村上衛著
名古屋大学出版会
2013年2月15日 初版第1刷発行
海の近代中国というタイトルはすこし大風呂敷過ぎる印象ですが、福建人の活動とイギリス・清朝というサブタイトルが本書の内容をよく表しています。イギリス領事の報告を主に、中国の官僚の作成した文書やその他の史料もつかって、廈門を中心とした地域の興味深いできごとがさまざま紹介されています。そして、それをもとにこの時期の中国の特徴がわかりやすく説明・解明されていました。
素人目には強力な中央集権国家にみえる清朝も地方支配の実態はかなりルーズでした。官僚に直接地域を支配する能力はなく、地域の有力者や有力な商人・団体に統制・徴税させる代わりに、利権・特権をみとめる手段がとられていました。アヘン貿易が銀流出の原因であると判断した清朝は取り締まりを試みましたが、牙行に依存する貿易管理体制では課税不可能な禁制品であるアヘンの貿易にうまく対応できません。禁止を前面に打ち出すと取引は零細化して地下に潜り、かえって把握が困難になってしまいます。こういった状況を打開するための強硬手段が引き起こしたアヘン戦争での、夷敵に対する敗北は衝撃的だったはずですが、
当時の知識人が戦中から戦後にかけて、アヘン戦争を意図的に過小評価するようになった可能性がある
のだそうです。 中国の当時の知識人たちも一人一人は人間ですから、心理学的な意味での防衛機制が働いたのでしょうか。知識人に及ぼした衝撃という意味では、かえって日本の方が強かったのかもしれません。
清朝側はイギリス軍の艦船と大砲の能力は認識していたが、陸上における戦闘能力を認めていなかったため、陸戦における敗戦の原因をイギリスの軍事力以外に求めなければならなかった。ここに「漢奸の活躍」が始まる
19世紀中葉、イギリスをはじめとする欧米諸国とその人々を利用しつつ、秩序の再編が進められた。その際に導入された制度は自由な空間を狭め、人を特定の枠の中に押し込めていき、開港場体制はそのために機能した。
清朝は、いわばイギリス海軍を「招撫」することによって中国人海賊を招撫するよりも軽い財政負担で確実に沿岸秩序を回復したといえる
敗戦の責めを負うべき沿海の大官たちが漢奸を「発見」し、責任を逃れる。しかも、条約港に領事館が置かれイギリス軍艦が常駐するようになったことを奇貨として、華南沿岸の秩序回復、ひいては徴税に利用する、その手際には感心させられました。 福建省沿岸では海賊が横行し、また廈門では苦力貿易が盛んでしたが、こういった手法により抑えられ、福建省からはさらに多くの人が東南アジアへ移民することになったそうです。
移民先の東南アジアでイギリス植民地籍を獲得した華人、また生まれながらにイギリス籍を持つイギリス植民地出生の華人の中には、商用や故郷の訪問・滞在目的で中国に戻る人が少なくありませんでした。条約上、外国人には内地旅行や土地獲得などの制限がありましたが、これらの華人は中国人として振る舞い制約を逃れていました。しかし、ひとたびトラブルが起きると、イギリス籍であることを理由にイギリス領事の保護を求めました。領事館も手を焼き、人身だけは保護しても財産は保護してくれなかったとか。そういったわけで、魅力の無いイギリス籍ではなく、台湾籍を選択する人が出現することになったのだそうです。
本書を読んでみて、アヘン戦争により開港を勝ち取ったイギリスが万々歳だったわけではなく、清朝の能力・体質にかなり閉口させられていたこと、またアヘン戦争の衝撃が開始点ではなかったものの、この地域に変化をもたらしたことがよく分かった気がします。そういう点で、とても勉強になった本でした。ただ、疑問に感じた点がなかったわけではなく、特に廈門の経済面に関する記述がそうです。
この期間の廈門港の商品輸入はおおむね横ばいでしたが、輸出に関しては大きく減少しました。それにはいくつか理由があるそうです。もともと廈門の後背地は広くはありません。また廈門界隈の小さな港でおこなわれていたアヘンの非正規な取引がアヘン戦争後はより大きな港に集約されました。また廈門の主力輸出品だった茶は、土地がやせていたこと、混雑物が多いなど低質な商品だったこと、台湾での生産が伸びたことから、競争力を失いました。砂糖もジャワ産などには勝てず、機械制製糖場を導入しようとする試みも地元での反対に遭いました。廈門が中心だった台湾との中継貿易も、日清戦争により失われました。
このうち、台湾が日本領になったことなどは理由として理解しやすいのですが、その他、たとえば茶の輸出が振るわなくなった理由などについては不思議です。以前は盛んだった茶の移出・輸出がこの時期に振るわなくなった理由が低品質なのだとしたら、品質が低下したのもこの時期のことだったんでしょうか?もしそうならなぜ?また、他の産地と違って福建だけが品質の低下を来していたのだとしたらなぜ?また砂糖も、競争に勝てず移出・輸出が減ってしまったのだとしたら、生産地での加工が原則であるサトウキビの栽培もきっと大幅に減少したことでしょう。減ったサトウキビの代わりとして農民はその農地で何を生産したんでしょうか?輸出向けでない農作物?東南アジアへの移民が多くなったからといって、耕作する農民の数が足りなくなったなんてことはなかったでしょう、きっと。それとも、東南アジアの華人からの仕送りで、移民を送り出した地域では働かずに食べていけたんでしょうか?
この時期の中国の「商人間の取引は常に零細化する傾向」があって「零細な経済活動を秩序化する仲介者」の存在があったことが記されています。こういった「傾向」をもつ地域に、アヘンの取り締まりのような仲介者の立場を掘り崩すようなことがなされると、秩序が不安定化してしまうわけです。また、零細であるがために資本の集積には向かず、資本主義化には不利だったのだとか。しかしこれは「なぜ中国は18世紀には経済成長し、19世紀に危機に至り、20世紀末以降、経済発展に成功しているのか」という問いに対する答えとして不十分だと感じました。零細な資本・少ない資本では工場制企業や鉄道や大きな海運会社を立ち上げるのはたしかに無理でしょう。しかし日本で新在来産業と呼ばれているような業種の製造業であれば、充分の起業・成長の余地はあったと思うのですがどうなんでしょう。それがこの時期に族生し得なかったのは、もっと別の理由があるように感じます。自然資源の制約、政治、治安などなど。
当該期を「近代」と呼ぶならば、華南沿海の「近代」とは、牙行に依存した清朝の貿易管理体制のように、16~17世紀の変動を経て形成され機能してきた制度が、世界的な変動によって変容を迫られていく時代であった。この制度変容の契機となったのが、18世紀末以降の世界的な貿易の拡大である。
著者が書くように、アヘン戦争は起点ではなく「制度変容を決定的に加速させたのがアヘン貿易」だった、また制度変容の契機が18世紀末以降の世界的な貿易の拡大だという点はその通りだと私も思います。でもこれだと、別の意味での西洋の衝撃論になっていないのかなとも感じます。私自身は世界システム論が好きですから、西洋が主導した18世紀末以降の世界的な貿易の拡大により中国も世界システムに組み込まれてしまった、そして組み込まれることにより既存の制約・桎梏を乗り越えることができるようになったと考えることに異論はありませんが。
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