角川選書509
平成二十四年六月二十五日 初版発行
著者の黒田さんはストーリーテラーとしての才能もお持ちのようで、本書は極上のミステリーでもあるなと感じました。しかも、黒田さんの絵画史料に関する著作をこれまでに読んだことのある方ならお分かりのように、神護寺三像が誰なのか、つまり犯人が誰なのかがあらかじめ知らされているタイプのミステリーです。それでいて、終わりまで面白く読める素晴らしい作品でした。
本書は、歴史家の著作にふさわしく、明治の古美術保護の動きから近年までの神護寺三像に対する研究史の整理と紹介から始まります。これは本書の議論を理解するための基本を読者に示してくれる部分で、とても勉強になるとともに読んでいて飽きさせません。続いて、なぜ神護寺三像が頼朝、平重盛、藤原光能の3名であると伝えられて来たのかという当然の疑問への解答が示されます。戦国時代の大火で荒廃していた神護寺を復興させるため、神護寺は徳川家康に勧進を訴えますが、その際に
神護寺にあった名無しの肖像画のなかから、かつての足利直義像を選びだして「頼朝御影」と名づけ、それを徳川家康の前に掛けたのではないか、と私は想像している
というのです。しかも、蔵にあった名無しの肖像画のうちで一番傷みの少ないものを選んで頼朝像として提示してみせたからこそ、神護寺三像のうちで伝頼朝像の傷みがもっとも少ないのだろうと。あっといわせる、目から鱗の指摘。これにはまったく脱帽でした。また源氏であることを選択した家康にアピールする意味では頼朝が重要ですが、神護寺にとっては鎌倉時代初期の再興者である文覚も重要です。平家物語に出演した頼朝と文覚との縁で、やはり平家物語に登場する平重盛と藤原光能が残り二枚の像主として伝えられることになったわけです。
次に、神護寺三像が描かれている画材の絵絹が広幅の特殊なもので元からの輸入品らしいこと、また神護寺三像は140x111センチと肖像画として例外的に大きく類例が限られること、二枚重ねの畳の上に坐した肖像であることが明らかにされます。ここから描かれた時期、つまりは「真犯人」である肖像の人物もかなり絞られてしまうわけです。加えて、描かれた衣服や太刀に関する有職故実的な情報、絵の技法、伝頼朝像と伝重盛像がよく似ていて、同腹の兄弟に似つかわしいことなどの証拠が挙げられます。そして、征夷将軍と自分の影像を神護寺に安置して、尊氏と良縁を結びたいという足利直義の願文の存在。こういった数々の証拠をつきつけられると、伝頼朝像が直義を描いたものであることは否定できないように感じさせられます。
本書の後半はその足利直義の願文から、尊氏・直義兄弟と夢窓疎石の関係、夢窓疎石の応答を直義が書き記した夢中問答集の政治史的な意義に筆が及びます。やがては観応の擾乱につながる二頭政治の危機に直面した直義が、聖徳太子の化現としての直義像と八幡大菩薩としての尊氏像(観応の擾乱前半戦勝利後は義詮の像を描かせる)を安置することで乗り切ろうとしたのだとか。しかし直義に高齢になってから初の実男子の誕生、また直義が養子にした兄尊氏の子の直冬と異母弟義詮の対立などの事情もあって、破局・直義の死を迎えます。直義の死によってこの三像はタブー視され蔵にしまい込まれてしまったのだろうと著者は推測しています。著者の本当に論じたかったのはこの第七章以降なのでしょうが、この部分をすっと受け入れるには私自身の能力が不足している感じをもちました。
ところで、頼朝・重盛とされてきた神護寺三像について以前から私が不思議に感じていたことがあります。それは、天皇・公卿や高僧ならいざしらず、鎌倉時代前期に非血縁の複数の人の肖像画をセットで描かせ寺院におさめるような例があったのかという点です。本書のように尊氏・直義兄弟を描いたものとするならば疑問は氷解します。しかし通説の側にたつ論者が本書の主張に納得せず、伝頼朝像は頼朝を描いたものだと主張し続けるようなら、著者の論点に反駁するだけではなく、誰が何の目的で頼朝、平重盛、藤原光能という3人の俗人の肖像を描かせたのかという点について、納得できる説明をする必要があると思います。でもそれはかなり困難でしょうね。
本書に収められた義詮像(伝光能像)を見ると、ふつうの図版の方でも、保存修復を専門とする日本画家がトレースした復元模写の方でも、右眼の瞳の位置が変です。この絵に描かれた人物には右眼に外斜視があったのでしょうか?原画は140x111センチほどの大きな絵だそうですから、可能なら原画か、それができなくても版型の大きな本の大きな図版で確認してみたい気がします。平家物語に、忠盛が昇殿の際「伊勢瓶子は素瓶なりけり」と他の殿上人にはやされたというエピソードがあります。忠盛の斜視が史実かどうかは別にして、少なくともこの当時、斜視が好ましくないものとみなされていたことが分かります。だとすると、外斜視をきちんと表現した肖像画というのは、その人物の欠点までも忠実に描いていることになるわけで、絵とその人物がよく似ている(本書の言葉でいえば像主肖似性)蓋然性がより高いと判断できると思うんですが、どうでしょう。もしかすると、この絵の依頼主(著者によれば直義)の像主に対する感情をも表していたり。
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