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2012年4月25日水曜日

共同研究 転向 1 戦前篇 上、2 戦前篇 下


共同研究 転向 1 戦前篇 上
 東洋文庫817
共同研究 転向 2 戦前篇 下
 東洋文庫818
思想の科学研究会編
2012年2月24日 初版第1刷発行
転向というテーマに興味があったことと、いろいろな本の中で参照文献として挙げられているのを目にしていたので、いつかは読んでみたいなと感じていた本でした。しかし、それなりの価格の古書でないと入手できない状態が続いていて、なかなか購入する踏ん切りがつきません。幸いこのたび東洋文庫に収められて出版されることになったそうです。なぜ平凡社ライブラリーでなくて東洋文庫の方に入ったのか、著作の性格的には不思議な気もします。平凡社ライブラリーなら一冊1500円くらいの定価しかつけられないのに対し、東洋文庫なら一冊3000円の値付けができるからでしょうか。当初は戦前編の2冊だけですが、ぜんぶで6分冊で刊行される予定だそうで、しめて1万8000円也は「幸いに」とはいえないようなお値段ではありますが、折角ですから購入してみました。本書の序言で鶴見俊輔さんは、
「転向」という言葉の意味には、強制と自発性のからみあいが、ふくまれてる。他の類語は、この微妙な相互関係をこの言葉のように見事に指示しない。
私たちは転向を「権力によって強制されたためにおこる思想の変化」と定義した
と述べています。特定の国の特定の時代に限らない定義で、一般的に転向について考える際に役立つ定義です。しかし、転向というテーマ一般がそれ自体でとても魅力的かというと少し疑問です。もちろん、転向の事情やそれにまつわるエピソードは、三面記事的に面白いに違いありません。でもそういったこととは関係なく戦前日本の転向が私の関心をひくのは、共産党員の少なからぬ部分が転向したという事実があったからです。
迷走する戦間期の日本において、なんといってもマルクス主義は輝ける希望の思想でした。また、天皇制打倒(本書を読むと必ずしも日本人党員が積極的だったわけではないようですが)と反帝国主義・反戦平和の旗幟を鮮明にしていた共産党は、支持者・シンパ・自由主義者のみならず、日本の支配層にも一目置かれる存在だったはずです。その党の中央委員長だった鍋山貞親と佐野学が転向の声明を発表したことが、党員やシンパや日本社会の知識層一般に大きな衝撃を与えたことは想像に難くありません。彼らの転向の事情と、彼らの転向が共産党の党員にどんな影響を与えさらなる転向を誘ったのかは本書に詳しく述べられています。
この転向とその後の一連の弾圧によって日本の共産党は姿を消し、戦前の日本にはこういう真っ当な主張を掲げた政治運動は存在し得なくなりました。それどころか、共産党を擁護することができなかった他の左翼・自由主義者などにも圧迫が及ぶようになります。結局のところ、あの戦争への道をとどめることができなかった原因の一つとして転向があったわけで、本書はこの面からも転向の例をあげて、解説してくれています。
転向者を多数出して運動としては敗北してしまった日本のマルクス主義も、他に代わるものがなかったため、戦争に向けて変化してゆく日本社会の中での自分の立ち位置を測る基準、北極星という地位を担い続けることになりました。そのため、敗戦後にも新たにたくさんの日本人がマルクス主義を真理であると信じることになり、マルクス、レーニンにつらなる日本共産党に対して盲目的ともいえる期待をもつようになりました。その日本共産党の指導層の中には獄中十数年という非転向の党員が存在しました。勇気をもって節を屈しなかった本当に立派な人たちだと私も感じますから、日本共産党の党員やシンパの人たちには、一層まばゆかったことでしょう。
