井原今朝男著
東京大学出版会
2011年11月28日 初版
本書は大きく二つの部分に分けることができます。ひとつは雑誌や書籍などに掲載された論考を採録した第二章から第九章。もうひとつは、本書のための書き下ろしの部分(はじめに、序章、終章、あとがき)です。既発表の論考の方の各章では、債務関係に関する通説とは違った斬新な考え方(もしかすると専門家から見るとちっとも斬新ではないのかな?)が提示されていて、それによって史料をこれまでの解釈よりずっとうまく説明できることが主張されています。とても勉強になったので、いくつか例を挙げてみます。
沽価法というのは物の公定価格を提示して、物価を固定するためのものなのかと思っていました。しかし、沽価法には輸入品や、地方から中央への貢納物の決算に際して換算率を示す計算貨幣の導入という側面があったのだそうです。政府だけではなく、荘園領主に送られて来る年貢も、米のみとは限らず複数の種類の品で構成されていたので、賦課された額がきちんと送られてきたのかどうか確認するには、換算表に従って計算通貨建ての総額を算出し決算することが必要だったわけですね。平安時代後期になると、地方の負担が軽減されるよう国ごとに沽価が改訂されたそうです。各地方と中央でモノの交換価値が違うとすると、為替相場の変更のような意味合いだったのでしょうか。
宋銭の流入によって和市が混乱し、高賈売買が一般化し中沽の制を実施することができなくなっている。中沽の制は、品質によって上中下の価格が生まれることを前提にして折中の価格を沽価法とするものである。しかし、唐物や宋銭が流入し、価格は需要と供給のバランスで決定されることになると、品質によって価格が決定されなくなる。もはや中沽の制を沽価法とする古代の経済原則は貨幣市場では機能しえないのは当然である。
と著者は述べています。宋銭の流入が中沽の制の継続を不可能にさせたことは事実なのかもしれませんが、この部分の著者の説明は論理的ではなく、納得し難いと感じました。私が想像するに、銭貨による売買の頻度が少なかった頃は、経験不足から売買の当事者たちが値ごろ感をつかむことが難しく、中沽の制による沽価で取引されることが当たり前だった。しかし、宋銭の大量流入によって銭貨による売買の経験が増えると、その時点でのモノと銭貨の需要供給の関係で銭貨で表示された価格が変動するようになっていった。中沽の制による沽価という固定相場制はすたれ、銭貨によって表示されたモノの価格は変動相場制が主流になったなんていうことはないのでしょうか?
地方市場の本格的成立に先立って、宋銭が銭貨出挙として広範に流通
日本では宋銭が市場以上に債務=貸付取引に急速に浸透したのかは史料的には不明である
と述べられています。銭貨出挙として広範に流通した銭貨は、市場の本格的な成立が実現する前の段階で、何につかわれたんでしょうか?この点がとても不思議です。本書によるとそれを説明する史料がないということなので、その点がはっきりしないのは残念です。
鎌倉時代の後期に年貢未進問題が債務関係になったのはなぜか。年貢・公事の未納は代納されたので債務関係に転化し、倍額弁償や下地分与で処理されたということ。また未進は所職没収や改易などの不利益処分につながってしまうので、皆納したことにしてかわりに未進分を債務として処理したりということなのだそうです。
中世請取観念の多様性は、進上・納入から始まり仮請取・算用・結解を経て未進分の催促から皆納請取状発給までを含む多様で複合的な中世の授受慣行手続きと対応するものであったことが判明する。
中世請取状の成立の歴史的意義は「もの」の授受関係が計算貨幣と受領額を確定するという「結解」「算用」作業と一体化したところにある。中世のものの授受関係がこの換算・算用関係をともなうために多様性と曖昧性を取り込むことになったことはすでにあきらかにした通りである。
現代人の目から見ると、なぜ請取という言葉が受領・預かり・借用の三つの意味を兼ねることができるのか、私にとっても不思議でした。しかし、一回の交換で終了するような取引ならいざ知らず、複数の品目からなる一年分の年貢はその品目にふさわしい時節ごとに納められるわけで、一年分を決算してたしかに受け取ったという書類が発行されるまでには時間がかかるとのこと。その過程で請取状という一枚の書類が違った役割を帯びる・果たすのだという説明にも感心しました。
