ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ著
河出書房新社
1994年5月10日 初版印刷
1994年5月20日 初版発行
ワルシャワ蜂起 1944の感想にコメントしてくれた方のご推薦でこの本の存在を知りました。この回顧録が日本で出版されたのは1994年のことで、とうの昔に新刊書店からは姿を消しています。しかし、ググってみると中古品はAmazonさんで販売されていて、値段もわずか200円。早速注文したところ、2日後には入手できました。インターネットのありがたみを感じるのはこういう時ですね。
東欧の民主化運動について、私にはプラハの春の記憶はありません。しかし1981年のポーランドの戒厳令は憶えています。訳者あとがきに「あの悪者の書いた回想など読みたくもない、まして日本語にするなどは論外と感じたのが正直な話である」と書かれていましたが、私もヤルゼルスキさんには、正義の味方である「連帯」を弾圧するサングラスをかけた悪漢という印象をもっていました。しかし本書を読み始めると、私の浅薄な理解は変わり始めました。もちろん回顧録ですから割り引いて読まなければならない点もあるでしょうが、まじめで誠実な人なのかなと感じるようになったのです。
ヤルゼルスキさんは数百ヘクタールという大きな農地を所有する階層の出身です。貴族と訳されていましたが、彼のお父さんは領地の農作業に従事する雇用労働者を自分で監督していたそうです。またその領地は電気もきていない田舎にあったそうで、中等教育はワルシャワにある学費のお高い寄宿制の聖マリア修道会の学校で受けました。この学校はワルシャワ蜂起 1944でも触れられていてとても有名な学校だったそうです。
ドイツのポーランド侵入後、著者の一家はまず東に避難し、ソ連参戦の報を聞いてリトアニア国境を越え、しばらくリトアニアで過ごすことになりました。しかし独ソ開戦後、ソ連によってシベリアに強制移住させられ、はじめはタイガで伐採作業をしました、しかし、つらさに逃げ出して倉庫やパン屋さんに勤務。独ソ開戦後、アンデルス軍への参加を希望しましたが父の死もあって合流に間に合わず、ポーランド愛国者同盟の部隊に参加します。リャザンの新編成ポーランド軍士官学校へ向かう際の著者の感想は
理由や状況は異なるにせよ、私たちは全員が歴史の辛酸を嘗めていた。それでもロシア人を、また奇妙なことにはソビエト人一般を恨んでいなかった。公言はせずともソ連体制を嫌悪するものが私たちのなかにいたのは間違いない。しかし遺恨はロシア人に向けたものではなかった。これはシベリアで接した人々の態度によるところが大きい。彼らは私たちに悪意や嫌悪を示すことが一度としてなかった。強制移住であろうと流刑であろうと囚人であろうと収容所送りであろうと、その境遇はロシア人の大半とさほどの違いはなかった。
というものです。この回顧録ではソ連に遠慮する必要はなかったでしょうから、本当にソ連を嫌っていたのならそう書いていたはずで、著者がまだ若かったので逮捕・拷問などの対象にはならなかったことと、ソ連人自体もシベリアに送られることが当たり前だったスターリン体制という時代とが、こういう感想を抱かせたのでしょう。
著者はポーランド部隊のとびきり若い将校として戦闘を続けます。ワルシャワ蜂起の際にはヴィスワ川の前面まで達していましたが、前進に次ぐ前進で疲労や補給の不足という問題があり、またドイツが装甲師団を投入したことでさらなる前進は無理だったとしています。もちろん、著者らはワルシャワで戦っている人たちに許され範囲で援助を行いました。でも、スターリンの同意がなければ本格的な支援の手を差し伸ばすことはできなかったということです。
白ロシア、西ウクライナでの数週間、生き残ったポーランド人や住民と接触した結果、これらの地方でポーランド人がいかに異邦人であるかを思い知らされた。1939年の避難の際、つとに私が感じたことだ。白ロシアの住民がロシア兵を解放者として迎え入れる現場に私は立ち会ったのだ。そののちリトアニアでもいく世紀にもわたるポーランド・リトアニア両国間の係争の重圧がひしひしと感じられた。大戦後、ポーランドはその歴史と起源にふさわしい国境線を見いだしたと私は信じている。
ポーランドの新しい国境線に関する著者の感想は、書物でふつう目にするものとは違っていて、すこし驚かされます。こういう考え方をしているポーランド人はどのくらいいるんでしょう?ソ連に押し付けられたものと書かなかったのは、ドイツとの西部国境、オーデル・ナイセ線が正当なものであることに疑念を抱かせないために自己規制したのかなとも感じますが、どうでしょう。
戦後ポーランド社会の貧窮は今日では共産党政権の責任とされる傾向があるが、全国土の38パーセントが戦争により破壊された事実を忘れている。
ポーランドの大戦による被害の大きさには気付きにくく、この著者の指摘は重要だと感じました。物的被害のみならず、独ソともポーランドの若年労働者を強制的に狩り出し、また将校や大学教授などの知識人を計画的に殺害しした。戦後の復興に必要な若年労働力と知識人層の不足がポーランドに与えた影響は大きかったであろうことは理解できます。
戦後、著者は軍に残る選択をします。戦闘経験の豊富な著者は歩兵研修所(高等歩兵学校の前身)に入学しますが、ここでは士官としての知識だけでなく、戦争中には経験できなかった読書など知的刺戟が得られました。こういった経験で覚醒した著者は入党することにしたのだそうです。この時期について著者は
