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2013年6月20日木曜日

「謎解き判大納言絵巻」と「吉備大臣入唐絵巻の謎」


黒田日出男さんの「謎解き判大納言絵巻」と「吉備大臣入唐絵巻の謎」の2冊を続けて読みました。前者は2002年、後者は2005年発行と、もう10年も前の本ですが、近所の本屋さんで売られていました。残念なことに2冊とも小口を研磨された状態でした。小口を研磨された本を買うくらいなら、amazonさんで中古を買った方がましだと考える人もいるかもしれません。でも出版された当時に買わなかった自分の不明を反省する意味もあるし、また営業不振になって店を畳まれたりしても困るので店頭に現物がある本はなるべく近所の本屋さんを利用するようにしています。

2冊とも丁寧に鑑賞・研究史をたどり、2つの絵巻のどちらにも詞書と対応しないように見える絵が存在している(=謎)ことを指摘します。絵巻というものは大人のための絵本のようなものでしょう。しかもこの2つの絵巻は偉い人(後白河法皇らしい)の委嘱で作成されたものですから、その偉い人が謎解きを主眼にした作品を注文したのでもない限り、委嘱者やその取り巻きの人たちが楽しく無理なく鑑賞できるように描かれたはずです。それなのになぜ「謎」の絵が存在するのか、従来の研究ではその点が充分に説明されていませんでした。

著者は2つの絵巻をモノとしてしっかり観察し、両者に錯簡と、それを証す補筆のあることを指摘します。錯簡を正してみると「謎」だった絵とその近くの詞書がしっかり対応するようになり、理解できるというのがこの2冊での著者の主張で、とても説得的だと感じました。また黒田さんのストーリーテラーとしての才能はこの2書にも発揮されていて、とても面白い本でもあります。

でも読み終えたあとになんの疑問も感じなかったかというとそうではありません。著者の説明で「謎」自体ははたしかに解消しそうですが、その背後にある錯簡と補筆については新たな疑問が生じます。例えば、800年も前につくられた絵巻ですから、紙と紙の貼り合わせ部が剥がれてしまっても不思議はありません。でも錯簡が生じるということは、巻物を開いた時に同時に2カ所以上の剥がれた箇所が発見され、その補修の際に誤って接合したということになります。巻物だからいったん剥がれても、剥がれた紙どうしの関係を見失いにくいような気がしますがどうなんでしょう。

また補筆しているということは、紙面をじっくり観察し、補修で接合した紙同士の並び方に整合性がないことを認識し、それを糊塗するため実施したに違いありません。すると、錯簡を生じた補修の行われた時期と、補筆の行われた時期とはかなり離れていたとしないとおかしなことになります。でも錯簡を正すのではなく、補筆で辻褄を合わせるという選択がされたのはなぜなんでしょう?

錯簡が生じ、補筆が行われたのはいつ頃のことだったのでしょう?宝物として大切に保管されてきた絵巻も、作成されてから長い年月が経過し、数ヶ月とか数年に一回しか鑑賞されなくなったが故に、所有・管理者も補修にあたる技術者も、絵と詞書を正しく対応させることができなくなった。作成されてからそのくらい長い時間の経過した頃に補修(=錯簡の出現)が行われ、さらに長い時間が経過して補筆が行われたということなのでしょうか?こういったあたり、この2冊ではまったく触れられていません。この2冊が出版されてから10年ですから、新たな研究が発表されているのかも知れませんが。

2013年3月21日木曜日

近代中国研究入門


岡本隆司・吉澤誠一郎編
東京大学出版会
2012年8月31日初版

憶い出してみると、先日読んだ中国経済史入門をはじめ、海域アジア史研究入門、日本経済史研究入門など、~入門というタイトルのつけられた本をかなり多数読んでいることに気付きます。ほかにも、古典籍研究ガイダンス、日本植民地研究の現状と課題のように「入門」という言葉がつけられていない入門書もあるので、これらも含めると年に数冊は入門書を読んでいる勘定になります。きっと多い方ですよね。では、こんなふうに私が入門書を読む理由はなにかというと、それらの本が対象としている学問分野について、主なテーマや現状・研究史などについて学びたいからです。本来ならそういった知識は大学で学んで得るべきものなのでしょうが、私は学生ではなく、またこれから学生になる予定もないので、とりあえず本で代用しています。

多くの入門書は、一般人ではなく少なくとも学生、どちらかというと院生以上を対象にしているようで、その分野の主要テーマごとに研究史と現状をまとめ、テーマの選択についてアドバイスし、研究に必要な機器、情報の探し方・在処などを紹介する内容になっています。本書もその例に漏れないわけですが、それに加えて本書には研究者の卵に研究の心構えを説くという色彩が、類書と比較してかなりつよく出ていました。もちろん研究史の紹介もされているのですが、紹介することが目的というよりも、心構えを語る材料として提示されているように感じたのです。おそらく、各章の執筆者たちには、若手の研究者や自分の指導した院生に対する不満・危機感がかなりあり、そういった若手の腐った状況を改善したいがために本書を編んだということなのだと思います。もちろん具体的な個人名は書かれていませんが、ある特定の顔を思い浮かべながら「近頃の若いものは...」とつぶやきながら書いたのではなかろうかといった記載も見受けられました。

各学問分野で~入門といった学生・院生を対象にしたマニュアル的入門書が続々出版されつつあるという事実は、本書ほどはっきり述べてはいなくとも、「近頃の若いものは...」現象が高等教育・研究機関に蔓延していることの現れなのだと感じます。きっとその背景には、国立大学法人化、研究費の獲得の仕組みの変化、少子高齢化による学生数の減少などなどがあるのでしょう。本書に書かれている主張は至極当然なものばかりですから、本書を読んだ若手が襟を正し、執筆者たちの求めるような真っ当な研究者として一本立ちしていってくれることを私も期待します。しかし、たとえそういった執筆者たちの意図が実現しなかったとしても、数十年後には本書が出版されたことそれ自体が、21世紀初頭の日本の研究者の世界の大きな変化とそれに対する研究者たちの反応をビビッドに物語る史料として珍重されるようになることでしょう。

