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2012年5月29日火曜日

Time Capsuleの更新


2008年3月に購入したTime Capsuleが、このところずっと不調でした。とにかくバックアップに時間がかかるんです。ほとんどファイルの変更がされていない状況でも、バックアップに1時間以上(数時間のことも多い)かかってしまいます。うちでは1時間ごとにバックアップする設定にしてあるので、1時間以上かかるということは、バックアップが終わっても即座に次のバックアップが始まってしまうのです。つまりTime CapsuleのHDDは24時間まわりっぱなしになるわけで、このまま夏を迎えるのは無理かなと感じました。
ということで、近くのビックカメラで新しいTime Capsuleを購入しました。前回は1TBと500GBのHDDを内蔵しているタイプから500GBを選択しましたが、今回は1TBと2TBのうちから1TBの方を選択しました。MacBook ProのHDはたしか250GBくらいしかなく、動画などの大きなファイルを集める趣味もないので、1TBで充分と考えました。
パッケージから取り出して新旧のTime Capsuleを並べてみて、色の違いに驚きました。新しいTime Capsuleは純白ですが、4年使用したTime Capsuleの方はかなり黄ばんでしまっています。うちには喫煙者はいませんから、日焼けで黄ばんでしまったようです。
Time Capsuleは本体だけ交換して、今まで使っていたケーブル類はそのまま接続し直しました。初回のバックアップは量が多く、無線だとかなりの時間がかかるはずなので、LANケーブルも接続。Air Mac ユーティリティを起動して、特にトラブルなく移行できました。indexの作成などもしているんでしょうが、初回のバックアップはケーブルを使っても数時間かかっていました。しかし、その後の通常のバックアップにかかる時間は激減しました。
古いTime Capsuleもバックアップを撮ること自体はできていたのですが、やはりどこか壊れていたんでしょう。2-3年前、Time Capsuleの寿命は一年半くらいといわれていました。うちの古い方のTime Capsuleもその頃の製品ですから、4年たってまだ使えているということは幸運な長寿者なんだと思います。幸運な長寿者ではあってもご老体ですから、どこかに不具合を抱えていてバックアップに時間がかかっていたんでしょうね。
Time capsuleを更新してよかったことがもう一つ。狭い我が家ですが、Time capsuleの置き場所と私のベッドとは10メートル弱くらい離れています。眠る前にベッドに寝っ転がってiPadを眺めることが多いのですが、これまでは電波の弱さを感じることがありました。でも、新しいTime Capsuleは電波が強くなったようで、特に支障を感じることがなくなりました。

2012年5月28日月曜日

外濠


法政大学エコ地域デザイン研究所編
鹿島出版会
21012年4月10日 第1刷発行
「江戸東京の水回廊」である江戸城の外濠について、縄文時代以来の地形、地形と外濠の配置の関係、江戸時代の歴史、明治維新後の埋め立てや石垣の破壊を含めた利用、外濠周辺地域の様子、現在まで残された外濠の水と空間が周囲の風や温度などに与える影響、未来の外濠に望まれる玉川上水の再生による水の浄化などについてふれた本でした。私にもお茶の水や四谷や赤坂などを舞台にした楽しかったりほろ苦かったりする想い出がありますが、東京で生まれ育った人であれば、外濠とその周囲の街への思いがなにかしらあるでしょう。180ページほどと大部ではなく、書かれている内容も専門家向けの小難しいものでもなく、見開き2ページで1テーマという体裁の、大人の絵本といった感じのこういう地理の本は、そういった読者にぴったりと感じました。
本書には明治の初め頃の外濠を撮影した写真がいくつか収められています。例えば、お茶の水の明治初年の写真では水面には舟が一艘浮かび、釣り人が水の中に入って竿を伸ばしています。濠の外側には森を背後に数軒の家がありますが、立ち並んでいるというほどの数ではありません。現在では東京のまん中といった感じの地域も、江戸時代には江戸の郊外だったことがよく分かります。熊本や広島といった現在の百万弱規模の都市を江戸に重ねあわせてみれば、きっと外濠のあたりはきっとかなりはずれの方にあたるんでしょうからね。
本書の大部分のページはモノクロ印刷です。外濠の現在の様子を写した写真は何ページにもわたってカラーで載せられていますが、説明の図がカラーで大きく印刷されているのは冒頭の12ページ分しかありません。それでいて、本書の多くのテーマが提示された図をもとに解説されています。それらの図の多くはとても小さく、しかもモノクロのグラデーションで塗り分けられた図の上に説明の文字が1ミリ角くらいの大きさで重ねられていて、見にくいことこの上なしです。しかも本書の本文用紙には平滑第一という紙が選ばれてはいませんから、本気で見せるつもりがあるのかどうか疑問に思えるくらいです。「外濠地域の土地利用」「濠底の陰影段彩図」「外濠周辺の熱環境と風向・風速」「外濠周辺の緑地分布」などの図がそういった役立たない図にあたります。


