共同研究 転向 1 戦前篇 上
東洋文庫817
共同研究 転向 2 戦前篇 下
東洋文庫818
思想の科学研究会編
2012年2月24日 初版第1刷発行
転向というテーマに興味があったことと、いろいろな本の中で参照文献として挙げられているのを目にしていたので、いつかは読んでみたいなと感じていた本でした。しかし、それなりの価格の古書でないと入手できない状態が続いていて、なかなか購入する踏ん切りがつきません。幸いこのたび東洋文庫に収められて出版されることになったそうです。なぜ平凡社ライブラリーでなくて東洋文庫の方に入ったのか、著作の性格的には不思議な気もします。平凡社ライブラリーなら一冊1500円くらいの定価しかつけられないのに対し、東洋文庫なら一冊3000円の値付けができるからでしょうか。当初は戦前編の2冊だけですが、ぜんぶで6分冊で刊行される予定だそうで、しめて1万8000円也は「幸いに」とはいえないようなお値段ではありますが、折角ですから購入してみました。本書の序言で鶴見俊輔さんは、
「転向」という言葉の意味には、強制と自発性のからみあいが、ふくまれてる。他の類語は、この微妙な相互関係をこの言葉のように見事に指示しない。
私たちは転向を「権力によって強制されたためにおこる思想の変化」と定義した
と述べています。特定の国の特定の時代に限らない定義で、一般的に転向について考える際に役立つ定義です。しかし、転向というテーマ一般がそれ自体でとても魅力的かというと少し疑問です。もちろん、転向の事情やそれにまつわるエピソードは、三面記事的に面白いに違いありません。でもそういったこととは関係なく戦前日本の転向が私の関心をひくのは、共産党員の少なからぬ部分が転向したという事実があったからです。
迷走する戦間期の日本において、なんといってもマルクス主義は輝ける希望の思想でした。また、天皇制打倒(本書を読むと必ずしも日本人党員が積極的だったわけではないようですが)と反帝国主義・反戦平和の旗幟を鮮明にしていた共産党は、支持者・シンパ・自由主義者のみならず、日本の支配層にも一目置かれる存在だったはずです。その党の中央委員長だった鍋山貞親と佐野学が転向の声明を発表したことが、党員やシンパや日本社会の知識層一般に大きな衝撃を与えたことは想像に難くありません。彼らの転向の事情と、彼らの転向が共産党の党員にどんな影響を与えさらなる転向を誘ったのかは本書に詳しく述べられています。
この転向とその後の一連の弾圧によって日本の共産党は姿を消し、戦前の日本にはこういう真っ当な主張を掲げた政治運動は存在し得なくなりました。それどころか、共産党を擁護することができなかった他の左翼・自由主義者などにも圧迫が及ぶようになります。結局のところ、あの戦争への道をとどめることができなかった原因の一つとして転向があったわけで、本書はこの面からも転向の例をあげて、解説してくれています。
転向者を多数出して運動としては敗北してしまった日本のマルクス主義も、他に代わるものがなかったため、戦争に向けて変化してゆく日本社会の中での自分の立ち位置を測る基準、北極星という地位を担い続けることになりました。そのため、敗戦後にも新たにたくさんの日本人がマルクス主義を真理であると信じることになり、マルクス、レーニンにつらなる日本共産党に対して盲目的ともいえる期待をもつようになりました。その日本共産党の指導層の中には獄中十数年という非転向の党員が存在しました。勇気をもって節を屈しなかった本当に立派な人たちだと私も感じますから、日本共産党の党員やシンパの人たちには、一層まばゆかったことでしょう。
では、その輝ける党は誇るべき成果を達成することができたのか?私は現在の日本の政治・社会の閉塞状況の一因に、1970年代までの日本共産党をふくめた左翼勢力の不適切な運動方針・実践の問題があったと考えています。あの頃なら、たとえ政権は取れずとも、もっとましな日本にする選択枝があったろうにと思うと残念です。1930年代の転向というできごとは、戦後の日本共産党に獄中十数年の非転向者を無謬の指導者としてもたらしたことで、不景気と不平等と原発事故を解決できない現在の日本の状況に間接的に関わっているし、また現在にいたっても外に向かっては決して誤りをみとめない日本共産党の伝統につながっているのだと思います。
