上田さんは日本共産党の副委員長をしていた方です。長らく呼吸器疾患で療養されていることは、とあるルートから聞いていましたが、今朝の新聞でお亡くなりになったことを知りました。私は上田さんと面識があったわけではありませんが、一つだけ面白いエピソードを知っているので紹介します。
参議院議員をしていた頃ですが、私が内科の外来をしていた診療所に上田さんが訪ねてきたことがありました。もちろん、私に会いに来たわけではなく、別の科の医師に面会に来たのでした。で、その医師の診療が終了するまで、待合室で時間をつぶすことにしたようです。待合室の一角には、患者さんが診療の待ち時間に読めるようにと本箱が置かれていましたが、上田さんはその本箱のところに歩いてゆくと暫くじっと眺め、一冊の本を取り出して読み始めたのでした。
かなり熱心に読んでいました。私にはその本が何なのかだいたい想像がつきました。面会目的の医師の最後の外来患者さんが終わり、上田さんが待合室から出て行こうとする時に、近くに行って見てみると予想的中で、やはり「虹色のトロツキー」した。
虹色のトロツキーは安彦良和さんのマンガで、彼の作品の中でも最も優れているものの一つだと思います。元は私の愛読書だったのですが、面白いので待合室の本箱に入れておいたのです。おそらく、トロツキーというタイトルが上田さんの目にとまって、ついつい手に取って読んでしまったんだろうと思います(まさか、潮出版社の本だから手に取ったというわけではないでしょう)。ソ連の共産党でも日本の共産党でも、相手をトロツキスト呼ばわりするのは究極の罵りだったようですから。
私としては、永続革命を唱えたトロツキーの方が、スターリンとその後継者たちより、地位を追われたからかも知れないけれど、魅力的です。虹色のトロツキーは満州を舞台にした作品で、トロツキーに触れた部分はほんのわずかしかありません。それでも安彦さんが物語の中にトロツキーの幻とトロツキーを語る訳者を登場させたのは、やはり彼もトロツキーに魅力を感じるからなのではないのかな。
でもまあ、この本を手にした上田さんは、トロツキーとは全然関係ねえじゃねーかって、驚いたことでしょう。
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武田晴人編 有斐閣
2008年8月発行 本体3500円
敗戦後の物資不足・統制の時期から高度成長にまでつながる戦後復興期の産業・企業の歴史を扱った本です。製粉業・硫安産業・綿工業・セメント産業・造船業・鉄鋼業が取り上げられています。個々の史実は別として、興味深く感じたこと、気づいたことをいくつか。
まず、戦後の日本造船業の競争力の源が、戦争中に身につけたブロック工法などの船体建造の進歩によるものではないという指摘が目に付きました。この時期では、イギリスなどの先進国の造船業と比較して労働生産性がかなり低かったというのです。また、当時の貨物船のエンジンの主流となっていたディーゼル機関の製造に関しても日本は技術的に遅れていて、蒸気タービン機関の製造に関してはなんとか優位を確保できていたのだとか。このの状況下で、世界的に新造タンカーの大型化が起こります。タンカーの大型化に見合った出力の大きなディーゼル機関の製造は当時はできなかったので、大型タンカーの機関はタービンが使われます。日本は、このタービン搭載大型タンカーというニッチェをうまく物にして、その後の造船業の国際競争力の本にしたのだそうです。これは、新説っぽいので、本当なら面白いですね。
また、製粉業・硫安産業・綿工業は、敗戦後の復興期を極端な供給不足から始めた訳ですが、1950年代にはすでに過当競争が問題となるような状況を迎えることとなりました。敗戦後、比較的速やかに生産量が増えたのは、新たな参入業者があったためです。物がない時期だったはずなのに新規参入が多数あったのはどうしてか。
例えば製粉業では、家畜飼料用の製粉をおこなっていた高速度製粉の業者も人間の食べる小麦粉の製造に参入しました。高速度製粉ではふすまを分けることが出来ず、質が劣る製品しかできません。それでも、食料の不足から政府は配給用の小麦粉製造に参入することをみとめたわけです。今なら健康に良い食物繊維をたっぷり含んだ全粒粉とでも宣伝するところでしょうが。
硫安製造や綿工業でも、戦時中に転廃業させられた業者の設備が残っていたり、他の化学工業・他の繊維の製造業の業者などが参入したことにより、生産が回復したわけです。戦時中にも原料と労働力が確保できれば、消費財の生産がもっと多くなり得る余地はあったわけですね。
あと、この本のある章は、(おそらく筆者により)ネット上でPDF版が公開されていました。新刊本の中身をそのままネットで無料で公開するというのは、なにか反則のような感を持ちました。