本書には「図・写真クレジット」のリストが巻末に載せられているので、これらの図について調べてみると、出典の記載がありません。これらは筆者のオリジナルということですが、こんなみっともない図をわざわざ本書のためにつくったとも思えませんから。おそらく学会でのプレゼンテーションか雑誌への投稿論文にでもつかったものを、縮小してしかもカラーからモノクロに変換して転載したんではないでしょうか。でも、筆者の方々がそういう手法をとったとしても、本としての出来上がりを編者がチェックして読みやすくなるよう指摘してあげればいいのにと思うのです。または、風景写真をカラーで印刷して載せずに上記の図をカラーで印刷するように企画しなおすこともできたでしょうに。そう考えると、本書の編者である「デザイン研究所」さんは、少なくとも読者に配慮したデザインを考える能力がない研究所さんであることはたしかですね。
以下、本書とは直接関係しないこと。お茶の水駅のところで中央線上り快速の窓から神田川を眺めると、江戸時代にあの深い水路をよく人手で掘ったもんだと感心します。で、あの神田川をベルリンの壁のような境界にして東京が南北に分断されている状況(日本自体も分断されていた気がする)を描いた小説がありました、両岸がコンクリートで固められた絶壁で警備も厳しい神田川を北から南に泳いで逃亡して来る様子を読んだ記憶があります。これって神田川開削の凄さをまったく別の面から的確に描いた小説でもあるわけで、もう一度読んでみたい気がするのですが、上記のエピソード以外はタイトルも何も憶えていないので、実現できていません。

2012年5月23日水曜日

民事訴訟・執行・破産の近現代史


園尾隆司著
弘文堂
平成21年4月30日 初版第1刷発行
現役の裁判官が、実務や研修を通して気づいた日本の民事訴訟に特有の制度や慣行について検討し、解説してくれている本です。本書を読んでみて最も興味深く感じた点、一番勉強になったことは、日本の民事訴訟制度に特有の慣行の多くはその淵源を江戸時代にさかのぼれるのだという点です。例えば、司法書士という資格はもとをたどれば江戸時代の公事宿の公事師が明治時代に代書人となり、1935年の司法書士法にたどり着いたものなのだとか。また日本では土地と建物のそれぞれに対して借家権・借地権が別々に存在し得ます。しかしヨーロッパやアメリカ合衆国ではローマ法以来「地上物は土地に従う」伝統があり、建物だけを土地と別に扱う習慣はないのだそうです。なぜ日本にこういう独特の制度が生まれたかというと、地所永代売買禁止令の影響で江戸時代から建物所有権が土地所有権から分離していたからだと説明されていて、目から鱗。このように、本書は日本の制度のどの点が日本独自のものなのかを知らないと書くことのできない種類の本で、歴史家ではなく法律の実務家だからこそ書くことができた本なのだと感じます。
駿府藩主である徳川宗家当主徳川家達に対し、旧徳川幕府の法令を調査のうえ将軍一代につき一年分として一五年分を取りまとめて報告するよう指示し、江戸時代の判例法及び徳川幕府の定めを当分の間そのまま適用する方針を明らかにしている。 
実体法の基本法である民法・商法については施行が延期となって適用法令がなく、明治三○年代初めに民法・商法が施行されるまでは、江戸時代の判例及び徳川幕府の定めに基づいて国家秩序を維持していくほかない状況であった 
明治維新後、一挙に法律・制度が一新されたわけではなく、新たな法律などが整備されるまでは江戸時代のやり方を踏襲していたわけですね。フランスの法制度や裁判手続きがわが国に親和性があるわけではないのに司法省の西欧情報がフランスに偏っていたのも頷けるところである。
多くは江戸幕府の役人だった江戸時代からの知識層が訳官として明治政府に継続登用されました。静岡藩から受け継いだ静岡県の葵文庫中で最も多い洋書がフランス書だったことを著者は示しています。きっと司法省にはフランス語の訳官がいて、新たな法律を作成する際にフランス法を参考にしたんでしょう。そして、そのフランス法に基づく新たな民法・商法が日本の醇風美俗にそぐわないということで、施行されずじまいとなってしまったわけですね。
江戸時代の評定所は将軍直轄であり、その判断は他の行政担当部署の判断に優先していた。これに対して明治期以降は、縦割りの中央官庁が所管の権限を分掌し、裁判は、他の中央官庁と同列である一官庁が所管することとなっており、他の官庁に対して優位性を持たない一官庁が裁判を所管する点において、江戸時代と異なっているた。江戸時代の判例が法規範性を持ち、明治期以降の判例が法規範性を有しなかった原因はここに求められる。また、この裁判体制の相違が明治期以降の戦前期の行政訴訟のあり方に影響を与えていく。
大日本帝国憲法下で司法裁判所とは別に行政裁判所が設けられていたのがなぜか、非常にわかりやすく説得的な解説だと感じます。
明治中期以降、「刑罰の民事不介入の原則」が長く維持された結果、民事手続きにおいて不法勢力の横行を生んだ。
条約改正交渉などに際して、江戸時代以来の制度を批判されてきた司法省は、民事訴訟時の拘留・拷問の廃止をおこないますが、羮に懲りて膾を吹いてしまいました。これが原因で暴力団の介入がみられるようになり、その後100年に禍根を残すことになりました。
はしがきには「本書は、法律実務家が平素の実務の中で手続きの沿革に興味を抱いたときに読んでいただけるもの目指したもの」と書かれています。たしかに法律の仕事をしている人が読めば面白く感じる点はもっと他にもたくさんあるのでしょうが、この分野にはまったく知識のない私でも、充分に興味深く読めました

