Clay Blair Jr.著
Naval Institute Press
第二次大戦中に潜水艦で2回のパトロールに参加した経歴を持つジャーナリストが、潜水艦長の記したパトロールの報告書などのさまざまなアメリカ海軍の公式文書に加えて、書簡や関係者に対するインタビューなどをもとにまとめた、潜水艦対日戦物語といった印象の本です。かなり分厚い本で、本文が870ページあまり、太平洋戦域での潜水艦による全パトロールのリストや索引などのおまけを含めると、全体で1070ページ以上もあります。ただし、ボリューム豊富なわりには安価ですし(アマゾンさんで3000円)、つかわれている英語も難しくないので、太平洋戦域でのアメリカ潜水艦の活動のようすや、アメリカ海軍から見た日本海軍・日本の欠陥といった点を日本人の読者が知るのにもふさわしい本だと感じます。私が購入したのは、Naval Institute Pressが2001年から復刊したものの第14刷ですが、原著はLippincottから1975年に出版されています。もう40年近く前の本ということになりますが、アメリカ潜水艦の行動や戦果を日本側の記録と照らし合わせたり、潜水艦長や暗号解読従事者などの関係者にインタビューするには最適な時期だったんでしょう。現在でも某所の第二次大戦中の潜水艦に関するオススメの本のリストに挙げられていました。
冒頭の章は、アメリカ独立戦争でのTurtle号、ジュールベルヌの海底二万マイル、潜水艦設計・建造を試みたアメリカ人Hollandの苦労話、第一次大戦の潜水艦戦、軍縮条約下での潜水艦などの対日戦前史にあてられています。これを読んで驚いたのは、アメリカがワシントン海軍軍縮条約交渉の頃から日本の外交暗号を解読していて、その後も暗号解読の努力が続けていたということです。レインボープランはあっても、ドイツ海軍が決定的に弱体化され、イギリスとの戦争も現実にはありそうにないというのが第一次大戦後の状況では、日本の海軍が対米戦を意識していたのと同様に、アメリカの海軍士官たちも主に日本海軍との戦争を想定した軍備に余念がなかった、しかも日本よりずっと手広く準備していたということですね。
開戦後、太平洋のアメリカの潜水艦はハワイと、オーストラリア東岸のブリスベンと西岸のフリーマントルにある前進基地から作戦に従事しましたが、それぞれの基地から出撃した潜水艦の行動・戦果が数ヶ月ごとにまとめて一つの章として記述されています。そのあいまに、珊瑚海海戦、ミッドウエイ海戦、ソロモンキャンペーンなどの有名な海戦が触れられ、潜水艦とそれら海戦との関わりが説明されています。日本の艦船が撃沈された話は有名なもの(信濃や大鳳など)もそうでないものもたくさん載せられていますので、それ以外で興味深く感じたことをいくつか挙げてみます。
連合軍全般の例に洩れず、緒戦期は潜水艦もかなり苦労しました。ソロモン諸島などで、日本の潜水艦が孤立した部隊に食糧や弾薬を運ぶ輸送任務について大きな犠牲を出したことは有名ですが、アメリカの潜水艦もたびたびコレヒドール島に銃弾、食糧を搬入し、これヒドールから魚雷、潜水艦の部品、金塊・銀貨を運び出す作戦に従事させられました。艦長たちは乗り気ではなかったそうですが。
アメリカ側は魚雷に大きな問題を抱えていました。一つは魚雷の不足で、1942年前半は、魚雷の生産が消費に追いつかないので、攻撃目標ごとに発射本数が制限されました。また、主力であるMark XIV魚雷に設定深度より深く馳走してしまう欠陥があったこと、磁気信管に信頼性がなかったことも大きな問題で、この時期には命中するはずなのに命中しない、命中したのに不発という自体が多発しました。現場でこういった問題を経験した艦長たちはすぐに問題を把握し、改善するように求めましたが、魚雷の設計・生産を取り仕切っている部門の官僚主義的な姿勢から、完全な解決には1943年までかかりました。日本の艦船の被害が緒戦期に予想より少なくて済んだのは、このおかげが大きいようです。
戦前には飛行機の脅威が強く意識され、潜望鏡深度に潜航したまま雷撃することなどが勧められていましたが、実際には浮上しての攻撃が危険ではないことが判明していきました。しかし、開戦後も戦前の教えを踏襲する艦長も少なくなく、積極性に乏しいとして問題視されるようになりました。でもこれに関しては、不発魚雷が多かったことも関連していそうで、更迭された艦長さんたちがかわいそうな感じも受けます。
