岐阜城を守って破れましたが助命され、剃髪して後には高野山で過ごしたと本書には書かれていました。ふーんという感じ。

2011年10月17日月曜日

Uボート部隊の全貌

ティモシー・P・マリガン著
学研マーケティング
2011年7月発行
Uボート部隊の全貌というタイトルを見ると、Uボートの建造や兵装のあれこれ、大西洋戦いをはじめとしたUボートの活躍が描かれた本なのかなという気がします。でも本書はそういった兵器や戦闘に焦点を当てた本ではなく、ドイツ海軍・狼たちの実像というサブタイトルの通りに、Uボートに乗り組んだ艦長・下士官・水兵たちがどんな人だったのかということと、選抜や教育や昇進や艦内での生活などを描いていて、戦争の本というより社会学の本ですね。社会学に関してもまったくの門外漢ですが、以前読んだ職業と選抜の歴史社会学という日本の鉄道員を扱った本に似ている感じがしました。
Uボートに乗り組んでいたのがどういう人たちだったかを明らかにするために、過去の文献や戦争中のドイツの記録や連合軍側のもつ捕虜の記録に加えて、1991年から1994年にかけて元Uボート乗組員1000人以上に対する経歴調査を行ったのだそうです。戦争終結後半世紀近くたってからの調査でかなり遅い気もします。でも、Uボートの乗組員たちも戦後はそれぞれの人生に忙しく、例年の親睦会活動が恒例になったのは1980年代から、つまりみんなが引退した時期になってのことだったそうですから、こういった調査に素直に応じてもらいやすくなるという点では半世紀後の方が良かったのかもしれません。
Uボートに乗り組んでいたのはどんな人たちだったのか、読んでいて面白く感じた点を紹介すると、
  • 「第二次大戦中のUボート乗組員の徴募に影響を与えたのは、軍歴を継続したこれら個々の古参以上に、数量化できないほどの縁故、つまり第一次大戦中に同じ立場で奉職した父親やおじたちだった。」
  • 「こうした血縁は今日まで続き、1997年6月に新造されたU17に乗り込んだ通信兵の一人は、ドイツ潜水艦に乗り込んだ4世代の3代目にあたる」
  • 「烹炊員は階級的には二等水兵だが、民間職ではパン屋か肉屋でもあった。烹炊員がほかの任務を特免されていたのは、求められるものがあまりに大きかったからである。縦70センチ、横1.5メートルしかない空間で休むことなく50人分の温食を用意し、しかもそこには3~4つのホットプレートがついた電気レンジ一基、小さなオーブン一基、スープ鍋一つ、流し一つ以外何もなかった」
  • ティルピッツの海軍拡張計画により志願兵のみで需要を満たすことができなくなり、北ドイツの漁師・船員からの徴集兵を水兵と水雷部門に、内陸部の金属工・機械工・電気工からなる徴集兵を機関室と通信室に配属した。
  • 「海軍士官にはドイツの中産階級、特に上位中産階級出身者が多かった」
  • 機関科将校の「多くが下位中産階級の出身で、兵科将校と同等の地位を与えられることは絶対になく、昇進の機会も限られていた」
  • 第一次大戦中のUボート乗組員の「損耗率51%以上である」
  • 「第一次大戦の艦長457人のうち152人が戦死し、33人が捕虜になった。これらを合計すると40%強の損失となる。一方、第二次大戦のUボート艦長が被った損耗率は46%だった」
  • 「第一次大戦の艦長400人のうち、22人が全連合軍商船の60%以上を撃沈し、全戦果の30%がUボート艦隊のわずか4%の艦によるものだった。こうした現象は第二次大戦でも反復され約1300人中30人の艦長が、連合軍商船の総損失トン数の30%を撃沈したのである」
  • 兵科将校には旧ハンザ同盟都市など北ドイツ出身者が多く、プロテスタントが多く、アビトゥーア取得者が多くて、半数は上流階級と上位中産階級出身だった。
  • 機関科将校は中部ドイツ出身者が多く、中・下位中産階級出身者が多い。人材不足により、下士官からの昇進者も少なくなかった。
  • 下士官、兵も北部ドイツや中部ドイツの工業都市出身者が多かった。また労働者階級、中・下位中産階級の出身だが、父親が海軍で小型艦に乗務していた者、父親が熟練工・熟練労働者だった者が目立つ。金属工が多く、農業従事者は極めて少ない。機関兵は金属工出身者がさらに多い。こういったことから「北ドイツ出身の寡黙な船員と漁師の傍らには、西部・中部ドイツ出身の快活な機械工と産業労働者が立っていた」と言われている。
「通信兵の評価は、当直時にどれだけの電信文を聞き逃したかによって大方が決まった。それぞれの電文には通し番号がついているため、それによって聞き逃しが判明したのだ」
大戦後期に艦長の年齢が著しく幼くなったりはしていない。また末期の損耗率よりも1941~1942年の損耗率の方が高かった。
艦長の年齢、経験、特質は損耗率に影響しない。連合軍の兵装や戦術の向上がUボートの損失につながったから、艦長の資質で何とかできるというものではなかった。
陸軍とは違って、敗戦近くなてUボート乗組員に10代の水兵が増えたという事実はない。10代の水兵の比率はアメリカ海軍の潜水艦乗組員と比較しても少ないくらい。
第一次大戦時から一般人の持っていたUボート部隊のエリート視、ヒトラーユーゲントなどを経験しての入隊といったことから、大戦後期の経験の浅い若い乗組員の士気も保たれていた。