2012年5月16日水曜日

スターリンの死


ジョルジュ・ボルトリ著
ハヤカワ文庫NF42
昭和五十四年五月十日印刷 昭和五十四年五月十五日発行
子供の頃は冷戦が継続中でソ連は一方の大国でした。核戦争に対する切迫した恐怖を感じたことはありませんでした(鈍かっただけかな)が、かといって未来のソ連にあんな風にあっけない崩壊が起こるなんて考えもしませんでした。鉄のカーテンの向こうの世界は神秘的だった印象が強く、今でもこういった本を読みたくなるんだと思います。
本書はフランスのジャーナリストの著作で、スターリンの死の一年ほど前から、彼の死亡・葬儀とその後の非スターリン化のエピソードを綴ったものです。ただ、彼の死後すぐに書かれたものではなく、原著は1973年に発行されています。史料・資料の入手などに制約の大きかった冷戦期の著作ですから、以前読んだサイモン・セバーグ・モンテフィオーリ著のスターリン2部作(スターリン 青春と革命の時代スターリン 赤い皇帝と廷臣たち)とは違って、社会面を読むような感じがします。史書としてよりも、謎につつまれたソ連と、隠されればそれだけよけいに覗きたくなる西側の心理という、滑稽な相補関係が存在していた当時の雰囲気を伝えてくれます。
例えば、スターリンは1952年になってもユダヤ人医師団陰謀事件をでっち上げてユダヤ人の粛清を目論んでいたとみられています。名前からユダヤ系と間違えられ職場を解雇されそうになったあるソ連人は、祖先が男爵だったというそれまで隠し通してきた事実を告白します。すると男爵の家系だったことは追及されず、よかったなといわれたとか。
最も反共的な人びとの間でも、個人としての”大元帥”に対する評判はそれほど悪くなかった。肩飾りを付けたスターリンは、短刀を口にくわえたスターリンを人びとに忘れさせた。それに73歳という高齢も彼のイメージを和らげた。多くの人は、彼を、奸智にたけているが思慮のある老人で、好戦的なマレンコフをなだめてきた人物とみていた。いきり立って興奮しているクレムリンで、彼だけが穏健派とみられていた。 
アメリカの首都では、穏健な要素とみられていた元帥なきのち、その後継者らの無謀が憂慮されている。
なので、重態が伝えられると西側の人も何が起きるか不安になったのだとか。いま読むと、冗談みたいですよね。またスターリンの重態・死が伝えられると
シャラシュカ(特別刑務所)の囚人たちは、この日の朝はいつものように研究室に行かずに宿舎に残っていた。これらの技師たちや数学者たちは頭の中で微妙な慨然法の計算を始めた。われわれは銃殺されるのだろうか?戦争が始まったばかりの時に収容所や刑務所でみせしめのために組織的に処刑が行われたが、いままた何か”非常事態”が起こったのだろうか。彼らは顔を見合わせて沈黙した。
だったとか。こちらは当人たちにとっては深刻な問題だったでしょうが、やはりいまの時点で読むと滑稽です。また、私はプロコフィエフが好きですが、彼もスターリンと命日が同じなんだそうで、このことも初めて知りました。こういった面白いエピソード・学ぶべき点の少なくない本でした。

