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2008年10月31日金曜日

上田耕一郎さんと虹色のトロツキー

上田さんは日本共産党の副委員長をしていた方です。長らく呼吸器疾患で療養されていることは、とあるルートから聞いていましたが、今朝の新聞でお亡くなりになったことを知りました。私は上田さんと面識があったわけではありませんが、一つだけ面白いエピソードを知っているので紹介します。

参議院議員をしていた頃ですが、私が内科の外来をしていた診療所に上田さんが訪ねてきたことがありました。もちろん、私に会いに来たわけではなく、別の科の医師に面会に来たのでした。で、その医師の診療が終了するまで、待合室で時間をつぶすことにしたようです。待合室の一角には、患者さんが診療の待ち時間に読めるようにと本箱が置かれていましたが、上田さんはその本箱のところに歩いてゆくと暫くじっと眺め、一冊の本を取り出して読み始めたのでした。

かなり熱心に読んでいました。私にはその本が何なのかだいたい想像がつきました。面会目的の医師の最後の外来患者さんが終わり、上田さんが待合室から出て行こうとする時に、近くに行って見てみると予想的中で、やはり「虹色のトロツキー」した。

虹色のトロツキーは安彦良和さんのマンガで、彼の作品の中でも最も優れているものの一つだと思います。元は私の愛読書だったのですが、面白いので待合室の本箱に入れておいたのです。おそらく、トロツキーというタイトルが上田さんの目にとまって、ついつい手に取って読んでしまったんだろうと思います(まさか、潮出版社の本だから手に取ったというわけではないでしょう)。ソ連の共産党でも日本の共産党でも、相手をトロツキスト呼ばわりするのは究極の罵りだったようですから。

私としては、永続革命を唱えたトロツキーの方が、スターリンとその後継者たちより、地位を追われたからかも知れないけれど、魅力的です。虹色のトロツキーは満州を舞台にした作品で、トロツキーに触れた部分はほんのわずかしかありません。それでも安彦さんが物語の中にトロツキーの幻とトロツキーを語る訳者を登場させたのは、やはり彼もトロツキーに魅力を感じるからなのではないのかな。

でもまあ、この本を手にした上田さんは、トロツキーとは全然関係ねえじゃねーかって、驚いたことでしょう。

2008年10月27日月曜日

新しい MacBook Pro 見てきました

一年前にTitaniumPBG4から今のMacBook Proにのりかえた時、つくりがしっかりしているなって感じました。PBG4はつかんで持ち運ぶ時にたわむ感じがあったのですが、MacBook Proはその点が安心。ただ、パームレストの左手前のところを見ると、こんな風に隙間が空いてます。この部分を強く上下から押すとパチッと何かはまる音がして隙間がなくなります。でもしばらくするとまた隙間ができてしまうのです。使用には支障ないので放置してありますが、写真にしてあらためて見てみると、かなり広い隙間ですね。


昨日は新しいMacBook Proをさわってきました。ユニボディはさすがにがっちりしていて、うちの旧型MacBook Proとは違い、強くつかんでも全く変化なしでした。どこかに隙間があるなんてことも、ないようです。

ディスプレイの全面がガラスに被われていて、周囲が黒くなっているのは、iPhoneとデザイン的に統一させるためなのでしょう、ただ、iPhoneに比較してずっと大きいので、光沢のディスプレイに周囲の光のうつりこむのが多少気になる感じです。大きくなったトラックパッドですが、クリックするのに旧型機よりちょっとだけ余分に力が必要な気がしました。

アルミのボディに黒い色のキーは素敵ですが、好みが分かれるだろうと思います。というのも、文字は白なのでとても目立つのですが、日本語キーボードだとアルファベットと仮名の両方がキートップに存在していて、私にはくどく感じられました。アップルのサイトを見ると、CTOオプションでUSキーボードを選択可能となってるので、仮名入力をしない人ならそちらを選ぶべきでしょうね。

2008年10月25日土曜日

戦後復興期の企業行動


武田晴人編 有斐閣
2008年8月発行 本体3500円

敗戦後の物資不足・統制の時期から高度成長にまでつながる戦後復興期の産業・企業の歴史を扱った本です。製粉業・硫安産業・綿工業・セメント産業・造船業・鉄鋼業が取り上げられています。個々の史実は別として、興味深く感じたこと、気づいたことをいくつか。