第4章「Uボート戦のパターン 1939~1945年」にはUボートの戦いの時期別の簡潔な概説があります。またその他の章でも、太西洋の戦いや連合軍のレーダーやソナーや航空機による哨戒の威力、ドイツ側の対抗する兵装や新型艦に対する努力が各所に記述されています。それらの中で面白く感じた点というと、
  • 艦内温度が100度(約37.8度)「熱帯水域では高温によって多くの人員が倒れたのである」
  • 「通信兵の評価は、当直時にどれだけの電信文を聞き逃したかによって大方が決まった。それぞれの電文には通し番号がついているため、それによって聞き逃しが判明したのだ」
  • 潜航時の艦のトリムの維持には「食糧や燃料の重量配分についての正確なデーターー個別日誌への日々の更新ーーが必要となった」
  • 新しい潜水艦の建造が終わると、キールにある加圧ドックで90メートルまでの模擬深度で新造艦の水漏れを検出したり、聴音哨のある海底で無音航行試験を行い、無音航行時の最適速度が決められた(日本の潜水艦もこういった試験をしたんでしょうか?)。
  • 雷撃訓練、集団行動と船団襲撃訓練。未熟な乗員による操艦ミスやイギリス軍の敷設した機雷など、バルト海での訓練中に失われた艦も30隻と少なくなかった。
  • 士気を保つために特権(休暇時に総統からの小包)と厚遇(食事)と高給、哨戒後の帰郷休暇、叙勲が用いられた。総統からの小包は先日読んだRations of the German Wehrmacht in World War IIにも説明があった食品の特別配給詰め合わせです。
  • Uボート乗組員は実働時間の三分の一を港あるいは帰郷休暇で過ごしていた。
内容とは関係ないことですが、この本は縦書きで、かなり多量の原注が章ごとに横書きでつけられています。縦書きと横書きが混在した本ではあっても、本文と注というふうに分かれていますから、そのこと自体では問題を感じません。ところが注の部分を眺めると、一見して変な感じ・違和感をおぼえるのです。日本語は縦組みと横組みで違ったフォントを使うべきなのに、もしかするとこの本の横書きの部分には縦書きの本文の部分と同じフォントが使われてしまったのかなと感じました。