2013年3月7日木曜日

中国経済史入門


久保亨編
東京大学出版会
2012年9月20日 初版

中国経済史入門というタイトルがつけられていますが、実質は中国近代経済史入門でした。第1部アウトラインと研究案内では、中国近代経済史が18の領域に分けられ、各領域ごとに一章ずつがあてられ、研究史の整理と、その分野の代表的な論文・著書が紹介されています。かつての見方とは違って、戦間期に至る中国経済の成長が著しかったことがどの章でも強調されている印象をもちました。歴史にifはありませんが、日中戦争、国共内戦、大躍進などの障害がなければ、軽工業品の輸出市場で中国が日本の強力なライバルとなっていたかもしれず、そうであれば日本も決してあれほど順調な経済成長を遂げられなかったかもしれません。

ほとんどの章の執筆者は、担当した領域の研究史を上手にまとめ、メリハリあるストーリー展開とともに語ってくれています。特に総論や、第2章農畜産物貿易史、第7章在来綿業史、第9章その他の産業・企業史はとても興味深く読めました。でも例外もあります。ひとつは第18章中国における近現代経済史研究で、これは中国の人の作品の日本語訳ですから、もともとの執筆方針が他の章とは違っていて、それが違和感をもたらしていたとしても不思議はありません。もう一つは第8章農村経済史。こちらは日本人が書いているので編集方針を理解できていないということはないはずですが、山田盛太郎級のごつごつした悪文でとても読みにくく感じました。私は素人なので、第8章の執筆者の研究者としての業績などについては知りませんが、入門書にこういう文章を書いていて平気なようでは教育・指導者としては失格なんじゃないでしょうか。その他の章ではあらためて気付かされた点が少なくなく、いくつか例をあげてみます。
1920年代前半、日本の鶏卵消費の約3分の1を中国産が占めたとされる(第2章 農畜産物貿易史)
農畜産物の貿易というと茶、生糸、大豆三品くらいは頭に浮かぶのですが、鶏卵がかなりの規模で貿易されていたとは知りませんでした。しかも冷凍卵なんてものがこの時代にすでに商品化されていて、ヨーロッパにまで輸出されていたとは。日本ではこの後、三井物産や農業団体の努力で、国内の鶏卵消費を国産品でまかなえるようになったということなので、生産費の問題ではなく、洋食の普及のスピードに日本国内の養鶏業の拡張が間に合わなかっただけなのかもしれません。
1890年代以降、世界貿易は全般的に拡大期に入り、中国はこの時期に輸出を急増させながら、その内容構成を多角化させていった。中国と日本では19世紀中葉の開港が与えた影響にかなりの違いがあり、中国は1890年代まで基本的に貿易無反応型に近かった。この違いを説明する上で見逃せないのが市場構造の問題である。領主制商品流通と交錯しながら展開する日本の農民的商品経済と比べて、中国の市場は求心性に乏しい重層的な構造であったと考えられ、1890年代からの茶や生糸といった特定の素材ではない農産物一般の需要増こそが開港場への輸出吸引を引きおこし、はじめて中国の小農経済を世界市場に連結させることになった。中国にとって1890年代は実質上の開港であった(第2章 農畜産物貿易史)
日本と中国の開港後の貿易の様子に違いが存在したこと、またそこから両者の経済構造の違いを導くことは、常識的なんでしょうか?これ、とても魅力的な説だけに気になりました。貿易無反応型というのは、外国からの輸入に対応するだけで、積極的に輸出市場を開拓することがないという意味でしょうか。だとすると、中国は1890年代まで基本的に貿易無反応型とありますが、アヘンなんかはかなり早くから国産品が増えていたと思います。そういった例外はあるが、「基本的に」無反応型だったということなんでしょうか。また先日読んだ「海の近代中国」の306ページに厦門からオランダ領東インドから廈門への輸入品のひとつとしてツバメの巣や油粕、牛革、籐とならんで牛骨が挙げられていました。このうち、解説されなくとも用途の分かる油粕については肥料であると説明があるのに、牛骨が何に使われたのかは言及がなく、とても不思議に感じていました。本書32ページには骨粉にしたらしいことが書かれていて、肥料としてつかわれたことが分かりすっきりしました。でも、牛骨って、腱が付着して骨髄を含んだ骨そのままで輸入されたんでしょうか?東南アジアから何日もかけて船で輸送したら、腐ってしまって臭気がひどいだろうと、今度はそっちが気になってしまいます。
上海華界および江蘇各地の発電所は小資本かつ経営不安定なものが大半を占めた。よって紡績・製粉工場の公共租界集中現象は必然であった・エネルギーの需要と供給をめぐって、外国資本と土着資本の間には生産力構造内部における「共生」が確認され、外資の電力は民族系企業(特に近代部門)の発展を支えていたのである(第9章 その他の産業・企業史)
という指摘も目から鱗でした。在華紡が租界に立地したのも単に日本政府の保護を受けやすいからというだけではなく、こういったインフラ条件も考慮してのものだったということなのですね。

