2012年3月18日日曜日

記憶の歴史学

金子拓著
講談社選書メチエ519
2011年12月10日第一刷発行
「史料に残る戦国」というサブタイトルにたがわず、戦国期の各種史料を分析して得られた興味深い知見を紹介してくれている本です。どれもかなり細かいところまで考察されていて、面白く読めました。どんなことが取りあげられているかというと、

  • 織田信長が天正二年の賀茂祭の競馬に出席したかどうか、神社の記録と奉行だった太田牛一の記録とで異なる
  • 細川ガラシャ(明智玉子)の死は自害だったのかどうか
  • 天正十年の兼見卿記に一年分の正本と本能寺の変のあった6月まで記載の別本があるのは、追及を怖れての日記改竄なのか
  • 永井荷風の断腸亭日乗は修正を加え続けられた作品と考えるべき
  • 上杉家の家臣たちの家では過去のどの戦いを重視していたのか
  • 家の衰退で中世以来の文書が散逸しかかったが、秋田藩の修史事業でまとまって伝わることになった例
など。著者が経験した各種の史料から話題がとられているので、オムニバスな論集になっています。テーマが一貫していない感を著者はもったのかもしれません。そのため「記憶の歴史学」というタイトルがつけられていて、
史料の成り立ちに関わる記憶、史料のなかからすくい上げることのできる記憶、記憶を意識することにより可能となる新たな史料解釈、記憶という紐帯によってむすびつけられる集団のあり方、そこからあらたに生みだされる記憶など、多角的に記憶という現象のありように迫り、それを史料学のなかに位置づけたいと思う
と著者は述べています。でもこれが成功したかというとはなはだ疑問です。というのも、本書でとられている史料の分析・解釈が、他の史書のなかで行われていることとちっとも違わない、ふつうの史書という印象しか私は受けませんでした。「戦国期史料よもやま話」とかいうタイトルの本になったとしても恥ずかしくはないと思うし、本書のやり方は気取りすぎ。
本書が取りあげている話題で一番驚いたのは、秋田藩の修史事業の件です。秋田藩では家譜を編纂するため、家中の諸士に伝来の文書や系図の提出を求め、担当部署である御文書(記録)所で吟味され、原本の場合にはその旨を記した青印状を添えて、原則的に提出者へ返却されましたが、写しもつくられて現在でも「秋田藩家蔵文書」として残されているのだそうです。ただ、この提出された文書が「原則的に提出者へ返却」というのが曲者で、家中に別に嫡家があれば嫡家の文書とされることになっていて、藩当局から見て所持するいわれのない文書を提出した人は有無をいわさず没収され、本来所持すべき正統性をもっている者に返付されたとか。
これってかなりひどい仕打ちですね。家伝来の大切な文書を藩の修史事業のために提出したのに取りあげられてしまった事例が本書には載せられていました。原本は裏を破って提出者に返付し、写しを「本来所持すべき」者に与えるとかいうようにしなかったのは何故なんでしょう?