2012年5月13日日曜日

The Battle for the falklandsの感想 続き


本書の中の日本についての言及は、国連安保理の非常任理事国だった日本が、イギリスの提案したアルゼンチン軍即時撤退の決議案に賛成したことをふくめて4カ所しか見あたりません。EECはアルゼンチンとの貿易を一時凍結したそうですが、日本はどうだったのかな?と疑問に感じても触れられてはいません。まあ、その程度の関わりしかない遠い国でもあり、またフォークランド紛争は30年も前のできごとですが、それでも学べる教訓がたくさんあると私は感じました。
イギリスがフォークランド領有の正当性について主張できたのは、永きにわたって実効支配して来たことと、島民がイギリス帰属を希望していることの2点です。アルゼンチン側は先占の事実とそれがイギリスに奪われた旨を主張していました。これは、ロシアと日本との間で、ロシア側が実効支配と住民の意思、日本側が千島樺太交換条約以来の正当性を主張している北方領土問題にとてもよく似ていますよね。北方領土に住んでいる人たちは旧ソ連から移住したロシア人が多いのでしょうが、それにしてももう数十年ちかく暮らし続けている人も少なくないでしょう。ロシア領である期間が長くなるにつれ、こういった島民の意思を無視しにくくなってきていると私は感じます。ロシア人たちはもともとの島民じゃないという声もありそうですが、もともと近代になる前にこれらの島々に住んでいた人たちは日本に帰属する意識を持たない・日本語も話さない人たちでした。島民の自決権の尊重という点では、日本領時代に住民だった旧島民が、現島民よりも重視されて然るべきだとは思えません。こう考えると、北方領土に関しては領有権の主張を止めて、ロシア領ということで決着する方が、大局的観点からの日本の国益にかなうと私は信じます。領土要求を断念することに反感をおぼえる人もいるでしょうが、このフォークランド問題でも、あまりに長い間、お互いの譲歩がなかったことが戦闘にまでいたったわけです。また、敗戦間際の日本に対して火事場泥棒をはたらいたソ連の肩を持つのかといって怒る人もいるでしょう。でも、そう思うのなら、まずはあの火事場・敗戦という惨事を招いた東条英機やら陸海軍の軍人・政治家のお墓にでも向かって文句を言うべきですね。
また日本が実効支配していることになっている尖閣諸島についても考えさせられます。フォークランドの戦闘の呼び水となったのは、サウスジョージア島へのアルゼンチン「民間人」の上陸と、それに対してイギリスが南極観測船エンデュランス号でフォークランドから海兵隊員をサウスジョージアに移動させたできごとでした。同じようなことが尖閣諸島で起きることはないのでしょうか。警察力では排除できない規模の中国国籍を持つ「民間人」が尖閣諸島に上陸したら、どうなるのか。日本政府は自衛隊を出動させて排除しようとするのでしょうか?また、こういった行為に及ぶとすれば世界の情勢を眺めてのことでしょうから、「民間人」相手にアメリカ軍の介入は期待できないでしょう。もし、悪天候を口実にした中国軍艦船の尖閣諸島への寄港とそれに続く軍人の上陸があって居座ったとしても、アメリカが介入してくれることなんてありそうもないと思えるのです、フォークランド紛争での態度を見ると。日米安全保障条約は日本の領土内にアメリカ合衆国が基地を維持するためのもので、日本の領土の保全のための行動なんて、東日本大震災時の支援(もちろん、あれには大変感謝いたしますが)のように、政治的に支障のない範囲でしか実施してくれないでしょう、アメリカは。そう考えると、日本は中国と単独でことを構えるこのとできる国ではないし、このままだと心配。
ともあれ、国境をはさんだ近隣の諸国すべてと領土問題を抱えている日本の状況というのは危うい限りです。国益という観点からは、短期的には損にみえるような方法であっても、損して得とれと考えて領土問題に決着をつけておくべきじゃないでしょうか。