戦争が進んで新たな就役艦が増えるにつれ、若い世代が新たに艦長として任命されるようになりましたが、それでも艦長になれるのはほとんどNaval Academy卒業生でした。予備仕官で潜水艦長になれたのは数名だけ。かなり厳然とした区別があったようです。似たような話として、日米開戦前の頃のアメリカの潜水艦には、士官・下士官・徴兵された水兵とは別に、黒人かまたはフィリピン人のstewardが2名乗り組んでいたと書かれてあります。stewardだからボーイとして下働きをしたんでしょうが。もっと平等主義的なのかと思っていただけに意外です。
1943年1月、ニューギニア北で日本の陸軍部隊を運ぶ輸送船を撃沈した潜水艦Wahooは、浮上して海面に漂う数千名(?)の生存者や救命ボートを砲撃して殺しました。艦長はこのことをパトロールの報告書に記載して提出しましたが、特にお咎めはなく、このパトロールで5隻を撃沈したことで勲章をもらいました。ただし、こういった生存者の殺害を殺人だとみなす艦長も少なからずいて、同様の行為をあえて行う艦長はほとんどいなかったそうです。本当にそうだったのかどうかは別にして、少なくとも1970年代のアメリカではそういう風に受け止められていたから著者はこう書いたのでしょう。
撃沈後の海面に多数の生存者をみかけることはおそらく少なからずあったと思われます。しかし、日本人の生存者を救助したというエピソードはほとんどなく、情報収集のために一名だけ連行したというような記述がいくつかみられるのみでした。無制限潜水艦作戦下では、それが当たり前だったんでしょう。例外的なのは日本人以外の遭難者です。大戦中にアメリカの潜水艦は4隻のソ連船を誤って撃沈してしまいましたが、うち一隻が生存者を救助したエピソードが書かれています。一隻目の撃沈は外交問題になりましたが、二隻目に当たるこの撃沈では、救助されたソ連人が、日本の潜水艦に撃沈されて漂流中にアメリカの潜水艦に救助されたと報告してくれて問題化しなかったのだそうです(ソ連側も真相を把握していたが抗議しなかっただけかも)。また、連合軍捕虜も乗せられていた日本の輸送船が撃沈されて、日本人の遭難者が船団の他の船に救助されたのに、見捨てられてしまった連合軍捕虜の遭難者を潜水艦が救助し、一隻だけでは足りないので、別の潜水艦も派遣してもらって救助に当たったというエピソードが紹介されていました。
アメリカの潜水艦にSJレーダーが装備されるようになると日本の艦船の発見が容易になり、魚雷の欠陥の克服ともあいまって、1943年以降は潜水艦による被害が急増(日本人としては読むのがつらいくらい)するようになりました。本書で紹介されている戦闘の様子を読むと、レーダーで日本船を探知すると先回りして待ち伏せし、夜になって浮上して雷撃する戦術が一般的だったようです。レーダーを装備した日本の艦船は数が少なかった、またレーダーを装備していても潜水艦を探知することは商船を探知するより困難だった、といった事情があるのでしょう。それにしても、レーダー波を検出する逆探を製造・配備することも難しかったんでしょうかね?レーダー自体を製造するよりは容易なような気がするのですがどうなんでしょう。
日本の艦船にもレーダーを装備しているものがありました。ルソン島へのアメリカ軍の上陸後、1944年2月にルソン島にいたパイロットを台湾に避難させる任務に当たった呂号潜水艦4隻もレーダーを装備していました。しかし、レーダーを作動させていたため、アメリカ潜水艦のAPRという装置(おそらく逆探でしょう)に探知され、撃沈されてしまったことが紹介されていました。
軍艦にしろ商船にしろ、潜水艦による被害があれほど大きくなったの、暗号解読により日本の艦船の航海の情報(航路、正午の位置、出入港の日時など)がアメリカ側に知られてしまっていて、これをもとに潜水艦に攻撃を指示していたからだそうです。レーダーやソナーが行き渡らなかったことや、護衛艦艇の建造が遅れたことなどは、技術的限界からやむを得なかったのたかもしれませんが、商船暗号がばれていたことに関しては、ソフト的な問題ですから変だと気づきさえすればやりようがあったろうにと思われて仕方がありません。インド洋・太平洋戦域で失われたドイツ船・潜の撃沈の原因にもなっていたそうなので、ほんとに申し訳ないというか情けない。
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