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2011年4月14日木曜日

ドイツを焼いた戦略爆撃 1940-1945







イェルク・フリードリヒ著 みすず書房
2011年2月発行 本体6600円



第二次大戦中のドイツに対する戦略爆撃について、連合軍の使った機体・爆弾などの機材、被害を大きくさせるために各種を爆弾を混合する爆撃法・パスファインダー機によるマーカー弾の使用・電波による誘導・チャフによるレーダー妨害などの爆撃手法、軍事関連施設に対する精密爆撃から無差別と見なし得る都市爆撃への移行と連合軍側の見解、レーダー・戦闘機・高射砲・照空灯によるドイツの迎撃態勢とその崩壊、爆撃を受けた各都市の被害の状況、疎開やブンカーの建設などの都市の防空対策、被災者の救護や爆撃に対するドイツ国民の受け止め方、当時のドイツの施政者の発言の変化などなどについて触れた本です。原著は2002年に出版されたもので、 実際に爆撃・防空に携わった人や被災者に対する著者自身のインタビューなどの一次史料に基づいた本ではありません。というのも、ドイツ人が自分の受けた戦争の被害を客観的に語ることが許される雰囲気が醸成されてきたのが、ようやく21世紀になってからのことだったからでした。でも、こういうスタイルの本の方が、かえって外国人が読んで学ぶには良いのかも知れません。
消防の防火技師が爆撃計画に加わった時点で、新しい学問が誕生することとなった。火と戦う職業と火をつける職業は同じ事柄、つまり物の燃えやすさに関わっている。 
戦争勃発時には爆撃機軍団は炸裂弾と高性能爆薬弾を中心兵器と考えていたが、1942年以降、爆薬では爆撃戦争を遂行できないことが分かった。爆薬は他のもの、つまり燃焼物質と結びついてはじめて、かつてない規模の威力を発揮する武器なのであった。兵器の殺傷力を決めるのは、破片弾、ブロックバスター弾、焼夷弾の混合の割合、爆撃の順序、密度であった。 
市街地における火災を数倍に広げるため、アメリカはモデルを用いた分析で破壊力を試験した。そのために、アメリカは実験的にドイツと日本の街の町並みを再現し、細かい点まで解明しようとした。


第二次大戦ではレーダー・ソナー・原子爆弾といった新兵器だけでなく、武器や武装の改良などの研究開発が各国で進められていたことはもちろん知っていましたが、イギリス軍(後にはアメリカ軍も)では爆撃で相手に与える被害をより大きくするために、消防関係者まで含めて爆撃手法の研究に熱心に取り組んでいたことが紹介されていて、驚きました。何となく焼夷弾をばらまけば都市に火災を起こすのは難しくはないのだろうと思っていたのですが、そうではありません。なるべく大きな火災(後には火災嵐)を狙うには、最初に燃えるのは家財で家財道具が建物に火をつける、家財道具を燃やすためには屋根を壊すための爆弾が必要、そして発生した火災の拡大を阻む障壁となる防火区域や防火壁を充分に備えた町は燃やすのが難しいのでまずブロックバスター(街区・ブロックごと破壊する大型爆弾)で防火壁を破壊する、消火を妨害するために時限信管を装着した爆弾も取り混ぜて消防隊が火元と水場に到達できないようにするのだとか。さすがにオペレーションズリサーチなんかを生み出した国だなと改めて思い知らされました。
爆撃機乗員の死亡率は彼らに攻撃されるよりもはるかに高かった。爆撃機軍団の乗員12万5千人のうち、5万5千人、つまり44%が戦死した。爆撃された側の死者ははっきりせず、42万人から57万人の幅がある。中間の数を取れば、都市住民の1.5%が死亡したことになる。

日本に対する戦略爆撃はたかだか一年程度でしたが、ドイツに対する戦略爆撃は6年にもおよび、多いところでは合計で300回近い回数の空襲を受けました。大戦初期は、爆撃する側の戦術や機材がととのっておらず、またドイツ側のレーダーや迎撃戦闘機がしっかりしていて、爆撃する側の被害も少なくありませんでした。イギリス空軍では30回の出撃を無事にこなすと爆撃任務から開放されることになっていましたが、その前に戦死したり捕虜になった人が少なくなかったそうです。
第3章国土では空襲を受けた多くの都市に関して、フン族との戦い・三十年戦争・プファルツ継承戦争・ナポレオン戦争・七年戦争・第一次大戦での空襲など過去に受けた戦災を含めた各都市の歴史的な背景、防空態勢の構築、爆撃を受けた際の様子、消防活動、爆撃被害者の例を示しての描写、犠牲になった文化財や建築物などが記されています。ただ、東プロイセンやオーストリアの都市に対する空襲は本書では取り上げられていません。距離の関係で、東プロイセンやオーストリアの都市には西側連合軍によるめぼしい空襲はなかったのでしょうか。
父親はドルトムントで働き、母親は幼児を連れてアルゴイ地方にいる。12歳の娘は学童疎開でチューリンゲン地方に、14歳の娘はフランケン地方にある国民福祉局の職業訓練施設におり、19歳の息子はレニングラードを包囲している。 
爆撃に晒(まま)された都市に住む1910万人の四分の一が、爆弾の届かない地方に行くことができた。