まず、戦後の日本造船業の競争力の源が、戦争中に身につけたブロック工法などの船体建造の進歩によるものではないという指摘が目に付きました。この時期では、イギリスなどの先進国の造船業と比較して労働生産性がかなり低かったというのです。また、当時の貨物船のエンジンの主流となっていたディーゼル機関の製造に関しても日本は技術的に遅れていて、蒸気タービン機関の製造に関してはなんとか優位を確保できていたのだとか。このの状況下で、世界的に新造タンカーの大型化が起こります。タンカーの大型化に見合った出力の大きなディーゼル機関の製造は当時はできなかったので、大型タンカーの機関はタービンが使われます。日本は、このタービン搭載大型タンカーというニッチェをうまく物にして、その後の造船業の国際競争力の本にしたのだそうです。これは、新説っぽいので、本当なら面白いですね。

また、製粉業・硫安産業・綿工業は、敗戦後の復興期を極端な供給不足から始めた訳ですが、1950年代にはすでに過当競争が問題となるような状況を迎えることとなりました。敗戦後、比較的速やかに生産量が増えたのは、新たな参入業者があったためです。物がない時期だったはずなのに新規参入が多数あったのはどうしてか。

例えば製粉業では、家畜飼料用の製粉をおこなっていた高速度製粉の業者も人間の食べる小麦粉の製造に参入しました。高速度製粉ではふすまを分けることが出来ず、質が劣る製品しかできません。それでも、食料の不足から政府は配給用の小麦粉製造に参入することをみとめたわけです。今なら健康に良い食物繊維をたっぷり含んだ全粒粉とでも宣伝するところでしょうが。

硫安製造や綿工業でも、戦時中に転廃業させられた業者の設備が残っていたり、他の化学工業・他の繊維の製造業の業者などが参入したことにより、生産が回復したわけです。戦時中にも原料と労働力が確保できれば、消費財の生産がもっと多くなり得る余地はあったわけですね。

あと、この本のある章は、(おそらく筆者により)ネット上でPDF版が公開されていました。新刊本の中身をそのままネットで無料で公開するというのは、なにか反則のような感を持ちました。

2008年10月23日木曜日

夜なのに空が暗くない

今日は午後から雨という天気予報で、その通りになりました。でも、夜になってからは小降りで、傘がいらないくらい。なので、傘を下げながら帰り道を歩いていて気づいたのですが、空がちっとも暗くない。雲が低いせいなのか、地上にももやがかかっているせいなのか、とにかく街の明かりが反射して、とても夜とは思えないほどの明るさでした。

晴れの日でも星の見えないくらい都会の空が明るいってことは重々承知ですが、雨の夜っていつもこんなに明るいのだろうか。

2008年10月20日月曜日

帝国陸海軍の基礎知識


熊谷直著 光人社NF文庫522
2007年2月発行 税込み743円

実際に戦われた戦争・戦闘のあれこれについてではなく、日本軍の階級、給与、軍装、教育制度、経理や医事衛生部門などに関する事項が解説してある本です。どこかで読み知っていたことも多かったのですが、ほうそうだったのねと感じるエピソードもちらほら。

例えば、外征の軍は内地の軍とちがって、徴兵や動員など、国民に関する軍事行政の責任はもっていなかったという点について。沖縄防衛のために置かれた第32軍は外征軍ではなかったのですが、防衛戦を行う特別の軍と言うことで、やはり軍事行政の責任はもっていませんでした。沖縄の軍事行政の責任は、あいかわらず福岡の西部軍司令官にあり、実務はその下の沖縄聯隊区司令官(大佐)が、県庁、市町村役場などの行政機関と連絡をとりながら、行っていたそうです。ですから、中学生が鉄血勤皇隊員とよばれた少年兵に動員されたり、、女学生がひめゆり部隊などとして動員されたのは、聯隊区司令官が軍事行政として行ったろうということです。実戦部隊と軍事行政の責任者が異なることによってトラブルが生じたかどうかまでは書かれていないのですが、軍隊も官僚組織だと言うことがよく分かるエピソードです。