ざっとこういった関心を持ちながら本書を手に取りましたが、読み終えて感じたことは、転向ってそんなに重大な問題だったんだろうか?ということです。もちろん、鍋山・佐野の転向声明とそれに引き続いた党員の転向は社会的にも大きな事件でした。また実際、主張の急角度の変化がみられたわけですから、鍋山・佐野や彼らに関連して転向した人たちも大きな痛みを感じながらの行動だったでしょう。しかし、21世紀の日本に生きている私の目から見ると、その他の事例についてはそうそう目くじら立てることもないような気がしました。序言で鶴見さんが
転向問題に直面しない思想というのは、子供の思想、親がかりの学生の思想なのであって、いわばタタミの上でする水泳にすぎない。就職、結婚、地位の変化にともなうさまざまの圧力にたえて、なんらかの転向をなしつつ思想を行動化してゆくことこそ、成人の思想であるといえよう。
と書いていますが、成人の思想ってそういうものですよね。権力と無縁に生活することなんて不可能ですから「権力によって強制されたためにおこる思想の変化」があるのも当たり前。例えば、元新人会のメンバーとして赤松克麿がとりあげられていますが、彼なんかは、親がかりの時代に共産党員に名を連ねてしまったことの方が若気の至りともいうべき誤りで、その後の変化・経過は転向というより、彼にとっての当然の途を歩んだだけだっのではないかなと感じてしまいました。まあ、日本思想史の叙述という意味ではそういう例も含めて考察することに意味があると研究会はお考えなんでしょうが。
また、本書には転向後に作家や評論家として歩んだ人たち、島木健作、亀井勝一郎などの例もとりあげられていました。転向がこの人たちの作品に及ぼした影響を考慮すると言う意味では、これらの章も必要なのでしょう。でも、政治的に意味を持つ出来事・エピソードをつらねて叙述できる政治家や主体的に政治運動にかかわる人たちの例と違って、作家や評論家では作品分析のような手法が用いられているためか、私の理解力のせいか、腑に落ちない感じの章が少なくありませんでした。本書は研究会のメンバーが分担して執筆しているわけですが、筆者ごとの筆力の差が大きいことも作用しているかなと感じます。例えば鶴見俊輔さんの書いた埴谷雄高の章は、その他の作家や評論家を論じた章に比較して、読みやすい・読む気にさせる・分かった気にさせる文章でしたから。
その他、興味を引いた点
われわれは転向研究の途上でかなり多くの転向調書に出会い、調書を読むという作業をとおったが、これらに重点をおいて転向例を記述することを意識的にさけた。
調書の類いは、近頃多く市に出ており
と書かれていましたが、こういう事実があったのは初めて知りました。敗戦後の生活苦などが原因で、司法省や警察の職員が調書を持ち出して換金したということなんでしょうか。
もっともはっきりした転向的指導者にとって、転向波内非転向波は、不愉快かつ不気味な存在であった。明白な非転向者にたいしては、評価の感情も一色である。あいつは気違いだとか、馬鹿だとか、謹厳すぎるとか評価しておけば、それで気持ちも片付いてしまう。つまり、自分たちと同類の問題ではない。だが、一度は人間並に転向していながら、なおも完全にすぱっと転向しきらないような仕方でいるタイプの人、原理から離れてしまっていながら、なおも原理に近づこうとしているタイプの人は、あいまいな感情をよびさまし、不安をつねに感じさせる。たとえば中野重治、鹿地亘、大宅壮一のような転向内非転向波にたいする妙な反撥が、転向波内転向波の談話や著作の中に見えがくれするのはこのためである。
とても面白い指摘です。中野重治、大宅壮一の立ち位置ってこういうものだったかと勉強になりました。
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