2012年5月12日土曜日

The Battle for the falklands


Max Hastings, Simon Jenkins著
W, W, Norton & Company
フォークランド紛争から今年でもう30年になります。原潜コンカラーによる巡洋艦ヘネラル・ベルグラーノの撃沈、シュペールエタンダールの発射した空対艦ミサイル・エグゾセの威力とシェフィールドの撃沈、ハリアーの活躍、それに反して比較的あっけなく終わった地上戦という印象を当時は受けました。そういった印象が正しかったのかどうか、あらためて学んでみたくなり、フォークランド紛争に関する本を探してみました。どうも日本語で書かれた適当なものはみあたらず、本書を購入することにしました。本書の原著は1983年に出版され、その後ペーパーバック化されたものです。二人の著者のうち、Max Hastingsさんはジャーナリストとして機動部隊に同行しフォークランド島に上陸した人で、サウサンプトン出港からポートスタンレー解放までの様子を描いています。Simon Jenkinsさんは新聞の編集者でフォークランドの領土問題のそもそもから外交交渉の過程、機動部隊派遣後の交渉とイギリス政府の動向の部分を担当しています。
フォークランド諸島の最初の発見者ははっきりしないそうですが、1713年のユトレヒト条約で他のアメリカ大陸の地方と包括してスペインの領有権が確認されました。1764年に最初に入植を試みたのはフランス人で、同じ頃イギリス人も西フォークランド島に入植地をつくりました。スペインの抗議でフランスは引き下がり、イギリスも武力による威嚇で撤退しました。南大西洋の厳しい環境下にあったので、定住植民地としてではなく、しばらくは捕鯨船などの寄港する根拠地として使われていたのだそうです。1820年にアルゼンチンは独立しましたが、スペインからこの諸島の支配権を継承したとその後、主張し続けることになります。1833年にイギリスが武力で居住者を追い出し、その後はイギリスが実効支配を続けることになりました。
フォークランド諸島の住人はずべて、FICフォークランド会社かイギリス在住の不在地主の借地人、または公務員で、自営の人はいなかったのだそうです。また、辺境の過疎地であり、ながいこと移出民が多かったせいで西フォークランドでは男女比2対1と性比が偏っていました。妊娠できる女性の供給はほぼ島出身者のみで、離婚率はスコットランドの離島の3倍ほど。外部から来る教師・兵士・科学者・公務員が島の若者にもたらす外部の世界への誘惑が島民にとっては脅威で、人口1800人ほどの島は、世界中の小さな村社会と同じような脆弱さを持っていたのだそうです。
アルゼンチンはフォークランド諸島の領有をあきらめず、第二次大戦後の植民地独立の流れに棹さして、国連に提訴します。イギリスは先占を主張することはできず、長期間の実効支配と島民の自決権の尊重(島民はイギリス人であることを希望)を主張しましたが、斜陽のイギリス経済にはこの島を維持する負担は大きく、交通・教育・医療などのサービスを島民に充分に提供できてはいませんでした。アルゼンチン側は、それまで空港もなかったこの島にがアルゼンチン負担で仮設滑走路を設置して空路を開設したり(イギリスからは国際便、アルゼンチンからは国内便の扱い)、奨学金を与えたりなどしたので、イギリスも島民が西ヨーロッパ起源のアルゼンチンの白人社会に同化してゆくのではと期待し、将来は主権をアルゼンチンに委譲するかわり長期に租借するという、名を捨てて実を取る方式も考慮されました。しかし島民のイギリス国籍であり続けたい希望は強く、またこの南大西洋の片隅の島に注意を払ってバックアップするイギリスの政治家もいなかったので、アルゼンチンとの交渉は長引くばかりでなかなか妥結にいたりませんでした。アルゼンチン側でも、1972年のペロンの帰国とペロニストの政権獲得をきっかけに、主権を棚上げにした穏健策が放棄されることになりました。
軍政下のアルゼンチンでは国民の不満をそらず目的で、フォークランド諸島の武力による奪還が計画されました。インドのゴアのポルトガルからの解放などの例を見て、帝国主義の残滓であるこの島を実力で取り戻しても国際社会からの非難を受けないだろう、またイギリスが軍隊を派遣して奪還しに来ることはないだろうと、アルゼンチン側は考えていたのだそうです。7~10月の厳冬期の派兵を予定していましたが、サウスジョージア島での事件をきっかけに4月に実施することになってしまいました。