また、海軍兵学校出身の加藤友三郎が1922年に内閣総理大臣になって以来、敗戦までに陸士・海兵出身の首相が各5名ずつで、その他は8人だったそうです。その他8名の中で帝国大学法科出身は京都の近衞文麿をあわせても5名しかいない訳ですから、軍人出身首相の多さを再認識させられます。帝大卒業生に対して旧制高校が与えた影響(考え方やその後の友人など)と似たものを、陸士・海兵での教育・生活も軍人にもたらしたでしょうから、陸士・海兵が第一次大戦後の日本の進路に与えた影響はかなりのものと言えそう。

2008年10月18日土曜日

ウドの花


立川市ではウドの生産が多いそうで、ウドをつかったお菓子やラーメンを市内のお店が創作して名物にしようと努力しているみたいです。ただ、ウドって目立たない食材なので、どうなのかなって感じもします。で、畑にもウドが植えてあるはずなのですが、特徴に乏しいせいかあまりみかけた記憶がありません。立川でも、主に北の方で作っているせいもあるんだとは思います。そんなウドでも花が咲いていると、こんな感じで見分けがつきます。

ウドは地上部が枯れると根株(地下茎?根?)を地下のむろの中に移植して、真っ暗な中で生えてくる芽を収穫するのだそうです。チューリップの球根をつくっている農家では、球根に栄養を集めるために花が咲くと花を摘んでしまいますよね。ウドの栽培ではそういう必要はないのでしょうか。わりとどこの畑でも、咲いた花はそのままにしてある気がします。

2008年10月16日木曜日

遺された蔵書


岡村敬二著 阿吽社
1994年12月発行 税込み4680円

戦前、日本が満州・中国に設置した図書館の沿革・活動などについての論考をまとめた本です。植民地の図書館という存在については思い及んだことがなかったので、勉強になりました。

これらの中では、満鉄の図書館が最も早く設置されました。社業に資する目的だけでなく、一般の人の利用できました。大連と、後には奉天にも資料収集をも目的としたものが設置され、満鉄附属地の各都市には主に公衆の利用を目的とした図書館が設置されていました。他の分野にも見られることですが、植民地では日本本国にもみられない水準の技術の適応が試みられました。図書館の分野でも、蔵書目録・資料の検索機能などに外国生まれの斬新な手法が使われていたそうです。

満州事変後、奉天宮殿にあった四庫全書・文溯閣を保全する目的で満州国立奉天図書館が作られました。また、その他の奉天で接収した書物は張学良の屋敷の建物を利用した図書館に収められました。この奉天の四庫全書は、軍閥の戦争の時と満州事変の時の2度にわたって戦禍を被りそうになりましたが、関東軍の協力をとりつけた日本人によって守られのだそうです。軍閥の戦争はおいといて、満州事変の際に日本人が四庫全書を守ったのだと中国人に言っても、中国の人は喜ばないでしょうね。

日中戦争より前の時代、日本は北京と上海に近代科学図書館を設置しました。 これらは日本語の本を収蔵する図書館で、北京の近代科学図書館では日本語教育が盛んに行われました。また、これらはともに義和団事件の賠償金を設置・運営にあてたものだそうです。アメリカが義和団事件の賠償金で精華大学を北京に創設したことは有名ですが、日本がこういう施設をつくったことは知りませんでした。

日中戦争開始後には、上海・南京など各地で政府機関・大学・個人の蔵書家などから数十万冊の図書が接収されました。これら接収図書の整理には、上記の植民地図書館の館員が兵士とともにあたり、保護につとめたのだそうです。しかし、接収という行為はひらたくいうと盗みのことだと思うので、図書を戦禍から守ったと言っても、中国人からは盗っ人猛々しいと言われそう。

戦争という不幸な環境の中で、個々の図書館人はなし得る最善をつくそうとしたことは確かなようです。本書の著者も図書館員だとのことで、図書館員の善意・真心に対する暖かい姿勢が感じられる著作でした。