2012年3月10日土曜日

「清明上河図」と徽宗の時代

伊原弘編
勉誠出版
2012年1月 初版発行 
以前、この本の編者である伊原弘さんが編んだ「清明上河図を読む」を読んだことがあります。そちらは張擇端作の清明上河図に描かれた人とモノ、舟や建築や情景などを専門家が読み解いたり日本の同種の図と比較したりといったスタイルの本でした。その本が好評だったことから続編として本書を出版することになったそうですが、私も前著を楽しく読んだので本書を購入してみました。こちらは前著と違って、張擇端作のオリジナルの清明上河図の分析が主眼ではなく、清明上河図の描かれた北宋、特に徽宗の治世下の社会や、明代以降の美術史に与えた影響などを分析した論考などが20本集められています。論点は多岐にわたりますが、個人的にとても勉強になった点を挙げてみます。
冒頭には、清明上河図の描かれた北宋とそれをとりまく時代状況を編者が解説してくれています。北宋は経済が繁栄し、科挙に合格した文官・士大夫が優遇された時代で、軍事力が非常に弱体だったものと思っていました。たしかに亡国の憂き目にあったのですから強力な軍隊を保有していたいたとはいえないのでしょうが、軍隊に組織されていた兵の数は決して少なくはなかったのだそうです。しかし、大量の兵の常備は、土地を失った流民に対する社会政策的な意味をもっていて、その点で強兵ではなかったということです。
国の統治にあたり、徽宗は有効で効果的な政治手段として『芸術が役立つ』と考えていた。そして、未曾有の規模の芸術文化のパトロンであり続けただけでなく、彼自身も多くの作品を生みだした。才能ある人材を自身の代理として使い、御書や絵画を大量生産して、それを朝廷の重要な人物に見せたり、下贈したのである。
徽宗は日本の国宝としても有名な桃鳩図などの作者で、痩金体という特徴ある魅力的な書体の使い手でもあり、芸術に理解のある皇帝だったのだと思っていました。しかし、本書に収められたマギー・ビックフォードさんの「芸術と政治」には、徽宗と芸術との関わりは個人的な娯楽ではなく自らの治世を天が認めた証として現れる瑞祥を記録したものだったこと、瑞祥画の制作は統治の一手段でもあったので臣下への恩恵的な公開・下賜が行われたこと、瑞祥画を多数制作するための組織が設けられていたこと、皇帝の下す命令書類などに書かれた痩金体も彼の書体を真似た秘書役たちが署名を含めて記していたことなど、目から鱗の指摘がなされていました。卓見だと感じますがこれはすでに常識化した見解なんでしょうかね。ともかく、徽宗作とされている絵画は必ずしも画家徽宗個人の作品と考えるべきではなく、彼自身もたしかに筆を執ったのでしょうが、主には(工房の長としてでもなく)パトロンとして振る舞ったということのようです。例えばレンブラントのようなヨーロッパの画家たちや日本の狩野派なんかも集団で制作していたのですから、同じような感じなんでしょうね。
仇英はおそらく伝聞により知り得た宋代の「清明上河図」構図に基づき自らの画巻を書いた。 
十六世紀から十八世紀までの二百数十年間、実際には二十世紀に至るまで、存在していることが知られていながら、誰も見ていない張擇端の「清明上河図」の構図が中国の画巻を支配し続けたのである。
張擇端作のオリジナルの清明上河図は開封の失陥後は金朝の所有に帰し、その後は長らく行方不明でした。清代の1799年に軍費乱用で家財を没収された文人官僚のコレクションから朝廷のものとなり、それが現在では北京の故宮博物院に収蔵されているのだそうです。張擇端作の清明上河図の名声を慕って、清明上河図の画題や構図を参考にした作品を明代の仇英という画家が描き、その後、都市繁盛図が流行すると販売を目的として江南の絵画工房で多数の模作が制作されたのだそうです。それにしても、幻であったはずの作品に対する高い評価がなぜ生まれ、どうやって流布したのか、またみたことのない作品を範として絵を描くなんてことがどうして可能だったのか、これらに対する詳しい説明をしてくれる論考は含まれていなかったので、とても不思議な感じがしました。
さらに「東アジアにおける都市図と風俗画」という論考では、江戸時代の鍬形蕙斎の東都繁盛図巻が清明上河図の影響を受けたと論じられています。しかし、注文主の松平定信と清明上河図との接点のみならず、日本での清明上河図の輸入・受容の様子を示す史料がまったく記されておらず、にわかには信じ難い印象を受けてしまいました。日本の複数の美術館に清明上河図が収蔵されているそうですが、その来歴なんかははっきりしてはいないんでしょうかね。
徽宗時代の捉え方は人それぞれであろうが、筆者は「北宋突然死」説を採っている。もし、徽宗時代の主潮であった王安石学派の経学がその後も順調に展開していたら、東アジアの近世思想文化史は実際にそうなったものとは大きく様相を異にしていたことだろう。
「天を観て民に示す」という儒学史に関する論考で小島毅さんはこう書いています。私には宋学の展開過程はよくわかりませんが「北宋突然死」という考え方には共感できます。コークスを利用した製鉄や市場経済の目覚ましい発展のあった北宋は、思想史とは別の意味でも画期的・魅力的な時代だったと思うのです。もし北宋が金に滅ぼされずに続いていたなら、その後の中国の経済成長がどうなっていたか、また世界は600年以上も早く近代を迎えることにならなかったのかというような経済史的な妄想をたくましくさせてくれる、そんな時代ですよね。

