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2013年2月28日木曜日

海の近代中国


村上衛著
名古屋大学出版会
2013年2月15日 初版第1刷発行

海の近代中国というタイトルはすこし大風呂敷過ぎる印象ですが、福建人の活動とイギリス・清朝というサブタイトルが本書の内容をよく表しています。イギリス領事の報告を主に、中国の官僚の作成した文書やその他の史料もつかって、廈門を中心とした地域の興味深いできごとがさまざま紹介されています。そして、それをもとにこの時期の中国の特徴がわかりやすく説明・解明されていました。

素人目には強力な中央集権国家にみえる清朝も地方支配の実態はかなりルーズでした。官僚に直接地域を支配する能力はなく、地域の有力者や有力な商人・団体に統制・徴税させる代わりに、利権・特権をみとめる手段がとられていました。アヘン貿易が銀流出の原因であると判断した清朝は取り締まりを試みましたが、牙行に依存する貿易管理体制では課税不可能な禁制品であるアヘンの貿易にうまく対応できません。禁止を前面に打ち出すと取引は零細化して地下に潜り、かえって把握が困難になってしまいます。こういった状況を打開するための強硬手段が引き起こしたアヘン戦争での、夷敵に対する敗北は衝撃的だったはずですが、
当時の知識人が戦中から戦後にかけて、アヘン戦争を意図的に過小評価するようになった可能性がある
のだそうです。 中国の当時の知識人たちも一人一人は人間ですから、心理学的な意味での防衛機制が働いたのでしょうか。知識人に及ぼした衝撃という意味では、かえって日本の方が強かったのかもしれません。
清朝側はイギリス軍の艦船と大砲の能力は認識していたが、陸上における戦闘能力を認めていなかったため、陸戦における敗戦の原因をイギリスの軍事力以外に求めなければならなかった。ここに「漢奸の活躍」が始まる
19世紀中葉、イギリスをはじめとする欧米諸国とその人々を利用しつつ、秩序の再編が進められた。その際に導入された制度は自由な空間を狭め、人を特定の枠の中に押し込めていき、開港場体制はそのために機能した。
清朝は、いわばイギリス海軍を「招撫」することによって中国人海賊を招撫するよりも軽い財政負担で確実に沿岸秩序を回復したといえる
敗戦の責めを負うべき沿海の大官たちが漢奸を「発見」し、責任を逃れる。しかも、条約港に領事館が置かれイギリス軍艦が常駐するようになったことを奇貨として、華南沿岸の秩序回復、ひいては徴税に利用する、その手際には感心させられました。 福建省沿岸では海賊が横行し、また廈門では苦力貿易が盛んでしたが、こういった手法により抑えられ、福建省からはさらに多くの人が東南アジアへ移民することになったそうです。

移民先の東南アジアでイギリス植民地籍を獲得した華人、また生まれながらにイギリス籍を持つイギリス植民地出生の華人の中には、商用や故郷の訪問・滞在目的で中国に戻る人が少なくありませんでした。条約上、外国人には内地旅行や土地獲得などの制限がありましたが、これらの華人は中国人として振る舞い制約を逃れていました。しかし、ひとたびトラブルが起きると、イギリス籍であることを理由にイギリス領事の保護を求めました。領事館も手を焼き、人身だけは保護しても財産は保護してくれなかったとか。そういったわけで、魅力の無いイギリス籍ではなく、台湾籍を選択する人が出現することになったのだそうです。

本書を読んでみて、アヘン戦争により開港を勝ち取ったイギリスが万々歳だったわけではなく、清朝の能力・体質にかなり閉口させられていたこと、またアヘン戦争の衝撃が開始点ではなかったものの、この地域に変化をもたらしたことがよく分かった気がします。そういう点で、とても勉強になった本でした。ただ、疑問に感じた点がなかったわけではなく、特に廈門の経済面に関する記述がそうです。

この期間の廈門港の商品輸入はおおむね横ばいでしたが、輸出に関しては大きく減少しました。それにはいくつか理由があるそうです。もともと廈門の後背地は広くはありません。また廈門界隈の小さな港でおこなわれていたアヘンの非正規な取引がアヘン戦争後はより大きな港に集約されました。また廈門の主力輸出品だった茶は、土地がやせていたこと、混雑物が多いなど低質な商品だったこと、台湾での生産が伸びたことから、競争力を失いました。砂糖もジャワ産などには勝てず、機械制製糖場を導入しようとする試みも地元での反対に遭いました。廈門が中心だった台湾との中継貿易も、日清戦争により失われました。