大戦中盤になって爆撃側の戦術・態勢が進歩して、特に1944年以降はドイツ空軍が有効な迎撃を行えなくなりました。多数の爆撃機による空襲が毎日複数の目標に対して行われ、ケルン、ハンブルク、ドレスデンなど火災嵐を伴って大きな被害を出した大空襲もこの時期のことでした。都市が自らの手で自分たちを守らなければならない事態になりました。ブンカーが建造されたり、ワインセラー・アパートの地下室・坑道などが空襲の際に避難するための場所として補強され利用されました。また、人口分散計画が立てられ、例えば学童を疎開させて空いた校舎を緊急時用病院と被災者収容所に転用したり、 空襲による負傷者の増加と病院の被害とにより病床が不足すると、重病患者の強制退院・受け入れ拒否、統合失調症患者の毒殺などでベッドが空けられたりもしました。
しかし、それでも都市の爆撃被害は甚大なものでした。本書には写真がほとんど含まれていません。爆撃により死亡した人の写真も、運搬用のパレットの上に多数積み重ねられた死体の写真と、乾燥して縮んだ一人の焼死体の写真の2葉だけです。これらの写真が目を背けたくなるものなのはもちろんですが、爆撃被害の様子を綴った文章もきちんとというかかなり生々しく書かれていて、読むのがつらくなりそうなくらいです。がれきに埋もれた生存者を捜すのに聴音機が使われたり、多数の死体の収容に捕虜、強制収容所の被収容者、刑務所の囚人が使われたりなど、ドイツらしさを感じさせるこまごまとしたことも描かれています。また、地上戦が自分の住む都市に近づくのを感じながら、爆撃を受け続けなければならなかったドイツの人たちが、それでも政権に対する不満を公にすることは死を覚悟の上でなければできなかったことも触れられていました。
具体的な描写は本書を読んでいただくとして、ドイツの受けた戦略爆撃についての知識を日本人が得るためには悪くない本だと思います。私は本書を読んで勉強になったと感じています。ただ、読んでみて残念に感じた点も少なくありません。ひとつは、軍事用語の訳し方がまずい点です。私も軍事に関する専門家というわけではありませんが、本書には一般的に使われる日本語の軍事用語と違った言葉が訳語として使われている例がたくさんありました。また、本書の中には訳語の不統一が散見されます。例えば、複数の陸軍部隊の中の左に位置する部隊を指す時に「左側」と訳してある箇所があったり「左翼」と訳してある箇所があったり、またB-17と訳してあったり空飛ぶ要塞と訳されていたりなどするのです。そして、日本語として文法的にはおかしくないのだが意味が理解できないという訳文もみうけられました。一部は下記の表に挙げてみました。
訳語が統一されていない箇所があったり、意味不明の訳文があったりなどするのは、もしかすると訳者が本当は一人ではないからなのでしょうか?本書巻末にある訳者の略歴をみると大学の先生をしている方らしいので、輪読という形でゼミで学生に訳させて、それをまとめて本にしてみたけれど、目が行き届かなかったのかなと勘ぐってしまいます。それにしても、編集者も原稿に目を通しているはずなのに、この形で6600円の本にしてしまうとは。みすず書房はしっかりした本を出してくれる本屋さんだと信頼していただけに、残念です。本書のカバーには見慣れないマークがついていました。みすず書房の新しいマークなのかも知れませんが、その新しいマークが泣いちゃうよ。

ページ違和感ある訳語・訳文一般的にはこうなのでは?
16機上砲防御機銃
17二重、多重機関銃二連装、多連装機銃
17機上砲兵防御銃手
17回転砲塔回転銃座
17銃架銃座
17B17とB24はあらゆる方面から射撃可能な武器を満載した陵堡で、1943年以来、恐怖の飛行大隊ブロックとなって建物の四階に相当する高度で目標へと飛行していた「稜堡」は銃座のこと?それともflyng fortressとも呼ばれたから要塞という意味?
「建物の四階に相当する高度」の方はまったく理解不能
17「B24は2275トンの積荷と」積載量2275キログラム、ということか
18「ドイツ戦闘機群」Jagdgeschwaderなら「戦闘航空団」と訳す方がふつう
18「防御範囲の広い新型の随伴機」P-51についての文なので「航続距離の長い新型の護衛戦闘機」と訳すべきでしょう
22「目標のリストと爆弾投下口のあいだには連絡が必要であった。夕刻に基地を飛び立つ飛行中隊と、閉じた空間で隊員に都市名と飛行ルートを指令する装置は、何らかの線で結ばれている必要があった。」理解不能な文です。暗号化された無線通信で離陸後、乗員に目的となる都市とそこへの飛行ルートを報せる必要があったという意味??
31磁電管 マグネトロンと呼ぶ方が現在では一般的でしょう
44「軍隊は、戦争の常であるが、自発的にであれ強いられてであれ徴兵されて戦う」どんな原文だったのかは不明だが、「自発的」なのは志願兵・職業軍人になるので「徴兵されて戦う」と訳すのはおかしいと思う
94「ムスタングは柔軟性を欠く援護戦闘機から離れ、自ら集団で空中戦に参加し、飛行場に低空から攻撃を加えた」爆撃機部隊にはムスタングの他にも護衛戦闘機がついていて、ムスタングはそこから離れて迎撃戦闘機との戦闘に参加した、っていう意味?
97「4月20日夜、1115のイギリス軍機はフランス沿岸諸県の防御に当たっていた。」1944年6月のノルマンディー上陸作戦より前の話だが、イギリス軍機がフランス沿岸諸県の防衛にあたるようなことがあった??
98「軽量軍事船」こういう日本語はないでしょう
102「ジョーンズはヒトラーのV2ロケットの本質を把握していた。到達距離、弾頭、目標を狙う正確さにおいてはそれはV1とほとんど変わらないが、重量は14トンもあり速度は17倍であった。オランダ南西部の島、フーク・ファン・ホラントにある可動式発射台からたった五分でイギリスに到達し、それを防ぐ手だてはなかった。爆撃機は目標に到達することができなかった。戦闘機がそれに追いついて破壊できるからだ。だがロケットは被害を受けない。ジェット戦闘機といえども、その六分の一の速度しか出せないからである」「目標」は何を意味するの?最初と2番目の文の「それ」はV2のことで、3番目の「それ」は内容からV1だが、この章全体の意味が分からない。
104「モントゴメリーは侵攻軍の左側の軍勢とともに」イデオロギー的な意味ではなくて、軍事的な用語でも「左側」ではなくて「左翼」とすべきではないか。他の部分、例えば135ページではそうしてあるし。それとも全く別の意味なのか?
105「失敗に終わったアルンヘム上陸後の週も」アルンヘムは内陸にあって上陸するような場所ではない。マーケット・ガーデン作戦について書いてあるくだりだから、原文は「失敗に終わったアルンヘム空挺降下後の週も」という意味だったのでは。
109「突撃用大砲」きっと「突撃砲」のことなのでしょう
152「ブルーリバンド賞」「ブルーリボン」と呼ぶのがふつう
161「その頃イギリス軍はフランスでの上陸作戦後、まだ完全には帰還しておらず、ドイツの高射砲と戦闘機とあらためて対決する前のウォーミングアップとして、イギリス爆撃機軍団は沿岸部のシュテッティンとケーニヒスベルクを攻撃した」「帰還しておらず」はどういう意味?完全な状態に回復していないっていうこと?
175「ひね曲がり」 ひん曲がり?
190「気象柱の温度は夜間に摂氏10度から35度への気温上昇があったことを示している。」「気象柱」って温度計?
212「至近戦」「至近戦」とは聞き慣れない日本語。「接近戦」の方が良いのでは
215「1689年、プファルツ継承戦争でこの町を占領して爆撃し」17世紀だから爆撃ではなくて「砲撃」か
292「灯火弾」照明弾のことか
398「ドルトムントでは、空挺部隊員が上陸してガス攻撃の準備をしているという知らせで人々がパニックに陥った。」「上陸」は「降下」の方がふさわしい
1列3行2列3行3列3行

