大正天皇については原武史著の大正天皇(朝日選書663)も読んだことがあります。こちらの本でも「天皇の外見的な症状は『末梢器官の故障』が原因なのではなく、すべて幼少期の脳病に端を発する『御脳力の衰退』によることが明らかにされている」としています。しかも原のこの本は、自由な雰囲気の大隈重信や原敬といった政党政治家とは違う、山県有朋を代表とする堅苦しい官僚・軍人に囲まれてストレスを受けた大正天皇の脳が変調を来して発病し、やがて主君押し込めのようなやり方で摂政を設置されてしまった、というストーリーに読めてしまうのです。
そもそも、乳児期の髄膜炎が原因で後の発病につながったというストーリーの大本はどこかというと、宮内省の天皇陛下御容態書にゆきつくようです。 前記二書に完全な形では掲載されていないのでぐぐってみました。原文は見つからず、某巨大掲示板にあったのがひっかかったので、以下に示します。
天皇陛下には御降誕後三週目を出でざるに脳膜炎様の御疾患に罹らせられ、御幼年時代に重症の百日咳、腸チフス、胸膜炎の御大患を御経過あらせられ、そのために、御心身の発達に於て、幾分遅れさせらるる所ありしが、内外の政務に日夜、大御心を悩ませられ給いしため、近年に至り、目下の御身体の御模様においては御変りあらせられざるも、御脳力漸次御衰えさせられ、殊に御発語の御障害あらせらるるため、御意志の御表現甚だ御困難に拝し奉るは、まことに恐懼に堪えざる所なり宮内庁書陵部で大正天皇実録が公開されているそうです。その一部がネットでも報道されていますが、それを見ると、大正天皇は1914年頃から軽度の言語障害があり、即位の大礼の行われた1915年11月には階段の昇降に介助を必要とすることがあり、1918年夏には姿勢が右に傾くようになり、1918年11月の陸軍特別大演習には左足の動作がおかしく乗馬できなくなったそうです。そして、1919年には言語不明瞭、姿勢の異常がはっきりして、勅語を読み上げることができないために12月の帝国議会開院式を欠席しました。1920年4月に公務制限が行われますが、その後も症状が進行したために、1921年11月に摂政設置となりました。
原さんの本によると、子供時代の大正天皇は思ったことは何でも口にしてしまう性格でしたが、乗馬が得意で漢詩を作ることが好きだったそうです。また、即位前は元気に全国を巡啓していたそうで、乳児期の髄膜炎の治癒後にきちんと成長していたものと思われます。馬に乗っている最中に他人の介助を受けていた訳ではなく、実際に馬に乗っている写真も残されています。また、漢詩の方もかなり多くが残されているので、ただ箔付けのために代作されたという訳ではなさそうです。私は乗馬も漢詩作りもどちらもできません。おそらく、今の日本人のほとんどがそうでしょう。つまり、成人後の大正天皇の運動機能・知的能力は、現在のふつうの日本人に勝るとも劣らない程度だったと言えるでしょう。
普通の大人が30歳代後半から言語障害・運動障害を発症し、その後の十年以上にわたって症状が進行していくような疾患に罹患したとして、それが乳児期の髄膜炎と関連しているとはとても思えません。ふつうに考えれば、脊髄小脳変性症などの神経変性疾患か、ゆっくり進行する脳腫瘍などが鑑別疾患に挙がるものと私は考えます。これらの疾患は歩行ができなくなるなど運動機能の低下を来します。また進行性の構音障害も伴いますから大正天皇の言葉はとても聞き取りにくくなったろうと思われます。ふだん身近に接してお世話している人たちや皇后には大正天皇の言わんとするところがよく理解できても、たまに拝謁するだけの重臣・政治家たちにはお言葉が理解できない(つまり大正天皇の知的機能に問題ありと考えてしまう)ということがあったかもしれません。そう考えると、摂政設置後や大正天皇の死後の貞明皇后の態度・行動も理解しやすい気がします。
それなのになぜ、子供の頃の疾患と関連づけられたのか。大正天皇を診察したのは三浦謹之助や呉秀三といった日本の神経内科の(呉は精神科医としても)大先達です。この頃の日本の医学のレベルがその程度だったのか、または大人になってから新たに発症した疾患とするとまずいような何らかの事情(遺伝性の疾患を示唆するように思われやすいのかも)があったのか、その辺は不明ですが。
3 件のコメント:
私も原武史氏の本を読んで、大正天皇に興味を抱いた者ですが、非常に興味深い記事でした。
ところで瑣末な指摘ですが、文頭の大正天皇の生没年が(1897~1926) と記載されていますが、生まれたのは1879年では・・・?(^^;
nagaoさん、ご指摘ありがとうございます
本文の方、修正しました
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