イギリス外務省が将来の主権の委譲も視野に入れていたとはいっても、侵攻した側が利益を受ける決着をサッチャー首相は望まず、閣僚の賛同をなんとか取り付けて機動部隊を派遣することにしました。国連安保理でアルゼンチン軍の即時撤退を求める決議は採択されましたが、アメリカのヘイグ国務長官や国連事務総長の和平の斡旋を、侵攻を受けたまま譲歩したくないイギリスも、三軍の寄り合い所帯で譲歩できないアルゼンチン政府も受け入れませんでした。アメリカ大陸の国であるアルゼンチンと、西側同盟国のイギリスとの間でアメリカ合衆国は中立を表明し、イギリス機動部隊は上陸作戦を実施します。
巡洋艦ヘネラル・ベルグラーノの撃沈で、アルゼンチン海軍は出撃を控えました。また、アセンション島から空中給油を繰り返したバルカンによる爆撃や特殊部隊による駐機中の機体の破壊などが行われ、アルゼンチン空軍は本土の飛行場からの作戦を余儀なくされました。燃料の余裕がなく、フォークランド上空ではシーハリアーが優位に作戦できました。それでも、イギリス艦船は空襲による多数の被害を受けました。空対艦ミサイル・エグゾセの在庫数が限られていたことと、航空爆弾に不発が非常に多かったことで、イギリス艦隊はなんとか作戦をつづけられました。アルゼンチンは触発に設定を変更できる信管を使用していましたが、製造元のアメリカの企業がその説明書を禁輸措置で渡さなかったのだそうです。こういった目立たないかたちでのアメリカによるイギリスへのサポートはほかにもたくさんあったそうです。ただ、アルゼンチンの三軍の中では空軍が最も勇敢に戦ったことはたしかで、上陸船団に対する航空攻撃をみたあるイギリス人軍医は「一流のF1ドライバーを生み出す国は優秀なパイロットを育てることもできる」という感想をもらしたとか。
地上戦も順調に進んだように思っていたのですが、寒さと悪天候下に沼地や山道を行軍するなど苦労が多かったそうです。樺太の北部くらいの緯度の島の初冬ですから、野営するのはきつかったことでしょう。また、充分な数の車輛を揚陸できず、弾薬や食糧などの補給はヘリコプター頼みでした。大型ヘリコプターを輸送して来たコンテナ船の空襲被害でそのヘリコプターも不足していたのだそうです。そういった悪条件にもかかわらず、数的には優勢だったアルゼンチン軍に勝利することができたのは、兵員の質と士気の差が大きかったからのようです。イギリス軍が職業軍人で構成されていたのに対し、アルゼンチン兵は徴兵された人たち。出征前にイギリスのある特殊部隊員は、大口径の火器に対するのは初めてだが、小口径火器の洗礼は何度も受けていると言ったそうです。イギリスは第二次大戦後もスエズなど海外に出兵していますし、また北アイルランド問題に軍隊が投入されたことがありましたから。それに対するアルゼンチン側は、一個旅団を一ヶ月ほど駐屯させれば解決するだろうという目論見で兵站を計画していたのに、イギリスの派兵に対応して増強し、1万人以上を3ヶ月も維持しなければならなくなり、補給の状況がとても悪くなっていたのだそうです。ただでさえ指揮や訓練に問題のあった徴集兵たちからなるポートスタンレー守備隊はわずかな抵抗で降伏し、島民に多くの死傷者が出ることはありませんでした。
ざっとこんな風に、フォークランド紛争の始まりから1982年の戦闘までわかりやすく解説してくれる好著でした。英語的には、Max Hastingsさんの書いた部分は軍人・兵士の様子や戦闘を扱っているので面白くどんどん読めましたが、Simon Jenkinsさんの表現は倒置・比喩・引用などに富んでいて読みにくい感じがありました。また、戦闘の翌年に主にイギリス側の資料をもとに書かれた本なので、アルゼンチン側の政治家や兵士やアルゼンチン国民の様子などについては物足りない感じではあります。しかし、340ページの本文のほかに、この戦役での叙勲者リストやら、参加した航空機・艦船のリストやら、イギリス人ならニヤニヤして眺めそうな付録もついています。まあ、イギリス政府には30年ルールがあり、2012年の今年から当時の秘密資料が公開されることになるそうですので、もっと詳しい史書がこれから出て来ることになるのでしょうが。