では、その輝ける党は誇るべき成果を達成することができたのか?私は現在の日本の政治・社会の閉塞状況の一因に、1970年代までの日本共産党をふくめた左翼勢力の不適切な運動方針・実践の問題があったと考えています。あの頃なら、たとえ政権は取れずとも、もっとましな日本にする選択枝があったろうにと思うと残念です。1930年代の転向というできごとは、戦後の日本共産党に獄中十数年の非転向者を無謬の指導者としてもたらしたことで、不景気と不平等と原発事故を解決できない現在の日本の状況に間接的に関わっているし、また現在にいたっても外に向かっては決して誤りをみとめない日本共産党の伝統につながっているのだと思います。
ざっとこういった関心を持ちながら本書を手に取りましたが、読み終えて感じたことは、転向ってそんなに重大な問題だったんだろうか?ということです。もちろん、鍋山・佐野の転向声明とそれに引き続いた党員の転向は社会的にも大きな事件でした。また実際、主張の急角度の変化がみられたわけですから、鍋山・佐野や彼らに関連して転向した人たちも大きな痛みを感じながらの行動だったでしょう。しかし、21世紀の日本に生きている私の目から見ると、その他の事例についてはそうそう目くじら立てることもないような気がしました。序言で鶴見さんが
転向問題に直面しない思想というのは、子供の思想、親がかりの学生の思想なのであって、いわばタタミの上でする水泳にすぎない。就職、結婚、地位の変化にともなうさまざまの圧力にたえて、なんらかの転向をなしつつ思想を行動化してゆくことこそ、成人の思想であるといえよう。
と書いていますが、成人の思想ってそういうものですよね。権力と無縁に生活することなんて不可能ですから「権力によって強制されたためにおこる思想の変化」があるのも当たり前。例えば、元新人会のメンバーとして赤松克麿がとりあげられていますが、彼なんかは、親がかりの時代に共産党員に名を連ねてしまったことの方が若気の至りともいうべき誤りで、その後の変化・経過は転向というより、彼にとっての当然の途を歩んだだけだっのではないかなと感じてしまいました。まあ、日本思想史の叙述という意味ではそういう例も含めて考察することに意味があると研究会はお考えなんでしょうが。
また、本書には転向後に作家や評論家として歩んだ人たち、島木健作、亀井勝一郎などの例もとりあげられていました。転向がこの人たちの作品に及ぼした影響を考慮すると言う意味では、これらの章も必要なのでしょう。でも、政治的に意味を持つ出来事・エピソードをつらねて叙述できる政治家や主体的に政治運動にかかわる人たちの例と違って、作家や評論家では作品分析のような手法が用いられているためか、私の理解力のせいか、腑に落ちない感じの章が少なくありませんでした。本書は研究会のメンバーが分担して執筆しているわけですが、筆者ごとの筆力の差が大きいことも作用しているかなと感じます。例えば鶴見俊輔さんの書いた埴谷雄高の章は、その他の作家や評論家を論じた章に比較して、読みやすい・読む気にさせる・分かった気にさせる文章でしたから。
その他、興味を引いた点
われわれは転向研究の途上でかなり多くの転向調書に出会い、調書を読むという作業をとおったが、これらに重点をおいて転向例を記述することを意識的にさけた。
調書の類いは、近頃多く市に出ており
と書かれていましたが、こういう事実があったのは初めて知りました。敗戦後の生活苦などが原因で、司法省や警察の職員が調書を持ち出して換金したということなんでしょうか。
もっともはっきりした転向的指導者にとって、転向波内非転向波は、不愉快かつ不気味な存在であった。明白な非転向者にたいしては、評価の感情も一色である。あいつは気違いだとか、馬鹿だとか、謹厳すぎるとか評価しておけば、それで気持ちも片付いてしまう。つまり、自分たちと同類の問題ではない。だが、一度は人間並に転向していながら、なおも完全にすぱっと転向しきらないような仕方でいるタイプの人、原理から離れてしまっていながら、なおも原理に近づこうとしているタイプの人は、あいまいな感情をよびさまし、不安をつねに感じさせる。たとえば中野重治、鹿地亘、大宅壮一のような転向内非転向波にたいする妙な反撥が、転向波内転向波の談話や著作の中に見えがくれするのはこのためである。
とても面白い指摘です。中野重治、大宅壮一の立ち位置ってこういうものだったかと勉強になりました。