2008年10月14日火曜日

一年間に読んだ本の重さ

学生の頃は引っ越すこともあったし、引っ越すたびに本を処分したので、大量の本を持っていたわけではありません。でも、引っ越さなくなると、本ってよほどひどいものでなければ、ほとんど捨てる気になれないもの。なので、蔵書は少しずつ増えてしまいます。ただ、これまでは特に記録をとっていなかったので、毎年どのくらいの量の本が増えてゆくのか、自分でも分かりませんでした。このブログを書き始めた理由の一つは、読書記録をつけてみることでした。

この一年間に購入して読み終えた本は72冊。毎年100冊以上を読む人もいるそうですが、私が読んだ本には文庫・新書は少なくハードカバーで厚めの本が多いので、まあ、こんなものでしょう。これ以外にも、雑誌を読んだり、仕事の関係で読まなければならないものも少なくなく、活字中毒と言えるのかも知れません。価格は、72冊で税込み248226円でした。月に2万円ほどを本に費やしていることになりますが、これはだいたい予想通り。

72冊を並べると背表紙の幅の合計が165センチメートルほどになりました。これだと、スチールの書棚がだいたい3年で満杯になる計算です。今は、一つの部屋にスチールの書棚を11本置いてあるのですが、すでにいっぱいで書棚の上にも何冊も重ねてある状況。これまで崩れたことはありませんが、ある程度以上の地震が来ると危なそう。でも、その部屋で寝たりするわけではないので、いつぞやの地震で崩れた本の下敷きになって死んだ仙台の人のようになることはないと思います。

ただ、本が増えてもう一つ気になることは、重さです。72冊合わせて重さを量ってみると35キログラム程でした。30年分たまると、1トン以上になります。たしかに、書棚の数からざっと計算すると、現在の蔵書だけで1トンはありそうです。これって、今後も毎年増えていくわけですから、マンションの床が耐えられるのかどうかが少し心配です。

2008年10月13日月曜日

このブログも一年

このブログも去年の10月13日に書き始めてから一年がたちました。読書の記録と時々の感想を書いてるだけのブログで、たいして面白い内容の記事があるわけでもないと思います。それでもお立ち寄り下さる方がいらっしゃるので、一年間続けることが出来ました。ありがとうございます。

2008年10月12日日曜日

リーディングス戦後日本の格差と不平等 第2巻広がる中流意識


原純輔編 日本図書センター
2008年3月発行 本体4800円

行動経済成長の影響、そして学歴・貧困・政治意識などをテーマとして、1971年から1985年頃に書かれた社会学の論文を27本集めた本です。社会学の論文はデータや図表が多いせいか、また単行本として出版されることが多いためなのでしょう、この本には一部を収録されているものが多くなっています。

あの頃、一億総中流時代といわれていたのを想い出します。新中間階層・新中間大衆の出現を唱える論者と否定する論者の間で中流論争がなされましたが、今から振り返ってみると「中流」は幻想だったのかなと感じてしまいます。ただ、実際には階層間の格差がありながら、90%以上の人たちが自分を「中」であると感じていられたということは、とても幸せな時代だったことは間違いありません。

この年代は私が子供から大人になった頃で、自分も日本も豊かになりつつあるということを実感できた時代でした。ただ、そんな頃でも、格差・貧困の存在をきちんと論じていた人たちがいたことも収録された論文から、よく分かりました。

27本の中にはマルクス主義的な視点・用語で書かれた論文もいくつかあります。たとえば山田盛太郎の本とか、むかしはそういった表現を当然と思って読んでいたものです。でも、いまそういった言葉遣いの論文を読むと、内容は別にしても、やはり時代を感じるばかりです。

また、私が歴史や社会科学の本を好んで読むようになったのはこの時代です。私にとっては全くの過去の事態として日本の敗戦があり、なぜ戦争するようになったのかが問題関心の一つとしてあったのです。で、この頃から現在までの年数と、この頃と戦争の頃の間の年数とが、同じくらいになってきてるんですね。自分の生きていた頃が歴史になりつつあるというのも不思議な感じでした。

2008年10月9日木曜日

畑の大根


葉っぱの形からすると大根のようです。発芽しているのに気づいてから一ヶ月も経っていませんが、大きくなるのは早いもの。1~2ヶ月後にはこの畑のわきの即売所でこの大根を買って帰り、おでんや大根おろしにして食べることになるでしょう。

