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2011年2月6日日曜日

日本中世貨幣史論


高木久史著 校倉書房
2010年11月発行 本体10000円
中世後期の貨幣のありようについて、16世紀の銭使用の状況の変化、撰銭令と都市の食料需給安定化政策の関連、16世紀の金銀米使用の進行、徳政と掛け取引と為替、石高による知行制と貢租収取制度の成立過程などなど、広範なテーマが取りあげられています。先行研究をきちんと紹介し、海禁や倭寇の沈静化で中国からの銭の輸入・流入量が減ったことが貨幣の使用状況変化の契機として提起されるなどの近年の新たな話題にも触れ、文中に採りあげた史料は素人にも分かるように解説し、文章も平易で読みやすく、とても勉強になりました。私は著者と一面識もありませんが、「ではないか」「ないだろうか」がとても多い文章から誠実そうな人柄を想像してしまいました。私は専門家ではないので、著者の個々の主張についての当否を論じることはできませんが、素人が読みながら感じた分からない点、不思議に思うことをあげてみます。
中世後期に混乱していた銭の価値が「かつての通用銭の基準銭化」という形で整理されてゆきます。この際に「通用銭使用の普及の原因の一つに、16世紀における中国からの銭供給量の減少があるのではないか。従来の議論では、この減少を米の貨幣的使用の普及の原因としてきたが、米のみならず金・銀や、さらには本章で示したように旧来の通用銭などの代替手段の普及をもたらしたのではないか」と著者は指摘しています。最終的には、金・永楽銭・鐚銭の比価が公定され統一されます。鐚銭四貫文=金一両という公定比価、および通用銭となった鐚銭建ての米価は、中世の撰銭行為が激しくなる前の通用銭と金の比価や銭立て米価と比較すると、銭高?銭安?それとも同じくらいだったのでしょうか?
鐚銭が通用銭になった契機が中国からの(精銭となりうる)銭の供給量の減少だったとすると、日本国内に流通する精銭の数量が数十年でかなり減ってしまい、精銭の価値についてはかなりの銭高になるのが当然のような気がします。中世後期の撰銭令で並銭・悪銭が精銭の二分のから三分の一、そして江戸初期に四分の一に評価されるようになったということは、単に精銭の価値が高くなったからでしょうか。それとも、並銭・悪銭に関しては日本国内で充分な量または充分以上な量が私鋳されていて銭不足ではなくてインフレーションだったのでしょうか。一世紀くらいの長い目で見ると鐚銭建ての金や米の価格はあまり変化がなかったかどうかがその辺を教えてくれないでしょうか。また、撰銭という現象が混乱を招いたのは、かつての通用銭が精銭と変化し、新たに通用銭になる私鋳された銭が通用銭となる過程で、日本全国一律に同調して信頼を得ていったわけではなかったからというだけのことなのかどうか。
本書には「撰銭令の個別的性格の検討という方法をとった。結果、食糧需給に関する規定や価格抑制に関する規定を含む事例が多いということを示」されています。「銭に関して規定することにより立法者が何を制御しようとしているのか、という視点から撰銭令を検証した」ということでその点ではお説ごもっともなのですが、撰銭令によって都市における食糧需給安定化が多少なりとも実現したのかどうかがとても疑問です。もちろん、現代でも経済政策が意図した結果を導かないことはたくさんありますから、発令者の政策意図を探ることに意味がないとは思いませんが。「被忌避銭の価値を政策により担保し、銭を持つ者の食糧需給を充足しようとする政策」と著者は書いています。撰銭がふつうに行われた時代には、銭で所得を得ていた都市生活者には被忌避銭ばかりが支払われ、その被忌避銭を対価としては米など生活必需品を売ってもらえない状況があったということでしょうか。日常的にそうなら、銭を所得とする人の側も被忌避銭が労賃として支払われることを忌避・撰銭して生活を守るはずだと思うのです。もし食糧需給安定化を意図した撰銭令があるとすると、被忌避銭も含め銭自体を対価としては米を売ってくれないくらいに混乱した状況なら意味がありそうだとは思うのですが。また、「中近世移行期に撰銭令が多数制定されたという事実は、当時の政治的課題への対処の結果にほかならない」とあります。不作・飢饉は中近世移行期に限らないはずなのに、なぜ中近世移行期に多いのでしょうか?それは撰銭現象があったからだと答えることになるのでしょうが、それなら「当時の政治的課題」というのは不作・飢饉による食糧需給の不安定化ではなくて、撰銭現象ですよね。
「撰銭令の発令契機と撰銭の発生契機とは第一次的には別次元の問題として扱う必要があると考えている」と著者は書いていて、これはその通りだと思います。で、個人的には撰銭令の政策意図なんかよりも、撰銭の発生契機や、撰銭が具体的にどんな風に行われていたのかの方にずっと興味があります。例えば、第四部では為替がとりあげられています。京の大徳寺が越前の末寺から未進の年貢を取り立てるのに、逆為替をつかっていたそうです。大徳寺は越前に仕入れに行く商人にその為替を京都で割り引いてもらい銭を入手し、託された商人は越前の寺に赴いて為替を提示して支払いを受けるという仕組みです。「商人は地方での仕入れ費用を調達できた」という利点があるそうですが、この取立為替五貫文分の料金(運賃)がたったの350文や500文。「中世工人の標準日給が百文」と別の箇所には書かれていますからかなり安いですよね。越前に出かけるのは自分の商売のためで、為替の取立はそのついでだからということはあるのでしょうが、未進の年貢だから取立に失敗する・支払いを拒否されるリスクもあるでしょうし、こんなに安くていいのかしらと心配してあげたくなるほどです。そして、この取立為替に撰銭現象は影響していなかったのか気になります。商人が京都で大徳寺に渡した五貫文は京での通用銭(と京での常識的な割合の鐚銭も混入していたかも)でしょう。越前でこの商人が取り立てる五貫文は越前での通用銭(と越前での常識的な割合の鐚銭も混入していたかも)ですよね。京の五貫文と越前の五貫文は同じだったのでしょうか。商人が得る五貫文は越前で仕入れに使ってしまうから、その点はどうでもいいのか。この史料からだけでは不明です。
242ページには大豆の売買に関して、買い手は悪銭で支払いたがり、好銭を要求されると大きな升を使えと反論した例が紹介されています。希望としては、こういった具体的なせめぎ合いのエピソードを多数集めて(史料が乏しいのかも知れませんが)撰銭のありようを教えてもらいたいものです。
288ページに、織田信長が岐阜城の土蔵に保管してあった銭を伊勢遷宮に際して寄付するのに、金銀でなく銭で贈ったエピソードが紹介されています。貯蔵されていた銭ですから織田側の意識としては決して悪銭という意識はなかったでしょうが、贈られた銭を神宮側はビタと認識したのだそうです。で、金銀でなく、保管してあった銭そのものを贈るのに「縄の新調には相応の費用がかかる」と著者は書いています。いくらくらいかかるんでしょうか?緡の縄(紐?)の値段がいくらぐらいだったのか昔から不思議に感じていて、省陌法で銭の枚数が少ないのは縄(紐?)の値段のせいもあったのかと思えてしまうくらいです。