第11章財政史には、中国の国家財政がその経済規模と比較すると小さかったことが述べられていました。清朝の統治期、中央政府派遣の官僚に直接地域を支配する能力はなく、地域の有力者や有力な商人・団体に統制・徴税させる代わりに、利権・特権をみとめる手段をとらざるを得なかったそうですが、国家財政の小ささとこれは関連があったのでしょう。また政府の支配が社会の中でどの程度強力に貫徹していたのかについての客観的な指標を見いだすことはなかなか困難ですが、この財政と経済規模の比はその代用指標ともなりうるものだと思います。清朝の数値は江戸時代の幕府の数値よりも低いというのを他の本で読んだことがありますが、できれば同時期のアジア・ヨーロッパの国々との比較を知りたいものです。
筆者の問題関心とはすなわち、日本が満州に構築した戦時動員体制が、中国共産党の内戦発動および内戦勝利・権力樹立を可能とさせた重要要因であったのではないかということである(第13章 戦時満洲と戦後東北の経済史)
という記述。これってとても当たり前のことのように思っていましたが、未解決なんでしょうか。また、この点に関しては経済史的な裏付けの有無にかかわらず、当時の中国共産党の指導者がどう認識していたかを同時代資料や聞き取り・回想録などで明らかにすればいいだけのような気もします。
現在の中国政府は、広大な国土の経済を把握するために、統計部門に10万人の職員を抱えている。それでも「中国の統計は信頼できない」という声は後を経たない。しかし、今から100年前、中国海関(税関)を調査した日本人は、そこで作成されている貿易統計をみて、「それが信頼できることは誰もが認めている。何事にも秘密・隠匿を得意とする中国では、希有のことだ」と感嘆を込めて賞賛している(第17章 海関統計に基づく貿易史)
とあります。執筆者のいうように、中国の現在の統計数字は粉飾されているともっぱらの評判です。いまから数十年後には、現在の中国の統計数字を対象に、粉飾の実態を明らかにしようとする研究が行われることでしょう。そう考えると、海関の統計資料は別として、それ以外の過去の統計数値を対象に、どの程度信頼できるのか、また粉飾の痕を見出すような研究がされていて当然な気もします。その種の研究はないのでしょうか。
地域経済研究の実証密度があがればあがるほど、どの地域であれ、都市から農村に至るまで、市場の変貌は国際貿易が契機となっていた点があらためて確認されている。
とあります。「西洋の衝撃」論は否定さるべきものなのかもしれませんが、日本にしろ清朝中国にしろ、ヨーロッパが中心となった世界市場・近代世界システムに組み込まれることなしに、自律的に桎梏から抜け出して経済成長を開始することなど、すくなくともあの年代にはまだ無理だったに違いないと私は思っています。アジア間交易の重要性はもっともですが、アジア間交易が活発に行えるようになったのも、アジアをも含んだ世界市場に嫌々ながらも組み込まれていったからですよね。

2013年2月28日木曜日

海の近代中国


村上衛著
名古屋大学出版会
2013年2月15日 初版第1刷発行

海の近代中国というタイトルはすこし大風呂敷過ぎる印象ですが、福建人の活動とイギリス・清朝というサブタイトルが本書の内容をよく表しています。イギリス領事の報告を主に、中国の官僚の作成した文書やその他の史料もつかって、廈門を中心とした地域の興味深いできごとがさまざま紹介されています。そして、それをもとにこの時期の中国の特徴がわかりやすく説明・解明されていました。

素人目には強力な中央集権国家にみえる清朝も地方支配の実態はかなりルーズでした。官僚に直接地域を支配する能力はなく、地域の有力者や有力な商人・団体に統制・徴税させる代わりに、利権・特権をみとめる手段がとられていました。アヘン貿易が銀流出の原因であると判断した清朝は取り締まりを試みましたが、牙行に依存する貿易管理体制では課税不可能な禁制品であるアヘンの貿易にうまく対応できません。禁止を前面に打ち出すと取引は零細化して地下に潜り、かえって把握が困難になってしまいます。こういった状況を打開するための強硬手段が引き起こしたアヘン戦争での、夷敵に対する敗北は衝撃的だったはずですが、
当時の知識人が戦中から戦後にかけて、アヘン戦争を意図的に過小評価するようになった可能性がある
のだそうです。 中国の当時の知識人たちも一人一人は人間ですから、心理学的な意味での防衛機制が働いたのでしょうか。知識人に及ぼした衝撃という意味では、かえって日本の方が強かったのかもしれません。
清朝側はイギリス軍の艦船と大砲の能力は認識していたが、陸上における戦闘能力を認めていなかったため、陸戦における敗戦の原因をイギリスの軍事力以外に求めなければならなかった。ここに「漢奸の活躍」が始まる
19世紀中葉、イギリスをはじめとする欧米諸国とその人々を利用しつつ、秩序の再編が進められた。その際に導入された制度は自由な空間を狭め、人を特定の枠の中に押し込めていき、開港場体制はそのために機能した。
清朝は、いわばイギリス海軍を「招撫」することによって中国人海賊を招撫するよりも軽い財政負担で確実に沿岸秩序を回復したといえる
敗戦の責めを負うべき沿海の大官たちが漢奸を「発見」し、責任を逃れる。しかも、条約港に領事館が置かれイギリス軍艦が常駐するようになったことを奇貨として、華南沿岸の秩序回復、ひいては徴税に利用する、その手際には感心させられました。 福建省沿岸では海賊が横行し、また廈門では苦力貿易が盛んでしたが、こういった手法により抑えられ、福建省からはさらに多くの人が東南アジアへ移民することになったそうです。

移民先の東南アジアでイギリス植民地籍を獲得した華人、また生まれながらにイギリス籍を持つイギリス植民地出生の華人の中には、商用や故郷の訪問・滞在目的で中国に戻る人が少なくありませんでした。条約上、外国人には内地旅行や土地獲得などの制限がありましたが、これらの華人は中国人として振る舞い制約を逃れていました。しかし、ひとたびトラブルが起きると、イギリス籍であることを理由にイギリス領事の保護を求めました。領事館も手を焼き、人身だけは保護しても財産は保護してくれなかったとか。そういったわけで、魅力の無いイギリス籍ではなく、台湾籍を選択する人が出現することになったのだそうです。

本書を読んでみて、アヘン戦争により開港を勝ち取ったイギリスが万々歳だったわけではなく、清朝の能力・体質にかなり閉口させられていたこと、またアヘン戦争の衝撃が開始点ではなかったものの、この地域に変化をもたらしたことがよく分かった気がします。そういう点で、とても勉強になった本でした。ただ、疑問に感じた点がなかったわけではなく、特に廈門の経済面に関する記述がそうです。

この期間の廈門港の商品輸入はおおむね横ばいでしたが、輸出に関しては大きく減少しました。それにはいくつか理由があるそうです。もともと廈門の後背地は広くはありません。また廈門界隈の小さな港でおこなわれていたアヘンの非正規な取引がアヘン戦争後はより大きな港に集約されました。また廈門の主力輸出品だった茶は、土地がやせていたこと、混雑物が多いなど低質な商品だったこと、台湾での生産が伸びたことから、競争力を失いました。砂糖もジャワ産などには勝てず、機械制製糖場を導入しようとする試みも地元での反対に遭いました。廈門が中心だった台湾との中継貿易も、日清戦争により失われました。