2012年4月20日金曜日

飢餓の革命





梶川伸一著
名古屋大学出版会
1997年11月30日 初版第1刷発行
先日、日中戦争下での徴兵・食糧の徴発などが中華民国の自壊に深く関与していたことを興味深く説明している中華人民共和国誕生の社会史という本を読みました。同書ではロシア革命にも同様のメカニズムのあったことが触れられ、本書の名前が参照文献として載せられていまし。それがきっかけで、ロシア十月革命と農民というサブタイトルをもった本書を読んでみることにしました。本書によると

  • ケレンスキーの臨時政府の時期から、不円滑な流通が原因で穀物の不足をきたす地域があり、価格が上昇していた。その対策として1917年8月に穀物価格の固定制が導入された。十月革命の後にも、価格の改訂はされたが穀物価格の固定制は継続された。インフレーションのため生産農家は紙幣との交換で穀物を売りたがらなかった。商品との交換による穀物の買い付けも試みられたが、革命後の都市での生産減退と流通の問題から農家の欲する生産材・消費財の供給は不十分で成功しなかった。この結果、都市で配給量が削減されてかつぎ屋も横行した。
  • 「国内に食糧はある。地主、クラーク、商人の所に腐りかけの大量の食糧がある」との前提で、ボリシェビキ政府は安い固定価格による強制的な収買と私的商業を廃しての専売制をめざした。しかし、農家の売り惜しみ、高値で買うかつぎ屋、地方ソビエトの非協力に加えて、休戦後に復員兵や武器が農村にも流入し中央政府の施策に武装して反抗する機運が強くなったことで、目論見通りには進まなかった。ペトログラード、モスクワ両首都では食糧切符で入手できる量が減って飢餓は進行し、強制的な徴発を行うため武器を携えた食糧部隊が都市の労働者を主体に創設された。農作物の勝手な刈り取りや徴発に抵抗する農民と食糧部隊との間ではしばしば武力抗争が発生し、死傷者もみられた。
  • 農村ではクラークだけでなく、農村革命で生まれた多くの小規模自営農も「プチブル」的性格を持っていたので、ボリシェビキの食糧独裁・専売制に反抗した。都市で起こった革命を農村にも波及させ、農村でのボリシェビキ権力の確立のため、 穀物の余剰をもたない落ちこぼれ的存在である貧農に依拠する名目の貧農委員会がいったんは設置され、その後、地域のソヴェトにボリシェビキ支持者を選出させることで発展的に解消された。
という流れが、本書の扱う1919年初頭までにみられたのだそうです。もともと、革命前からボリシェビキの依拠するプロレタリアートの居住する都市部では食糧が不足していて、ボリシェビキは農村から穀物を奪って都市を養おうとした。それに反抗する県や郷や村のソヴェト(とそれを構成するクラーク・中農・商人・聖職者・役人)には武力を用いた弾圧(著者曰く「都市によって宣告された農村への戦争」)を加え、中央の言いなりになるソヴェトを作り出していったということのようです。そして、これがその後の中央集権的で恐怖の支配する1950年代までのソ連の姿を規定したわけです。
ロシアの十月革命に限らず、食糧不足の状況下でおきる暴力的な政権の交替には、飢餓や徴発などの混乱は必発なのかと思います。ただロシアの十月革命が異常なのは、 ボリシェビキの積極的なメンバーが、農村の飢餓や徴発、商人・クラークへの弾圧などなどを、階級闘争として必要かつ正当な行為として信じて実施したことかなと感じます。正しいことだから、容赦がない。その後のスターリン時代の大粛正も、帝政下での地下活動の経歴のあるスターリンが異常に残忍だったからということだけで説明できるわけではなく、スターリンをはじめとした共産党員が、革命を防衛するために必要かつ正当な行為と感じていたからあんな風になってしまったのでしょう。
農村での強制的な収買・徴発に対しての武力抵抗で多くの人が死傷したように本書には書かれていますが、具体的にはどのくらいの犠牲者が出たのでしょう。しっかりした統計はなくて、数を上げることが難しいのかも知れませんが、本書を読みながら知りたく感じました。十月革命後の早い時期にそういった情報が世界中に知れ渡っていれば、20世紀の悲劇の一部だけでも減ったものか、それとも日本をはじめ各国の共産主義の信奉者は革命なんだから正義の実現に犠牲のともなうことは当たり前と感じるだけで無意味だったか、どっちでしょう。
本書は専門書なので、きちんとした基礎知識をもった読者を想定してるのだと思います。私がその水準に達していないからいけないのだとは思いますが、見知らぬことばが少なくありませんでした。クラークくらいはわかりますが、以下のようなことばも有名なんでしょうか。
  • サモスード:説明なく使われ続け、なぜか本書のなかほどで(リンチ)という注をつけられていました。
  • アルチェリ
  • クスターリ
  • フートル
  • オートルプ
  • バトラーク
また、本書の日本語は難しいというわけではありませんが、指示語の使い方や表現については、上手な日本語ではないという印象をもちました。

