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2012年12月31日月曜日

近世米市場の形成と展開




高槻泰郎著
名古屋大学出版会
2012年2月10日 初版第1刷発行




米切手とは何なのか、大阪の米市場での取引の仕組み、米切手を利用した金融活動、幕府の米価政策・米市場に対する統制策の変遷などが分かりやすく解説されていました。米切手の取引の仕組みについては、本書にも引用されている、宮本又郎さんの書いた「近世日本の市場経済――大阪米市場分析」や石井寛治さんの「経済発展と両替商金融」などを読んだことがあります。でも正直なところ、すっきり理解できたとは言いにくい状態でした。その点、本書の説明は素人にも理解できるよう丁寧にかみ砕いて書かれていて、私でも大丈夫。
  • 米切手には蔵の中の特定の米とのつながりはなく、そのおかげで先物取引に利用されたり、また米の保有量以上の切手を発行することで大名家の資金調達手段としても利用されるようになっていた
  • 幕府は空米切手の発行を抑制する政策を掲げていたが、田沼政権期には米切手所持人の蔵米請求権を保証して米切手が円滑に流通することを実質的な政策目標としていった
  • 幕府は大名側からの「御国持方御領分御自由」という主張を崩せず、各大名の蔵屋敷の中に現物の米がどれくらい貯蔵されているのかを明らかにすることができなかった
  • 米飛脚や大阪の市況に関する相場状を状屋と呼ばれる業者が地方の商人に向けて頻繁に発送していた。のちには旗振り通信が出現し、大阪と大津の米相場をその日のうちに連動させるようになった
などなど、非常に興味深く感じ、学べました。ところで本書を読みながら疑問を感じた点もいくつかありますまず、 米切手が米と引き替えられずに市中に滞留していたのはなぜなんでしょう。広島・筑前・肥後・加賀といった大手の蔵屋敷が米の入札を行う時期は限定されているのに対し、米の実需は年間を通して存在している。実需者の買いに米の卸売業者が対応するためには、米を在庫しておかなければならないが、米切手という形態で在庫しておけば、蔵屋敷が保管してくれるので、米実物を自分の倉庫に保管するより安く上がるという理由だけなんでしょうか。というのも、本書で引用されている史料のなかに「切手之儀は盗難之愁無之候ニ付、金銀よりも切手ニ換、所持致候」と書かれているものがありました。こういった理由で米切手を所有していた人も本当にいたんでしょうか?

米切手は蔵屋敷の中の特定の米との縁がないということは、米切手を持参して払い出しを受けるまでどんな米が渡されるのかわからないということだろうと思います。もちろん、虫食いや水濡れなど傷んだ米は別扱いだったかもしれませんが。卸売業者から米切手を買う実需者・小売業者はこれで困らなかったんでしょうか。それともこの当時、米の品質というのはあまり重視されていなかったんでしょうか。

この大阪の米市場での取引手数料や両替手数料などの収入で米仲買、両替商など多数の人が生活していて、かなり大きな商人もいたようです。それら商人の収入などは米の取引高のどれくらいにあたったんでしょうか?また、本書の最後の方では、大阪米市場の効率性が検証されていて、幕末に近づく頃以外は、おおむね効率的な市場だったことが述べられています。 米市場の効率性を確保するためのコストはどのくらいかかったんでしょうか。米会所の存在、奉行所による司法の提供、情報提供業者などなど。

米切手には引換の期限がありました。期限が来れば無効になるので、それまでにはすべて米と引き替える請求がなされること必至です。それなのに、地元からの登米以上の米切手を発行してしまうのがなんとも理解しにくいところです。兌換紙幣やその類似物(例えば銭荘の発行した銭票)なら支払い準備以上に発行されることがあるのは当然ですが、米と引き替えることが運命づけられているはずの米切手でそれって変ですよね。米との引換ができない騒動に及んだ事件が本書にもいくつか紹介されています。資金調達の目的で発行された空米切手が騒動を引き起こしたんだと思いますが、そういった有り米量より多くの米切手を発行した蔵屋敷の関係者・蔵役人は騒動の後で、藩の名誉を傷つけたとして藩によって処罰されたんでしょうか?それとも藩命で米切手を発行して資金を調達し、しかも約束通りには返済せず、示談でかなり長期の債務にすることができたということで褒美を受けたんでしょうか?その辺も気になりました。

