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2012年10月22日月曜日

近代日本語の思想




柳父章著
法政大学出版局
2011年5月10日 初版第2刷発行


翻訳文体成立事情とサブタイトルにあるように、私たちがふだんつかっている近代日本の書きことば(現代口語文とも呼ばれるが話しことばとしてはつかわれない)は、西洋語の翻訳をとおしてつくられたのだということが、たくさんの実例とともに示されていました。たとえば「主語」が翻訳でつくられたことの証拠として大日本帝国憲法をあげ、各条文のほとんどが「~ハ」ではじまる様子を悪文だと述べるとともに、文体の調べの異常さを十七条憲法や武家諸法度と比較して示しています。「主語」、過去を表すとされている「た」、終止形の起源など、どれもこれも納得させられてしまう説明ばかりでした。

ひとつ疑問なのは、新しい書きことばがつくりだされた理由です。明治以前にも、抽象的な議論を記した文章やそれを集めた書物が存在していました。それらに用いられていた文体、漢文の書き下し文・和漢混淆文に西洋語から単語だけを借用して、西洋由来の近代的な概念を表現することはできなかったのでしょうか?

たとえば「~は」という文体で抽象的な概念を扱った文章というと、私の貧弱な知識の中でも、高校の漢文の時間に習った孟子の四端説のところの書き下し文「惻隠の心は仁の端なり、羞悪の心は義の端なり、辞譲の心は禮の端なり、是非の心は智の端なり」が思い浮かびます。こういった表現があったのだから、この流儀だけで西洋文翻訳を行うことはできなかったのか。また大日本帝国憲法も
第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス 
第二条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ繼承ス
ではなく
第一条 大日本帝国ノ事 万世一系ノ天皇之ヲ統治スベシ 
第二条 皇位ノ事 皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承スベシ
などと書いてもよかったのではと思うのですが、どうなんでしょう?まあ、そういった旧来のやり方も不可能ではなかったけれど、単に時代の気分が新しい文体を求めていたということなのかもしれませんが。あと、本筋からははずれますが、『我が輩は猫である』は、斬新高級ハイカラな「~ハ」文体への風刺だという指摘など、鋭い指摘もたくさんあって、とても勉強になりました。