2012年4月9日月曜日

Silent Victory

Clay Blair Jr.著
Naval Institute Press
第二次大戦中に潜水艦で2回のパトロールに参加した経歴を持つジャーナリストが、潜水艦長の記したパトロールの報告書などのさまざまなアメリカ海軍の公式文書に加えて、書簡や関係者に対するインタビューなどをもとにまとめた、潜水艦対日戦物語といった印象の本です。かなり分厚い本で、本文が870ページあまり、太平洋戦域での潜水艦による全パトロールのリストや索引などのおまけを含めると、全体で1070ページ以上もあります。ただし、ボリューム豊富なわりには安価ですし(アマゾンさんで3000円)、つかわれている英語も難しくないので、太平洋戦域でのアメリカ潜水艦の活動のようすや、アメリカ海軍から見た日本海軍・日本の欠陥といった点を日本人の読者が知るのにもふさわしい本だと感じます。私が購入したのは、Naval Institute Pressが2001年から復刊したものの第14刷ですが、原著はLippincottから1975年に出版されています。もう40年近く前の本ということになりますが、アメリカ潜水艦の行動や戦果を日本側の記録と照らし合わせたり、潜水艦長や暗号解読従事者などの関係者にインタビューするには最適な時期だったんでしょう。現在でも某所の第二次大戦中の潜水艦に関するオススメの本のリストに挙げられていました。
冒頭の章は、アメリカ独立戦争でのTurtle号、ジュールベルヌの海底二万マイル、潜水艦設計・建造を試みたアメリカ人Hollandの苦労話、第一次大戦の潜水艦戦、軍縮条約下での潜水艦などの対日戦前史にあてられています。これを読んで驚いたのは、アメリカがワシントン海軍軍縮条約交渉の頃から日本の外交暗号を解読していて、その後も暗号解読の努力が続けていたということです。レインボープランはあっても、ドイツ海軍が決定的に弱体化され、イギリスとの戦争も現実にはありそうにないというのが第一次大戦後の状況では、日本の海軍が対米戦を意識していたのと同様に、アメリカの海軍士官たちも主に日本海軍との戦争を想定した軍備に余念がなかった、しかも日本よりずっと手広く準備していたということですね。
開戦後、太平洋のアメリカの潜水艦はハワイと、オーストラリア東岸のブリスベンと西岸のフリーマントルにある前進基地から作戦に従事しましたが、それぞれの基地から出撃した潜水艦の行動・戦果が数ヶ月ごとにまとめて一つの章として記述されています。そのあいまに、珊瑚海海戦、ミッドウエイ海戦、ソロモンキャンペーンなどの有名な海戦が触れられ、潜水艦とそれら海戦との関わりが説明されています。日本の艦船が撃沈された話は有名なもの(信濃や大鳳など)もそうでないものもたくさん載せられていますので、それ以外で興味深く感じたことをいくつか挙げてみます。
連合軍全般の例に洩れず、緒戦期は潜水艦もかなり苦労しました。ソロモン諸島などで、日本の潜水艦が孤立した部隊に食糧や弾薬を運ぶ輸送任務について大きな犠牲を出したことは有名ですが、アメリカの潜水艦もたびたびコレヒドール島に銃弾、食糧を搬入し、これヒドールから魚雷、潜水艦の部品、金塊・銀貨を運び出す作戦に従事させられました。艦長たちは乗り気ではなかったそうですが。
アメリカ側は魚雷に大きな問題を抱えていました。一つは魚雷の不足で、1942年前半は、魚雷の生産が消費に追いつかないので、攻撃目標ごとに発射本数が制限されました。また、主力であるMark XIV魚雷に設定深度より深く馳走してしまう欠陥があったこと、磁気信管に信頼性がなかったことも大きな問題で、この時期には命中するはずなのに命中しない、命中したのに不発という自体が多発しました。現場でこういった問題を経験した艦長たちはすぐに問題を把握し、改善するように求めましたが、魚雷の設計・生産を取り仕切っている部門の官僚主義的な姿勢から、完全な解決には1943年までかかりました。日本の艦船の被害が緒戦期に予想より少なくて済んだのは、このおかげが大きいようです。
戦前には飛行機の脅威が強く意識され、潜望鏡深度に潜航したまま雷撃することなどが勧められていましたが、実際には浮上しての攻撃が危険ではないことが判明していきました。しかし、開戦後も戦前の教えを踏襲する艦長も少なくなく、積極性に乏しいとして問題視されるようになりました。でもこれに関しては、不発魚雷が多かったことも関連していそうで、更迭された艦長さんたちがかわいそうな感じも受けます。