このうち、台湾が日本領になったことなどは理由として理解しやすいのですが、その他、たとえば茶の輸出が振るわなくなった理由などについては不思議です。以前は盛んだった茶の移出・輸出がこの時期に振るわなくなった理由が低品質なのだとしたら、品質が低下したのもこの時期のことだったんでしょうか?もしそうならなぜ?また、他の産地と違って福建だけが品質の低下を来していたのだとしたらなぜ?また砂糖も、競争に勝てず移出・輸出が減ってしまったのだとしたら、生産地での加工が原則であるサトウキビの栽培もきっと大幅に減少したことでしょう。減ったサトウキビの代わりとして農民はその農地で何を生産したんでしょうか?輸出向けでない農作物?東南アジアへの移民が多くなったからといって、耕作する農民の数が足りなくなったなんてことはなかったでしょう、きっと。それとも、東南アジアの華人からの仕送りで、移民を送り出した地域では働かずに食べていけたんでしょうか?

この時期の中国の「商人間の取引は常に零細化する傾向」があって「零細な経済活動を秩序化する仲介者」の存在があったことが記されています。こういった「傾向」をもつ地域に、アヘンの取り締まりのような仲介者の立場を掘り崩すようなことがなされると、秩序が不安定化してしまうわけです。また、零細であるがために資本の集積には向かず、資本主義化には不利だったのだとか。しかしこれは「なぜ中国は18世紀には経済成長し、19世紀に危機に至り、20世紀末以降、経済発展に成功しているのか」という問いに対する答えとして不十分だと感じました。零細な資本・少ない資本では工場制企業や鉄道や大きな海運会社を立ち上げるのはたしかに無理でしょう。しかし日本で新在来産業と呼ばれているような業種の製造業であれば、充分の起業・成長の余地はあったと思うのですがどうなんでしょう。それがこの時期に族生し得なかったのは、もっと別の理由があるように感じます。自然資源の制約、政治、治安などなど。
当該期を「近代」と呼ぶならば、華南沿海の「近代」とは、牙行に依存した清朝の貿易管理体制のように、16~17世紀の変動を経て形成され機能してきた制度が、世界的な変動によって変容を迫られていく時代であった。この制度変容の契機となったのが、18世紀末以降の世界的な貿易の拡大である。
著者が書くように、アヘン戦争は起点ではなく「制度変容を決定的に加速させたのがアヘン貿易」だった、また制度変容の契機が18世紀末以降の世界的な貿易の拡大だという点はその通りだと私も思います。でもこれだと、別の意味での西洋の衝撃論になっていないのかなとも感じます。私自身は世界システム論が好きですから、西洋が主導した18世紀末以降の世界的な貿易の拡大により中国も世界システムに組み込まれてしまった、そして組み込まれることにより既存の制約・桎梏を乗り越えることができるようになったと考えることに異論はありませんが。

2013年2月17日日曜日

近代技術の日本的展開


中岡哲郎著
朝日選書896
2013年2月25日第1刷発行

後発工業国日本の工業化の特徴が、エピソード・人物の紹介とともに説明されています。各エピソードにはきちんと出典が示してあり、そういう点でもしっかりしていますが、もとは朝日新聞の「一冊の本」というPR誌に連載されていたものだそうですから物語としても面白く書かれています。
同じく朝日選書として出版された「日本近代技術の形成」などと同じく、日本経済の生産技術・流通など江戸時代までの到達が明治以降の工業化・貿易に反映されていることが分かりやすく述べられていました。第二次大戦のあたりなどで細かな事実誤認は見受けられましたが、気軽に読むには良い本だと思います。