このうち、台湾が日本領になったことなどは理由として理解しやすいのですが、その他、たとえば茶の輸出が振るわなくなった理由などについては不思議です。以前は盛んだった茶の移出・輸出がこの時期に振るわなくなった理由が低品質なのだとしたら、品質が低下したのもこの時期のことだったんでしょうか?もしそうならなぜ?また、他の産地と違って福建だけが品質の低下を来していたのだとしたらなぜ?また砂糖も、競争に勝てず移出・輸出が減ってしまったのだとしたら、生産地での加工が原則であるサトウキビの栽培もきっと大幅に減少したことでしょう。減ったサトウキビの代わりとして農民はその農地で何を生産したんでしょうか?輸出向けでない農作物?東南アジアへの移民が多くなったからといって、耕作する農民の数が足りなくなったなんてことはなかったでしょう、きっと。それとも、東南アジアの華人からの仕送りで、移民を送り出した地域では働かずに食べていけたんでしょうか?

この時期の中国の「商人間の取引は常に零細化する傾向」があって「零細な経済活動を秩序化する仲介者」の存在があったことが記されています。こういった「傾向」をもつ地域に、アヘンの取り締まりのような仲介者の立場を掘り崩すようなことがなされると、秩序が不安定化してしまうわけです。また、零細であるがために資本の集積には向かず、資本主義化には不利だったのだとか。しかしこれは「なぜ中国は18世紀には経済成長し、19世紀に危機に至り、20世紀末以降、経済発展に成功しているのか」という問いに対する答えとして不十分だと感じました。零細な資本・少ない資本では工場制企業や鉄道や大きな海運会社を立ち上げるのはたしかに無理でしょう。しかし日本で新在来産業と呼ばれているような業種の製造業であれば、充分の起業・成長の余地はあったと思うのですがどうなんでしょう。それがこの時期に族生し得なかったのは、もっと別の理由があるように感じます。自然資源の制約、政治、治安などなど。
当該期を「近代」と呼ぶならば、華南沿海の「近代」とは、牙行に依存した清朝の貿易管理体制のように、16~17世紀の変動を経て形成され機能してきた制度が、世界的な変動によって変容を迫られていく時代であった。この制度変容の契機となったのが、18世紀末以降の世界的な貿易の拡大である。
著者が書くように、アヘン戦争は起点ではなく「制度変容を決定的に加速させたのがアヘン貿易」だった、また制度変容の契機が18世紀末以降の世界的な貿易の拡大だという点はその通りだと私も思います。でもこれだと、別の意味での西洋の衝撃論になっていないのかなとも感じます。私自身は世界システム論が好きですから、西洋が主導した18世紀末以降の世界的な貿易の拡大により中国も世界システムに組み込まれてしまった、そして組み込まれることにより既存の制約・桎梏を乗り越えることができるようになったと考えることに異論はありませんが。

2013年2月17日日曜日

近代技術の日本的展開


中岡哲郎著
朝日選書896
2013年2月25日第1刷発行

後発工業国日本の工業化の特徴が、エピソード・人物の紹介とともに説明されています。各エピソードにはきちんと出典が示してあり、そういう点でもしっかりしていますが、もとは朝日新聞の「一冊の本」というPR誌に連載されていたものだそうですから物語としても面白く書かれています。
同じく朝日選書として出版された「日本近代技術の形成」などと同じく、日本経済の生産技術・流通など江戸時代までの到達が明治以降の工業化・貿易に反映されていることが分かりやすく述べられていました。第二次大戦のあたりなどで細かな事実誤認は見受けられましたが、気軽に読むには良い本だと思います。

江戸時代の日本の労働集約的農業の到達を「勤勉革命」と呼ぶむきがありますが、本書の中で著者は「ことばの遊びではないか」と切って捨てていました。たまたま英語のindustrialとindustriousが似ているからといって、勤勉革命なんて呼ぶのはちゃんちゃらおかしいですよね。単に土地と資源の制約から抜け出せなかった江戸期日本の苦し紛れの対応に過ぎないものの、いったいどこが革命なんだか。この著者の指摘には私も同感です。他方、
「「日本の産業革命」を主張する多くの人は、厳密にイギリスを先頭に西欧で進行した社会経済の発展過程を研究し、そこから抽出した「世界史の発展法則」のさまざまな指標にあてはめて、この時期が産業革命期であることを示そうとする。だが最初に工業化した国の発展過程と、既に工業化した国々の影響を受けて工業化を開始する国の発展、すなわち「後発工業化」は決して同じにならない。そこから見えてくる違いが、後発工業化の個性であり独自性であるのに、「日本の産業革命」論者の多くは、それを、日本の産業革命の歪み、後進性の残存、あるいは日本資本主義の例外性などと論じてきた。」
と述べている点に関してはちょっと厳しすぎるかなと感じます。日本の工業化を産業革命と呼ぶのは、いちばん最後に帝国主義国化を果たしてアジアを侵略したという流れの中での表現なのだと思うのです。著者のお説の通り、韓国の産業革命とかフィリピンの産業革命という呼び方はナンセンスで、それら諸国については後発工業化と呼ぶしかありませんが、日本の場合には産業革命と呼ぶ意味が充分にありそうな気がしますし、産業革命という用語を使用する論者もその含みで使っているのだと思います。1970年代頃までとは違って、今では日本の工業化の特徴を「歪み」「後進性の残存」として論じるような人はもういないんじゃないでしょうか。

日本の工業化の特徴の一つは、江戸時代の日本が蘭書・漢籍や生薬などの日本国内では生産できない品目以外、生糸・木綿・砂糖などの生産技術の改良による輸入代替を達成していて、開港後にその生糸が主要輸出品目となり、大恐慌の頃まで工業化に必要な外貨のかなりの部分を獲得してくれた点。またもう一つは、マッチや雑貨など、新在来産業と呼ばれる業種の生産物の市場が近隣にあった点だと思います。