2011年10月13日木曜日

20世紀環境史

J・R・マクニール著
名古屋大学出版会
2011年9月 初版第一刷発行
20世紀の歴史において「人類による環境変化は、世界大戦、共産主義、識字率向上、民主主義の拡大、女性解放より重要であった」という評価で、主に20世紀の環境の変化とそれに伴う歴史的状況が概説された本でした。第I部「地球圏のミュージック」では、岩石圏・土壌圏、大気圏、水圏、生物圏のそれぞれにどんな変化が生じたのか20世紀以前も含めて記載され、第II部「変化のエンジン」では、人口増加・都市の拡大、エネルギー利用技術の変化、政治など環境の変化をもたらした要因が挙げられています。そしてエピローグ「ではどうするか」では、 歴史学と生態学の統合により過去のより良い理解が得られるようになり、それが現在の状況と可能な未来についてのより良い考察をもたらすだろうという著者の考えが述べられていました。マクニールという名前には聞き覚えがありますが、本書の著者はあのH. McNeilさんの息子さんでした。
第I部では、19世紀以来のヨーロッパ、アメリカ、日本といった先進国での環境悪化の事例に加えて、規制の緩い発展途上国への環境破壊の輸出、20世紀末の中国など新興国での環境汚染など、満遍なく取り上げられています。足尾銅山の鉱害、水俣病、イタイイタイ病など日本の有名な事例も扱われています。同時代的に悲惨な状況の報道を見聞きしたものもあって日本の公害は特別にひどいものなのかと感じていましたが、世界中の多くの同様な事例の中に含めて記載されているのを読むと、日本の環境破壊・公害には日本なりの特殊な要因(「科学目的」の名の下に捕獲することによって商業捕鯨モラトリアムから免除された数千頭のクジラは、結局寿司屋で消費されたのである、なんていう辛口の記述もあり)もあったのでしょうが、世界史にみて突出してはいないレベルの出来事だったのだと思えるようになりました。
「1990年代の初期にこの書物に関する研究を始めたとき、20世紀のグローバル環境史を形成している最も重要な力は人口増加であったと、私は信じていた。しかし、研究を終えたとき、私の考えは、化石燃料によるエネルギー・システムが現代の環境史の背後に潜む最も重要な単一の変数であるというように変化した」と書かれていますが、化石燃料の大量使用、化石燃料の中での石炭から石油への転換が環境史に大きな影響をもたらしました。エネルギー源として石炭が中心だった時代には先進国の都市とその周辺の汚染が主でしたが、石油がエネルギー源となると工業都市だけではなく、自動車、農業、森林伐採、鉱業でも広範囲に利用され、タンカーによる海洋汚染、ひいては二酸化炭素濃度の上昇による温暖化がもたらされました。すでに周知のことがらだからなのでしょう、温暖化現象そのものに関する記述は多くはありませんでした。
日本語版への序文には、21世紀になってからのことも少し触れられていて、20世紀の後半にエネルギーの効率的な利用が進められた結果、先進国ではバイオマスを含まない商業的なエネルギーの使用が2000年代には減少し始めたこと、世界全体の総エネルギー使用量も、この数十年間で初めて、2009年に実際に減少したことが書かれています。これで、めでたしめでたし、となるかというとそうではないようです。「この10年で最も重要な経済的・地政学的な変化は、中国の台頭、あるいはおそらく中国とインドの台頭である」「酸性化の主な地域は東アジアに移り、二酸化炭素排出の最大の原因は、今や中国である。世界のコンクリートの半分は中国に注がれている」「急速な環境変化に関連したほとんどすべてのことは中国と関連しているようだ」と述べた後で、「21世紀の環境史のための最も重要な意思決定は、おそらく北京でなされるであろう」と著者は中国の重要性を強調しています。人口や経済規模の大きさの点のみならず、中国が世界システム的な覇権国になりそうなことからも、地球環境の行方を決めるのが中国になるというのはもっともな話だと感じました。著者は「日本と中国のように、お互いに不信感をもつ隣国どうしの協調は困難であることが判明した」としていますが、アメリカと中国の間にある日本は他の国以上に21世紀の舵取りが難しい。
本文中で原子力に関して「商業的に意味のある原子力発電所などどこにもなかった。つまり、原子力発電所はすべて、巨大な補助金という「正気でない」経済学に依存して生き残っている」と言及されていましたが、チェルノブイリを含めても割かれたページ数は多くはありません。しかし著者の姿勢からは、 もしこの本がFukushima後に書かれたものなら、原子炉の事故だけでなく、ウラニウムの採掘・燃料への加工にともなう環境汚染、原子力発電による放射性廃棄物、廃炉の困難性といったことも含めて一項たてられたのだろうと感じます。
世界中を見渡すとどんなものなのかを把握させてくれるという意味で、よくできた概説書だと感じます。日本のFukushima後の状況をみていると、この期に及んで原子力発電を維持・擁護しようとする勢力が日本国内に根強く存在していることに驚きますが、本書はそういう人たちが20世紀の環境破壊・公害を隠蔽・糊塗しようとした努力が結局は成功しなかったことを学ぶ教材としても優れていると思います。


ただし、この本の日本語はお粗末です。理解しにくい、こなれてない日本語というレベルの文章は多すぎるので無視するにしても、あきらかにおかしいと感じる点が少なくありませんでした。気づいただけでも下表の通り。監訳者として2人の名前が掲載されていますが、出版前の原稿に目を通しているのでしょうか。目を通しているのなら無能と呼ばれても仕方がないし、チェックしないで名義貸しだけしているのなら言語道断。また名古屋大学出版会はしっかりした本屋さんのはずなので、こんな状態のままで印刷・発売しちゃうのはまずいでしょう。担当の編集の人はチェックしないのかな?


ページ本書の表現私の意見
7人は化学エネルギーから力学的エネルギーへの変換者としてウマよりも効率的であったので、大型家畜は産業革命以前においては幾分贅沢な者であった 「人」でなくヒトとすべきでしょう、この例は他にも散見
10バイオマス燃焼も常に汚染源であったが、化石燃料はさらに応用的であったため 「応用的」という単語は一般的ではないと感じます。原著ではpracticalでしょうか?用途が広かった、くらいに訳すべきでは
93水文学者に従えば、水使用は灌漑、産業、行政の三つの主要なカテゴリーに分けることができる行政ってどういう意味?水文学特有の用語なのでしょうか
104古川市兵衛このページには5回も古川と印刷されているでので、単純な変換ミスではないようです。こんな有名人の姓を誤るとは!
104鉱山尾鉱はじめてみる単語、意味が分からない
112アドリア海北部およびその他の地域における赤潮の頻度の増加と激しさは、水を濁らせて、特定の海草(Poisidonia oceanica)の生息地となる深海を減少させた 海草の生息地となる深海って?海草は日の光の射さない深海で生活できる?
125パキスタンは1人当たり1600万ヘクタールの灌漑土地を所有していた 1人当たり1600万ヘクタール?
133イギリスの首相アンソニー・エデン 正しい発音はエデンに近いのかも知れませんが、ふつうはイーデンとしてますよね
175492年以降のユーラシアとアフリカへのアメリカの食用作物(トウモロコシ、ジャガイモ、キャッサバ)の到来 1492年の1が抜けている
19820世紀に発生した救急疾患の多くが生物侵入によるものである 救急疾患はemergency diseaseを訳したものか?もしそうなら新興疾患・新興感染症と訳すのがふつう