2011年4月3日日曜日

資本主義の起源と「西洋の勃興」

エリック・ミラン著 藤原書店
2011年3月 本体4600円
第1章では、ヨーロッパにおける資本主義の起源に関して、大きく四つの理論的パースペクティブがあるとして、正統派マルクス主義、ブレナー主義(ブレナー・アプローチ)、近代化論、そして世界システム分析による主張を紹介し、それぞれの問題点を指摘しています。正統派マルクス主義や近代化論は「産業革命が近代の経済成長の源泉ではなく」むしろ、産業革命以前に遡って捉えられなければならない多元的な過程の帰結なのだということを忘れがちなのである」ということで、まあ論外な印象。ブレナー主義的なマルクス主義者も、封建的農民と貴族との階級闘争に関心を集中させ市場の役割を最小限に切り詰めようとしていて「資本主義への移行の問題への取り組みが一般に中世ヨーロッパにおいてもっとも都市化が遅れた地域に集中している」というおかしな状況になってしまっています。
世界システム分析は、資本主義的な世界=経済の出現を征服と植民地化を通じた諸地域の包摂と(半)周辺化と表裏一体のもの、産業革命に与えられた重要性の虚妄をはごうとする理論であると著者は肯定的に評価しています。また資本主義への移行が封建制下のヨーロッパに起こり、それ以前にも、その他の地域でも起こらなかったことを論じる点で、世界システム分析は中世の問題を無視してはないません。しかし、「世界システム理論は、おおよそ紀元1500年より前の前資本主義的状況には、全面的には適用することはできないということで多くの論者の見解は一致している。すると疑問が生ずる。十六世紀より前には、資本主義はなかったのか。この問いに対する答えは、空間的前提のほうに同意するか、時間的前提の方に同意するかによってかわってくる」と著者は述べます。
「ウォーラーステインは資本主義への移行を1500年前後にお」き、例えば「1150-1300年の地中海地域のように資本主義的な世界=経済への移行が始まったと思われる地域・時期があったが、1450年に先立つ移行はことごとく流産した」としています。近代化論や正統派マルクス主義やブレナー主義と同じく「世界システム分析も「中世における資本主義の出現を説明するという点で一定の問題を抱えていた。それらが繰り返し論じてきたのは、中世の「後進性」、すなわち停滞した職人経済であり、資本主義の衣をまとった近代によって洗い流されるのを待つばかりの「封建制の危機」の主題」でした。しかし、例えば「ブローデルは、ウォーラーステインとは異なり、資本主義の概念を中世に適用することに躊躇などないのである。そればかりか、ブローデルは、世界システム分析の諸概念(たとえば、中核、半周辺、周辺など)をこの時代に適用することにもやぶさかでは」ありません。
著者も「16世紀初頭のこととされている商業的な資産経営の多くの側面は、その二世紀前にすでに興味深い等価物が存在し」ていると考えていて、「再考と検討を要するのは、資本主義が世界=経済に拡大する前の中世ヨーロッパにおける資本主義の出現についてなのである。中世に資本主義が出現したことは、賃金労働、階級闘争、資本の再配置、都市の中核による周辺的な農村の搾取、労働力費用の最小化とさらなる不断の資本蓄積を目的とした技術革新による労働力の代替(たとえば風車や水車)、物質世界の商品化、精神世界の合理化などに観察されうる。要するに、今日の資本主義の近代的特徴は、中世にルーツがあるのだ」「資本主義のいくつかの特徴が1500年以前ーーもっと正確に言えば1100-1350年ーーのヨーロッパにすでに強力に現れており、しかもその重要性が増大してきているというのなら、封建制は、突然かつ完全に、新しい別の蓄積体制に取って代わられたというよりも、むしろゆっくりと危機に沈んでいったというほうが説得的なのではないだろうか。あるいは別様に言えば、封建制のシステムは、緩慢で苦痛に満ちた衰退期に入り、最終的に資本主義の「論理」が支配的となることによって乗り越えられていったということではないだろうか」と述べ、「資本主義は12世紀以降のヨーロッパに出現したとする枠組みを提示」します。そして、ヨーロッパだけに資本主義が発生した理由として「都市国家間システムの重要性を強調」しています。
