中公文庫
1995年12月3日印刷
1995年12月18日発行
冒頭の「一 平家納経の成立ドラマ」ではタイトルにあるとおり、平家納経について物語風に語られています。平清盛がその絶頂期に感謝を込めて厳島神社に納経したのかと思い込んでいましたが、まだ権中納言の時に企画されたものだったのだとか。その他にも知らなかったエピソードがいろいろと書かれていて興味深く読めました。しかし、本書で本当に面白かったのは、平家納経と出会いや、それをきっかけとして古筆学の確立にまで至った著者の個人史を語った部分です。
中学校卒業後に家庭の事情で進学できず、父と同じく鉄道省の鉄道員に就職。召集されるも職業と健康状態から即日帰郷となり運が良いと思う間もなく、広島で原爆に被爆。一時は原爆症で死の宣告も受けたそうです。その後も鉄道で勤務していましたが、被災後の広島駅前の闇市に店を出していた古本屋で池田亀鑑さんの「土佐日記原典の批判的研究」と運命的な出会いをします。同じ頃、秘蔵の平家納経を見たという記事が新聞に掲載され、著者も拝観を希望します。立場上、貴重な品を安易に見せるわけにはいかない宮司に熱心に頼み込み、占領軍の命令ならやむを得ないというアドバイスをもらって、広島地区の司令官の大佐を厳島神社見学に誘い出すようなこともありました。ようやく平家納経を実見することの出来た著者は、その研究を決心したのでした。
国鉄で勤務しながら学ぶ著者には大学などで学んだ経歴がありません。また身近に指導者や参考図書・文献が揃っているわけでもなく、池田亀鑑や東京国立博物館の学芸部長石田茂作など多くの専門家たちに教えを請う手紙を出す「無知の蛮勇」も発揮して勉強を続けたのだそうです。こういった行為は学問の世界だと20世紀半ばには蛮勇と呼ぶべき行為となってしまっていたのかも知れませんが、純粋に趣味の世界で考えると珍しくはないような気もします。例えば同じ頃に、藤子不二雄のお二人は手塚治虫さんにファンレターを書いたり会いに行ったりしていたことをまんが道という作品に描いていました。まんがや音楽やゲームや鉄道やプラモデルなどといった趣味の世界では、これと似たようなことは21世紀の今でも蛮勇にはなっていないでしょう、きっと。目指す世界は違っていても、著者にとっては平家納経・古筆などの研究は大好きな趣味だったということなのだと感じます。
著者は国鉄から分離した運輸省広島陸運局の総務課観光係に移って「いつくしま」という観光用小冊子を編集し、その後はかつての上司を頼って上京し運輸省自動車局総務課に転勤させてもらい、書跡の研究に志す者が少ないという理由で学芸部長石田茂作に頼んで東京国立博物館に出向させてもらって、そして最終的には国立博物館に入職し活躍します。その後の章では著者の主な研究について簡単に披露され、最後の章では著者の確立した「古筆学」がどんなものなのか、国文学に資する点の大きいことが分かりやすく説明されていました。
先日「ある老学徒の手記」で鳥居龍蔵さんの半生を読んだときにも同じような感想を持ちましたが、ふつうに進学するコースから学問の道に入ったのではなく、自力で道を切り開いていった著者のバイタリティに感心させられました。ただ、国鉄時代には同僚に「敬遠」されていたとか、博物館入職後にも「中傷」されたとか、著者自身も書いていますが、本業の方を疎かにして趣味の方に打ち込んでいる人というのは、周囲の人から見たら変人としてみられたのもやむを得なかったのかなとも感じました。
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