江戸時代の日本の労働集約的農業の到達を「勤勉革命」と呼ぶむきがありますが、本書の中で著者は「ことばの遊びではないか」と切って捨てていました。たまたま英語のindustrialとindustriousが似ているからといって、勤勉革命なんて呼ぶのはちゃんちゃらおかしいですよね。単に土地と資源の制約から抜け出せなかった江戸期日本の苦し紛れの対応に過ぎないものの、いったいどこが革命なんだか。この著者の指摘には私も同感です。他方、
「「日本の産業革命」を主張する多くの人は、厳密にイギリスを先頭に西欧で進行した社会経済の発展過程を研究し、そこから抽出した「世界史の発展法則」のさまざまな指標にあてはめて、この時期が産業革命期であることを示そうとする。だが最初に工業化した国の発展過程と、既に工業化した国々の影響を受けて工業化を開始する国の発展、すなわち「後発工業化」は決して同じにならない。そこから見えてくる違いが、後発工業化の個性であり独自性であるのに、「日本の産業革命」論者の多くは、それを、日本の産業革命の歪み、後進性の残存、あるいは日本資本主義の例外性などと論じてきた。」
と述べている点に関してはちょっと厳しすぎるかなと感じます。日本の工業化を産業革命と呼ぶのは、いちばん最後に帝国主義国化を果たしてアジアを侵略したという流れの中での表現なのだと思うのです。著者のお説の通り、韓国の産業革命とかフィリピンの産業革命という呼び方はナンセンスで、それら諸国については後発工業化と呼ぶしかありませんが、日本の場合には産業革命と呼ぶ意味が充分にありそうな気がしますし、産業革命という用語を使用する論者もその含みで使っているのだと思います。1970年代頃までとは違って、今では日本の工業化の特徴を「歪み」「後進性の残存」として論じるような人はもういないんじゃないでしょうか。

日本の工業化の特徴の一つは、江戸時代の日本が蘭書・漢籍や生薬などの日本国内では生産できない品目以外、生糸・木綿・砂糖などの生産技術の改良による輸入代替を達成していて、開港後にその生糸が主要輸出品目となり、大恐慌の頃まで工業化に必要な外貨のかなりの部分を獲得してくれた点。またもう一つは、マッチや雑貨など、新在来産業と呼ばれる業種の生産物の市場が近隣にあった点だと思います。

日本の後発工業化の特徴を捉えるには、なにかと比較することが必要になります。日本より早く工業化を果たした諸国との比較はもちろんですが、同じ時期に工業化を試みた国、具体的にはラテンアメリカ諸国と比較することが有益だろうと私は思います。ラテンアメリカ諸国と比較すると、外貨を獲得する一次産品を持っていたことだけでは順調に経済が成長するとは限らず、近隣に輸出市場を持っていたことが日本の有利な点だったことが分かります。ラテンアメリカはヨーロッパの出店ですから、モノの嗜好もすでに産業革命を果たしたヨーロッパに似ていて、欲しいものがあればヨーロッパから輸入してしまいます。それに対して、太糸と厚地綿布に代表される日本で好まれる商品の中には、東アジアの周囲の国でも受け入れられ輸入してもらえるものが少なくなかったのだと思います。蘭癖大名や豊田喜一郎を始めとした人々の好奇心と努力などももちろん大切ですが、19世紀の状況を考えると、日本は幸運にも恵まれていたなと感じるのです。

2013年2月11日月曜日

経済大陸アフリカ


平野克己著
中公新書2199
2013年1月25日発行


冒頭で、永らく低迷してきたアフリカ経済が21世紀になって成長を始めたことと、同じ頃から中国が資源確保を目的にアフリカ諸国に積極的に投資してきたことが述べられています。これはなにも中国の投資のおかげだけでアフリカが成長し始めたということではなく、中国などBRICsの経済成長に起因する世界的な資源の不足が価格体系の変化を招き、アフリカから輸出される燃料・鉱産物の価格が上昇したため、アフリカへの投資が見合うようになったということだと思われます。
いま、アフリカでもっとも評価されている援助国はおそらく中国だ。 
ガバナンスこそが経済成長のパフォーマンスを左右する決定的要因だと主張していた1990年代の開発論は、この現実をみるかぎりまちがっていたといわざるをえない
と著者は指摘しています。経済成長が実現するには競争力を持った商品を生産して付加価値を生み出す主体の存在が不可欠で、ODAによってそれを生み出すことはできないというのは正しいのでしょう。ただ、ODAは本当に効果の期待できないものだったんでしょうか?というのも、本書の中に示されているグラフを見ると、21世紀になってアフリカに流入する国外直接投資(FDI)の額は、20世紀後半にアフリカに向けられたODAの額よりずっと多いように見えるからです。ODAが目に見えた成果をもたらさなかった原因のひとつに、単にその供与額が不十分だったという理由がなかったのかどうかは気になります。また、
経済が急速に成長しているにもかかわらず、アフリカの行政の質は良くなっておらず、所得分配の不平等度もおそらくは悪化している。「資源の呪い」はそれほどまでに強い力で作用するものなのか
成長するアフリカでも農業のパフォーマンスは相変わらず不良で、コスト高の食糧、それも都市が必要とする量を供給できていないことが述べられています。このためアフリカには豊富な低賃金労働というものは存在せず、製造業はかえって停滞しているそうです。農村が取り残されているだけではなく、拡大する都市の住民の中でも良い職に就けない人たちには経済成長の恩恵は行き渡っていないのでしょうね。とはいっても、経済が全く不振だった時期に比較すれば、中国製の消費財が少しづつ庶民の手にも届いてはいるのでしょうが。
従来とのちがいは、国外からの投資が急激に増えてアフリカの生産力をおしあげていることだ。それを可能にしたのは、うけ手としてのアフリカの投資環境が改善されたからではなく、だし手としてのグローバル企業の投資能力が向上したことにあるというべきだろう
これも鋭い指摘です。本書では「低開発問題を世界システムから説く議論」が一世を風靡した20世紀半ばの南北問題解決策は成功しなかったことが述べられています。ただ、私としては「低開発」の根底にはそれを導く世界システムがやはり厳然として存在していると思うし、世界システム論自体がダメだったとは思えません。現在が価格体系の変動期であり、しばらくは一次産品の相対価格が上昇する時代が続くという著者の味方は正しいのでしょう。しかし、BRICsなどによる一次産品需要増が永久に続くわけではなく、また価格の上昇した原材料を節約したり代替したりする技術革新が必ず出現するはずで、いつかは一次産品の相対価格が低下する時期がふたたびやって来るだろうと思います。その頃までに南アフリカ共和国以外のアフリカの国の中から半周辺への移行を成功させる国がもしかすると出現するかも知れません。しかし、ほとんどの国は低開発状態、周辺の地位から抜け出せてはいないでしょう、きっと。いま、成長を謳歌するサブサハラ・アフリカ諸国の首都にそびえる高層ビル群は、マナウスのオペラ劇場のようなもの。19世紀の一次産品が高価だった時代に繁栄を謳歌した南アメリカ諸国が、周辺の地位から抜け出せなかったのと同じことだと思うのです。