2012年12月20日木曜日

ポーランドを生きる  ヤルゼルスキ回顧録


ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ著
河出書房新社
1994年5月10日 初版印刷
1994年5月20日 初版発行

ワルシャワ蜂起 1944の感想にコメントしてくれた方のご推薦でこの本の存在を知りました。この回顧録が日本で出版されたのは1994年のことで、とうの昔に新刊書店からは姿を消しています。しかし、ググってみると中古品はAmazonさんで販売されていて、値段もわずか200円。早速注文したところ、2日後には入手できました。インターネットのありがたみを感じるのはこういう時ですね。

東欧の民主化運動について、私にはプラハの春の記憶はありません。しかし1981年のポーランドの戒厳令は憶えています。訳者あとがきに「あの悪者の書いた回想など読みたくもない、まして日本語にするなどは論外と感じたのが正直な話である」と書かれていましたが、私もヤルゼルスキさんには、正義の味方である「連帯」を弾圧するサングラスをかけた悪漢という印象をもっていました。しかし本書を読み始めると、私の浅薄な理解は変わり始めました。もちろん回顧録ですから割り引いて読まなければならない点もあるでしょうが、まじめで誠実な人なのかなと感じるようになったのです。

ヤルゼルスキさんは数百ヘクタールという大きな農地を所有する階層の出身です。貴族と訳されていましたが、彼のお父さんは領地の農作業に従事する雇用労働者を自分で監督していたそうです。またその領地は電気もきていない田舎にあったそうで、中等教育はワルシャワにある学費のお高い寄宿制の聖マリア修道会の学校で受けました。この学校はワルシャワ蜂起 1944でも触れられていてとても有名な学校だったそうです。

ドイツのポーランド侵入後、著者の一家はまず東に避難し、ソ連参戦の報を聞いてリトアニア国境を越え、しばらくリトアニアで過ごすことになりました。しかし独ソ開戦後、ソ連によってシベリアに強制移住させられ、はじめはタイガで伐採作業をしました、しかし、つらさに逃げ出して倉庫やパン屋さんに勤務。独ソ開戦後、アンデルス軍への参加を希望しましたが父の死もあって合流に間に合わず、ポーランド愛国者同盟の部隊に参加します。リャザンの新編成ポーランド軍士官学校へ向かう際の著者の感想は
理由や状況は異なるにせよ、私たちは全員が歴史の辛酸を嘗めていた。それでもロシア人を、また奇妙なことにはソビエト人一般を恨んでいなかった。公言はせずともソ連体制を嫌悪するものが私たちのなかにいたのは間違いない。しかし遺恨はロシア人に向けたものではなかった。これはシベリアで接した人々の態度によるところが大きい。彼らは私たちに悪意や嫌悪を示すことが一度としてなかった。強制移住であろうと流刑であろうと囚人であろうと収容所送りであろうと、その境遇はロシア人の大半とさほどの違いはなかった。
というものです。この回顧録ではソ連に遠慮する必要はなかったでしょうから、本当にソ連を嫌っていたのならそう書いていたはずで、著者がまだ若かったので逮捕・拷問などの対象にはならなかったことと、ソ連人自体もシベリアに送られることが当たり前だったスターリン体制という時代とが、こういう感想を抱かせたのでしょう。

