鳥居龍藏著
岩波文庫 青N-112-1
2013年1月16日 第1刷発行
だいぶ昔のこと、岩波書店発行の世界にこの鳥居龍藏さんの評伝がしばらく連載されていたことがあります。その頃は鳥居さんのことをまったく知らなかったので、明治大正の日本には変わった学者がいたんだなと感じただけで終わりました。しかし、その後朝鮮史や満州の本の中に鳥居さんの名前を目にすることが少なくないことに気付くようになりました。そんなわけで、本屋さんに平積みされていたこの文庫本を見かけて、彼がどんな人だったのか知りたいと思い、読んでみることにしました。
岩波文庫のカバーには簡単な内容紹介がつけられていて、この本にも「小学校を中退し、独学自修した」「民間学者の自伝」と記されています。ただ、この記述はミスリードの感なきにしもあらずです。子供の頃から江戸期に出版された本を多数読んだりなど、早熟な鳥居さんは小学校をつまらなく感じていただけで、決してできない子だから留年・退学したわけではありません。また、独学自修の過程で考古学に興味を持つようになり、上京して東京帝国大学理科大学人類学教室で仕事と研究をする機会を得て、やがては帝大の講師や助教授にまでなったわけですから、最終的には自らの名前を冠した研究所を設けたとはいえ、民間学者というのもどうかと思います。
この本の原著が1953年に出版された時には「考古学とともに六十年」というサブタイトルがつけられていたそうです。最終的には考古学者であると自他ともに任じていたということなのでしょうが、本書に記された調査旅行の様子を読むと、必ずしも考古学的な発掘調査だけをしていたわけではなく、各地の人の体格を測定したり、風俗を記録したりなどなどの活動も行っています。現在では考古学も民俗学も人類学もそれぞれ確固とした独立の学問分野ですが、明治の頃はそうではなかったらしいことがよく分かります。また、もしかすると分化・細分化してきた現在の学問水準からすると、彼の調査・研究の成果はいまや取るに足りないものになっているのかも知れません。しかし、彼のようなパイオニアの活躍が現在の学問の基礎になったことは確かでしょう。
「小学校中退」で留学歴もない彼が帝大所属で活躍できたのは、もちろん彼の才能の然らしむるところでしょう。しかし本書を読むと、それだけが理由だったわけではないように感じました。というのも、彼がしょっちゅう東アジアの各地(モンゴル、満州、沖縄、台湾、樺太、朝鮮、沿海州)に、それも現地の民家に泊まり込むことも珍しくない、数ヶ月にも及ぶ調査旅行に出かけているからです。時には配偶者や、生まれて間もない乳児を連れてでかけたこともありました。きっと、こんな風にフィールドワークが好きで、しかもモンゴルなど多くの言葉をものにしている人というのが当時の日本のアカデミズムの世界では得難たかったから、帝大で活躍できたのかなと感じました。また、彼は調査旅行に際して、満鉄や台湾・朝鮮総督府や陸海軍の支援を各地で受けています。この分野で活躍できた背景には、明治・大正・昭和の日本の東アジアへの拡張があったことは見逃せません。そういう意味で、あの時代が育んだ人ですね。
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