2012年3月2日金曜日

南北戦争記

ブルース・キャットン著 
益田育彦訳
バベルプレス
2011年4月30日
本書を読んで、この有名な内戦について勝敗と奴隷解放くらいしか知らなかったことを再確認させられた感じです。奴隷制をめぐる対立が続いていた状況のもと、リンカーンの大統領選出により南部の州が離脱を決意。しかし双方とも本気で戦争を想定して準備していたわけではなく、北軍の兵士のあいだでは戦争の意義が明確ではなかったのに対して、郷土防衛のために参戦した南軍の兵士たち。人材的にも南軍指揮官に利があり、当初は互角以上に戦うことができ、一時は英仏など外国からの承認を取り付けることに成功しそうな状況だったこと。しかし、総力戦になれば経済力・人口の差が大きく、北部海軍によって綿花の輸出・軍需品の輸入が封じられ、ミシシッピ川が制圧されて南部連合の領域は分断されてしまいました。それでも、長引く戦争と多数の戦死傷者は北部の人たちに厭戦気分をもたらし、リンカーン大統領の再選が危ぶまれる時期もありました。しかし決定的な南軍の勝利は得られず、防勢においこまれた南軍は各個撃破され、降伏にいたったということです。著者はジャーナリスト出身の作家だそうで、この4年超の戦争を読者が理解しやすいよう、主要人物とエピソードを配して綴っていて、日本でいうと司馬遼太郎の作品みたいなものなのかもしれません。訳文もこなれていて、興味深く読めました。
リンカーンの大統領選出を機に南部の州が離脱を決意してから、4年余り。南北の首都がわずか100マイルしか離れていないことを考えると、こんなに長く戦争が続いたことが不思議でしたが、開戦後に兵を募って訓練するところから始めていたことや、南軍の最強軍団がリッチモンドを守りワシントンを脅かす位置にいたことなどから、こうなっていたわけですね。
合衆国軍隊は、南部連合に役に立っている資産を接収するように指示されていたが、実際にわかったのは、南部で最も有用な財産は黒人奴隷である、ということだった。北軍兵は、奴隷に対して人としての同情をほとんど示さなかったし、奴隷を資産であることに、特に反対を唱えたわけではない。 
資産としての奴隷は、南部の戦争継続を支えた。そのため、奴隷を所有者から引き離す必要があり、連れ去られる時、その奴隷に何かしてやれることといえば、自由を与えてやることだけであった。
奴隷解放宣言は有名ですが、著者によると北軍兵士も北部の人たちも、必ずしも奴隷解放をめざして戦ったわけではなく、戦争後期に行われた南軍の経済的基盤を破壊する戦争行為の一環として考えるべきものなのでした。以前、アメリカ南部に生きるという、アラバマ州で19世紀末から20世紀を生きた黒人農民の聞き書きをまとめた大著を読んだことがあります。奴隷解放から一世紀以上経過したその頃でも差別が厳しく残っていて、南北戦争が奴隷からの解放ではあっても、経済的に不利な地位からの解放を本気でめざしたものではなかったことがよく分かります。
また、第2期の当選後のリンカーンは統合のため南部に対して寛大な政策をとる意向だったが、その政策を公にする前に暗殺されてしまった。そして、後継大統領をはじめ連邦政府の政治家たちは戦争でハイになった北部の民衆を善導することができなかったという主旨のことが書かれていました。この本は専門書ではないので、それを裏付ける史料などは載せられていませんが、これが一般的な理解なんだとすると、リンカーンの評価がアメリカの歴代大統領の中でもトップクラスである理由が理解できた気がします。
本書には戦争中の南部の様子についてはわずかに記載があるものの、戦後についてはほとんど触れられていません。南部の人たちの生活や意見や、またカーペットバッガーや北部の人たちの生活者としての本音についても読んでみたい気にさせられました。それと、イギリスの「圧制」から独立してから一世紀もたっていないのに、同じように独立しようとした南部連合を容認しようとする意見が過半数を占めなかったことも不思議に感じます。このへんも詳しく知りたい感じです。

