2012年9月9日日曜日

大恐慌!


スタッズ・ターケル著
作品社
2010年8月5日 第1刷印刷
2010年8月10日 第1刷発行

500ページ以上もある大冊ですが、スタッズ・ターケルさんの著書の例に洩れず、たくさんの人へのインタビューが載せられています。大恐慌前後の頃について語られていますが、インタビューが行われたのは1960年代後半でした。ですから、これらのインタビューを、大恐慌の記憶そのものとして受け取るべきなのか、第二次世界大戦と戦後の好景気に1960年代の公民権運動やら若者のプロテストを経験したことにより変容を受けた大恐慌の印象として受け取るべきなのかは難しいところではあります。でも、
  • 貨物列車の有蓋・無蓋貨車に無賃乗車して遠くの地域まで職探しに出かける人がたくさんいたこと、警察は取り締まったが、車掌の中には同情的な態度の人が少なくなかったこと
  • 都市では物乞いに歩く人が多かったこと。彼らは自分たちの縄張りの中にある家の勝手口などに、「お金はもらえないが、食べ物だけはある」などの意味の符牒をチョークで書いたりして、お互いに助け合っていたこと。
  • 社会党、共産党といったアメリカの左翼政党の様子。共産党にとっては独ソ不可侵条約の影響が致命的だったこと。労働組合、AFLとCIOとの関係。革命前夜だったと語った人もいるけれど、違うという人の方が多い印象。あるアメリカ社会党員は「われわれが愚かにも連携の重要さを理解しなかったこと、ヨーロッパの左派と強調できなかったこと、アメリカの政治思想の主流から孤立したこと、誰も理解できない特殊な言葉を使い続けたこと。それを認めるのは胸が張り裂けそうです」と語っていました。
  • 破産して競売にかけられた農場・家財のオークションには外部の人が参加できないよう地域の農民が邪魔をして、仲間うちで安値で落札して元の持ち主に戻してあげたこと
  • ニューディールの施策であるWPA、AAA、フェデラル・アート・プロジェクトなどに参加した人の経験談いろいろ。WPAの人間はシカゴのどこでも掛け売りしてもらえなかったとのこと。シカゴ以外でもそうだったんでしょう。この頃でもアメリカは現金ではなくクレジットカードとか小切手で買い物する社会だったんでしょうか?それならかなりの屈辱だったかも。
などなど、語られている個々のエピソードは大恐慌の時代を知らない異国の人間である私には、初めて知ることも少なくなかったし、興味深く読めました。ルーズベルト大統領に対して、評価の低い人は少ないようです。それでも、大恐慌から本当に抜け出せたのは戦争のおかげだと思っている人が多いようです。
大恐慌なんて、黒人にとっては、たいした意味はなかったのさ。ワシらにはひとつ、大きな強みがあった。それは、女房たちさ。商店に行き、袋詰めの豆や大袋に入った小麦粉や豚の脂身を買ってきて、それを料理できる。ワシらはそれを食べられる。ステーキだって?ステーキなんて食べた日にゃ、トタン小屋に入れられたラバみたいに、胃の中で暴れ出すだろうよ。話を戻すが、白人だったら、こういうわけにはいかないだろう。白人の女房は、こう言うだろうからな。「ねえ、この程度のものしか食べさせられないんだったら、私は出て行くわよ。」そういう場面を見たことがあるのさ。ステーキや鶏肉じゃなくて豆を家に持ち帰るなんて、連中には耐えられないだろうさ。
白人に不況が襲いかかったから大恐慌で、恐慌の有無にかかわらず、黒人の就職口はどっちにしろ掃除夫かポーターか靴磨きくらいしかないと語っています。立場によってみえるものが違うんですね。あと、アメリカ南部に生きるという本を読んだときにも感じたことですが、ステーキは無理でも、豆や小麦粉と豚の脂身(つまりラードですよね)で料理したものが食べられるのなら、同時代の日本人と比較すると決して悪くないように思えてしまいます。また、白人の失業者の人は生活保護を受けながら「肉を食べられるのは一週間に一回、土曜日だけです。買うのは二ポンドだけ。あとの日は半ポンドのボローニャソーセージで食いつなぎます。半ポンドで二五セントでした」とのこと。食習慣の違いとはいえ、今の私の食事と比較しても贅沢に感じてしまいます。


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