最後の章では、BOPビジネスのフィールドとして格好の存在であるアフリカ、アフリカや資源価格の上昇前のソ連・ロシアと同じく長期の経済停滞に悩む日本の分析、そして日本のアフリカへのアプローチの仕方の提案まで触れられていました。アフリカに対する見方を変えてくれる本であるとともに、いろいろなことを考えるようしむけてくれるという意味で、とても刺激的な本でした。

2013年2月9日土曜日

平家納経の世界


小松茂美著
中公文庫
1995年12月3日印刷 
1995年12月18日発行

冒頭の「一 平家納経の成立ドラマ」ではタイトルにあるとおり、平家納経について物語風に語られています。平清盛がその絶頂期に感謝を込めて厳島神社に納経したのかと思い込んでいましたが、まだ権中納言の時に企画されたものだったのだとか。その他にも知らなかったエピソードがいろいろと書かれていて興味深く読めました。しかし、本書で本当に面白かったのは、平家納経と出会いや、それをきっかけとして古筆学の確立にまで至った著者の個人史を語った部分です。

中学校卒業後に家庭の事情で進学できず、父と同じく鉄道省の鉄道員に就職。召集されるも職業と健康状態から即日帰郷となり運が良いと思う間もなく、広島で原爆に被爆。一時は原爆症で死の宣告も受けたそうです。その後も鉄道で勤務していましたが、被災後の広島駅前の闇市に店を出していた古本屋で池田亀鑑さんの「土佐日記原典の批判的研究」と運命的な出会いをします。同じ頃、秘蔵の平家納経を見たという記事が新聞に掲載され、著者も拝観を希望します。立場上、貴重な品を安易に見せるわけにはいかない宮司に熱心に頼み込み、占領軍の命令ならやむを得ないというアドバイスをもらって、広島地区の司令官の大佐を厳島神社見学に誘い出すようなこともありました。ようやく平家納経を実見することの出来た著者は、その研究を決心したのでした。

国鉄で勤務しながら学ぶ著者には大学などで学んだ経歴がありません。また身近に指導者や参考図書・文献が揃っているわけでもなく、池田亀鑑や東京国立博物館の学芸部長石田茂作など多くの専門家たちに教えを請う手紙を出す「無知の蛮勇」も発揮して勉強を続けたのだそうです。こういった行為は学問の世界だと20世紀半ばには蛮勇と呼ぶべき行為となってしまっていたのかも知れませんが、純粋に趣味の世界で考えると珍しくはないような気もします。例えば同じ頃に、藤子不二雄のお二人は手塚治虫さんにファンレターを書いたり会いに行ったりしていたことをまんが道という作品に描いていました。まんがや音楽やゲームや鉄道やプラモデルなどといった趣味の世界では、これと似たようなことは21世紀の今でも蛮勇にはなっていないでしょう、きっと。目指す世界は違っていても、著者にとっては平家納経・古筆などの研究は大好きな趣味だったということなのだと感じます。