「ヨーロッパにおいては、商人共同体とギルドは、政治的に独立した都市国家(それは十六世紀の国家間システムの先駆的な形態である)において権力を求めて闘争した。そうした権力を獲得することが商人エリートとしての成功にとって決定的に重要であり、またそのことが国家機構を自分たちの有利に用いることを可能にした。結局のところ、長い目で見た資本蓄積の成功への鍵は、以下に課税を低く抑えておくかだけではなく、いかに国家が持つ資源(資本の最大化を円滑にする上では、できればその財源は貧しい人々への課税によるのが望ましい)を使って取引費用、輸送費用、安全保障の費用を最小化する」ことであり、商人が政治権力を握ったヨーロッパではそれが可能でした。
そして、このヨーロッパの都市国家間システムのユニークさを浮き彫りにするため、第2~4章で、16世紀以前の中国、インド、北アフリカの状況が紹介されます。ヨーロッパには遊牧民による破壊を免れたという幸運もありましたが、それだけが差異を生んだのではありません。中国やインドや北アフリカにも富裕な商人が多数存在していました。しかし「インドおよび中国において商人がーー信じられないほどの富を蓄積したにもかかわらずーー相対的に政治的権力を手にすることができなかった」ことが繰り返し述べられています。それらの地域の商人は政治的権力を握ることができなかったために「富の蓄積自体は(商人によるものを含めても)アジア、アフリカ、ヨーロッパを通じて、どの地域にも見られるものである。しかし、植民地化、搾取、中核による従属的周辺の支配という過程の推進から資本を蓄積するという体系的政策は、ヨーロッパの商人によって着手された、むしろ例外的な過程であ」り、その他の地域では資本主義を生みだすことができなかったというわけです。
世界システム論は好きな考え方ですが、本書は中世までを視野に入れ、商人の支配した都市国家というユニークな存在からなぜヨーロッパ発だったのかをより説得的に語った議論だと感じました。そもそもウォーラーステインさんだって、近代世界システムの最初の巻を書き始めた時には、近現代の状況の説明につながるかたちでの世界システムの出現の方に関心があって、ヨーロッパの中世に資本主義の萌芽をもたらす独特な要素の存在を全くみとないのかどうかについてまで細心の注意をもって見通していたわけではないと思うのです。ですから、本書のような議論が、その点を補強するようなかたちなのかなと。
で、これはヨーロッパ中心史観でしょうか?本書のなかで著者は、 ヨーロッパ社会に固有の一連の諸要素がヨーロッパの拡張を他の地域とは違う「特別」なものにしたという主張に同意しないと書いています。しかし、ヨーロッパに独特な都市国家システムと商人の政治的地位が、そうでないとはとても言えないのではないでしょうか。そもそもヨーロッパから始まる近代世界システムを語るには、ヨーロッパに特有の事情を持ち出さないことには納得ゆく説明ができないと私は思います。
一つの世界=経済ができあがる以前のヨーロッパ以外の他の地域、例えば中世以前の中国世界システムなどでは、中心が周辺を支配して不等価交換をしていたというようなかたちで説明されるような現象はなかったかんでしょうか。また、16世紀以降にではなく、12世紀に資本主義の起源を求める議論のさらに先には、いつかは第一ミレニアムの頃にもその片鱗をもとめるような議論が出てきたりはしないのでしょうか。その辺は気になります。
注が非常に多い著作なので、注をまとめて巻末や章末に置くスタイルではなく、各ページに配するこの本のスタイルは読みやすく感じました。

私的正誤表
ページ本書の中の表現より正しそうな表現
23王室財政が(イングランドとの交易の勅許に対して)外国商人からの受け取る支払いによる歳入は、全国王領からの歳入に匹敵するまでに増大した 王室財政が(イングランドとの交易の勅許に対して)受け取る外国商人からの支払いによる歳入は、全国王領からの歳入に匹敵するまでに増大した
67注5こういった「社会政策がキリスト教的慈善に動機によってではなくこういった「社会政策がキリスト教的慈善という動機によってではなく
79注93 最後に、以上に諸点の劣らず重要なのは 最後に、以上の諸点の劣らず重要なのは
122開封の市民には、「自分たちを利害を表明する機関としての独立した市政府はなかった開封の市民には、「自分たちの利害を表明する機関としての独立した市政府はなかった
127注68 実際に起こったものは、西欧貴族に全般的弱体性に関係している 実際に起こったものは、西欧貴族の全般的弱体性に関係している
142グプタ朝(およそ600ー900年)滅亡後の激しい経済的衰退ののち グプタ朝滅亡後の激しい経済的衰退(およそ600ー900年)ののち
154ブローテル ブローデル
171注43 イギリスによいる統治 イギリスによる統治
236スターン諸国家 スーダン諸国家