戦争が進んで新たな就役艦が増えるにつれ、若い世代が新たに艦長として任命されるようになりましたが、それでも艦長になれるのはほとんどNaval Academy卒業生でした。予備仕官で潜水艦長になれたのは数名だけ。かなり厳然とした区別があったようです。似たような話として、日米開戦前の頃のアメリカの潜水艦には、士官・下士官・徴兵された水兵とは別に、黒人かまたはフィリピン人のstewardが2名乗り組んでいたと書かれてあります。stewardだからボーイとして下働きをしたんでしょうが。もっと平等主義的なのかと思っていただけに意外です。
1943年1月、ニューギニア北で日本の陸軍部隊を運ぶ輸送船を撃沈した潜水艦Wahooは、浮上して海面に漂う数千名(?)の生存者や救命ボートを砲撃して殺しました。艦長はこのことをパトロールの報告書に記載して提出しましたが、特にお咎めはなく、このパトロールで5隻を撃沈したことで勲章をもらいました。ただし、こういった生存者の殺害を殺人だとみなす艦長も少なからずいて、同様の行為をあえて行う艦長はほとんどいなかったそうです。本当にそうだったのかどうかは別にして、少なくとも1970年代のアメリカではそういう風に受け止められていたから著者はこう書いたのでしょう。
撃沈後の海面に多数の生存者をみかけることはおそらく少なからずあったと思われます。しかし、日本人の生存者を救助したというエピソードはほとんどなく、情報収集のために一名だけ連行したというような記述がいくつかみられるのみでした。無制限潜水艦作戦下では、それが当たり前だったんでしょう。例外的なのは日本人以外の遭難者です。大戦中にアメリカの潜水艦は4隻のソ連船を誤って撃沈してしまいましたが、うち一隻が生存者を救助したエピソードが書かれています。一隻目の撃沈は外交問題になりましたが、二隻目に当たるこの撃沈では、救助されたソ連人が、日本の潜水艦に撃沈されて漂流中にアメリカの潜水艦に救助されたと報告してくれて問題化しなかったのだそうです(ソ連側も真相を把握していたが抗議しなかっただけかも)。また、連合軍捕虜も乗せられていた日本の輸送船が撃沈されて、日本人の遭難者が船団の他の船に救助されたのに、見捨てられてしまった連合軍捕虜の遭難者を潜水艦が救助し、一隻だけでは足りないので、別の潜水艦も派遣してもらって救助に当たったというエピソードが紹介されていました。
アメリカの潜水艦にSJレーダーが装備されるようになると日本の艦船の発見が容易になり、魚雷の欠陥の克服ともあいまって、1943年以降は潜水艦による被害が急増(日本人としては読むのがつらいくらい)するようになりました。本書で紹介されている戦闘の様子を読むと、レーダーで日本船を探知すると先回りして待ち伏せし、夜になって浮上して雷撃する戦術が一般的だったようです。レーダーを装備した日本の艦船は数が少なかった、またレーダーを装備していても潜水艦を探知することは商船を探知するより困難だった、といった事情があるのでしょう。それにしても、レーダー波を検出する逆探を製造・配備することも難しかったんでしょうかね?レーダー自体を製造するよりは容易なような気がするのですがどうなんでしょう。
日本の艦船にもレーダーを装備しているものがありました。ルソン島へのアメリカ軍の上陸後、1944年2月にルソン島にいたパイロットを台湾に避難させる任務に当たった呂号潜水艦4隻もレーダーを装備していました。しかし、レーダーを作動させていたため、アメリカ潜水艦のAPRという装置(おそらく逆探でしょう)に探知され、撃沈されてしまったことが紹介されていました。
軍艦にしろ商船にしろ、潜水艦による被害があれほど大きくなったの、暗号解読により日本の艦船の航海の情報(航路、正午の位置、出入港の日時など)がアメリカ側に知られてしまっていて、これをもとに潜水艦に攻撃を指示していたからだそうです。レーダーやソナーが行き渡らなかったことや、護衛艦艇の建造が遅れたことなどは、技術的限界からやむを得なかったのたかもしれませんが、商船暗号がばれていたことに関しては、ソフト的な問題ですから変だと気づきさえすればやりようがあったろうにと思われて仕方がありません。インド洋・太平洋戦域で失われたドイツ船・潜の撃沈の原因にもなっていたそうなので、ほんとに申し訳ないというか情けない。