2012年2月18日土曜日

江戸城御庭番

深井 雅海著
中公新書1073
2008年3月5日8版
先日読んだ、江戸城 本丸御殿と幕府政治(中公新書1945)がとても面白かったので、同じ著者による本書を読んでみました。御庭番と言えば隠密、東西冷戦下につくられた娯楽作品では、大名領国に入り込みスパイのような活動をしていたかのように描かれていた印象があります。本書は実態がそうではなかったことを史料を示して明らかにしてくれています。まず、徳川監察政治と御庭番という章には、吉宗が将軍に就任して御庭番が作られる以前にも、伊賀者、目付、大目付、諸国巡検使、国目付といった役職が情報収集活動に携わっていたことが書かれています。しかし、これらは将軍直属という性質を失ったり、また大目付のように殿中の式部官的な存在に変質していったりなど、江戸中期には「将軍の耳と目」という役割を果たすことができなくなっていきました。そこで、宗家を次いだ将軍吉宗は、紀州藩主時代から近習を「将軍の官邸にあたる中奥の長官」である御側御用取次に任命しましたが、同じく紀州藩時代に隠密として使っていた役職の人たちを御庭番として活用し始めました。
御庭番は、将軍が老中以下の行政機構に対抗し、幕政の主導権を握る際の重要な手段としての機能を持ち、その役割は幕末まで維持されたのである
と、著者は指摘しています。専制君主であるはずの将軍も独自に情報を得なければ幕政の主導権を握れないことを、紀州藩主時代の経験から吉宗さんは自覚していて、御庭番的な役職を作り出すことにしたのは確かでしょう。しかし、その後の将軍もふくめて将軍一般について幕政の主導権を握る際の重要な手段だったといえるのかどうかには、少し疑問も感じます。一つは、吉宗さんは自分のためだけに情報収集をしてくれる人を用意したわけで、自分の子孫たちのことまで考えていたのかどうかはっきりしないこと。たまたまその職・制度が廃止されずに幕末まで続いてしまったと言うことですよね。また、史実では吉宗ほど優秀で幕政の主導権を握ろうとしていた将軍ばかりが続いたわけではありません。本書にも
御庭番の勤め向きの再把握と新たな指令は、将軍補佐役である松平定信が、こうした情報を収集するために、将軍の名を体して御庭番を活用しようとした
と書かれているように、将軍は権力をもつ存在ではあっても、やはり常にリーダーシップをとれたわけではないようですから。
御庭番の情報収集活動が、江戸向地廻り御用と遠国御用について、それぞれ具体例をあげて説明されています。前者では例えば天明七年の江戸打ちこわしに関する風聞書が挙げられ、騒動の原因として月番の江戸町奉行の対応に問題があったことが報告されていて、彼はその後に更迭されてしまったのだそうです。以前読んだ岩波文庫の旧事諮問録の下巻にも御庭番について経験者の談話が載せられていました。本書にも旧事諮問録からの引用がありますが、本書の優れている点は、御庭番の歴史、就任した家筋などの基礎的な知識を踏まえた上で、具体的な例の説明として引かれている点で、旧事諮問録を読んだだけでは漠然としていたものが、とても理解しやすくなっています。
遠国御用の例としては、薩摩藩を対象とした探索の記録から、下命や復命の式次第、準備の様子、九州下向の旅程と日数、かかった費用、報告書作成の実際などが細かく説明されていました。これは調査に赴いた人がおぼえのための手記を残していて、それが現在にまで伝わったからわかることで、なかなか希有な史料ですよね。
それでも実際の調査をどんな風に行ったのか、誰にインタビューしたのか、誰の談話を重視したのかなどは、史料の限界からか今ひとつはっきりしません。現代のジャーナリストによるルポルタージュを読む際にも、これらを踏まえることが重要だ思いますが、御庭番の報告書(風聞書)を読む際にもそれは無視できないかなと思うので。特に、薩摩藩の調査旅行では薩摩藩領内にはふみこめていなかったそうなので。