2012年10月14日日曜日

日中危機はなぜ起こるのか

リチャード・C・ブッシュ著
柏書房
2012年1月25日 第1刷発行

今年の尖閣諸島をめぐる日中間のトラブルを予見するかのように、本書は2年前に書かれました。著者は日本人でも中国人でもなくアメリカ人で、この問題の背景にある日中両国政府の情報・意思決定システムなどの機能不全、両国の国民感情、領土問題の解決を難しくさせている歴史問題など、両国の事情を比較しやすいかたちで説明してくれています。日本とアメリカとは日米安全保障条約を結んでいますから、アメリカ人を公平な第三者とみなすことはできません。しかし本書の内容を読むと、とても公平に書かれていると私は感じました。勉強になった点は、以下のようにたくさんあります。
もし台湾と中国のあいだの政治的紛争から突如、衝突が勃発し、アメリカが台湾防衛に駆けつけることになれば、アメリカの同盟国である日本は、最終的に中国と戦争することもありうる。実際には、中台間に紛争が起こる可能性は、2008年の台湾の政権交代以降、大きく減少しているため、最初の二つの争点の方が気がかりである。
二つの争点というのは尖閣諸島/釣魚島の領有権問題と、海上油田とガス田の開発権問題です。アメリカ人の著者の目からも、現在では台湾海峡をはさんだ二国(台湾も国家)間の問題よりも日中間の問題の方がより厄介なものにみえるわけで、それは本書のサブタイトルが「アメリカが恐れるシナリオ」となっていることからも明らかです。尖閣諸島周辺では海上保安庁と中国海監総隊という法執行機関同士が対峙しています。海上保安庁が警察行為として最初に武器を使う可能性は小さくないと著者は指摘しています。たしかに、最近も巡視船が台湾の船に対して放水を行っていますから、日本の主張する領海に侵入・上陸しようとする「民間人」が武器を所持していたりすれば、それが巡視船側の武器使用に結びつく可能性は否定できません。さらに法執行機関の後ろ盾として両国海軍の艦艇が介入し、その現場指揮官の独断専行により衝突が段階的に拡大する。目にしたくない光景ですが、たしかにあり得るシナリオです。
衝突が長引くほど日本側が戦術的勝利をおさめる可能性が高いと考える専門家もいる
と著者は述べていますが、
日本が緒戦の勝利を受けて和解の用意を示しても、人民解放軍が強硬で強制的な対応(沖縄上空へのミサイル発射、尖閣諸島占領など)を要求する
こうなると和解は実現しがたく、強硬な姿勢を声高に主張する者に発言権が移り、日本は苦境に陥いることになります。事態をこう展開させないためにはどうすべきなのか。両国の政府・国民やそれぞれの背景をみてみると、
日本は人民解放軍の増強とその照準に相矛盾した感情を抱く。どのように対応するべきなのか。友好関係に期待するのか。自国の軍事力を増強するべきか。それともーー戦後ずっとそうしてきたようにーーアメリカとの同盟関係をあてにするのか。 
アメリカ政府にとって、同盟国を守るか、それとも世界的な協力を求めている新興大国との関係を維持するかという選択は、悪夢である。アメリカがこの選択を迫られた場合、国益についての明確な認識、紛争を激化させる誘惑を避けるための決意と技能が必要となる。紛争の激化を防ぐためには、そもそも紛争がはじまる可能性を下げるために、すべての当事者が努力しなければならない。 
日本が特別な民主主義体制、中国が権威主義体制という両国の政治体制の違いにもかかわらず
見捨てられることを怖れる日本と、戦う準備をせず同盟の責任を果たさない日本の紛争に巻き込まれることを怖れるアメリカ。先だっては尖閣諸島も日米安保条約の適用範囲だとアメリカから口先介入がありましたが、実際に実力行使の応酬となったときにアメリカは何をしてくれるのか。せいぜい停戦を呼びかけるくらいでしょうか。本書の中で著者は日本を「特別な民主主義体制」と述べています。「特別な民主主義体制」はなんぞや?特に定義は述べられていませんが、当然ふつうの西欧民主主義国とは別物という認識でしょう。日本をサポートするとしても喜んでというよりは、見捨てると他の同盟国に対して示しがつかないからということになるのだと思います。フォークランド紛争でイギリスに対して示したほどのサポートは期待できないところ。
中国も日本も、外部の者に信じさせようと思っているほど、あるいは外部の者が期待するほどには軍事作戦行動において平和主義者ではないのである。中国は日本よりも明白な戦略文化をもっている。専制的な性格の文化である。そのうえ、人民解放軍は自衛隊よりも文民当局から自立して戦略文化を作る自立性がある。しかし、みてきたように、日本の戦略文化の防衛的かつ妥協的な側面は、任務が国内に近づくにつれて目立たなくなり、もっと攻撃的で専制的な態度がはっきりみえてくる。 
日本は東アジアの海上における現状に比較的満足している。その点はアメリカと同じだ。自国と、自国の安全保障に対して認められる潜在的脅威のあいだに、より大きな戦略的緩衝地帯を築くために現状を変えようとしているのは中国である。 