日本の後発工業化の特徴を捉えるには、なにかと比較することが必要になります。日本より早く工業化を果たした諸国との比較はもちろんですが、同じ時期に工業化を試みた国、具体的にはラテンアメリカ諸国と比較することが有益だろうと私は思います。ラテンアメリカ諸国と比較すると、外貨を獲得する一次産品を持っていたことだけでは順調に経済が成長するとは限らず、近隣に輸出市場を持っていたことが日本の有利な点だったことが分かります。ラテンアメリカはヨーロッパの出店ですから、モノの嗜好もすでに産業革命を果たしたヨーロッパに似ていて、欲しいものがあればヨーロッパから輸入してしまいます。それに対して、太糸と厚地綿布に代表される日本で好まれる商品の中には、東アジアの周囲の国でも受け入れられ輸入してもらえるものが少なくなかったのだと思います。蘭癖大名や豊田喜一郎を始めとした人々の好奇心と努力などももちろん大切ですが、19世紀の状況を考えると、日本は幸運にも恵まれていたなと感じるのです。

2013年2月11日月曜日

経済大陸アフリカ


平野克己著
中公新書2199
2013年1月25日発行


冒頭で、永らく低迷してきたアフリカ経済が21世紀になって成長を始めたことと、同じ頃から中国が資源確保を目的にアフリカ諸国に積極的に投資してきたことが述べられています。これはなにも中国の投資のおかげだけでアフリカが成長し始めたということではなく、中国などBRICsの経済成長に起因する世界的な資源の不足が価格体系の変化を招き、アフリカから輸出される燃料・鉱産物の価格が上昇したため、アフリカへの投資が見合うようになったということだと思われます。
いま、アフリカでもっとも評価されている援助国はおそらく中国だ。 
ガバナンスこそが経済成長のパフォーマンスを左右する決定的要因だと主張していた1990年代の開発論は、この現実をみるかぎりまちがっていたといわざるをえない
と著者は指摘しています。経済成長が実現するには競争力を持った商品を生産して付加価値を生み出す主体の存在が不可欠で、ODAによってそれを生み出すことはできないというのは正しいのでしょう。ただ、ODAは本当に効果の期待できないものだったんでしょうか?というのも、本書の中に示されているグラフを見ると、21世紀になってアフリカに流入する国外直接投資(FDI)の額は、20世紀後半にアフリカに向けられたODAの額よりずっと多いように見えるからです。ODAが目に見えた成果をもたらさなかった原因のひとつに、単にその供与額が不十分だったという理由がなかったのかどうかは気になります。また、
経済が急速に成長しているにもかかわらず、アフリカの行政の質は良くなっておらず、所得分配の不平等度もおそらくは悪化している。「資源の呪い」はそれほどまでに強い力で作用するものなのか
成長するアフリカでも農業のパフォーマンスは相変わらず不良で、コスト高の食糧、それも都市が必要とする量を供給できていないことが述べられています。このためアフリカには豊富な低賃金労働というものは存在せず、製造業はかえって停滞しているそうです。農村が取り残されているだけではなく、拡大する都市の住民の中でも良い職に就けない人たちには経済成長の恩恵は行き渡っていないのでしょうね。とはいっても、経済が全く不振だった時期に比較すれば、中国製の消費財が少しづつ庶民の手にも届いてはいるのでしょうが。
従来とのちがいは、国外からの投資が急激に増えてアフリカの生産力をおしあげていることだ。それを可能にしたのは、うけ手としてのアフリカの投資環境が改善されたからではなく、だし手としてのグローバル企業の投資能力が向上したことにあるというべきだろう
これも鋭い指摘です。本書では「低開発問題を世界システムから説く議論」が一世を風靡した20世紀半ばの南北問題解決策は成功しなかったことが述べられています。ただ、私としては「低開発」の根底にはそれを導く世界システムがやはり厳然として存在していると思うし、世界システム論自体がダメだったとは思えません。現在が価格体系の変動期であり、しばらくは一次産品の相対価格が上昇する時代が続くという著者の味方は正しいのでしょう。しかし、BRICsなどによる一次産品需要増が永久に続くわけではなく、また価格の上昇した原材料を節約したり代替したりする技術革新が必ず出現するはずで、いつかは一次産品の相対価格が低下する時期がふたたびやって来るだろうと思います。その頃までに南アフリカ共和国以外のアフリカの国の中から半周辺への移行を成功させる国がもしかすると出現するかも知れません。しかし、ほとんどの国は低開発状態、周辺の地位から抜け出せてはいないでしょう、きっと。いま、成長を謳歌するサブサハラ・アフリカ諸国の首都にそびえる高層ビル群は、マナウスのオペラ劇場のようなもの。19世紀の一次産品が高価だった時代に繁栄を謳歌した南アメリカ諸国が、周辺の地位から抜け出せなかったのと同じことだと思うのです。

最後の章では、BOPビジネスのフィールドとして格好の存在であるアフリカ、アフリカや資源価格の上昇前のソ連・ロシアと同じく長期の経済停滞に悩む日本の分析、そして日本のアフリカへのアプローチの仕方の提案まで触れられていました。アフリカに対する見方を変えてくれる本であるとともに、いろいろなことを考えるようしむけてくれるという意味で、とても刺激的な本でした。

2013年2月9日土曜日

平家納経の世界


小松茂美著
中公文庫
1995年12月3日印刷 
1995年12月18日発行

冒頭の「一 平家納経の成立ドラマ」ではタイトルにあるとおり、平家納経について物語風に語られています。平清盛がその絶頂期に感謝を込めて厳島神社に納経したのかと思い込んでいましたが、まだ権中納言の時に企画されたものだったのだとか。その他にも知らなかったエピソードがいろいろと書かれていて興味深く読めました。しかし、本書で本当に面白かったのは、平家納経と出会いや、それをきっかけとして古筆学の確立にまで至った著者の個人史を語った部分です。