本人の意思に反して強制的に乞取られたものはその主に還るという法理が存在していたことを示している。当事者間の同意によらない契約文である乞索文や圧状は効力が否定され、強いて乞取られた乞索物は本主に取戻されるとすれば、それは徳政と同じ現象である。だとすれば、徳政についても本主権説とは異なる説明が可能になる。つまり、乞索物として主張して訴訟で認められれば、本主に戻されたのである。徳政は土地所有や売買取引での戻り現象ではなく、中世の契約観念に関わる問題として再検討されなければならない。
私が日本史の本を読み始めたのは、網野善彦さんなどがブームになっていた頃で、開発によって息を吹き込まれた土地は、いったん売却されても息を吹き込んだ本主との縁が切れずに、徳政を機に戻るのだという説に納得していました。しかし、著者の主張はなかなか説得的で、こちらの方が本筋の解釈になってゆくのかなと感じてしまいました。
私戦を避け、モノの取り戻しによって当事者間の利害のバランスをとり紛争を平和的に解決する
本書の対象とする時代に、現代人の目から見ると債務者保護とみえるような状況があった理由として、究極的には自力救済の必要だった中世では、ことによると死闘にまで及びかねない当事者間の争いを避けるために合意優先主義が取られたのではないかと著者は説明しています。債務者の合意がないと質流れしないような状況はその反映だったと考えれば納得できますね。
他にも重要と思われる論がたくさん含まれていました。私は専門家ではないので、これら著者の主張の当否については判断できませんし、またその筋の学会でどう受け取られているのかも知りません。でも、第二章から第九章と、それらの内容をまとめて今後の研究の方向を示した終章は、興味深く読めたし、勉強にもなりました。また、第二章から第九章は査読のある雑誌や編著への寄稿がもとなので、経験ある査読者や編者が何度か目を通したものなのでしょう。斬新な発想な論考だとは感じましたが、叙述の仕方はオーソドックスで、特に違和感を感じさせません。
それに対して、本書のために書き下ろされた部分、特に序章と「はじめに」(序章と終章が新稿と記されていますが「はじめに」と「あとがき」ももちろんそうですよね)は、かなり毛色が違います。本書を普通に冒頭から読むと、まず「はじめに」を読んで、次に序章を読むことになりますが、私はここを読み進むうちにトンデモ本を買ってしまったんではないかという気分になってしまいました。というのも、本書は
本書は、債務史というあたらしい研究分野をつくりだし、人類が直面している債務危機という諸問題に社会経済史の方法によって分析の鍬を入れることを目的とする
という大げさな一文で始まり、
これまでの歴史学では債務史という研究分野は存在しない。それは日本や世界が債券・債務関係よりも、物権・私有財産制を重視する社会であったということである
と進むのです。ほかにも、
「売買は賃貸借を破る」「物権は債権に優越する」という原理は近代社会でも中世社会でも均一に適用されるものと理解されてきた
とか、最高裁の消費者金融のグレーゾーン金利の無効判決を
いまや、近代債権論の原理を相対化するために新しい債権論の世界を創造することが求められている。それこそ、本書の尾問題提起する債務史研究である。日本法学の世界では、債権者の権利保護を目的とした債権論は存在してきたが、債務者の権利保護を検討する債務論の世界はないに等しい
とのこと。借地借家法だとか、グレーゾーンの上限にあたる利息制限なんて、目に入らないようです。またモノの戻り現象から
21世紀の人文・社会科学の研究者は、そうした中から、有限の自然や資源と資本を一国や個人が独占するのではなく、互いに戻り現象を認め合いながら人類の平和と国際協調のために使い、しかも格差拡大を防止する社会システムの創造に役立つ非市場的交換原理を探求する学問的努力をしてゆかなくてはならない
などに加えて、話はバブル経済、不良債権処理、国と地方の債務、多重債務者と自殺、第三世界の債務危機へとつながってゆくのです。学問の世界ではオリジナリティの主張はとても重要だとは思いますが、本書のここまでの叙述からは、自己顕示欲の強い人の書いた大風呂敷なトンデモ本かなと感じてもおかしくはないですよね。でもまあ、幸いなことに、第一章後半の研究史の整理の項からはかなりふつうになってきます。そして、第二章以降は有益な既発表論文がならんで、第十章には大変わかりやすいまとめと続くのでした。なので、読み終えての感想としては、学ぶ点・刺激される点の多い有益な本です。