この空間には、両大国を誘い込み衝突の危険を発生させる摩擦点がいくつか存在する。人民解放軍にも自衛隊にも、衝突を封じ込めるのではなく激化させうる制度上の特徴がある。 
中国と日本の実力組織が衝突する可能性は低いかもしれないが、両政府が衝突を封じ込めて外交的危機を防げる見通しは、低いと断定できる二つの理由がある。まず、どちらの政府も危機管理体制が整っていない。また、どちらの国でも、日中関係に関する政治はすぐにとげとげしくなり、それが危機を封じ込めようとする政策決定者の手を縛る。
この夏の中国国内の反日デモを見ても分かるとおり、この二つの理由のうちの後者は重要です。両国政府の能力と、両国国民の相手の国に対する感情を考えると、いったん武力の応酬が起これば事態の収拾は極めて困難になってしまうでしょう。たとえ中国政府が善意に満ちていたとしてもです。
日本と中国の国防組織にも文民政府にも、政治指導者による対外関係の処理を面倒にする側面があるが、両国の政治がそれをさらにむずかしくしている。日中間の偶発事件に両国の世論が大きく反応すると、選択枝が狭まり、両国の強硬派が勢いづき、両政府が互いに強攻策をとる誘因となる。 
中国世論の一部が日本に抱いている敵意はあまりにも強く、政治行動に繋がる潜在力があるため、日中の軍事組織の舞台が衝突した場合、中国の指導部は抑制された対応をとるのが困難になる。世論の圧力のため、強力に対応せざるを得ないと結論するだろう。そのうえ、国家主義的な大衆の一部は、体制側が管理できないサイバー攻撃能力を有している。中国に対する国民感情はかなり否定的である。他方、中国は日本の政治においてとくに目立つ争点にはなっていない。メディアは国民感情の形成に重要な役割を果たしているが、それも日本人の恐怖につけ込む形である。両国の軍隊のあいだで衝突が起きた場合には、その力学が働くだろう。 
中国についての日本人の世論は二十五年前には好意的だったが、いまはまちがいなく相当に否定的である。 
反中感情は日本の行動の原因というよりも中国の行動に対する反応である。いい換えれば、北京の言動が日本人に以前の肯定的見方に疑問を抱かせるにつれ、日本人の中国についての考えはますます否定的になっている。 
客観的な利害のためには両国が瀬戸際から撤退する必要があるとはいっても、指導者は降伏したとの印象を与えるような結末よりも、紛争の拡大のほうがましだと思うかもしれない。瀬戸際からの撤退をやり遂げるには高いスキルが必要だ。 
日本政府は過去を十分に償っていないと批判されることも多いが、実際には(朝鮮の)植民地支配と(中国などに対する)軍事的侵略を謝罪しており、過去の日本の行いを償おうとしてきた。しかし、日本の懺悔の程度は、最も適切な比較対象であるドイツに遠く及ばない。
和解の最大の障害は、歴史問題を長引かせることで政治的利益を得る勢力が両国に存在するという現実だ。
日中間の問題を難しくさせている大きな原因に歴史問題があります。土下座外交だとか日本はもう充分に謝罪したではないかという日本人もたくさんいます。でも、西ドイツのブラント首相はワルシャワで文字通り跪いたし、ヴァイツゼッカー大統領は過去に目をつぶる者は未来に対しても盲目となると演説しました。日本の政治家はそれに匹敵するようなパフォーマンスはしてこなかったし、国内からは施政者の努力を無にする批判が絶えませんでした。20世紀前半の日本の中国に対する行為が謝罪に値することは確かだし、謝罪というのは相手側の赦しを得ることで完成するものなのに。たしかに中国の人たちや国家から赦しを得ることが困難だったことは分かるし、謝罪を続けることを苦痛に感じる日本人のいたことも理解できないわけではありませんが、日本の国益を考えるなら、中国の赦しを得ておくことが上策でした。敗戦から数えてももう70年近くになるのに、それを達成できなかったことは日本外交の失敗です。そして中国の現状をみると、今後もこの上策の達成はまず不可能でしょう。上策の実現が無理なら、せめて中国以外の世界の国々から、日本は充分に謝罪したからもうこれ以上の謝罪は不要だと声をかけてもらえる状態にするのが次善の策だと私は思います。この次善の策を実現してゆく過程で、日本国内から謝罪疲れなどと発言をするのは、国益に反する妨害行為だと私は思います。謝罪という行為に対してどういう考えをもっているにしろ、日本のためを思うならせめて口をつぐんでいてほしいものです。こういう事態になった主な責任は20世紀前半の日本の政治家にあるわけで、戦後の施政者が無能だったからではありません。あの人たちが馬鹿なことをしなければ謝罪は必要なかったし、尖閣諸島や竹島どころか台湾も朝鮮半島も日本領のままでした。植民地独立の波に乗って朝鮮・台湾が独立していったとしても、その際には日本の思った通りの国境線を画定することが充分に可能だったでしょうから、こんな小さな島の問題で争う必要なんてなかったのに。