熊谷直著 光人社NF文庫522
2007年2月発行 税込み743円
実際に戦われた戦争・戦闘のあれこれについてではなく、日本軍の階級、給与、軍装、教育制度、経理や医事衛生部門などに関する事項が解説してある本です。どこかで読み知っていたことも多かったのですが、ほうそうだったのねと感じるエピソードもちらほら。
例えば、外征の軍は内地の軍とちがって、徴兵や動員など、国民に関する軍事行政の責任はもっていなかったという点について。沖縄防衛のために置かれた第32軍は外征軍ではなかったのですが、防衛戦を行う特別の軍と言うことで、やはり軍事行政の責任はもっていませんでした。沖縄の軍事行政の責任は、あいかわらず福岡の西部軍司令官にあり、実務はその下の沖縄聯隊区司令官(大佐)が、県庁、市町村役場などの行政機関と連絡をとりながら、行っていたそうです。ですから、中学生が鉄血勤皇隊員とよばれた少年兵に動員されたり、、女学生がひめゆり部隊などとして動員されたのは、聯隊区司令官が軍事行政として行ったろうということです。実戦部隊と軍事行政の責任者が異なることによってトラブルが生じたかどうかまでは書かれていないのですが、軍隊も官僚組織だと言うことがよく分かるエピソードです。
また、海軍兵学校出身の加藤友三郎が1922年に内閣総理大臣になって以来、敗戦までに陸士・海兵出身の首相が各5名ずつで、その他は8人だったそうです。その他8名の中で帝国大学法科出身は京都の近衞文麿をあわせても5名しかいない訳ですから、軍人出身首相の多さを再認識させられます。帝大卒業生に対して旧制高校が与えた影響(考え方やその後の友人など)と似たものを、陸士・海兵での教育・生活も軍人にもたらしたでしょうから、陸士・海兵が第一次大戦後の日本の進路に与えた影響はかなりのものと言えそう。

立川市ではウドの生産が多いそうで、ウドをつかったお菓子やラーメンを市内のお店が創作して名物にしようと努力しているみたいです。ただ、ウドって目立たない食材なので、どうなのかなって感じもします。で、畑にもウドが植えてあるはずなのですが、特徴に乏しいせいかあまりみかけた記憶がありません。立川でも、主に北の方で作っているせいもあるんだとは思います。そんなウドでも花が咲いていると、こんな感じで見分けがつきます。
ウドは地上部が枯れると根株(地下茎?根?)を地下のむろの中に移植して、真っ暗な中で生えてくる芽を収穫するのだそうです。チューリップの球根をつくっている農家では、球根に栄養を集めるために花が咲くと花を摘んでしまいますよね。ウドの栽培ではそういう必要はないのでしょうか。わりとどこの畑でも、咲いた花はそのままにしてある気がします。