2012年5月2日水曜日

日本中世債務史の研究


井原今朝男著
東京大学出版会
2011年11月28日 初版
本書は大きく二つの部分に分けることができます。ひとつは雑誌や書籍などに掲載された論考を採録した第二章から第九章。もうひとつは、本書のための書き下ろしの部分(はじめに、序章、終章、あとがき)です。既発表の論考の方の各章では、債務関係に関する通説とは違った斬新な考え方(もしかすると専門家から見るとちっとも斬新ではないのかな?)が提示されていて、それによって史料をこれまでの解釈よりずっとうまく説明できることが主張されています。とても勉強になったので、いくつか例を挙げてみます。
沽価法というのは物の公定価格を提示して、物価を固定するためのものなのかと思っていました。しかし、沽価法には輸入品や、地方から中央への貢納物の決算に際して換算率を示す計算貨幣の導入という側面があったのだそうです。政府だけではなく、荘園領主に送られて来る年貢も、米のみとは限らず複数の種類の品で構成されていたので、賦課された額がきちんと送られてきたのかどうか確認するには、換算表に従って計算通貨建ての総額を算出し決算することが必要だったわけですね。平安時代後期になると、地方の負担が軽減されるよう国ごとに沽価が改訂されたそうです。各地方と中央でモノの交換価値が違うとすると、為替相場の変更のような意味合いだったのでしょうか。
宋銭の流入によって和市が混乱し、高賈売買が一般化し中沽の制を実施することができなくなっている。中沽の制は、品質によって上中下の価格が生まれることを前提にして折中の価格を沽価法とするものである。しかし、唐物や宋銭が流入し、価格は需要と供給のバランスで決定されることになると、品質によって価格が決定されなくなる。もはや中沽の制を沽価法とする古代の経済原則は貨幣市場では機能しえないのは当然である。
と著者は述べています。宋銭の流入が中沽の制の継続を不可能にさせたことは事実なのかもしれませんが、この部分の著者の説明は論理的ではなく、納得し難いと感じました。私が想像するに、銭貨による売買の頻度が少なかった頃は、経験不足から売買の当事者たちが値ごろ感をつかむことが難しく、中沽の制による沽価で取引されることが当たり前だった。しかし、宋銭の大量流入によって銭貨による売買の経験が増えると、その時点でのモノと銭貨の需要供給の関係で銭貨で表示された価格が変動するようになっていった。中沽の制による沽価という固定相場制はすたれ、銭貨によって表示されたモノの価格は変動相場制が主流になったなんていうことはないのでしょうか?
地方市場の本格的成立に先立って、宋銭が銭貨出挙として広範に流通 
日本では宋銭が市場以上に債務=貸付取引に急速に浸透したのかは史料的には不明である
と述べられています。銭貨出挙として広範に流通した銭貨は、市場の本格的な成立が実現する前の段階で、何につかわれたんでしょうか?この点がとても不思議です。本書によるとそれを説明する史料がないということなので、その点がはっきりしないのは残念です。
鎌倉時代の後期に年貢未進問題が債務関係になったのはなぜか。年貢・公事の未納は代納されたので債務関係に転化し、倍額弁償や下地分与で処理されたということ。また未進は所職没収や改易などの不利益処分につながってしまうので、皆納したことにしてかわりに未進分を債務として処理したりということなのだそうです。
中世請取観念の多様性は、進上・納入から始まり仮請取・算用・結解を経て未進分の催促から皆納請取状発給までを含む多様で複合的な中世の授受慣行手続きと対応するものであったことが判明する。 
中世請取状の成立の歴史的意義は「もの」の授受関係が計算貨幣と受領額を確定するという「結解」「算用」作業と一体化したところにある。中世のものの授受関係がこの換算・算用関係をともなうために多様性と曖昧性を取り込むことになったことはすでにあきらかにした通りである。
現代人の目から見ると、なぜ請取という言葉が受領・預かり・借用の三つの意味を兼ねることができるのか、私にとっても不思議でした。しかし、一回の交換で終了するような取引ならいざ知らず、複数の品目からなる一年分の年貢はその品目にふさわしい時節ごとに納められるわけで、一年分を決算してたしかに受け取ったという書類が発行されるまでには時間がかかるとのこと。その過程で請取状という一枚の書類が違った役割を帯びる・果たすのだという説明にも感心しました。