著者はポーランド部隊のとびきり若い将校として戦闘を続けます。ワルシャワ蜂起の際にはヴィスワ川の前面まで達していましたが、前進に次ぐ前進で疲労や補給の不足という問題があり、またドイツが装甲師団を投入したことでさらなる前進は無理だったとしています。もちろん、著者らはワルシャワで戦っている人たちに許され範囲で援助を行いました。でも、スターリンの同意がなければ本格的な支援の手を差し伸ばすことはできなかったということです。
白ロシア、西ウクライナでの数週間、生き残ったポーランド人や住民と接触した結果、これらの地方でポーランド人がいかに異邦人であるかを思い知らされた。1939年の避難の際、つとに私が感じたことだ。白ロシアの住民がロシア兵を解放者として迎え入れる現場に私は立ち会ったのだ。そののちリトアニアでもいく世紀にもわたるポーランド・リトアニア両国間の係争の重圧がひしひしと感じられた。大戦後、ポーランドはその歴史と起源にふさわしい国境線を見いだしたと私は信じている。
ポーランドの新しい国境線に関する著者の感想は、書物でふつう目にするものとは違っていて、すこし驚かされます。こういう考え方をしているポーランド人はどのくらいいるんでしょう?ソ連に押し付けられたものと書かなかったのは、ドイツとの西部国境、オーデル・ナイセ線が正当なものであることに疑念を抱かせないために自己規制したのかなとも感じますが、どうでしょう。
戦後ポーランド社会の貧窮は今日では共産党政権の責任とされる傾向があるが、全国土の38パーセントが戦争により破壊された事実を忘れている。
ポーランドの大戦による被害の大きさには気付きにくく、この著者の指摘は重要だと感じました。物的被害のみならず、独ソともポーランドの若年労働者を強制的に狩り出し、また将校や大学教授などの知識人を計画的に殺害しした。戦後の復興に必要な若年労働力と知識人層の不足がポーランドに与えた影響は大きかったであろうことは理解できます。

戦後、著者は軍に残る選択をします。戦闘経験の豊富な著者は歩兵研修所(高等歩兵学校の前身)に入学しますが、ここでは士官としての知識だけでなく、戦争中には経験できなかった読書など知的刺戟が得られました。こういった経験で覚醒した著者は入党することにしたのだそうです。この時期について著者は
1947年1月の選挙は残念ながら完全に民主的とは言えなかった。だが45年から47年まで、わが国の政治はおおむね民主的だった。野党も存在した(野党を抹殺したのは48年のスターリン主義への方向転換である)。西側に戦禍を逃れた政治家、知識人の帰国が相次いだ。大物の帰国は華々しく報道された。祖国再建の大事業に人々が結集するという確信は深まった。
この時点で思いとどまっていたなら、50年代の状況下でも入党を決意したかどうかは確言できない。いずれにしろ47年当時、政治は希望に満ち、思想的自由も存在した。
しかし誤解されては困る。44年から48年が政治的に牧歌的な時代だったと言うのではない。それは熾烈な闘争の時代だった。
不法な逮捕、不当な強制移住、不正な裁判、裁判なしの処刑など、おそるべき不正の支配した時代である。だが「ポメラニアの壁」戦、ベルリン包囲戦を戦い、チェコ国境警備についていた私たちは、[ソ連の]人民内務委員部や悪名高いポーランドの公安局(UB)の活動を知るよしもなかった。こうした治安機関の暴虐が明るみに出るのは後年のことであり、なかにはつい最近、白日のもとにさらされた事実もある。
と書いています。これまでポーランド亡命政府の側からの見方しか知らなかったので、1945年から47年の時期をおおむね民主的とする著者の評価には驚かされます。ポーランド統一労働者党のトップまで勤めた人だからこう書かざるを得なかったのか、それともシベリアでソ連の実情を見た後に東部戦線でソ連側で戦った著者のような人には「ソ連よりはましだ」という当たり前の見方なのか、どちらなのか私には分かりません。ただそれにしても、NKVDやポーランドの公安局の活動を知らなかったとする著者の弁はさすがに信じ難い気がします。
その晩、私が最初に感じたのは不思議な満足感だった。言ってみれば、ポーランド人がオリンピックで思いがけず金メダルを獲得したかのような感じだった・・・。
1978年のポーランド人教皇誕生に対する著者の感想ですが、とても素直。さて、軍という機関で軍人という専門職に徹し、政治や党内の派閥争いとは距離を置いていた著者は、軍政治本部長、国防次官、参謀総長、国防大臣と昇進してゆきます。そして食料品の値上げに端を発したストと連帯の結成に際して首相に、ついには党第一書記に就任します。党に対する信頼が失われ、民主化運動に加わる党員の中も現れる状況に対して、ソ連や周囲の社会主義国からは正常化をもとめる強いプレッシャーがかけられます。プラハの春の際にドゥプチェクと会談した著者は
私はのちにこの会議のことをしばしば思い起こした。ドゥプチェクのこと、それからチェコスロバキア指導部の態度について、[「連帯」全盛の]1980年末と81年はとくにそうだった。彼らの弱腰が災いを招いたことを承知していたから、われわれが国内情勢を統御していないかのような印象は決して与えないよう私は心に誓った。
のだそうです。これは口からでまかせといった種類のものではないと感じます。東側からは圧力、他方西側からは
いつも同じ励ましの言葉――お願いだから、「連帯」と力を合わせて、ソ連の戦車がポーランドの街に乗り込むような事態は絶対に招かないように
という、ちっとも役には立たない言葉のみ。さらに著者が戒厳令の準備を命じていた大佐(ベトナム停戦監視団勤務時から20年にわたってアメリカのスパイ組織に協力していた)が、準備中にアメリカに亡命してしまいました。しかし
アメリカは沈黙を守った。白状するが、本当に助かったという思いだった。アメリカは、「連帯」指導部に警告しようともしなかったし、何かのシグナルを送って(その手段はあった)計画の断念をわれわれに強いることもなかった。アメリカのこうした対応についてはいまなお自問することがある。最も理屈にあった説明と思われるものは、ポーランド当局が(いかなる方法であれ)自分のやり方で危機を打開するほうがソ連の軍事介入よりもましである、とアメリカが考えたことである。
アメリカが戒厳令の阻止にむけての積極的な動きをみせかなかったこと自体が、ポーランドに対する戒厳令OKというメッセージだと著者が感じたとしても不思議ではありません。また本書の解題には、ソ連がポーランドへの軍事介入が切迫していなかった証拠がある旨書かれています。しかしポーランド党のトップだった著者に当時それを確認する術はなく、著者はポーランドを救うために戒厳令を布告する決断をしました。政権交替がルールとなっている西側の国と違って、社会主義兄弟国への配慮も必要な政府のトップとしては、ほかにやりようがなかったのでしょう。