2012年2月5日日曜日

増補改訂 古代日本人と外国語

湯沢質幸著
勉誠出版
2010年11月15日 初版発行
東アジア異文化交流の言語世界というサブタイトルがつけられていますが、まず桐壺帝が幼い光源氏を高麗人の相人にみさせたという源氏物語の有名なエピソードを例にとり、そこでの相人と光源氏を連れて行った博士との会話には何語がつかわれていたのか、さらに渤海使・遣渤海使、新羅使、遣唐使、唐への留学僧などが何語で意思を通じていたのかと著者は問うています。源氏物語には何語が使われていたかは記されていませんし、史実の交流の史料に使われた言語が記されている例はほとんどないのだそうです。ただ、いろいろな状況証拠から、中国語をつかった会話か筆談というかたちで、ほとんどの場合に中国語が使われていたことを著者は示しています。これだけだとやはり中国語が使われていたのかという風に感じてしまいますが、本書の内容はそれだけではありません。
  • 時の政府が、古くからの呉音に代えて同時代中国語であった漢音を重視したこと
  • 仏教界ではその方針が徹底しなかったが、儒学教育を行う大学寮では中国語音での音読、つまり素読が初学者に課されたこと
  • その結果、今に至っても漢字の音読みに呉音と漢音が併存していること
  • 平安時代に、音読み重視から訓読みに変化していったこと
  • 交流に参加した通訳の仕事や地位

などが触れられていて、とても面白く読めました。留学僧の例として円仁が挙げられていましたが、数年前「円仁 唐代中国への旅」講談社学術文庫を読みました。中国の黄海沿岸には新羅人の在外コロニーがあって、貿易などに従事し、日本からの旅行者の便宜もはかっていました。遣唐使には新羅語・奄美語の通訳が含まれていたと本書には書かれていましたが、朝鮮半島に沿って航海する場合だけでなく、中国でも新羅人のサービスを受けるのですから、新羅語の通訳を連れて行くのは当然ですよね。でも奄美語の通訳というのには驚きます。万一の遭難・漂流の際に役立つのは確かでしょうが、そもそも奄美語にも通訳が必要だったこと自体にびっくりさせられます。また、蝦夷にむけた通訳が存在していたことも触れられていました。
また、日本の政府は中国語の通訳を養成する努力をしていましたが、新羅語通訳に関してはほとんど養成を試みなかったのだそうです。その理由として、8世紀になっても日本国内に朝鮮半島からの新来の移住者やその子孫がいて、わざわざ通訳を養成しなくとも事足りていたからなのだそうで、これも目から鱗の指摘でした。
儒学界では音読が重視されていましたが、発音・音読の能力よりも儒学そのものに対する能力の方が尊重されたので、優れた儒学者だからといって、すべての人が上手に発音・音読できたわけではなかったそうです。自分自身の中学高校時代の英語の先生を思いだしてみても、発音の上手な人と上手でない人がいました。初学者である生徒の私にも発音の上手下手を見分けることができたのは何故かというと、ネイティブの発音を聞く機会が少なからずあったからだと思います。もちろん英語を母国語とする人と会って話を聞く機会はほとんどなくても、テレビやラジオや映画などのメディアを通して英語に曝されていましたから。そう考えると、奈良時代から平安時代初期にかけて、日本の大学寮で学ぶ・学んだ・教える人たちには、ネイティブな中国人の発音を聞く機会がどのくらいあったのかが気になります。そういう機会がなければ音読の巧拙を知るのは難しいんじゃないでしょうか。もしかすると、遣唐使も渤海使もなくなってしまった平安時代中期以降の平安京ではネイティブの発音を聞く機会はほとんどなくなってしまい、そういう事情があったから儒学界でも訓読が一般化してしまったのかなと本書から感じました。