また、中国側の尖閣問題の取り扱い方もけっして上手だとはいえないと私は思います。様々な社会問題を抱えた中で国内の統合をはかるため、領土問題と歴史問題で日本を敵として国民を団結させる政策をとって、日本の世論を敵にまわしたこと、世界のリーダーを目指す国としての度量を示せなかったことは、中国が将来、東アジアや世界でリーダーとして振る舞う時にきっと不利益をもたらすことになるでしょう。日本人だけではなく、世界中、特に南シナ海上で中国と係争中の国々、チベット、インドもこの問題を注視しているでしょうから。でも、日中危機の解決に立ちはだかる問題点は複数あって、
第一は、両国の軍事組織と統治機構の問題だ。日本と中国が何らかの形で衝突すれば、両国の機構・制度は事件を封じ込めるよりも激化させる方向に作用するだろう。第二は、国内政治の問題だ。とくに中国では、衝突事件自体よりも大衆の反応のほうが深刻な事態を招くだろう。 
米中和解が成功したのは、何よりもまず毛沢東が、もうろくしていたとはいえ、確固たる最高指導者だったからだ。第二に、当時の中国に世論は存在しなかった。第三に、米中両政府は完全な秘密外交を行うことができた。今日では、どんなに素晴らしい外交政策も、統治機構と国内政治に由来する要素によって実施を妨げられるだろう。
また国際仲裁については、
日中が自分たちだけで実質的な合意に達する可能性を諦めて、国際法廷にこの問題の審判を仰ぐ手法だ。しかし、両国が同じように受け入れ可能な判決よりも、どちらか一か国には受け入れられない判決が下る可能性の方が高い。実際のところ、日本は中国よりも多くを勝ち取ることを期待して、国際仲裁を歓迎するようだ。そこで中国は二国間交渉の方を選ぶ。二国間交渉は進まないが、国際仲裁の結果は対日関係を改善するどころか悪化させる可能性が高いので、良い選択枝ではない。
とのこと。著者が本書ラストの第13章「何をなすべきか」で示している打開的な進展の提案も、「中国で政治が主導しなければならない」と繰り返されていて、日本側ではなく中国側がその気にならなければ進展しないものです。最後まで読んでみて、日中危機に容易な解決策のないことがよく分かりました。さらに著者が指摘するように、この問題の解決を国際的な組織に委ねることを中国が拒むのだとしたら、素直に白旗を掲げる、つまり尖閣諸島が日本の領土だという主張は取り下げ(中国領だとみとめると台湾に申し訳ないが)、日中間の国境を画定させるくらいしか手がないような気がしてしまいます。国際仲裁を拒むなんて中国人はひどい奴らだと感じる人もいるでしょうし、私もそう感じはします。でも、満州事変のリットン調査団の報告に対して「連盟よ、さらば」と席を立った松岡洋右を歓呼で迎えた日本のマスコミ・国民のことを思うと、そうそう中国を批判もできませんよね。

あと気になるのは、尖閣諸島問題について、沖縄の人たちはどう考えているのかという点です。とくにまとまった見解というのはないのかしらん。なんでこんなことを気にするかというと、沖縄に独立の動きがあるのなら私はそれに反対しない立場だからです。米軍基地の移転問題などで独立をなんとはなしに考え始めた沖縄の人は少なくないでしょう。もし本当に独立の途を歩むのなら、私はサポートするつもりです。そして沖縄に独立の見込みがあるのなら、尖閣諸島の将来については、北緯27度線以北にすむ日本人ではなく、沖縄の人が中国や台湾と交渉して決めるべきで、沖縄の人の希望が実現するよう支持することに徹するべきだろうなと思うのです。