戒厳令布告をソ連や東側諸国は歓迎しましたし。しかしこれで民主化を希求する動きがおさまったわけではなく、著者をトップとするポーランド統一労働者党と政府は、連帯、教会などとともに円卓会議をもち、部分的な自由選挙の実施に合意します。その後も政権を維持できるだろうという著者たちの思惑を裏切って、選挙は連帯の圧勝に終わります。その後は大きな流血を伴わない政権の交替につながったわけですから、著者の功績は小さくないものと感じました。

本書の中にはヨーロッパの国や指導者に対する言及がたくさんみられます。しかし日本とポーランドの遠さを反映してか、日本に対するものは2つだけ。著者が大統領として会った指導者のリストに「中国の鄧小平」の前、後ろから2番目に「日本の中曽根」と書かれていました。また大統領として出会った実業家として 「斉藤」という名前が挙げられていますが、これは誰なんでしょう?この頃経団連会長だった斎藤英四郎さんかな。

2012年12月16日日曜日

国宝第一号広隆寺の弥勒菩薩はどこから来たのか?


大西修也著
静山社文庫
2011年5月5日 第1刷発行

静山社って聞き覚えのない名前ですが、ハリーポッターの出版社なんですね。タイトルに国宝第一号なんてわざわざつけられると下品な印象しか受けませんが、内容はとてもしっかりしていました。仏像の形態の意味、様式の変遷などから、日本にある仏像のルーツを中国の南北朝や朝鮮半島の三国にたどれることが述べられています。日本で生まれ育った人が拝するに価する威厳ある正しい様式の仏像をつくるには、そのお手本となるものが必要でしょう。例えば、法隆寺金堂の釈迦三尊像は止利仏師のチームがつくったものですが、その止利仏師も渡来人の孫で日本で生まれ育った人ですから、外国にある仏像を直接自分の眼で見たことはなかったはずです。 もしかすると設計図にあたる絵図面も中国・朝鮮から渡来していて、それを参考にしたこともあったのかもしれませんが、それよりも渡来した小さな仏像をお手本に大きな仏像をつくる方がずっと容易だし自然です。古代の日本でつくられた有名な大きな仏像と面影や様式の似た仏像が外国や日本の他の地で見つかるのはそういった関係なのかなと理解しました。広隆寺の弥勒菩薩だけでなく、善光寺如来、法隆寺の釈迦三尊、東大寺の大仏様などなどについても触れられ、関連するエピソードも豊富なので面白く読めました。

