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2012年2月18日土曜日

江戸城御庭番

深井 雅海著
中公新書1073
2008年3月5日8版
先日読んだ、江戸城 本丸御殿と幕府政治(中公新書1945)がとても面白かったので、同じ著者による本書を読んでみました。御庭番と言えば隠密、東西冷戦下につくられた娯楽作品では、大名領国に入り込みスパイのような活動をしていたかのように描かれていた印象があります。本書は実態がそうではなかったことを史料を示して明らかにしてくれています。まず、徳川監察政治と御庭番という章には、吉宗が将軍に就任して御庭番が作られる以前にも、伊賀者、目付、大目付、諸国巡検使、国目付といった役職が情報収集活動に携わっていたことが書かれています。しかし、これらは将軍直属という性質を失ったり、また大目付のように殿中の式部官的な存在に変質していったりなど、江戸中期には「将軍の耳と目」という役割を果たすことができなくなっていきました。そこで、宗家を次いだ将軍吉宗は、紀州藩主時代から近習を「将軍の官邸にあたる中奥の長官」である御側御用取次に任命しましたが、同じく紀州藩時代に隠密として使っていた役職の人たちを御庭番として活用し始めました。
御庭番は、将軍が老中以下の行政機構に対抗し、幕政の主導権を握る際の重要な手段としての機能を持ち、その役割は幕末まで維持されたのである
と、著者は指摘しています。専制君主であるはずの将軍も独自に情報を得なければ幕政の主導権を握れないことを、紀州藩主時代の経験から吉宗さんは自覚していて、御庭番的な役職を作り出すことにしたのは確かでしょう。しかし、その後の将軍もふくめて将軍一般について幕政の主導権を握る際の重要な手段だったといえるのかどうかには、少し疑問も感じます。一つは、吉宗さんは自分のためだけに情報収集をしてくれる人を用意したわけで、自分の子孫たちのことまで考えていたのかどうかはっきりしないこと。たまたまその職・制度が廃止されずに幕末まで続いてしまったと言うことですよね。また、史実では吉宗ほど優秀で幕政の主導権を握ろうとしていた将軍ばかりが続いたわけではありません。本書にも
御庭番の勤め向きの再把握と新たな指令は、将軍補佐役である松平定信が、こうした情報を収集するために、将軍の名を体して御庭番を活用しようとした
と書かれているように、将軍は権力をもつ存在ではあっても、やはり常にリーダーシップをとれたわけではないようですから。
御庭番の情報収集活動が、江戸向地廻り御用と遠国御用について、それぞれ具体例をあげて説明されています。前者では例えば天明七年の江戸打ちこわしに関する風聞書が挙げられ、騒動の原因として月番の江戸町奉行の対応に問題があったことが報告されていて、彼はその後に更迭されてしまったのだそうです。以前読んだ岩波文庫の旧事諮問録の下巻にも御庭番について経験者の談話が載せられていました。本書にも旧事諮問録からの引用がありますが、本書の優れている点は、御庭番の歴史、就任した家筋などの基礎的な知識を踏まえた上で、具体的な例の説明として引かれている点で、旧事諮問録を読んだだけでは漠然としていたものが、とても理解しやすくなっています。
遠国御用の例としては、薩摩藩を対象とした探索の記録から、下命や復命の式次第、準備の様子、九州下向の旅程と日数、かかった費用、報告書作成の実際などが細かく説明されていました。これは調査に赴いた人がおぼえのための手記を残していて、それが現在にまで伝わったからわかることで、なかなか希有な史料ですよね。
それでも実際の調査をどんな風に行ったのか、誰にインタビューしたのか、誰の談話を重視したのかなどは、史料の限界からか今ひとつはっきりしません。現代のジャーナリストによるルポルタージュを読む際にも、これらを踏まえることが重要だ思いますが、御庭番の報告書(風聞書)を読む際にもそれは無視できないかなと思うので。特に、薩摩藩の調査旅行では薩摩藩領内にはふみこめていなかったそうなので。