葉付きで売られている大根の茎は、直立に近いような姿だった気がします。しかし、畑では茎がかなり地面に寝るようになっていました。こういった姿はロゼットと呼ばれるものだと思います。ロゼットというと、真冬のタンポポを想い出しますが、まだかなり陽が高くて暖かいうちでも大根はこの姿になるものなのですね。

2008年10月8日水曜日

暑かったり、涼しかったり

秋は気温の差が大きい季節ですね。一日のうちで日中は暖かくても朝晩は涼しいということもあるし、日々の気温の違いもかなりのものです。先週の月曜日はかなり涼しい日でした。往診に行くとこたつが出ていたり、石油ストーブをつかっていたお宅も一軒ありました。私もその頃まではタオルケットと毛布を重ねてかけて寝ていたのですが、夜中に寒さで目覚めて、あわてて布団を押し入れから出した記憶があります。

その後は暖かい日もあったりして、日中は半袖でもいいくらいの日も少なくありません。すると今度は布団をかけていると夜中に暑くて目覚めたり。この季節になると寝汗をかいて心配だということで受診する方を見受けます。結核などで寝汗を症状とすることもまれにはあるのですが、かけている布団が多すぎる方がほとんどだと思います。

ふつうの人の場合には、暑いと感じれば自分でかけている物を調整できるのでいいのですが、寝たきりの方などでは、かけてある布団が多すぎることが問題となることがあります。体を動かして布団をはいだり蹴っ飛ばしたりできるレベルならばいいのですが、それも出来ない人の場合には、体温が上がってしまうこともあります。自宅で寝たきりの方を介護している人は基本的に優しい方たちで、「寒くないように」とお考えの方が多いようです。でも、「暑すぎないように」という心遣いも必要なのです。

訪問診療を20年近く続けてきてみて、「寒くないように」という心遣いをする介護者は多いのに、「暑すぎないように」という注意も必要なのだということには、訪問看護師など専門家からのアドバイスがないと気づいていない方が少なくありません。これって、ちょっと不思議。「寒くしていると風邪をひく」という誰でも知っている言い伝えが影響しているのでしょうが、医療に携わっているとこんな風に文化の影響を感じることがあります。

2008年10月2日木曜日

平凡社選書の日本史の本

「牧民の思想」の記述によると、江戸時代の思想史で書物研究という新しい手法が使う始めたのは、若尾政希という研究者なのだそうです。この「牧民の思想」と同じ平凡社選書の一冊に、若尾政希著の「『太平記読み』の時代」という本があります。太平記評判秘伝理尽秘鈔という楠木正成を超人的に描いた太平記の注釈書を題材に書物研究という手法を実践してみせてくれていて、とてもエポックメーキングな本だと感じました。私も古い方の人間で、江戸時代の思想史といえば儒学などを思い浮かべるたちだったので、太平記(ほんとは太平記の注釈書)が取り上げられている点にまず驚かされました。数万人規模の軍勢の数があちこちに出没するなど、太平記は戦記物語の中でも特に荒唐無稽ですからね。

平凡社選書には他にも日本史関係でエポックメーキングと感じた本があります。私の買った最初の平凡社選書で、もう30年近く前に読んだ本ですが、網野善彦著の「無縁・公界・楽」がそうです。網野ブームのきっかけになった本だったと思います。その後の展開や他の人の主張も読むと、必ずしも全面的に賛同できる主張ではないと思うようにはなりましたが、とにかくインパクトは強かった。

あと、笠谷和比古著の「主君『押込の構造』」もそうです。お家騒動って、樅ノ木は残ったや伽羅先代萩などの文学的な題材か、または三面記事的な興味の対象にしかならないのかと思っていました。でも、多数例を集めて主君廃立慣行の存在を示し、 大名家の成立や武士の考え方を抽出する鮮やかな手際には感心するしかありません。