中学校卒業後に家庭の事情で進学できず、父と同じく鉄道省の鉄道員に就職。召集されるも職業と健康状態から即日帰郷となり運が良いと思う間もなく、広島で原爆に被爆。一時は原爆症で死の宣告も受けたそうです。その後も鉄道で勤務していましたが、被災後の広島駅前の闇市に店を出していた古本屋で池田亀鑑さんの「土佐日記原典の批判的研究」と運命的な出会いをします。同じ頃、秘蔵の平家納経を見たという記事が新聞に掲載され、著者も拝観を希望します。立場上、貴重な品を安易に見せるわけにはいかない宮司に熱心に頼み込み、占領軍の命令ならやむを得ないというアドバイスをもらって、広島地区の司令官の大佐を厳島神社見学に誘い出すようなこともありました。ようやく平家納経を実見することの出来た著者は、その研究を決心したのでした。

国鉄で勤務しながら学ぶ著者には大学などで学んだ経歴がありません。また身近に指導者や参考図書・文献が揃っているわけでもなく、池田亀鑑や東京国立博物館の学芸部長石田茂作など多くの専門家たちに教えを請う手紙を出す「無知の蛮勇」も発揮して勉強を続けたのだそうです。こういった行為は学問の世界だと20世紀半ばには蛮勇と呼ぶべき行為となってしまっていたのかも知れませんが、純粋に趣味の世界で考えると珍しくはないような気もします。例えば同じ頃に、藤子不二雄のお二人は手塚治虫さんにファンレターを書いたり会いに行ったりしていたことをまんが道という作品に描いていました。まんがや音楽やゲームや鉄道やプラモデルなどといった趣味の世界では、これと似たようなことは21世紀の今でも蛮勇にはなっていないでしょう、きっと。目指す世界は違っていても、著者にとっては平家納経・古筆などの研究は大好きな趣味だったということなのだと感じます。

著者は国鉄から分離した運輸省広島陸運局の総務課観光係に移って「いつくしま」という観光用小冊子を編集し、その後はかつての上司を頼って上京し運輸省自動車局総務課に転勤させてもらい、書跡の研究に志す者が少ないという理由で学芸部長石田茂作に頼んで東京国立博物館に出向させてもらって、そして最終的には国立博物館に入職し活躍します。その後の章では著者の主な研究について簡単に披露され、最後の章では著者の確立した「古筆学」がどんなものなのか、国文学に資する点の大きいことが分かりやすく説明されていました。

先日「ある老学徒の手記」で鳥居龍蔵さんの半生を読んだときにも同じような感想を持ちましたが、ふつうに進学するコースから学問の道に入ったのではなく、自力で道を切り開いていった著者のバイタリティに感心させられました。ただ、国鉄時代には同僚に「敬遠」されていたとか、博物館入職後にも「中傷」されたとか、著者自身も書いていますが、本業の方を疎かにして趣味の方に打ち込んでいる人というのは、周囲の人から見たら変人としてみられたのもやむを得なかったのかなとも感じました。

2013年2月5日火曜日

ある老学徒の手記


鳥居龍藏著
岩波文庫 青N-112-1
2013年1月16日 第1刷発行

だいぶ昔のこと、岩波書店発行の世界にこの鳥居龍藏さんの評伝がしばらく連載されていたことがあります。その頃は鳥居さんのことをまったく知らなかったので、明治大正の日本には変わった学者がいたんだなと感じただけで終わりました。しかし、その後朝鮮史や満州の本の中に鳥居さんの名前を目にすることが少なくないことに気付くようになりました。そんなわけで、本屋さんに平積みされていたこの文庫本を見かけて、彼がどんな人だったのか知りたいと思い、読んでみることにしました。

岩波文庫のカバーには簡単な内容紹介がつけられていて、この本にも「小学校を中退し、独学自修した」「民間学者の自伝」と記されています。ただ、この記述はミスリードの感なきにしもあらずです。子供の頃から江戸期に出版された本を多数読んだりなど、早熟な鳥居さんは小学校をつまらなく感じていただけで、決してできない子だから留年・退学したわけではありません。また、独学自修の過程で考古学に興味を持つようになり、上京して東京帝国大学理科大学人類学教室で仕事と研究をする機会を得て、やがては帝大の講師や助教授にまでなったわけですから、最終的には自らの名前を冠した研究所を設けたとはいえ、民間学者というのもどうかと思います。

この本の原著が1953年に出版された時には「考古学とともに六十年」というサブタイトルがつけられていたそうです。最終的には考古学者であると自他ともに任じていたということなのでしょうが、本書に記された調査旅行の様子を読むと、必ずしも考古学的な発掘調査だけをしていたわけではなく、各地の人の体格を測定したり、風俗を記録したりなどなどの活動も行っています。現在では考古学も民俗学も人類学もそれぞれ確固とした独立の学問分野ですが、明治の頃はそうではなかったらしいことがよく分かります。また、もしかすると分化・細分化してきた現在の学問水準からすると、彼の調査・研究の成果はいまや取るに足りないものになっているのかも知れません。しかし、彼のようなパイオニアの活躍が現在の学問の基礎になったことは確かでしょう。

「小学校中退」で留学歴もない彼が帝大所属で活躍できたのは、もちろん彼の才能の然らしむるところでしょう。しかし本書を読むと、それだけが理由だったわけではないように感じました。というのも、彼がしょっちゅう東アジアの各地(モンゴル、満州、沖縄、台湾、樺太、朝鮮、沿海州)に、それも現地の民家に泊まり込むことも珍しくない、数ヶ月にも及ぶ調査旅行に出かけているからです。時には配偶者や、生まれて間もない乳児を連れてでかけたこともありました。きっと、こんな風にフィールドワークが好きで、しかもモンゴルなど多くの言葉をものにしている人というのが当時の日本のアカデミズムの世界では得難たかったから、帝大で活躍できたのかなと感じました。また、彼は調査旅行に際して、満鉄や台湾・朝鮮総督府や陸海軍の支援を各地で受けています。この分野で活躍できた背景には、明治・大正・昭和の日本の東アジアへの拡張があったことは見逃せません。そういう意味で、あの時代が育んだ人ですね。