1947年1月の選挙は残念ながら完全に民主的とは言えなかった。だが45年から47年まで、わが国の政治はおおむね民主的だった。野党も存在した(野党を抹殺したのは48年のスターリン主義への方向転換である)。西側に戦禍を逃れた政治家、知識人の帰国が相次いだ。大物の帰国は華々しく報道された。祖国再建の大事業に人々が結集するという確信は深まった。
この時点で思いとどまっていたなら、50年代の状況下でも入党を決意したかどうかは確言できない。いずれにしろ47年当時、政治は希望に満ち、思想的自由も存在した。
しかし誤解されては困る。44年から48年が政治的に牧歌的な時代だったと言うのではない。それは熾烈な闘争の時代だった。
不法な逮捕、不当な強制移住、不正な裁判、裁判なしの処刑など、おそるべき不正の支配した時代である。だが「ポメラニアの壁」戦、ベルリン包囲戦を戦い、チェコ国境警備についていた私たちは、[ソ連の]人民内務委員部や悪名高いポーランドの公安局(UB)の活動を知るよしもなかった。こうした治安機関の暴虐が明るみに出るのは後年のことであり、なかにはつい最近、白日のもとにさらされた事実もある。
と書いています。これまでポーランド亡命政府の側からの見方しか知らなかったので、1945年から47年の時期をおおむね民主的とする著者の評価には驚かされます。ポーランド統一労働者党のトップまで勤めた人だからこう書かざるを得なかったのか、それともシベリアでソ連の実情を見た後に東部戦線でソ連側で戦った著者のような人には「ソ連よりはましだ」という当たり前の見方なのか、どちらなのか私には分かりません。ただそれにしても、NKVDやポーランドの公安局の活動を知らなかったとする著者の弁はさすがに信じ難い気がします。
その晩、私が最初に感じたのは不思議な満足感だった。言ってみれば、ポーランド人がオリンピックで思いがけず金メダルを獲得したかのような感じだった・・・。
1978年のポーランド人教皇誕生に対する著者の感想ですが、とても素直。さて、軍という機関で軍人という専門職に徹し、政治や党内の派閥争いとは距離を置いていた著者は、軍政治本部長、国防次官、参謀総長、国防大臣と昇進してゆきます。そして食料品の値上げに端を発したストと連帯の結成に際して首相に、ついには党第一書記に就任します。党に対する信頼が失われ、民主化運動に加わる党員の中も現れる状況に対して、ソ連や周囲の社会主義国からは正常化をもとめる強いプレッシャーがかけられます。プラハの春の際にドゥプチェクと会談した著者は
私はのちにこの会議のことをしばしば思い起こした。ドゥプチェクのこと、それからチェコスロバキア指導部の態度について、[「連帯」全盛の]1980年末と81年はとくにそうだった。彼らの弱腰が災いを招いたことを承知していたから、われわれが国内情勢を統御していないかのような印象は決して与えないよう私は心に誓った。
のだそうです。これは口からでまかせといった種類のものではないと感じます。東側からは圧力、他方西側からは
いつも同じ励ましの言葉――お願いだから、「連帯」と力を合わせて、ソ連の戦車がポーランドの街に乗り込むような事態は絶対に招かないように
という、ちっとも役には立たない言葉のみ。さらに著者が戒厳令の準備を命じていた大佐(ベトナム停戦監視団勤務時から20年にわたってアメリカのスパイ組織に協力していた)が、準備中にアメリカに亡命してしまいました。しかし
アメリカは沈黙を守った。白状するが、本当に助かったという思いだった。アメリカは、「連帯」指導部に警告しようともしなかったし、何かのシグナルを送って(その手段はあった)計画の断念をわれわれに強いることもなかった。アメリカのこうした対応についてはいまなお自問することがある。最も理屈にあった説明と思われるものは、ポーランド当局が(いかなる方法であれ)自分のやり方で危機を打開するほうがソ連の軍事介入よりもましである、とアメリカが考えたことである。
アメリカが戒厳令の阻止にむけての積極的な動きをみせかなかったこと自体が、ポーランドに対する戒厳令OKというメッセージだと著者が感じたとしても不思議ではありません。また本書の解題には、ソ連がポーランドへの軍事介入が切迫していなかった証拠がある旨書かれています。しかしポーランド党のトップだった著者に当時それを確認する術はなく、著者はポーランドを救うために戒厳令を布告する決断をしました。政権交替がルールとなっている西側の国と違って、社会主義兄弟国への配慮も必要な政府のトップとしては、ほかにやりようがなかったのでしょう。
戒厳令布告をソ連や東側諸国は歓迎しましたし。しかしこれで民主化を希求する動きがおさまったわけではなく、著者をトップとするポーランド統一労働者党と政府は、連帯、教会などとともに円卓会議をもち、部分的な自由選挙の実施に合意します。その後も政権を維持できるだろうという著者たちの思惑を裏切って、選挙は連帯の圧勝に終わります。その後は大きな流血を伴わない政権の交替につながったわけですから、著者の功績は小さくないものと感じました。
本書の中にはヨーロッパの国や指導者に対する言及がたくさんみられます。しかし日本とポーランドの遠さを反映してか、日本に対するものは2つだけ。著者が大統領として会った指導者のリストに「中国の鄧小平」の前、後ろから2番目に「日本の中曽根」と書かれていました。また大統領として出会った実業家として 「斉藤」という名前が挙げられていますが、これは誰なんでしょう?この頃経団連会長だった斎藤英四郎さんかな。