2011年3月30日水曜日

陸前高田のはなぎりだいこん


切り干し大根が好きです。夏はさっとゆがいてドレッシング。冬は煮て食べることがほとんどです。材料に使うのはふつうの切り干し大根でも良いのですが、私の好きなのはこのはなぎりだいこんです。この写真だと今ひとつはっきりしないかも知れませんが、これは大根を輪切りにしてあるのです。さっと煮ておいしく食べられ、このところは週に一袋くらい消費していました。
今日もいつものお店に買いに行きました。このはなぎりだいこんは姉妹品のてきりだいこん(太めの切り干し大根)・きりぼしだいこん(ふつうの切り干し大根)と並べて陳列してあるのですが、今日はその三つとも棚のいつもの場所に見あたらず、別の商品が置いてありました。お店の人にどうしたのか尋ねたところ、しばらく調べてから「陸前高田産ですから、入荷しないんです」とお答えいただきました。

帰宅してから、在庫のはなぎりだいこんの袋の品質表示のところを見ると、陸前高田市高田町字古川となっています。Googleマップで調べてみると海のすぐ近く。陸前高田市は津波の被害の大きかったところと報道されていますが、これを作ってくれた方たちのご無事をお祈りしながら、今晩いただくことにします。


2011年3月26日土曜日

水滸伝の世界

高島俊男著 ちくま文庫
2001年12月発行 本体800円
水滸伝は、徽宗の時代の宋を背景とした豪傑・好漢たちの物語です。もともとは宋江三十六人と呼ばれる盗賊たちをテーマとしたお話しでしたが、南宋・元・明の時代に大衆芸能の場で語り継がれるうちに、もとのお話しとは無縁のエピソードも付け加わってふくらんでゆき、明代の嘉靖期ごろになって本として出版されました。こんな経緯から、近代小説とは違って水滸伝の作者を特定することはできません。著者は本書の中で、まず主要な登場人物とその人物にまつわるエピソードを紹介しています。なじみのある有名なエピソードもありますが、単に筋を紹介するだけではなく、それらのエピソードを材料に水滸伝の成立過程の一端を明きらかにしてくれています。
さらに水滸伝の成立を研究するためには、オリジナルのテキストを決定することが必要になります。水滸伝の版本には、百回本、田虎・王慶に関するエピソードも加わった百二十回本、百二十回本から宋朝への帰順以降を除き豪傑・好漢たちの物語に的を絞った七十回本、挿絵とより簡潔な文で表現した文簡本などがあります。清代以降の中国では主に七十回本が享受され、その他のバージョンの版本は見あたらなくなっていました。しかし、日本には百回本、百二十回本がそれ以前に輸入され、江戸時代の日本では主に百二十回本が読まれていました。日本にあった材料をもとに、百回本→百二十回本→七十回本と変化したことを指摘したのは日本の研究者だったのだそうです。
中華民国期には日本の本をもとに百二十回本系統の本も中国で出版されるようになりました。しかし、伝統からか中華人民共和国期になっても、中国で親しまれている水滸伝は七十回本によるものなのだそうです。中華人民共和国期になっての大きな変化は水滸伝に対する公的な評価で、元盗賊でもある水滸伝の主人公たちを人民起義のさきがけとして肯定的に評価して出版されるようになりました。しかし中国で一般的な七十回本は、梁山泊に集合した豪傑たちは強盗として否定すべき存在で、全員が死刑になってしまうという夢で終わっています。文革の頃、農民起義の英雄たちが死刑になるような表現で終わる水滸伝を毛沢東は批判します。その後は、投降主義を学ぶ反面教師だとうたって水滸伝を出版せざるを得ない時期がありました。謳い文句は何にせよ、出版はできたのですから、やはり中国は上に政策あれば下に対策ありの世界ですね。水滸伝は最初に出版された後にも変化を続けた歴史があり、新中国になってのこれらの変化もその一環とする見方もあるそうです。しかし著者は
さまざまな水滸伝が生成流動したのは、明の中期から末にかけて、すなわち十六世紀半ばから十七世紀前半にかけてであって、以後三百年、水滸伝の動きはとまっている。だからこそそれは、古典文学作品なのである。水滸伝はたくさんあり、また動いてきたものであるから『定本』ができるのはこれからである、というのは、三百年の静止を無視するものであり、論理の飛躍があるようにわたしには思える
と書いていて、私もその意見に賛成です。ただし、新中国になってからの変化は、中華人民共和国の性格を考える上での格好な史料とはなるでしょうね。


中国では失われてしまったが日本でみつかり、中国に里帰りしたという書籍の話は他でも目にしたことがあります。水滸伝の百回本や百二十回本は、その後中国でもみつかったそうなので逸書とまではいえませんが、その仲間には入るでしょう。こういうエピソードを読むと、日本では古い書物が大事にされると考えてしまいがちです。でも、水滸伝のような通俗読み物の場合には、七十回本のような新しいバージョンが人気を博して古いものが廃れたというだけのことで、日本に残っていたのも、単に舶来崇拝で保存されていた結果というような気もします。
水滸伝の内容自体は読んでみてのお楽しみなのだと思いますが、本書に言及されていたエピソードで気になったのはヒトの肉を食べること。水滸伝には、旅人を殺害して人肉饅頭にする人肉茶店や、仇を食べてしまうというようなエピソードもでてきます。著者は
いったい水滸伝は、今でこそ古典ということになっているが、もとをただせば寄席の語りものであり、大衆小説であり、つまりごく低俗なものであるから、鬼面人をおどろかすというか、悪趣味というか、ことさら刺激のつよい話柄をもちだして聴衆なり読者なりを気味わるがらせようといったところがある。人が人を食うということは、いくら昔の中国でも、きわめて異常なことであり、気味のわるいことであったにちがいないので、講釈師や小説家は、必要もないのにわざとそんな話をもちだすのである。つまりは小説の中のオハナシというわけだ
と述べていますが、この見解は少し疑問。こんな風に人肉食が扱われている日本の古典通俗読み物ってほとんどないと思うのですが、どうでしょう 。羅生門だって蛇の肉だし、私にはカチカチ山ぐらいしか想い浮かびません。本書にも触れられていますが、桑原隲蔵さんが中国の人肉食について書いています。「支那人の食人肉風習」と「支那人間に於ける食人肉の風習」の2編は青空文庫にもあり、私もiPhoneのbREADERで読みました。それによると、人肉食は古くから清代までの正史にも取り上げられていて、中国の人にとっては決して珍しい風習ではなかったようです。日本人の人肉食への感じ方とはきっと違うから、水滸伝の中でも当たり前のように扱われていたのだろうと感じます。