著者は国鉄から分離した運輸省広島陸運局の総務課観光係に移って「いつくしま」という観光用小冊子を編集し、その後はかつての上司を頼って上京し運輸省自動車局総務課に転勤させてもらい、書跡の研究に志す者が少ないという理由で学芸部長石田茂作に頼んで東京国立博物館に出向させてもらって、そして最終的には国立博物館に入職し活躍します。その後の章では著者の主な研究について簡単に披露され、最後の章では著者の確立した「古筆学」がどんなものなのか、国文学に資する点の大きいことが分かりやすく説明されていました。

先日「ある老学徒の手記」で鳥居龍蔵さんの半生を読んだときにも同じような感想を持ちましたが、ふつうに進学するコースから学問の道に入ったのではなく、自力で道を切り開いていった著者のバイタリティに感心させられました。ただ、国鉄時代には同僚に「敬遠」されていたとか、博物館入職後にも「中傷」されたとか、著者自身も書いていますが、本業の方を疎かにして趣味の方に打ち込んでいる人というのは、周囲の人から見たら変人としてみられたのもやむを得なかったのかなとも感じました。

2013年2月5日火曜日

ある老学徒の手記


鳥居龍藏著
岩波文庫 青N-112-1
2013年1月16日 第1刷発行

だいぶ昔のこと、岩波書店発行の世界にこの鳥居龍藏さんの評伝がしばらく連載されていたことがあります。その頃は鳥居さんのことをまったく知らなかったので、明治大正の日本には変わった学者がいたんだなと感じただけで終わりました。しかし、その後朝鮮史や満州の本の中に鳥居さんの名前を目にすることが少なくないことに気付くようになりました。そんなわけで、本屋さんに平積みされていたこの文庫本を見かけて、彼がどんな人だったのか知りたいと思い、読んでみることにしました。

岩波文庫のカバーには簡単な内容紹介がつけられていて、この本にも「小学校を中退し、独学自修した」「民間学者の自伝」と記されています。ただ、この記述はミスリードの感なきにしもあらずです。子供の頃から江戸期に出版された本を多数読んだりなど、早熟な鳥居さんは小学校をつまらなく感じていただけで、決してできない子だから留年・退学したわけではありません。また、独学自修の過程で考古学に興味を持つようになり、上京して東京帝国大学理科大学人類学教室で仕事と研究をする機会を得て、やがては帝大の講師や助教授にまでなったわけですから、最終的には自らの名前を冠した研究所を設けたとはいえ、民間学者というのもどうかと思います。

この本の原著が1953年に出版された時には「考古学とともに六十年」というサブタイトルがつけられていたそうです。最終的には考古学者であると自他ともに任じていたということなのでしょうが、本書に記された調査旅行の様子を読むと、必ずしも考古学的な発掘調査だけをしていたわけではなく、各地の人の体格を測定したり、風俗を記録したりなどなどの活動も行っています。現在では考古学も民俗学も人類学もそれぞれ確固とした独立の学問分野ですが、明治の頃はそうではなかったらしいことがよく分かります。また、もしかすると分化・細分化してきた現在の学問水準からすると、彼の調査・研究の成果はいまや取るに足りないものになっているのかも知れません。しかし、彼のようなパイオニアの活躍が現在の学問の基礎になったことは確かでしょう。

「小学校中退」で留学歴もない彼が帝大所属で活躍できたのは、もちろん彼の才能の然らしむるところでしょう。しかし本書を読むと、それだけが理由だったわけではないように感じました。というのも、彼がしょっちゅう東アジアの各地(モンゴル、満州、沖縄、台湾、樺太、朝鮮、沿海州)に、それも現地の民家に泊まり込むことも珍しくない、数ヶ月にも及ぶ調査旅行に出かけているからです。時には配偶者や、生まれて間もない乳児を連れてでかけたこともありました。きっと、こんな風にフィールドワークが好きで、しかもモンゴルなど多くの言葉をものにしている人というのが当時の日本のアカデミズムの世界では得難たかったから、帝大で活躍できたのかなと感じました。また、彼は調査旅行に際して、満鉄や台湾・朝鮮総督府や陸海軍の支援を各地で受けています。この分野で活躍できた背景には、明治・大正・昭和の日本の東アジアへの拡張があったことは見逃せません。そういう意味で、あの時代が育んだ人ですね。