2012年1月30日月曜日

木簡による日本語書記史【2011増訂版】



犬飼隆著
笠間書院
2011年10月30日 
増訂版第1刷発行

郡評論争に決着をつける決め手となるなど、日本史の分野での木簡の重要性は知っていたつもりです。しかし、日本語研究の分野でも重要な史料となっているということは本書を読んで初めて知りました。本書の中に取りあげられた木簡の例は面白いものばかりです。また著者の指摘はとても勉強になったので、その中からいくつか例を挙げてみると、
日本語史の研究は記紀万葉語がすなわち上代語とは言えない時期に入ったと筆者は考えている。王朝文学語がすなわち平安時代語と言えなくなって久しいが、八世紀以前についても同様の認識をもつ必要がある。訓点語や古記録語を見ずして平安時代語を語ることができないのと同じく、出土資料を見ずして八世紀以前を語ることはできない。
万葉集や古事記などの文献史料や金石文ももちろん大切な史料ではありますが、出土した木簡は当時の日常的な文字・書法の実態を知らせてくれるという点で非常に画期的な史料なわけですね。
ここで述べようとするところをたとえをもって提示してみたい。欽明朝から推古朝にかけてを明治維新期にたとえ、天武・持統朝から藤原京時代を明治三十年代にたとえることができるかもしれない。あるいは、七世紀後半を現代にたとえることができるかもしれない。
古い時代には漢字を文字として受容するにとどまり、その後に当時の文語中国語である漢文の使い方に習熟するようになったので、かえって後の時代の方が正格に近い漢文がつかわれることがあったのだそうです。もちろん、中国語として習得できた人は稀で、漢文訓読レベルの人が多かったでしょう。その点、近代の英語の受容のたとえは分かりやすく感じました。
中国中原の本来の字義と異なる意味用法を、従来は、日本に輸入してからの和習ととらえた。今後は、東アジア一帯における漢字受容の一環としてとらえなおす必要がある。
日本への文字・書記の伝達に朝鮮半島の人の果たした役割は大きく、古い時代には朝鮮半島出身者が日本語を書き、日本の原住民にその技法を教授した場面があったと思われます。日本で出土する木簡にみられる中国に由来しない特徴的な書法は日本独自のものだけではなく、朝鮮半島由来の部分が少なくなかったということですね。
古事記が清濁の書き分けや一字一訓などの晴の書法をとったのは、一行十七文字の楷書で書かれた可能性が高く「漢字列の均一性・等間隔性に規制されながら、日本語の構文を書きあらわし、その一義的な読解を可能にするための必要な処置であった」。

行書で書かれた書簡や木簡には、文意に従って字の大きさが変化したり、意味上まとまりをなす漢字列が筆致の上でもまとまっていたりなど、読みを助ける視覚的なキューがそなわっていた。木簡にみられる褻の書記法と古事記にみられる晴れの書記法の違いの一因がこういうものだという著者の主張は非常に説得的ですね。
七世紀末、宮廷における典礼の一環として「歌」が確立した。さらに、それらは、漢詩の影響を受けて、日本語による文学作品になった。
典礼で歌を詠み記録することも律令官人たちの仕事だった、典礼に備えた歌の手習いのために習書した難波津の歌の木簡が多数出土している、旧来のうたから「歌」が制度化され、その中のすぐれたものが文学作品としての和歌に昇華したということが述べられていて、これも目から鱗の意見でした。

上代特殊仮名遣い・8母音・母音調和という現象は確固たるものなのかと思っていたのですが、木簡にみられる表現からは必ずしもそうでもないようで、驚きました。



本書の内容と直接は関係ないことですが、日本語学の世界では「木簡ども」「『歌』ども」という表現を当たり前のようにつかうのでしょうか?ちょっと不思議に感じました。
また、木簡や削りクズは燃料として使われてしまったりはしなかったのでしょうか?多くは燃やされてしまったが、多くの木簡が出土しいる遺跡は燃やさない特別な事情(木簡を扱った担当者の流儀とか、付け札としての木簡を一定期間保存する習慣があったところとか)があったところだけなのでしょうか?