本書の文庫版あとがきには
この『水滸伝の世界』を書いたころわたしは毎日を研究室ですごしていて、日本の本を読むことはほとんどなかった。だから日本の事情についてはしごくうとかった。学校をやめてから、日本では、水滸伝と三国演義(日本ではこれを「三国志」と称している)とを同等にあつかっていることを知って、たいへんおどろいた。 文学作品として見れば、水滸伝と三国演義とでは、その価値に天地の懸隔がある。中国では、そして日本でも中国研究者にとっては、それは自明である。自明だから、それをとりたてて言う者もいない。 なぜ日本ではその、月とスッポンほどのちがいがわからないのか。考えてみれば当然であった。日本人はいずれをも翻訳で読んでいるからである。
と書かれています。水滸伝は中国白話文の最高峰で、三国演義は『後漢書』『三国志』を抜き書きしてつないだだけなのだと。へー、そうなのか。私もふつうの日本人なので、月とスッポンの違いを知りませんでした。このあとがきが本書でいちばん勉強になった部分でした。

2011年3月12日土曜日

地震による本のなだれ


昨日は、近くの病院の眼科の暗室の中で検査を受けている時にゆっくりと揺れ始めました。私は東京の多摩地区に住んでいますが、本震もかなり長く、しかもこれまでに経験した中で最も大きな地震でした。受診後に帰るとエレベータが止まっていて、12階の我が家まで階段を昇るのが一苦労。そして、自宅に着くとエアコンの室外機が転んでいました。
室内には小さなものがいくつか落ちていました。また液晶ディスプレイを並べて2つ載せてあるテーブルが、いつもの場所から20cmほど横に移動していました。テーブルが動いてしまうとは、震度5も侮れないものと感じはしましたが、目立った点はそれぐらい。大したことはないなと安堵しながら本の置いてある部屋のドアを開けようとしたところ開きません。鍵をかけるはずはないので嫌な予感。渾身の力をこめてドアの上側の方に数センチの隙間を開けてみると、床の上に本が見えます。なんとか隙間から潜り込むと、スチールの本棚が三つ倒れていて、また倒れていない書棚からも多数の本が落ちて床に積もっていました。空っぽになった棚の数から推定して、1000冊以上落ちた模様です。唖然として片付ける気にもならず、使う部屋でもないので昨日はそのまま放置してしまいました。本を捨てることがなかなかできず、あまりに本が多くなったのでこんな目にあうのだと反省しています。処分する本を選ばなければとも思うのですが、昔読んだ本を久しぶりに手にとると懐かしくて目を通してしまい、時間ばかりかかってちっとも処分できない片付けになってしまう気もします。