ただし、親切とはいえない論の進め方も見受けられます。たとえば、冒頭では「いつ日本に仏教が伝えられたのか」として、仏教の公伝について538年説と552年説があることを紹介します。当然、著者がどちらの説を正しいと考えるのかを次に論じるものと期待しますが、そうは続きません。日本書紀に552年説が採られたことがその後に与えた影響として、200年後に東大寺大仏の開眼会、500年後に平等院が建立されたことが述べらているのです。肩すかしを食らった感じ。また、その200年後、500年後であることが当時の人に本当に意識されていたのかどうか文献的根拠が挙げられるのかと思うとそうではなく、そのまま他の話題に転じてしまいます。そして、大仏開眼会が200年後を意識していたという説を唱える人のいることが紹介されるのはようやく179ページも後のことで、しかもその根拠についてはやはり一切言及がありません。これには不満。

また第10章は、熊本県の「鞠智城址出土の百済仏」持物が蓋付きの円筒形の容器でめずらしいこと、仏舎利を入れた容器は宝珠と同じ意味をもつこと、わが国の宝珠捧持菩薩を代表する作品は法隆寺東院夢殿の救世観音像と話をふり、救世観音のルーツや他の法隆寺の仏像について話が展開します。しかし読者としては話が展開する前に、話の枕として出された鞠智城址出土の仏像がなぜ百済仏と同定できるのか、なぜめずらしい様式の仏像が熊本県から出土したのかについて疑問なまま読むことになってしまいます。ようやくその答えが示されるのは25ページも飛んだ第10章末で、しかもそこでも、冒頭でとりあげられた仏像についての疑問に対する答えという書き方にはなっていません。思わせぶりに興味をひいておいて素知らぬ顔をする、こういうあたりはとても下手くそ。素人向けの本を書いた経験が少ないんだろうなと感じました。

2012年12月10日月曜日

ワルシャワ蜂起 1944 下


ノーマン・デイビス著
白水社
2012年10月10日印刷
2012年11月10日発行

第2巻はワルシャワ蜂起の終焉とその後を描いています。戦闘員の資格を確認してもらってドイツ軍に降伏した人たちだけでなく、地下に潜った人も、戦線のソ連側に逃れた人も、逮捕されて拷問や過酷な収容所生活を経験したり、また戦後にも引き続きつらい生活を余儀なくされる場合が多かったも触れられていました。ずいぶんとむかし、アンジェイ・ワイダ監督の地下水道、灰とダイヤモンドを観たことがありますが、その時には彼のいいたいことの10分の1も理解できていなかった感じ。この本を読み終えた今なら、なぜああいう映画が撮られたのかを考えることのできる観客になれそうです。

本書の終章は中間報告と銘打たれています。著者はワルシャワ蜂起失敗の原因がソ連だけにあるわけではないと述べていますが、スターリンの悪意にもとづく無作為に最大の問題でしょう、やはり。また、チャーチルをはじめ、イギリス政府の中にはワルシャワ蜂起を充分に支援できなかったことに対する後悔があります。ワルシャワ蜂起の時期、イギリスがソ連にもっと強い態度に出ることができなかったのはなぜなんでしょう。すでに第2戦線は開いたし、1944年春夏の頃ならソ連がドイツと講和を結んでしまう可能性なんてゼロでしょう。それとも終章に述べられているように、イギリスは戦争も国民生活の維持もアメリカに大きく依存していたから、日本へのソ連の宣戦布告を希望するゆえか否かは不明だが、ソ連に対して融和的なルーズベルト大統領はじめアメリカの意向を考慮して、ソ連に対して遠慮しなければならなかったということなんでしょうか。だとするとアメリカの責任も小さくはないわけですね。また、もっと根本的な問題として、ポーランドへの侵入を理由にドイツに宣戦布告したイギリスとフランスが、同じようにポーランドとの条約を破ってポーランドに侵入したソ連に対しては宣戦布告しなかった理由がなんだったのか不思議に思え、本当はこのへんのイギリスの対応にも遠因があるのだろうと感じます。ドイツだけで手一杯で、できればソ連とドイツを戦わせたかったのは分かるんですが、当時、それへの宣戦布告は検討されなかったのか、気になってしまいました。