2012年1月21日土曜日

長州の経済構造

西川俊作著
東洋経済新報社
2012年1月5日 発行
本書の中でも引用されているトマス・スミスの日本社会史における伝統と創造などの著作を通じて、幕末の長州に防長風土注進案という有名な史料があることは知っていました。しかし、それに関する論考を系統的に追ったわけではないので、どんなものなのか詳しくは知りませんでした。本書によると、江戸期の長州藩の支配領域は「宰判」と呼ばれる地域に分けられていました。風土注進案ですから、その宰判の位置・地形・土地の利用・戸数・住民数などの情報があることはもちろんですが、それに加えて宰判ごとの米・雑穀・豆・商品作物などの農業生産量、年貢や肥料・牛馬飼料などの農業生産にかかる経費、住民の消費支出の内訳と金額、林産・海産・製塩・木綿織り・商業・サービス業の規模・売上高・従事者数・経費なども記されているのだそうです。本書はこういった防長注進案の細かな情報を使って、当時の長州の経済構造を明らかにしてくれています。勉強になったところがとてもたくさんあるのですが、特に私の目を惹いた論点を抜き書きしてみると、
  • 宰判と呼ばれた藩内各地域の実態が鮮明となるにつれ、特産物という形態をとった地域間分業がはっきりとしたかたちで成立していたことを強く意識するにいたった。内陸の宰判だから低開発といっている限りわからない、その地域独特の換金作物があって、それでもて不足する米を買い入れていたり、あるいは広範囲の市場向けの特産物ーー木綿や紙や塩などーーがあったりするという事実、それゆえにそれらの地域を結ぶ廻船の交易があったりする、そういう地域間分業の発見である。それらは産業連関表の上でみれば、農業部門と工業部門の取引であったり、あるいは繊維産業と繊維産業の取引であったりして、工業化経済の一つの指標である部門間の相互取引(中間財取引)のウエイトを高めたわけではなかったかもしれないが、市場経済の進展という観点からは重要な変化である。しかもそのほとんどが、筆者がかねてより分析的に重要と考えてきたところの、農家兼業という形態をとっていたところに、この時代の特質があった。
  • 近代以前とはいえ広範に展開していた、ただし農業兼業によるところの非農業就業の多様な姿
  • 産業部門間の相互依存関係の存在  地域間の交易が存在していたからといって、そのすべてが部門間の中間取引とはかぎらない。しかし、徳川時代の製造業はほとんどが農家兼業であったから原料栽培からの一貫生産と考えるのは正しくなく、言葉の正確な意味での部門間取引の比重が一定のレベルまで到達していたということも明らかになった。
  • 農民の生活水準は、注進案にしばしば登場する表現どおりの『且且渡世』というわけでは必ずしもなかった
  • 従来の通説では、これら副業・兼業の収入は『しがない』補助収入とみなされ、副業収入に対する課税はほとんど無税といっても良い程度であったことには注意を払わず、もっぱら重い米納年貢のみに焦点を合わせ、ひたすら農民の窮乏化を語ってきた
  • 三田尻宰判の非農産業所得はやや農業所得を上回る、まさしく五分五分。加調米・出稼ぎを考慮すると46:54
  • 年貢は著しく重農主義的で、田畠石盛の4割という重税であった。しかし産業所得が5400貫余もあったうえに、産業活動への課税は薄税であったから、家計収支は相償うどころか、実に大幅な黒字になっていたのである。可処分所得に対する消費支出の割合は67%、また所得合計に対する税率は24%で、今日と大差なく、むしろやや低い(!)
  • 平均消費性向は67%と近代経済成長前の経済としては低い比率である 貯蓄率は33%とやや高い比率 エンゲル係数(=飯料/所得計)は31%で、工業化以前の社会に一般的な水準に比べれば十二分に低い水準である