2011年3月7日月曜日

光る源氏の物語


大野晋・丸谷才一著 中公文庫
(上) 1994年8月発行 本体838円
(下) 1994年9月発行 本体933円
この光る源氏の物語という本は、もともと中央公論に掲載された対談がまとめられ、1994年に文庫化されたものだそうです。私が今回購入した2冊は2008年に再版されたものでした。源氏物語千年紀と印刷された帯がつけられていましたから、それにちなんで再版したんですね。でも、そういう催しがあったこと自体、私は知りませんでした。源氏物語と言えば、高校時代の古文の教科書に、若紫の巻からとった幼い紫の上の姿が載せられていたのをおぼえています。でもそれ以来、源氏物語は苦手です。なぜって、とにかく文章が難解ですから。一般に、鎌倉時代以降の文章に比較して、平安時代に書かれた作品は読んでいて理解しにくく感じるのですが、源氏物語は群を抜いて難解なのです。
難解で敬遠気味だった源氏物語に関する本書をなぜ手に取る気になったのか。ここ数ヶ月、源氏物語に関する項目、青表紙本系や河内本系など数々の写本、注釈書や研究などなどについて、たくさんWikipediaに書き込んでくれている方がいます。どれもかなりの分量だし、読んでいて面白いし、書き込んでくださっている方にはとても感謝。そして、その書き込まれた記事からあらためて源氏物語に対する興味をもちました。
そしてそういう興味にひかれて何か読もうとした時に本書はとても魅力的に思えたのです。丸谷さんは、後鳥羽院がとても鋭い本でした。また、大野さんの方はタミール語に関する御説はおいとくとして、岩波古語辞典(1974年)の助動詞に関する解説や、係り結びの研究(1993年)、そして新書でしか読んでいませんが日本語の活用形の発展に関する説など、どれを読んでも勉強になるものばかりです。それに加えて、大野さんの著書では1996年に岩波の同時代ライブラリーの古典を読むというシリーズで出版された「源氏物語」を読んだことがあります(今は同時代ライブラリーはなくなって岩波現代文庫になっている模様)。
大野さんはその中で、藤裏葉までの33帖を最初に書かれたa系と後から挿入されたb系(玉鬘系)、そして若菜から幻までのc系、匂宮から夢浮橋のd系に分類することを提唱していました。a系b系の区別が昔は知られていたのに、江戸時代の国学者たちの読みによって忘れられ、昭和になって武田宗俊さんという方が再発見して源氏物語の成り立ちとも絡めて論じたのだそうです。大野さんはこれに加えて紫式部日記から著者である紫式部の人生に起こった事件によって著者自身が苦悩・成長・変化していったことと、a系b系以後のc系d系の物語の語られ様の違いとを関連づけて論じている、とても説得的な本でした。本書はその大野説を持論とする大野さんと批評家・小説家の丸谷さんの対談ですから面白くないわけがありません。
例えば、桐壺と箒木のあいだに「かかやく日の宮」という一帖があって、失われたのではないかという説について。「かかやく日の宮」は書かれたけれども失われたとすると、史料から平安時代にすでに失われていたことが分かるので、執筆後かなり早い時期に失われたことになります。失われた事情がうまく説明されないと、「かかやく日の宮」の存在を信じることはできません。本書のお二人は「かかやく日の宮」があったとする説のようです。光源氏と藤壺の密通について「帝の妃を犯すにはどうすればいいかという完全犯罪ですよ(笑)。一流の探偵小説作家になれるような人です」と評して、物忌みの日は人目に付きにくいという事情を利用して二人が関係したと推理しています。物忌みは固く守るべきタブーですから、それを利用した密通というのはあるまじきこと。そのあるまじきことを記した「かかやく日の宮」はごく初期の読者によって、本書では藤原道長が想定されていますが彼によって破棄されたとしているのです。これだと、かかやく日の宮」が平安時代の読者たちにとっても失われた巻であったことがよく説明されていて、とても説得的に感じました。ただ、物忌みを犯すタブーを書くことが禁じられるべきことだったのに、帝の妃を犯すこと自体は物語として書くことができたというのは、不思議な気もしますが。
題があるけれども本文のない雲隠は、紫式部自身の趣向だろうと評されています。また、それに続く匂宮、紅梅、竹河の3帖については、筆の運び、筋が不安定、無くても読めることなどから、紫式部の書いたものではないと本書では評価しています。逆に言うと、その他の帖は巧拙、単語の使用法、文の長短などいろいろあっても、基本的には紫式部が書いたものだろうというのがお二人の意見でした。
ただ、a系b系c系d系には明らかに違いが感じ取れるそうです。紫式部という著者自身が書き進めるうちに上手になっていったのはもちろんでしょう。しかし「なぜ、c系列以後がこんなにも景色が悪いか、a系列とc系列の世界が質的になんでこんなに違うのか。単にこれは光源氏がだんだんと没落して死んでいく経過をかくのだから、とか、紫式部が上手になったからというだけでは説明ができない。」「c系列の物語で扱われている主題は全部三角関係です。男と女とがやむにやまれない三角関係へ追い込まれていって、それまでは存在していた大事な愛がそれぞれみんな壊れてしまうという点で話題は共通している」という事情があります。大野さんはこれを「道長の息子・頼通の結婚問題で、紫式部は道長との間がまずくなり、突き放されたという事件に出会った」からだろうと推理しています。仕えている彰子の父であり、愛人として遇してくれる人であり、パトロンでもあり、紫式部にとって重要人物だった道長に女としては捨てられてしまったことが、c系以降の物語に大きく影響したのだろうというわけです。これが定説になっているかどうかは不明ですが、素人目にはとても説得的な説ですね。
などなど、面白く刺激的な論点がたくさんつまっているし、物語の解釈の仕方にも斬新な視点が少なからずあって、とても面白く読める本でした。おすすめです。

