2010年3月7日日曜日

天孫降臨の夢

大山誠一著 NHKブックス1146
2009年11月発行 本体1160円
日本書紀は藤原不比等の構想のもとに書かれたという著者の考えを展開した本です。著者はこれまでも聖徳太子はいなかった説にもとづく本を著していますが、本書の第Ⅰ部「日本書紀の構想」でも聖徳太子はいなかった説にあらためて触れています。
著者によれば、隋書に男性として描かれている当時の倭王は蘇我馬子で、聖徳太子というのは蘇我馬子の功績を隠し、萬世一系を示すために創造された人物だということです。継体朝がそれ以前の大王の系譜と途切れていることは明らかですから、石舞台古墳の存在や日本書紀の記述ともあわせて、継体朝の次に蘇我朝があったこともうなづけます。また、厩戸王という蘇我系の有力王族がいたことは確かだと思いますが、その人と確実な史料に乏しい聖徳太子の事績とは全く別物というのはきっとそうなのでしょう。ただ、三経義疏が聖徳太子の著作ではないことは当たり前に感じますが、著者によれば天寿国繍帳や焼け落ちて再建された法隆寺の仏像も飛鳥時代につくられたものではないとのことです。こちらに関しては美術史家たちの反対がありますが、様式以外に具体的な証拠を示さないと、著者の説の方がもっともらしく感じられなくもありません。
壬辰の乱後に即位した天武天皇は神とあがめられた専制君主というのが教科書的な説明です。しかし、著者は天武天皇を凡人として理解しようとします。壬辰の乱自体が、白村江の敗戦後に対外的に消極的となった中央の豪族層が唐に対して協力し新羅とは敵対する積極的な対外方針を示した近江朝を転覆させた事件で、大海人皇子は英雄的に活躍したわけではなく単にみこしとしてかつがれただけだとするのです。
それ以前から合議制の伝統があり、また天武天皇もカリスマではなかったとすると、律令の制定によって天皇が専制君主になったように見えても実際には合議制をとる太政官に制約される存在でしかなかった、そして太政官を実質的に支配するのは藤原氏だった、ただこの天皇の下での藤原氏に率いられた合議制が安定するためには権威、つまり天皇の神格化が必要で、そのために藤原不比等は神話を作ろうとしたというのが著者の考え方です



その日本書紀の神話に藤原不比等の構想の具体的な証拠をしめそうとしたのが、 第Ⅱ部天孫降臨の夢です。日本書紀の天孫降臨には、一書に曰くと言う形で異なったストーリーがいくつも載せられていますが、著者はこれらをアマテラス系タカミムスヒ系と分類します。藤原不比等は政界デビュー後、皇后(後の持統天皇)と協力して草壁皇子の即位に尽力しまが、草壁皇子は即位前に死去してしまいます。そこで、持統天皇が即位して、草壁皇子の子供である軽皇子の将来の即位を正当化するためにつくられたのが、アマテラス系のお話しだと著者は説明しています。狙いどおり、成人後に軽皇子は文武天皇として即位しますが、25歳で死亡してしまいました。そこで、不比等は自分の娘である藤原宮子と文武天皇との子である首皇子(後の聖武天皇)の即位を狙い、中継ぎの女帝として草壁皇子妃を元明天皇とします。首皇子の即位の正当性を示すためにつくられたのがタカミムスヒ系のお話しだとのことです。著者の示した図を見ると、たしかに人間関係的には神話と不比等が即位を意図した皇子たちとの間に類似がみてとれます。



天孫降臨系の神話は藤原不比等(+ブレーンたち)の創り上げたものであるとする著者の説には、必ずしも納得できない印象を持ちました。まず、日本書紀を書物として最終的に完成させる際に、アマテラス系タカミムスヒ系のお話しを複数載せる必要性があったことが不思議です。首皇子が即位を予定している頃に編纂を終えた日本書紀ですから、タカミムスヒ系のお話しを一つだけ載せれば充分だったはずなのに、「一書に曰く」がいくつも併記されているのは変です。ふつうに考えれば、日本書紀の編纂時に天孫降臨のお話しがいくつも存在していたとする方が無理がない。
また、継体天皇が応神天皇の5世孫とされたり、蘇我氏が大王であった存在を隠したりなど、日本書紀が萬世一系の天皇を神格化することを意図していたことには同意します。でも、現に生きている皇子を神格化するために日本書紀が書かれたという著者の説には疑問を感じます。不比等は日本書紀の読者を誰と想定していたのでしょうか。当時の中央の豪族が想定読者だった?漢文の日本書紀を読めた人がそんなにたくさんいたのか疑問ですし、豪族たちがたとえ日本書紀を読めた・読んだのだとしても、首皇子の即位を神話が予言したから尊いのだと感じるものでしょうか。
それとも、不比等の想定読者は未来の人たちで、自分の子孫の代に向けて藤原氏の主導する太政官制度の下の天皇制を神格化する目的だったのでしょうか。平安時代どころか現代までこの萬世一系、天皇の神格化が影響しているわけで、その意味では大成功です。ただ、藤原氏の権力が確固としていた平安時代中期と違って、いくら有能な不比等でもそんな先のことを考えて行動する余裕があったとは思えないのですが。

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