本書のテーマからは少しはずれますが、本書からもスターリンのソ連は際立って異常だと感じてしまいました。スターリンが異常な人だったのは確かですが、弾圧を実行するには末端で実際に手を下す人たちが多数必要なわけで、スターリンが異常だっただけではなく、NKVDなどの下っ端職員も含めて異常だったんだと思います。もちろん中には自分の身を守るため、生活のために仕事をしただけという人もいるのでしょうが、それだけではああいうことにはならなかったのではないか。スターリンだけでなくソ連の抑圧旗艦の職員にも、理想の社会を作り上げるためには敵と敵からの妨害を排除しなければならないという使命感があったからこそ、ああいったことが実行できたんでしょう、きっと。戦後のポーランドの初期の施政者の中には同じような使命感をもった人が少しはいたのかも知れませんが、その下の公務員たちはやはり生活のために働いていただけなんだろう、だからポーランドの統一労働者党政権が長期間の安定をみることはなかったんでしょう。世紀を単位とした長い目で見ると、スターリンの奸策もポーランドの人のロシアに対する見方をさらに一層厳しくしただけに終わったと感じます。

ワルシャワ蜂起 1944 上の感想

2012年12月1日土曜日

ワルシャワ蜂起 1944




ノーマン・デイビス著
染谷徹訳
白水社
2012年10月10日印刷
2012年11月10日発行





近所の書店で平台に並べられていた本書。だいぶ前に同じ著者のヨーロッパ史を扱った4巻本を読んだことがありますが、ポーランド史の専門家だったとは知りませんでした。 ワルシャワ蜂起というテーマに惹かれて、まずは上巻を購入してみましたが、上巻だけで556ページもある厚い本です。そのうちの373ページはワルシャワ蜂起よりはるか昔、チュートン騎士団やリトアニア・ポーランド王国の頃からポーランド分割、第一次大戦、戦間期のポーランドなどの歴史を説明する第一部にあてられています。著者は
中東欧地域の多数の国々では、第二次大戦の終結は、ひとつの全体主義国家による占領の終わりではあったが、同時に別の全体主義国家による占領の始まりでしかなかった。
蜂起が終焉を迎えた時点、または1945年5月の時点で物語を打ち切り、その後に生き残った人々が幸せに暮らしたかのような書き方をするとしたら、それは決して公平なやり方とは言えない
と記していて、第一部に書かれているような知識が基礎にないと、ワルシャワ蜂起や第二次大戦後のポーランドについての理解が難しいと考えているようです。でもまあ、私はそういったあたりではなく本書には汗握る場面の方を期待していたので、多少じれったく感じたのも確かです。第一部には歴史に加えて開戦後の様子も描かれています。
地下国家が機能し得たのは、すべての国民が抵抗運動を支えることを暗黙のうちに了解していたからである
イギリスから飛行機で潜入したポーランド亡命政府の密使がワルシャワで国内軍の秘密会議に出席し、会議のあと街に出たところでゲシュタポに呼び止められ、どこから出てきたんだと尋ねられます。咄嗟に彼は近くの歯科で治療をして出てきたと答えました。ゲシュタポは裏を取るためその歯科に電話を入れますが、歯科医はそういった人をたしかに今まで治療していたと答え、見ず知らずの人を亡命政府の密使とは知らずに助けます。戦闘シーンだけでなく、こういったエピソードの中にもポーランドの人たちの気持ちがみえるようです。

第二部ではワルシャワ蜂起のありさまがイギリス、ソ連の意向など外部の状況ともあわせて述べられていました。本書の特長の一つは、ワルシャワ蜂起をいろいろな立場で経験したポーランドやドイツやイギリスなどの人々の日記や手記を、囲み記事として紹介していることです。これらに記されたエピソードにはとても興味を持ちました。もっとたくさん載せて欲しいくらいですが、生き残った人は少なそうですから、そうも行かなかったしょうね。