2012年2月5日日曜日

増補改訂 古代日本人と外国語

湯沢質幸著
勉誠出版
2010年11月15日 初版発行
東アジア異文化交流の言語世界というサブタイトルがつけられていますが、まず桐壺帝が幼い光源氏を高麗人の相人にみさせたという源氏物語の有名なエピソードを例にとり、そこでの相人と光源氏を連れて行った博士との会話には何語がつかわれていたのか、さらに渤海使・遣渤海使、新羅使、遣唐使、唐への留学僧などが何語で意思を通じていたのかと著者は問うています。源氏物語には何語が使われていたかは記されていませんし、史実の交流の史料に使われた言語が記されている例はほとんどないのだそうです。ただ、いろいろな状況証拠から、中国語をつかった会話か筆談というかたちで、ほとんどの場合に中国語が使われていたことを著者は示しています。これだけだとやはり中国語が使われていたのかという風に感じてしまいますが、本書の内容はそれだけではありません。
  • 時の政府が、古くからの呉音に代えて同時代中国語であった漢音を重視したこと
  • 仏教界ではその方針が徹底しなかったが、儒学教育を行う大学寮では中国語音での音読、つまり素読が初学者に課されたこと
  • その結果、今に至っても漢字の音読みに呉音と漢音が併存していること
  • 平安時代に、音読み重視から訓読みに変化していったこと
  • 交流に参加した通訳の仕事や地位

などが触れられていて、とても面白く読めました。留学僧の例として円仁が挙げられていましたが、数年前「円仁 唐代中国への旅」講談社学術文庫を読みました。中国の黄海沿岸には新羅人の在外コロニーがあって、貿易などに従事し、日本からの旅行者の便宜もはかっていました。遣唐使には新羅語・奄美語の通訳が含まれていたと本書には書かれていましたが、朝鮮半島に沿って航海する場合だけでなく、中国でも新羅人のサービスを受けるのですから、新羅語の通訳を連れて行くのは当然ですよね。でも奄美語の通訳というのには驚きます。万一の遭難・漂流の際に役立つのは確かでしょうが、そもそも奄美語にも通訳が必要だったこと自体にびっくりさせられます。また、蝦夷にむけた通訳が存在していたことも触れられていました。
また、日本の政府は中国語の通訳を養成する努力をしていましたが、新羅語通訳に関してはほとんど養成を試みなかったのだそうです。その理由として、8世紀になっても日本国内に朝鮮半島からの新来の移住者やその子孫がいて、わざわざ通訳を養成しなくとも事足りていたからなのだそうで、これも目から鱗の指摘でした。
儒学界では音読が重視されていましたが、発音・音読の能力よりも儒学そのものに対する能力の方が尊重されたので、優れた儒学者だからといって、すべての人が上手に発音・音読できたわけではなかったそうです。自分自身の中学高校時代の英語の先生を思いだしてみても、発音の上手な人と上手でない人がいました。初学者である生徒の私にも発音の上手下手を見分けることができたのは何故かというと、ネイティブの発音を聞く機会が少なからずあったからだと思います。もちろん英語を母国語とする人と会って話を聞く機会はほとんどなくても、テレビやラジオや映画などのメディアを通して英語に曝されていましたから。そう考えると、奈良時代から平安時代初期にかけて、日本の大学寮で学ぶ・学んだ・教える人たちには、ネイティブな中国人の発音を聞く機会がどのくらいあったのかが気になります。そういう機会がなければ音読の巧拙を知るのは難しいんじゃないでしょうか。もしかすると、遣唐使も渤海使もなくなってしまった平安時代中期以降の平安京ではネイティブの発音を聞く機会はほとんどなくなってしまい、そういう事情があったから儒学界でも訓読が一般化してしまったのかなと本書から感じました。