2011年2月6日日曜日

日本中世貨幣史論


高木久史著 校倉書房
2010年11月発行 本体10000円
中世後期の貨幣のありようについて、16世紀の銭使用の状況の変化、撰銭令と都市の食料需給安定化政策の関連、16世紀の金銀米使用の進行、徳政と掛け取引と為替、石高による知行制と貢租収取制度の成立過程などなど、広範なテーマが取りあげられています。先行研究をきちんと紹介し、海禁や倭寇の沈静化で中国からの銭の輸入・流入量が減ったことが貨幣の使用状況変化の契機として提起されるなどの近年の新たな話題にも触れ、文中に採りあげた史料は素人にも分かるように解説し、文章も平易で読みやすく、とても勉強になりました。私は著者と一面識もありませんが、「ではないか」「ないだろうか」がとても多い文章から誠実そうな人柄を想像してしまいました。私は専門家ではないので、著者の個々の主張についての当否を論じることはできませんが、素人が読みながら感じた分からない点、不思議に思うことをあげてみます。
中世後期に混乱していた銭の価値が「かつての通用銭の基準銭化」という形で整理されてゆきます。この際に「通用銭使用の普及の原因の一つに、16世紀における中国からの銭供給量の減少があるのではないか。従来の議論では、この減少を米の貨幣的使用の普及の原因としてきたが、米のみならず金・銀や、さらには本章で示したように旧来の通用銭などの代替手段の普及をもたらしたのではないか」と著者は指摘しています。最終的には、金・永楽銭・鐚銭の比価が公定され統一されます。鐚銭四貫文=金一両という公定比価、および通用銭となった鐚銭建ての米価は、中世の撰銭行為が激しくなる前の通用銭と金の比価や銭立て米価と比較すると、銭高?銭安?それとも同じくらいだったのでしょうか?
鐚銭が通用銭になった契機が中国からの(精銭となりうる)銭の供給量の減少だったとすると、日本国内に流通する精銭の数量が数十年でかなり減ってしまい、精銭の価値についてはかなりの銭高になるのが当然のような気がします。中世後期の撰銭令で並銭・悪銭が精銭の二分のから三分の一、そして江戸初期に四分の一に評価されるようになったということは、単に精銭の価値が高くなったからでしょうか。それとも、並銭・悪銭に関しては日本国内で充分な量または充分以上な量が私鋳されていて銭不足ではなくてインフレーションだったのでしょうか。一世紀くらいの長い目で見ると鐚銭建ての金や米の価格はあまり変化がなかったかどうかがその辺を教えてくれないでしょうか。また、撰銭という現象が混乱を招いたのは、かつての通用銭が精銭と変化し、新たに通用銭になる私鋳された銭が通用銭となる過程で、日本全国一律に同調して信頼を得ていったわけではなかったからというだけのことなのかどうか。
本書には「撰銭令の個別的性格の検討という方法をとった。結果、食糧需給に関する規定や価格抑制に関する規定を含む事例が多いということを示」されています。「銭に関して規定することにより立法者が何を制御しようとしているのか、という視点から撰銭令を検証した」ということでその点ではお説ごもっともなのですが、撰銭令によって都市における食糧需給安定化が多少なりとも実現したのかどうかがとても疑問です。もちろん、現代でも経済政策が意図した結果を導かないことはたくさんありますから、発令者の政策意図を探ることに意味がないとは思いませんが。「被忌避銭の価値を政策により担保し、銭を持つ者の食糧需給を充足しようとする政策」と著者は書いています。撰銭がふつうに行われた時代には、銭で所得を得ていた都市生活者には被忌避銭ばかりが支払われ、その被忌避銭を対価としては米など生活必需品を売ってもらえない状況があったということでしょうか。日常的にそうなら、銭を所得とする人の側も被忌避銭が労賃として支払われることを忌避・撰銭して生活を守るはずだと思うのです。もし食糧需給安定化を意図した撰銭令があるとすると、被忌避銭も含め銭自体を対価としては米を売ってくれないくらいに混乱した状況なら意味がありそうだとは思うのですが。また、「中近世移行期に撰銭令が多数制定されたという事実は、当時の政治的課題への対処の結果にほかならない」とあります。不作・飢饉は中近世移行期に限らないはずなのに、なぜ中近世移行期に多いのでしょうか?それは撰銭現象があったからだと答えることになるのでしょうが、それなら「当時の政治的課題」というのは不作・飢饉による食糧需給の不安定化ではなくて、撰銭現象ですよね。
「撰銭令の発令契機と撰銭の発生契機とは第一次的には別次元の問題として扱う必要があると考えている」と著者は書いていて、これはその通りだと思います。で、個人的には撰銭令の政策意図なんかよりも、撰銭の発生契機や、撰銭が具体的にどんな風に行われていたのかの方にずっと興味があります。例えば、第四部では為替がとりあげられています。京の大徳寺が越前の末寺から未進の年貢を取り立てるのに、逆為替をつかっていたそうです。大徳寺は越前に仕入れに行く商人にその為替を京都で割り引いてもらい銭を入手し、託された商人は越前の寺に赴いて為替を提示して支払いを受けるという仕組みです。「商人は地方での仕入れ費用を調達できた」という利点があるそうですが、この取立為替五貫文分の料金(運賃)がたったの350文や500文。「中世工人の標準日給が百文」と別の箇所には書かれていますからかなり安いですよね。越前に出かけるのは自分の商売のためで、為替の取立はそのついでだからということはあるのでしょうが、未進の年貢だから取立に失敗する・支払いを拒否されるリスクもあるでしょうし、こんなに安くていいのかしらと心配してあげたくなるほどです。そして、この取立為替に撰銭現象は影響していなかったのか気になります。商人が京都で大徳寺に渡した五貫文は京での通用銭(と京での常識的な割合の鐚銭も混入していたかも)でしょう。越前でこの商人が取り立てる五貫文は越前での通用銭(と越前での常識的な割合の鐚銭も混入していたかも)ですよね。京の五貫文と越前の五貫文は同じだったのでしょうか。商人が得る五貫文は越前で仕入れに使ってしまうから、その点はどうでもいいのか。この史料からだけでは不明です。
242ページには大豆の売買に関して、買い手は悪銭で支払いたがり、好銭を要求されると大きな升を使えと反論した例が紹介されています。希望としては、こういった具体的なせめぎ合いのエピソードを多数集めて(史料が乏しいのかも知れませんが)撰銭のありようを教えてもらいたいものです。
288ページに、織田信長が岐阜城の土蔵に保管してあった銭を伊勢遷宮に際して寄付するのに、金銀でなく銭で贈ったエピソードが紹介されています。貯蔵されていた銭ですから織田側の意識としては決して悪銭という意識はなかったでしょうが、贈られた銭を神宮側はビタと認識したのだそうです。で、金銀でなく、保管してあった銭そのものを贈るのに「縄の新調には相応の費用がかかる」と著者は書いています。いくらくらいかかるんでしょうか?緡の縄(紐?)の値段がいくらぐらいだったのか昔から不思議に感じていて、省陌法で銭の枚数が少ないのは縄(紐?)の値段のせいもあったのかと思えてしまうくらいです。