デレク・ブルーア著 八坂書房
2010年8月発行 本体5800円
チョーサーは有名なイギリス中世の文人です。わたしには文学作品を読む趣味がなく、恥ずかしながらこの年になるまでチョーサーの作品を読んだことがありません。それなのになぜこの本を購入する気になったかというと、詩人と歩く中世というサブタイトルが付いているように、この本はチョーサーの作品の解説書ではなく、チョーサーの生涯をたどりながら、チョーサーの生活した範囲のイングランドの社会の様子を描くものだったからです。
チョーサーは裕福なワイン商人の息子として生まれ、貴族・王室の宮廷に宮仕えし、イタリアやスペインにまで外交使節として派遣されたり、ロンドン港税関や王室の不動産の営繕の役職につくなどして生活した人でした。その間に英語での文学作品をたくさん書き、それらの作品は生前から上流階層の人たちに評価されていたのだそうで、そういった様子がこの本からはよく伝わってきます。
また本書には、チョーサーの作品自体を知らなくとも、当時の生活の一端をかいま見ることができるようなエピソードがたくさん触れられています。例えば、87ページには「子供が病気になると、子供本人ではなく、乳母に投薬された」と書かれていますが、そういう風習があったことを初めて知りました。現在なら、授乳中の母親へのクスリの処方にはかなり気を遣うものですが、逆に乳汁への移行を期待して乳母にクスリを飲ませたとは!まあ、ほとんど効果は期待できないでしょうが。
また、高校の世界史で習った以来に目にしたことのなかった言葉、ワットタイラー。タイラーはTilerで瓦(タイル)職人という意味で、もしかすると本当に瓦職人だったのかもしれないだとか、また彼が頭目になった農民一揆の鎮圧は難しく、ロンドンで彼は国王と直接交渉を行うまでに至り、そこでロンドン市長に殺害されたこととか、興味深く読めました。
チョーサーは日記を残したわけではなく、本書も残された記録類などの史料をもとに書かれています。しかし読み終えての印象は、同じ頃の日本史関連の本で言うと看聞日記をもとに書かれた横井清さんの「室町時代の一皇族の生涯」講談社学術文庫とか、言継卿記をもとに書かれた今谷明さんの「戦国時代の貴族」講談社学術文庫なんかに近い感じです。なので、文学好きでなくとも、面白く読めます。
本書冒頭の「日本語版に寄せて」には、著者のブルーアさんが1950年代に来日してICUで教鞭を執ったことが触れられています。本書の前半には数カ所、中世イングランドとの比較の材料的に日本に対して言及した部分があります。チョーサーの世界とは全く縁のない日本と言う単語が出てくるのは、日本で過ごしたことがあるからですね。また「一九五○年代半ば、イギリスと日本、両国は政治的には表向き良好な関係にあったが、国民感情としては依然わだかまりがあった。桝井教授にお会いするまで、日本人に対する私個人の第一印象は、日本軍に捕らえられた友人の何人かが戦争捕虜として野蛮な扱いを受けたことにとらわれがちだった」とも書かれていました。著者自身は日本での生活体験からこの種の対日観を払拭したかも知れませんが、来日することなどなかった普通のイギリスの人の間にはこの対日観がずっと今でも通奏低音として鳴っているのでしょうね。
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