本人の意思に反して強制的に乞取られたものはその主に還るという法理が存在していたことを示している。当事者間の同意によらない契約文である乞索文や圧状は効力が否定され、強いて乞取られた乞索物は本主に取戻されるとすれば、それは徳政と同じ現象である。だとすれば、徳政についても本主権説とは異なる説明が可能になる。つまり、乞索物として主張して訴訟で認められれば、本主に戻されたのである。徳政は土地所有や売買取引での戻り現象ではなく、中世の契約観念に関わる問題として再検討されなければならない。
私が日本史の本を読み始めたのは、網野善彦さんなどがブームになっていた頃で、開発によって息を吹き込まれた土地は、いったん売却されても息を吹き込んだ本主との縁が切れずに、徳政を機に戻るのだという説に納得していました。しかし、著者の主張はなかなか説得的で、こちらの方が本筋の解釈になってゆくのかなと感じてしまいました。
私戦を避け、モノの取り戻しによって当事者間の利害のバランスをとり紛争を平和的に解決する
本書の対象とする時代に、現代人の目から見ると債務者保護とみえるような状況があった理由として、究極的には自力救済の必要だった中世では、ことによると死闘にまで及びかねない当事者間の争いを避けるために合意優先主義が取られたのではないかと著者は説明しています。債務者の合意がないと質流れしないような状況はその反映だったと考えれば納得できますね。
他にも重要と思われる論がたくさん含まれていました。私は専門家ではないので、これら著者の主張の当否については判断できませんし、またその筋の学会でどう受け取られているのかも知りません。でも、第二章から第九章と、それらの内容をまとめて今後の研究の方向を示した終章は、興味深く読めたし、勉強にもなりました。また、第二章から第九章は査読のある雑誌や編著への寄稿がもとなので、経験ある査読者や編者が何度か目を通したものなのでしょう。斬新な発想な論考だとは感じましたが、叙述の仕方はオーソドックスで、特に違和感を感じさせません。
それに対して、本書のために書き下ろされた部分、特に序章と「はじめに」(序章と終章が新稿と記されていますが「はじめに」と「あとがき」ももちろんそうですよね)は、かなり毛色が違います。本書を普通に冒頭から読むと、まず「はじめに」を読んで、次に序章を読むことになりますが、私はここを読み進むうちにトンデモ本を買ってしまったんではないかという気分になってしまいました。というのも、本書は
本書は、債務史というあたらしい研究分野をつくりだし、人類が直面している債務危機という諸問題に社会経済史の方法によって分析の鍬を入れることを目的とする
という大げさな一文で始まり、
これまでの歴史学では債務史という研究分野は存在しない。それは日本や世界が債券・債務関係よりも、物権・私有財産制を重視する社会であったということである
と進むのです。ほかにも、
「売買は賃貸借を破る」「物権は債権に優越する」という原理は近代社会でも中世社会でも均一に適用されるものと理解されてきた
とか、最高裁の消費者金融のグレーゾーン金利の無効判決を
いまや、近代債権論の原理を相対化するために新しい債権論の世界を創造することが求められている。それこそ、本書の尾問題提起する債務史研究である。日本法学の世界では、債権者の権利保護を目的とした債権論は存在してきたが、債務者の権利保護を検討する債務論の世界はないに等しい
とのこと。借地借家法だとか、グレーゾーンの上限にあたる利息制限なんて、目に入らないようです。またモノの戻り現象から
21世紀の人文・社会科学の研究者は、そうした中から、有限の自然や資源と資本を一国や個人が独占するのではなく、互いに戻り現象を認め合いながら人類の平和と国際協調のために使い、しかも格差拡大を防止する社会システムの創造に役立つ非市場的交換原理を探求する学問的努力をしてゆかなくてはならない
などに加えて、話はバブル経済、不良債権処理、国と地方の債務、多重債務者と自殺、第三世界の債務危機へとつながってゆくのです。学問の世界ではオリジナリティの主張はとても重要だとは思いますが、本書のここまでの叙述からは、自己顕示欲の強い人の書いた大風呂敷なトンデモ本かなと感じてもおかしくはないですよね。でもまあ、幸いなことに、第一章後半の研究史の整理の項からはかなりふつうになってきます。そして、第二章以降は有益な既発表論文がならんで、第十章には大変わかりやすいまとめと続くのでした。なので、読み終えての感想としては、学ぶ点・刺激される点の多い有益な本です。