岡村敬二著 阿吽社
1994年12月発行 税込み4680円
戦前、日本が満州・中国に設置した図書館の沿革・活動などについての論考をまとめた本です。植民地の図書館という存在については思い及んだことがなかったので、勉強になりました。
これらの中では、満鉄の図書館が最も早く設置されました。社業に資する目的だけでなく、一般の人の利用できました。大連と、後には奉天にも資料収集をも目的としたものが設置され、満鉄附属地の各都市には主に公衆の利用を目的とした図書館が設置されていました。他の分野にも見られることですが、植民地では日本本国にもみられない水準の技術の適応が試みられました。図書館の分野でも、蔵書目録・資料の検索機能などに外国生まれの斬新な手法が使われていたそうです。
満州事変後、奉天宮殿にあった四庫全書・文溯閣を保全する目的で満州国立奉天図書館が作られました。また、その他の奉天で接収した書物は張学良の屋敷の建物を利用した図書館に収められました。この奉天の四庫全書は、軍閥の戦争の時と満州事変の時の2度にわたって戦禍を被りそうになりましたが、関東軍の協力をとりつけた日本人によって守られのだそうです。軍閥の戦争はおいといて、満州事変の際に日本人が四庫全書を守ったのだと中国人に言っても、中国の人は喜ばないでしょうね。
日中戦争より前の時代、日本は北京と上海に近代科学図書館を設置しました。 これらは日本語の本を収蔵する図書館で、北京の近代科学図書館では日本語教育が盛んに行われました。また、これらはともに義和団事件の賠償金を設置・運営にあてたものだそうです。アメリカが義和団事件の賠償金で精華大学を北京に創設したことは有名ですが、日本がこういう施設をつくったことは知りませんでした。
日中戦争開始後には、上海・南京など各地で政府機関・大学・個人の蔵書家などから数十万冊の図書が接収されました。これら接収図書の整理には、上記の植民地図書館の館員が兵士とともにあたり、保護につとめたのだそうです。しかし、接収という行為はひらたくいうと盗みのことだと思うので、図書を戦禍から守ったと言っても、中国人からは盗っ人猛々しいと言われそう。
戦争という不幸な環境の中で、個々の図書館人はなし得る最善をつくそうとしたことは確かなようです。本書の著者も図書館員だとのことで、図書館員の善意・真心に対する暖かい姿勢が感じられる著作でした。
2008年10月31日金曜日
2008年10月27日月曜日
新しい MacBook Pro 見てきました
一年前にTitaniumPBG4から今のMacBook Proにのりかえた時、つくりがしっかりしているなって感じました。PBG4はつかんで持ち運ぶ時にたわむ感じがあったのですが、MacBook Proはその点が安心。ただ、パームレストの左手前のところを見ると、こんな風に隙間が空いてます。この部分を強く上下から押すとパチッと何かはまる音がして隙間がなくなります。でもしばらくするとまた隙間ができてしまうのです。使用には支障ないので放置してありますが、写真にしてあらためて見てみると、かなり広い隙間ですね。

昨日は新しいMacBook Proをさわってきました。ユニボディはさすがにがっちりしていて、うちの旧型MacBook Proとは違い、強くつかんでも全く変化なしでした。どこかに隙間があるなんてことも、ないようです。
ディスプレイの全面がガラスに被われていて、周囲が黒くなっているのは、iPhoneとデザイン的に統一させるためなのでしょう、ただ、iPhoneに比較してずっと大きいので、光沢のディスプレイに周囲の光のうつりこむのが多少気になる感じです。大きくなったトラックパッドですが、クリックするのに旧型機よりちょっとだけ余分に力が必要な気がしました。
アルミのボディに黒い色のキーは素敵ですが、好みが分かれるだろうと思います。というのも、文字は白なのでとても目立つのですが、日本語キーボードだとアルファベットと仮名の両方がキートップに存在していて、私にはくどく感じられました。アップルのサイトを見ると、CTOオプションでUSキーボードを選択可能となってるので、仮名入力をしない人ならそちらを選ぶべきでしょうね。

昨日は新しいMacBook Proをさわってきました。ユニボディはさすがにがっちりしていて、うちの旧型MacBook Proとは違い、強くつかんでも全く変化なしでした。どこかに隙間があるなんてことも、ないようです。
ディスプレイの全面がガラスに被われていて、周囲が黒くなっているのは、iPhoneとデザイン的に統一させるためなのでしょう、ただ、iPhoneに比較してずっと大きいので、光沢のディスプレイに周囲の光のうつりこむのが多少気になる感じです。大きくなったトラックパッドですが、クリックするのに旧型機よりちょっとだけ余分に力が必要な気がしました。
アルミのボディに黒い色のキーは素敵ですが、好みが分かれるだろうと思います。というのも、文字は白なのでとても目立つのですが、日本語キーボードだとアルファベットと仮名の両方がキートップに存在していて、私にはくどく感じられました。アップルのサイトを見ると、CTOオプションでUSキーボードを選択可能となってるので、仮名入力をしない人ならそちらを選ぶべきでしょうね。
2008年10月25日土曜日
戦後復興期の企業行動