  • 文房具や紙類の支出見積もりがほぼ全村記録されているのは、島内の識字率の高さを反映しいていたものと見てまちがいなさそうである
    薬剤・筆墨・線香などへの支出を見ると、この時代の島民の日常生活が、いわゆる飲まず食わずの窮迫状態にあったとはとうてい考えられない。衣服の新調、医師や寺子屋への謝金、その他サービスへの支出は捉えられていなかった消費支出であったと考えるべきである。
などがあげられます。私も1970年代までは、過去の農家の生活が「 且且渡世(かつかつとせい)」だったのだと思いこんでいました。それは、マルクス主義史学にもとづいた著作が手に入りやすく、それらを読んで影響されていたからですね。江戸時代の農家が且且渡世だったのはもちろん、昭和の敗戦後の農家の姿も且且渡世だったと私は思っていました。その頃、典型的な農民像として印象づけられていたのは今井正監督の「米」で、厳しい労働と苦しい生活を送る望月優子演じる農家のお母さんでした。その後、著者をはじめとした数量経済史の本や、日記やいろいろな史料に基づいた実証的な本(マルクス主義史学が実証を疎かにしていたとは思いませんが、研究の方向がはっきりし過ぎていたとは思います)を読むようになって、印象が変わりました。本書でからもそれを再確認できた感じです。そして、読み終わっての感想としては、
  • 米に対する年貢率の高さと、それ以外の農作物やサービス業・手工業(製塩・木綿織り)に対する低率課税・非課税が併存していたのは何故か。防長注進案のような史料をつくらせた長州藩当局は非農生産額がかなり大きいことを認識していたはずですから、そこから税を徴収しようとはしなかったのか、それともできなかったのか。稲作については年貢を納めるのが当たり前という共通認識があったのに対して、雑穀や麦は百姓の食糧として課税を避ける慣習が中世からずっと継続していたからだけでしょうか。また、サービス業・手工業は稲作と違って生産額の把握が難しい・税を忌避しやすかったからでしょうか。
  • 米に対する年貢率の高さと、それ以外への低率課税・非課税が経済構造に与えた影響はどんなものか。この構造って、米作産業からそれ以外の産業への補助金みたいな役割を果たしたんでしょうか?江戸時代の経済発展にはこの構造と、参勤交代で江戸へ資金と商品がが流入する構造がかなり効果があった気がしますがどうなんでしょう。
  • 農業所得と非農産業所得が五分五分に近いことが記されています。農・非農という分け方は、近現代の産業の分類につかわれる第一次産業というくくりとは違い、非農には林業・漁業なども含まれています。こう分けたのは、史料の分け方がそうなっているからか、それともこの時期には農・非農と分ける方がふさわしいと考える理由があるのか。
  • この時期の農業所得と非農産業所得が五分五分に近いことは、明治初年以降の経済統計との整合性はどうなのか。本書は防長注進案の分析なので明治以降の統計数値は触れられていません。でもおそらく、整合性のあることは誰かが実証しているのでしょうね。
  • 米の移入に頼っている地域がかなりあること。西ヨーロッパのプロト工業化では穀物生産に不向きな土地での農村工業化と食糧を生産する地域に分化したのだと思います。長州の場合には町場や塩田村の米購入は別として、紙生産を行う山間地の村にその傾向を見ることが出来るのかどうか。さらに、防長注進案がつくられたのは天保の危機への対処という意味があったそうですが、食糧の購入は飢饉が長いことなかったから可能になったのか?または天保の飢饉の被害は東北地方に大きく、長州では食糧の移入に頼る経済構造に破綻を来さずに済んだから、天保末の実態がこうだったのでしょうか。
などなど。勉強になり、しかもいろいろ妄想させてくれる本でした。