さて、本書の文章はこなれた日本語で、翻訳臭さはほとんど感じません。そういう意味ではよくできているのですが、問題点も多々あります。まずは訳語で、本書冒頭の口絵写真の説明文をみたところで、がっかりしてしまいました。ドイツの軍用車輛の説明文なのですが、自走強襲砲StuGとか機甲兵員輸送車っていうのはないでしょう。当然、慣用されている訳語である突撃砲、装甲兵員輸送車と訳すべきで、そうでないと雰囲気ぶちこわしです。なぜ訳者が自分独自にあみだした言葉を使うのか、その意図が分かりません。また本文中にも、例えばテレタイプを「電信印刷機」と訳していたり(どうしても商品名を使いたくないのなら、Printing Telegraphなんだから印刷電信機とすべきでしょう)、二重星形エンジンを「双座星形エンジン」と訳したりなど、訳者独自の用語が散見されます。同じ訳者の「スターリン 赤い皇帝と廷臣たち」を読んだ際にはちっとも気づかなかったのに、ひとたび気になるとこういう違和感は強くなるばかりです。

誤訳と呼ぶべきものも見受けました。例えば、ノルウエー戦の「ナルヴィクでは、またポーランド海軍の戦艦三隻が作戦に参加した」とか、フランス敗北後にアルジェのフランス艦隊がイギリス部隊に攻撃され「戦艦数隻が撃沈され」たとか。事情を知らない人が読んだら、ポーランドは3隻も戦艦を保有していたんだとか、ほんとうに戦艦が沈没したんだと思っちゃうでしょう。プロの翻訳者ならば戦艦ではなく軍艦と訳してほしいものです。ただ、このあたりは原文が想像できるからまだましな部類です。読んでいて本当に困るのは誤訳なのか、原文に誤りがあったのか判断に迷うような文章です。いくつか例をあげると、
1944年当時、無線電信と無線電話の開発はまだ始まったばかりだった。 29ページ
日露戦争についての本ならばいざ知らず、1944年の時点で無線電信の開発が始まったばかりだったはずはなく、一読しておかしいと感じる内容をもつ文章です。ただおかしさの原因が、原文の「1944」という数字に誤りがあったからなのか、上記の例のように「無線電信」という単語が一般的に使われているものと違った意味を持つ訳者独自の日本語の単語の使用によるものなのか、判断に苦しみます。
パレスチナに到達したアンデルス軍は予備役部隊として英国第八軍に編入された 79ページ
ソ連からイラン経由で脱出したポーランド軍団についての説明ですが、予備役は変。きっと予備として控置されたということなのだろうと想像します。でも著者独自の「予備役」の用法なのかもしれないし、また原文に予備役と書かれていた可能性も否定はできないし、どちらがこのおかしな文章の原因なのか私には分かりません。
強制移送作戦のために親衛隊集団指導ユルゲン・シュトロープ中将に率いられてゲットーに入った約3000人のドイツ軍兵士と武装警官に対して、手榴弾と銃弾の雨が降り注いだ。 315ページ
ユルゲン・シュトロープさんはワルシャワ蜂起の鎮圧に失敗したSS指揮官の後任としてワルシャワに赴任した人物のようですが「親衛隊集団指導」っていう肩書きは何なんでしょう?親衛隊指導者というのが親衛隊の中将に相当する階級のようですから「者」を落としてしまっただけでしょうか。ワードプロセッサの入力ミスみたいなのはほかにも散見されますからそうなのかもしれません。でも上記のような訳者独自の単語の可能性も完全に否定はできず、ふだん見慣れない単語だけに迷います。
ワルシャワ郊外の鉄道線路上には機甲列車が配置され、高性能爆弾の一斉砲撃に最適の地点を探して移動していた 397ページ
機甲列車なんていう日本語の単語にはお目にかかったことがないし、当然、一般的につかわれる「装甲列車」と訳すべきでしょう。事実430ページには装甲列車という単語がつかわれていますし。また高性能爆弾の一斉砲撃という表現にも違和感ありあり。砲撃につかうのは砲弾で爆弾ではないでしょう。原文にはhigh explosiveとあったので高性能爆弾としてしまったものかもしれませんが、榴弾とすべきですよね。

ワルシャワ蜂起 1944 下の感想