武田晴人編 有斐閣
2008年8月発行 本体3500円
敗戦後の物資不足・統制の時期から高度成長にまでつながる戦後復興期の産業・企業の歴史を扱った本です。製粉業・硫安産業・綿工業・セメント産業・造船業・鉄鋼業が取り上げられています。個々の史実は別として、興味深く感じたこと、気づいたことをいくつか。
まず、戦後の日本造船業の競争力の源が、戦争中に身につけたブロック工法などの船体建造の進歩によるものではないという指摘が目に付きました。この時期では、イギリスなどの先進国の造船業と比較して労働生産性がかなり低かったというのです。また、当時の貨物船のエンジンの主流となっていたディーゼル機関の製造に関しても日本は技術的に遅れていて、蒸気タービン機関の製造に関してはなんとか優位を確保できていたのだとか。このの状況下で、世界的に新造タンカーの大型化が起こります。タンカーの大型化に見合った出力の大きなディーゼル機関の製造は当時はできなかったので、大型タンカーの機関はタービンが使われます。日本は、このタービン搭載大型タンカーというニッチェをうまく物にして、その後の造船業の国際競争力の本にしたのだそうです。これは、新説っぽいので、本当なら面白いですね。
また、製粉業・硫安産業・綿工業は、敗戦後の復興期を極端な供給不足から始めた訳ですが、1950年代にはすでに過当競争が問題となるような状況を迎えることとなりました。敗戦後、比較的速やかに生産量が増えたのは、新たな参入業者があったためです。物がない時期だったはずなのに新規参入が多数あったのはどうしてか。
例えば製粉業では、家畜飼料用の製粉をおこなっていた高速度製粉の業者も人間の食べる小麦粉の製造に参入しました。高速度製粉ではふすまを分けることが出来ず、質が劣る製品しかできません。それでも、食料の不足から政府は配給用の小麦粉製造に参入することをみとめたわけです。今なら健康に良い食物繊維をたっぷり含んだ全粒粉とでも宣伝するところでしょうが。
硫安製造や綿工業でも、戦時中に転廃業させられた業者の設備が残っていたり、他の化学工業・他の繊維の製造業の業者などが参入したことにより、生産が回復したわけです。戦時中にも原料と労働力が確保できれば、消費財の生産がもっと多くなり得る余地はあったわけですね。
あと、この本のある章は、(おそらく筆者により)ネット上でPDF版が公開されていました。新刊本の中身をそのままネットで無料で公開するというのは、なにか反則のような感を持ちました。
2008年10月23日木曜日
夜なのに空が暗くない
今日は午後から雨という天気予報で、その通りになりました。でも、夜になってからは小降りで、傘がいらないくらい。なので、傘を下げながら帰り道を歩いていて気づいたのですが、空がちっとも暗くない。雲が低いせいなのか、地上にももやがかかっているせいなのか、とにかく街の明かりが反射して、とても夜とは思えないほどの明るさでした。
晴れの日でも星の見えないくらい都会の空が明るいってことは重々承知ですが、雨の夜っていつもこんなに明るいのだろうか。
晴れの日でも星の見えないくらい都会の空が明るいってことは重々承知ですが、雨の夜っていつもこんなに明るいのだろうか。
2008年10月20日月曜日
帝国陸海軍の基礎知識

熊谷直著 光人社NF文庫522
2007年2月発行 税込み743円
実際に戦われた戦争・戦闘のあれこれについてではなく、日本軍の階級、給与、軍装、教育制度、経理や医事衛生部門などに関する事項が解説してある本です。どこかで読み知っていたことも多かったのですが、ほうそうだったのねと感じるエピソードもちらほら。
例えば、外征の軍は内地の軍とちがって、徴兵や動員など、国民に関する軍事行政の責任はもっていなかったという点について。沖縄防衛のために置かれた第32軍は外征軍ではなかったのですが、防衛戦を行う特別の軍と言うことで、やはり軍事行政の責任はもっていませんでした。沖縄の軍事行政の責任は、あいかわらず福岡の西部軍司令官にあり、実務はその下の沖縄聯隊区司令官(大佐)が、県庁、市町村役場などの行政機関と連絡をとりながら、行っていたそうです。ですから、中学生が鉄血勤皇隊員とよばれた少年兵に動員されたり、、女学生がひめゆり部隊などとして動員されたのは、聯隊区司令官が軍事行政として行ったろうということです。実戦部隊と軍事行政の責任者が異なることによってトラブルが生じたかどうかまでは書かれていないのですが、軍隊も官僚組織だと言うことがよく分かるエピソードです。
また、海軍兵学校出身の加藤友三郎が1922年に内閣総理大臣になって以来、敗戦までに陸士・海兵出身の首相が各5名ずつで、その他は8人だったそうです。その他8名の中で帝国大学法科出身は京都の近衞文麿をあわせても5名しかいない訳ですから、軍人出身首相の多さを再認識させられます。帝大卒業生に対して旧制高校が与えた影響(考え方やその後の友人など)と似たものを、陸士・海兵での教育・生活も軍人にもたらしたでしょうから、陸士・海兵が第一次大戦後の日本の進路に与えた影響はかなりのものと言えそう。
2008年10月18日土曜日
ウドの花