2013年1月18日金曜日

古典籍研究ガイダンス 王朝文学をよむために






国文学研究資料館編
笠間書院
平成24(2012)年8月15日第2刷発行





本書の前半では、代表的な作品を対象とした研究の成果とその手法のエッセンスが分かりやすく紹介されています。また後半では古典籍に関連する言葉の説明が解説されていました。どの項もだいたい12ページ前後とコンパクトにしかも読みやすくまとめられていました。本書のintroductionには
本書は何よりもまず、王朝文学研究に関心を寄せる若い世代の皆さんに手にとっていただきたい、ということで企画編集されました
と書かれています。国文科の学生さんを主なターゲットとして書かれた本なのでしょうが、私のような国文科とは縁のない、学生でもなく若者でもない読者でも楽しく読めました。どんな点が楽しく読めたかというと、たとえば土左日記(土佐日記ではなくむかしはこう書かれていたのだそうです)。

土左日記は、蓮華王院宝蔵に収められていた紀貫之自筆本を書写したとされる定家筆本がながらく最良のテキストとされてきました。しかし昭和初期以降、定家筆本と同じように紀貫之自筆本を写したと思われる写本や、 紀貫之自筆本を書写した写本から写した写本があいついで発見されました。それら為家書写本、松木宗綱書写本、三条西実隆書写本を定家筆本とを比較検討することで、紀貫之自筆本を再現しようという研究が行われて成果を挙げるとともに、国宝定家筆本にも異文、仮名づかい、漢字や仮名の別、踊り字の使用などの独自性があり、定家が書写に際してある種の改変を加えていたことが明らかになったのだそうです。

この項は論証も比較的ストレートですが、短いページの中でわくわくするような謎解きが展開されている項もたくさんあったので、数式や英語が苦手でもこういった研究ならできそうかなと感じたり、こういう興味深い研究の余地がある学問分野なら自分も身を投じてみたいと学生さんが感じてくれるようなら本書の編者の方々も大喜びでしょう。私は学生ではないので、残念ながらそうは感じませんでしたが、それでもこの項を読んでいて、疑問というか調べてみたいタネがいくつかみつかりました。

まず、蓮華王院宝蔵に収められていた紀貫之自筆本というのが不思議です。仏教関係の著作や勅撰集などは別にして、平安時代の文学作品で著者自筆本の残っているものはありません。そもそも各作品に著者による定稿が存在していたのかどうか自体にも疑問が残ります。紀貫之自筆本土左日記はその例外なんでしょうか?土左日記を発表後、貴族社会で評判が拡がり、天皇から自筆本を献上するようにという命令が下された時点で書き上げた本で、朝廷の図書収蔵庫(文殿?)に収められ、やがて蓮華王院宝蔵に移されて定家の生きた時代までのこったということなんでしょうか?それとも一度は誰か廷臣の手に渡り、それが後白河法皇に贈られて蓮華王院宝蔵に収まることになったんでしょうか?

鎌倉時代初期に土左日記がどのていど普及していたのかは知りませんが、もし貴族の蔵書としてあるていど普及していたとするなら、それら謂わば流布本とこの蓮華王院宝蔵の紀貫之自筆本との間には、きっとテクストの違いが生じていたでしょう。紀貫之自筆本は定家の記録によると比較的きれいな状態だったようですから、秘蔵されていたものと思われます。土佐日記執筆から約300年が経過した鎌倉時代初期の流布本にはそれなりの変化があったはずです。古写本で、この「流布本」の様子を伝えてくれるようなものがあれば面白そうな気がします。

源氏物語青表紙本や古今集などのように、藤原定家の書写した写本が現存するもっとも権威ある古写本として扱われている作品は少なくないのだろうと思います。定家本の尊重される理由の一つは、書写に際して元の本の本文に積極的に手を入れるようなことをしなかった点なのだと何となく理解していました。しかし、この土左日記についていうと、他の写本と比較して、定家筆本には独自性があり、定家が書写に際してある種の改変を加えていたことが明らかです。こういった改変は他の作品の書写に際しても積極的に行われたと考えるべきなのか、それともこの土左日記の書写にだけ特別な事情があってのことだったからなのでしょうか?などなど、きちんと勉強し始めれば考える材料がたくさんみつかりそうです。そういう魅力を伝えてくれる本でした。

2013年1月9日水曜日

新版 匠の時代4


内橋克人著
岩波現代文庫 S220
2011年7月15日 第1刷発行

国鉄のいろいろな職種のできる人たちをとりあげた軽い読み物に仕上がっていますが、ただそれだけ。各人の技能や国鉄の技術が深く掘り下げられているわけではないし、国鉄の抱えていた問題や労組のもたらした問題などへの言及は少なく、また叙述の仕方もリアリティを狙ったスタイルではありません。例えば、著者がその場で実際に聴いたはずのない登場人物の会話が、カギ括弧で囲まれた直接引用の形で書かれているのです。こういうのって、事実を語るというよりもエンターテインメントを重視した、小説にふさわしい作法だと私は感じます。こういった見てきたような嘘を語る手法をつかった作品には、例えば坂の上の雲があります。しかし坂の上の雲なら、読んで明治の日本を学んだ気になってはいけないとは言えても、エンターテインメントとしてはよくできた作品だから売れています。しかし本書は、高度成長期日本の一面を学ぶにも、暇つぶし以上のエンターテインメントとしてもよくできた作品とは言えず、「匠の時代」というタイトルは分不相応かなと感じました。

もともとは夕刊紙の連載コラムだったものが書籍として出版され、その後講談社文庫、そしてこの岩波現代文庫として出版された履歴があると記されていますが、岩波が21世紀のこの時期になぜわざわざ現代文庫として出版したのか、その意図が読めません。時代背景の書き込みが乏しいのは、同時代の読者には不要だったからだと思いますが、当時を知らない読者にはおすすめできない、とうに賞味期限の過ぎた本だと思うんですがね。