他にも平凡社選書の中には日本史の本がたくさんあるのですが、その中でも私が面白いと感じたのは、ざっとこんなもの。
  井上鋭夫  山の民・川の民
  笠松宏至  法と言葉の中世史
  塚本学   生類をめぐる政治
  橋本義彦  平安貴族
  石井進   鎌倉武士の実像
  平松義郎  江戸の罪と罰
  早川庄八  中世に生きる律令
  藤木久志  戦国の作法
  龍福義友  日記の思考
  前田勤   兵学と朱子学・蘭学・国学
読みやすさと面白さという点では「法と言葉の中世史」が、一番のおすすめ。「生類をめぐる政治」も、生類憐れみの令を別の角度から見せてくれるとともに、イノシシなどの野獣から畑の作物を守るための鉄砲が農山村にはたくさんあったことを教えてくれて、刀狩りに対する考え方が変わりました。

まあ、これだけ好著が揃っているってことは、平凡社にはかなり優秀な日本史関係の編集者がいるってことなんでしょうね。あと、目立たせるためだと思うのですが、平凡社選書は数年前に白地で背表紙の上下に黄色の帯のあるカバーに変わりました。でも、私としては昔の地味な白茶白のカバーの方が好きです。茶色は褪色しやすかったけれど。

2008年10月1日水曜日

牧民の思想


小川和也著 平凡社選書229
2008年8月発行 税込み2940円

張養浩という元代の人が、地方官に任命され赴任して実際に統治する際の心得を牧民忠告という本の形でまとめました。牧民忠告は、朝鮮で出版された本の形で日本に伝わりました。本書は、江戸時代における日本での牧民忠告など牧民の書の受容過程と仁政思想の展開を主題にしています。

本書は江戸時代の政治思想についての本なのですが、序章には戦後の近世思想史研究の流れが著者なりの観点からごく簡単にまとめられていて、私には面白く読めました。「頂点的思想家」の著作のテキストを材料としていた丸山真夫の頃とは違って、1990年代からは書物研究という新しい手法が使われるようになり、書物自体の受容・分布状況などから、ある観念の社会的な広がりを知ることができるというものです。この著者もこの手法を用いている訳です。

近世国家は寛永大飢饉の克服を経て確立したというのが江戸時代の政治史の常識だそうですが、この飢饉の克服にあたって「民は国之本也」という考え方を打ち出した幕閣を構成する譜代大名が、まず牧民忠告に注目します。譜代大名は将軍からその領地を任されている存在ですから、自分のことを牧民にあたる地方官として考えやすかったわけですね。牧民忠告は漢籍ですが、伊勢桑名藩主松平定綱は、日本語の注釈書を自らつくり、自分の子孫へと残した程です。

他にも牧民忠告に着目して日本語で注釈書を記した何人かいて、江戸時代初めには写本で流布していたのですが、後には藩や書肆から印刷出版されるようになります。版本となって入手しやすくなったせいか、江戸時代も後期になると藩主から任命されて地方の実際の統治を任される代官やその手代層が、これらの書物の読者として期待されるようになります。牧民官として想定される読者が、将軍から領国の統治を任された大名から、大名により地方の統治に任じられる代官にまで変化した訳です。さらには、庄屋の中にも村内をまとめる役目を担っているという意識からこれらの書物を読むような人がいたそうです。

そういった受容の変化の他に、注釈書によっては「皆乾坤ノ一蒼生ニシテ、本来ハ差別ナシ ・・・・ 伏義、神農、黄帝ノ、イテタマイ、君臣上下等ノ差別アリ」のように、大昔の人間は平等だったのに伏義、神農、黄帝が出現してから、つまり文明化してから身分の差別が生じたという表現があったり、「天下之宰相モ一村之庄宦モ同一体ニシテ、無差別ナリ」のように宰相も村役人も平等と主張されていたりなど、平等思想を打ち出しているものがあったそうです。平等思想がある程度あたりまえになっていたとすると、安藤昌益もそう孤立した思想家だとは言えないのかも知れません。

その他、本書では日本の国家意識、廃藩置県、明治維新後の牧民忠告などについても触れられています。廃藩置県についてまで影響しているというのはにわかには賛同しがたいのですが、戦時中の占領地統治に際して陸軍が牧民忠告を印刷して配布したとか、現在でもリーダーの座右の書として売られているとなんていうエピソードには、びっくり。