立川市ではウドの生産が多いそうで、ウドをつかったお菓子やラーメンを市内のお店が創作して名物にしようと努力しているみたいです。ただ、ウドって目立たない食材なので、どうなのかなって感じもします。で、畑にもウドが植えてあるはずなのですが、特徴に乏しいせいかあまりみかけた記憶がありません。立川でも、主に北の方で作っているせいもあるんだとは思います。そんなウドでも花が咲いていると、こんな感じで見分けがつきます。
ウドは地上部が枯れると根株(地下茎?根?)を地下のむろの中に移植して、真っ暗な中で生えてくる芽を収穫するのだそうです。チューリップの球根をつくっている農家では、球根に栄養を集めるために花が咲くと花を摘んでしまいますよね。ウドの栽培ではそういう必要はないのでしょうか。わりとどこの畑でも、咲いた花はそのままにしてある気がします。
2008年10月16日木曜日
遺された蔵書

岡村敬二著 阿吽社
1994年12月発行 税込み4680円
戦前、日本が満州・中国に設置した図書館の沿革・活動などについての論考をまとめた本です。植民地の図書館という存在については思い及んだことがなかったので、勉強になりました。
これらの中では、満鉄の図書館が最も早く設置されました。社業に資する目的だけでなく、一般の人の利用できました。大連と、後には奉天にも資料収集をも目的としたものが設置され、満鉄附属地の各都市には主に公衆の利用を目的とした図書館が設置されていました。他の分野にも見られることですが、植民地では日本本国にもみられない水準の技術の適応が試みられました。図書館の分野でも、蔵書目録・資料の検索機能などに外国生まれの斬新な手法が使われていたそうです。
満州事変後、奉天宮殿にあった四庫全書・文溯閣を保全する目的で満州国立奉天図書館が作られました。また、その他の奉天で接収した書物は張学良の屋敷の建物を利用した図書館に収められました。この奉天の四庫全書は、軍閥の戦争の時と満州事変の時の2度にわたって戦禍を被りそうになりましたが、関東軍の協力をとりつけた日本人によって守られのだそうです。軍閥の戦争はおいといて、満州事変の際に日本人が四庫全書を守ったのだと中国人に言っても、中国の人は喜ばないでしょうね。
日中戦争より前の時代、日本は北京と上海に近代科学図書館を設置しました。 これらは日本語の本を収蔵する図書館で、北京の近代科学図書館では日本語教育が盛んに行われました。また、これらはともに義和団事件の賠償金を設置・運営にあてたものだそうです。アメリカが義和団事件の賠償金で精華大学を北京に創設したことは有名ですが、日本がこういう施設をつくったことは知りませんでした。
日中戦争開始後には、上海・南京など各地で政府機関・大学・個人の蔵書家などから数十万冊の図書が接収されました。これら接収図書の整理には、上記の植民地図書館の館員が兵士とともにあたり、保護につとめたのだそうです。しかし、接収という行為はひらたくいうと盗みのことだと思うので、図書を戦禍から守ったと言っても、中国人からは盗っ人猛々しいと言われそう。
戦争という不幸な環境の中で、個々の図書館人はなし得る最善をつくそうとしたことは確かなようです。本書の著者も図書館員だとのことで、図書館員の善意・真心に対する暖かい姿勢が感じられる著作でした。
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