2013年1月5日土曜日

船舶解体


佐藤正之著
花伝社
2004年11月30日 初版第1刷発行

鉄リサイクルから見た日本近代史というサブタイトルがつけられているように、船舶解体だけでなく、解体によって得られる鋼材・鉄屑の利用について、戦間期から現在までの状況を扱っている本でした。第一章では、潜水艦との衝突で沈没したえひめ丸が調査のために引き上げられながら、その後は解体されずにふたたび沈められたエピソードとともに、人件費の低くない国では船舶は解体できなくなっていることが紹介されていました。現在の日本で解体される船は自衛艦のように秘密保持の目的のものくらいなのだそうです。世界の船舶解体に占めるシェアも、第二次大戦後しばらくは日本が一位だったものの、石油危機前後には台湾・韓国のシェアが大きくなり、現在ではインド・パキスタン・バングラデシュの南インド3カ国と中国が大部分を占めています。これらの国でも人件費が上昇し、また解体にともなって排出されるアスベストなど有害物質も問題視されるようになってきていますから、廃船を解体してくれる国がなくなってしまうのではとも危惧されるのだそうです。AppleがMacの生産の一部をアメリカに移すことを発表したように、機械化が進んだ製造業では人件費よりも他の経費を重視して先進国に戻る動きが増えてくるでしょうが、人手の関与する部分が大きく、しかも3K職場の典型のような船舶解体業ではそうはいかないでしょうね。

まだ鉄屑の発生量が少なく、盛んに船舶が解体されていた頃の日本には、解体する対象として船舶を輸入することも行われました。船舶解体業者は用船で得られる運賃と解体で得られる鉄材鋼材の価格とを比較して、輸入した船舶を運用・傭船にまわすこともあったのだそうです。また戦前でも輸入規制のあった時期には便宜置籍船(変態輸入船と呼ばれた)として運用されたりもしたのだとか。さらに解体された場合にも、製鉄の原料として輸入された鉄屑と同じように、船舶解体によって得られる鋼材も溶かされて高炉や電炉で再利用されるのかと思っていました。しかし、程度の良いものは伸鉄業にまわり加熱・成型して建築用の丸棒などとして販売されました。JISの整備で公共工事に伸鉄材からつくった丸棒がつかえなくなったことも日本での船舶解体の衰退に繋がったのだそうです。

これまで知らなかった分野が取り上げられたとても興味深い本でした。ただ、製鉄や造船といった大企業の多い華々しい業種とは違って、静脈産業である船舶解体業には中小企業が多く、まとまった史料が残されていないようです。本書にも著者が資料探しに苦労したことが書かれていました。船舶解体業で活躍した人たちに直接インタビューすることができれば、きっと面白いエピソードをたくさんきくことができたでしょう。でも、それら取材すべき人たちが元気でいたのはおそらく半世紀は前のこと。本書にも船舶解体業で活躍した人たち子供の世代が親の思い出話を語った部分が少し載せられていますが、正直なところ興ざめ。21世紀に発行された本書は、オーラルヒストリーという意味では遅過ぎます。オーソドックスな史書の流儀で書いた方が良かったのではとも感じました。

2013年1月2日水曜日

モノが語る日本対外交易史 七 — 一六世紀








シャルロッテ・フォン・ヴェアシュア著
藤原書店
2011年7月30日 初版第1刷発行


大和朝廷の頃から室町・戦国時代までの日本の対外交易を扱った著作です。 著者はまず序章で「海は道なり」というブローデルの言葉を紹介し、西洋の海のルートである地中海との比較研究の可能性を示唆して本書を始めています。ブローデルの地中海も多くの研究者の研究成果に依拠した著作ですが、本書もこれまでに多くの日本人研究者が積み重ねてきた成果をまとめ、大和朝廷の時代から室町・戦国時代までの通史としています。そして、具体的にはタイトルにもあるように
筆者はモノの需要は各時代において国際交流の主たる要件であると考える。換言すれば「モノが人を動かす」でのある。
と述べられていて、交易されたモノに着目している点が本書の特色です。口絵の写真や、本文中に取り上げられている品物を眺めながら読むだけでもワクワクしますが、扱われている10世紀間を通観して受けた印象としては
  • 平安時代の頃までは、中国や朝鮮半島から輸入されたモノは唐物として天皇や貴族たちのあいだだけで消費され、彼らの間で贈答品として交換されることはあっても、商品として日本国内を流通することはなかった。日本から輸出されたモノとしては、絹製品もあったが金や水銀、真珠などの一次産品が中心だった。また初めは朝貢、その後の交易は中国や渤海や朝鮮半島の商人によってになわれた。交易船の往来の頻度は少なかった。
  • 本書の対象とする期間の後半になると、日本から交易に出かける人が多くなり、朝鮮や中国は日本からの交易船の来港を制限しようとしたほどだった。日本から中国への輸出品をみると、金、硫黄、特殊な木材などの一次産品もあったが、金額的には手工芸品が主となった。たとえば明が輸入した品を資源・天然材料、単純工芸品、高級工芸品の三つに分けると朝貢国の中で「美術工芸品を大量に明に輸出するのは日本だけであった」。日本の輸出における「工芸品の比重が大きく、その売り上げによって日本は利益を獲得し続けたのである」。
7世紀以前の日本は、縄文時代から住んでいた人と、江南から移住してきた人と、朝鮮半島からの人と、台湾から九州南部へ移住してきたオーストロネシア語族の人とが次第に融合しつつはあっても、中国や朝鮮半島と比較すると文明化は遅れていたのだと思います。商品生産などはまだまだ無理で、交易に出せるような品もたいしてなかったから、卑弥呼の時代には生口を献じたのでしょう。本書の対象となる期間の初めの頃も事情は大して変わっていなかったはずで、中国人の欲しがるようなモノを用意できない土地だったから、交易に来てくれる船も少なかったということなのだと思います。しかし、時代が進んで室町・戦国時代になると、日本国内でも商品の生産・流通が盛んになり、なんといっても銭貨が強く需要されるようになっていました。さいわい、手工業の技術も一定程度は進み、売れるモノが日本国内でもまあまあ生産できるようになってきたので、銭貨を求めて日本人主体の交易船が大挙して押し売りに行ったんでしょうね。