2012年3月10日土曜日

「清明上河図」と徽宗の時代

伊原弘編
勉誠出版
2012年1月 初版発行 
以前、この本の編者である伊原弘さんが編んだ「清明上河図を読む」を読んだことがあります。そちらは張擇端作の清明上河図に描かれた人とモノ、舟や建築や情景などを専門家が読み解いたり日本の同種の図と比較したりといったスタイルの本でした。その本が好評だったことから続編として本書を出版することになったそうですが、私も前著を楽しく読んだので本書を購入してみました。こちらは前著と違って、張擇端作のオリジナルの清明上河図の分析が主眼ではなく、清明上河図の描かれた北宋、特に徽宗の治世下の社会や、明代以降の美術史に与えた影響などを分析した論考などが20本集められています。論点は多岐にわたりますが、個人的にとても勉強になった点を挙げてみます。
冒頭には、清明上河図の描かれた北宋とそれをとりまく時代状況を編者が解説してくれています。北宋は経済が繁栄し、科挙に合格した文官・士大夫が優遇された時代で、軍事力が非常に弱体だったものと思っていました。たしかに亡国の憂き目にあったのですから強力な軍隊を保有していたいたとはいえないのでしょうが、軍隊に組織されていた兵の数は決して少なくはなかったのだそうです。しかし、大量の兵の常備は、土地を失った流民に対する社会政策的な意味をもっていて、その点で強兵ではなかったということです。
国の統治にあたり、徽宗は有効で効果的な政治手段として『芸術が役立つ』と考えていた。そして、未曾有の規模の芸術文化のパトロンであり続けただけでなく、彼自身も多くの作品を生みだした。才能ある人材を自身の代理として使い、御書や絵画を大量生産して、それを朝廷の重要な人物に見せたり、下贈したのである。
徽宗は日本の国宝としても有名な桃鳩図などの作者で、痩金体という特徴ある魅力的な書体の使い手でもあり、芸術に理解のある皇帝だったのだと思っていました。しかし、本書に収められたマギー・ビックフォードさんの「芸術と政治」には、徽宗と芸術との関わりは個人的な娯楽ではなく自らの治世を天が認めた証として現れる瑞祥を記録したものだったこと、瑞祥画の制作は統治の一手段でもあったので臣下への恩恵的な公開・下賜が行われたこと、瑞祥画を多数制作するための組織が設けられていたこと、皇帝の下す命令書類などに書かれた痩金体も彼の書体を真似た秘書役たちが署名を含めて記していたことなど、目から鱗の指摘がなされていました。卓見だと感じますがこれはすでに常識化した見解なんでしょうかね。ともかく、徽宗作とされている絵画は必ずしも画家徽宗個人の作品と考えるべきではなく、彼自身もたしかに筆を執ったのでしょうが、主には(工房の長としてでもなく)パトロンとして振る舞ったということのようです。例えばレンブラントのようなヨーロッパの画家たちや日本の狩野派なんかも集団で制作していたのですから、同じような感じなんでしょうね。
仇英はおそらく伝聞により知り得た宋代の「清明上河図」構図に基づき自らの画巻を書いた。 
十六世紀から十八世紀までの二百数十年間、実際には二十世紀に至るまで、存在していることが知られていながら、誰も見ていない張擇端の「清明上河図」の構図が中国の画巻を支配し続けたのである。
張擇端作のオリジナルの清明上河図は開封の失陥後は金朝の所有に帰し、その後は長らく行方不明でした。清代の1799年に軍費乱用で家財を没収された文人官僚のコレクションから朝廷のものとなり、それが現在では北京の故宮博物院に収蔵されているのだそうです。張擇端作の清明上河図の名声を慕って、清明上河図の画題や構図を参考にした作品を明代の仇英という画家が描き、その後、都市繁盛図が流行すると販売を目的として江南の絵画工房で多数の模作が制作されたのだそうです。それにしても、幻であったはずの作品に対する高い評価がなぜ生まれ、どうやって流布したのか、またみたことのない作品を範として絵を描くなんてことがどうして可能だったのか、これらに対する詳しい説明をしてくれる論考は含まれていなかったので、とても不思議な感じがしました。
さらに「東アジアにおける都市図と風俗画」という論考では、江戸時代の鍬形蕙斎の東都繁盛図巻が清明上河図の影響を受けたと論じられています。しかし、注文主の松平定信と清明上河図との接点のみならず、日本での清明上河図の輸入・受容の様子を示す史料がまったく記されておらず、にわかには信じ難い印象を受けてしまいました。日本の複数の美術館に清明上河図が収蔵されているそうですが、その来歴なんかははっきりしてはいないんでしょうかね。
徽宗時代の捉え方は人それぞれであろうが、筆者は「北宋突然死」説を採っている。もし、徽宗時代の主潮であった王安石学派の経学がその後も順調に展開していたら、東アジアの近世思想文化史は実際にそうなったものとは大きく様相を異にしていたことだろう。
「天を観て民に示す」という儒学史に関する論考で小島毅さんはこう書いています。私には宋学の展開過程はよくわかりませんが「北宋突然死」という考え方には共感できます。コークスを利用した製鉄や市場経済の目覚ましい発展のあった北宋は、思想史とは別の意味でも画期的・魅力的な時代だったと思うのです。もし北宋が金に滅ぼされずに続いていたなら、その後の中国の経済成長がどうなっていたか、また世界は600年以上も早く近代を迎えることにならなかったのかというような経済史的な妄想をたくましくさせてくれる、そんな時代ですよね。

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