深井 雅海著
中公新書1073
2008年3月5日8版
先日読んだ、江戸城 本丸御殿と幕府政治(中公新書1945)がとても面白かったので、同じ著者による本書を読んでみました。御庭番と言えば隠密、東西冷戦下につくられた娯楽作品では、大名領国に入り込みスパイのような活動をしていたかのように描かれていた印象があります。本書は実態がそうではなかったことを史料を示して明らかにしてくれています。まず、徳川監察政治と御庭番という章には、吉宗が将軍に就任して御庭番が作られる以前にも、伊賀者、目付、大目付、諸国巡検使、国目付といった役職が情報収集活動に携わっていたことが書かれています。しかし、これらは将軍直属という性質を失ったり、また大目付のように殿中の式部官的な存在に変質していったりなど、江戸中期には「将軍の耳と目」という役割を果たすことができなくなっていきました。そこで、宗家を次いだ将軍吉宗は、紀州藩主時代から近習を「将軍の官邸にあたる中奥の長官」である御側御用取次に任命しましたが、同じく紀州藩時代に隠密として使っていた役職の人たちを御庭番として活用し始めました。
御庭番は、将軍が老中以下の行政機構に対抗し、幕政の主導権を握る際の重要な手段としての機能を持ち、その役割は幕末まで維持されたのである
と、著者は指摘しています。専制君主であるはずの将軍も独自に情報を得なければ幕政の主導権を握れないことを、紀州藩主時代の経験から吉宗さんは自覚していて、御庭番的な役職を作り出すことにしたのは確かでしょう。しかし、その後の将軍もふくめて将軍一般について幕政の主導権を握る際の重要な手段だったといえるのかどうかには、少し疑問も感じます。一つは、吉宗さんは自分のためだけに情報収集をしてくれる人を用意したわけで、自分の子孫たちのことまで考えていたのかどうかはっきりしないこと。たまたまその職・制度が廃止されずに幕末まで続いてしまったと言うことですよね。また、史実では吉宗ほど優秀で幕政の主導権を握ろうとしていた将軍ばかりが続いたわけではありません。本書にも
御庭番の勤め向きの再把握と新たな指令は、将軍補佐役である松平定信が、こうした情報を収集するために、将軍の名を体して御庭番を活用しようとした
と書かれているように、将軍は権力をもつ存在ではあっても、やはり常にリーダーシップをとれたわけではないようですから。
御庭番の情報収集活動が、江戸向地廻り御用と遠国御用について、それぞれ具体例をあげて説明されています。前者では例えば天明七年の江戸打ちこわしに関する風聞書が挙げられ、騒動の原因として月番の江戸町奉行の対応に問題があったことが報告されていて、彼はその後に更迭されてしまったのだそうです。以前読んだ岩波文庫の旧事諮問録の下巻にも御庭番について経験者の談話が載せられていました。本書にも旧事諮問録からの引用がありますが、本書の優れている点は、御庭番の歴史、就任した家筋などの基礎的な知識を踏まえた上で、具体的な例の説明として引かれている点で、旧事諮問録を読んだだけでは漠然としていたものが、とても理解しやすくなっています。
遠国御用の例としては、薩摩藩を対象とした探索の記録から、下命や復命の式次第、準備の様子、九州下向の旅程と日数、かかった費用、報告書作成の実際などが細かく説明されていました。これは調査に赴いた人がおぼえのための手記を残していて、それが現在にまで伝わったからわかることで、なかなか希有な史料ですよね。
それでも実際の調査をどんな風に行ったのか、誰にインタビューしたのか、誰の談話を重視したのかなどは、史料の限界からか今ひとつはっきりしません。現代のジャーナリストによるルポルタージュを読む際にも、これらを踏まえることが重要だ思いますが、御庭番の報告書(風聞書)を読む際にもそれは無視できないかなと思うので。特に、薩摩藩の調査旅行では薩摩藩領内にはふみこめていなかったそうなので。
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