伊藤之雄/李盛煥編著 ミネルヴァ書房
2009年6月発行 本体5000円
伊藤博文が統監として赴任した当初は韓国を保護国として統治し近代化するつもりだったが、韓国ナショナリズムの興隆によって断念し、山県・桂らの併合論に反対しなくなったと最近の日本では考えられるようになってきているのに対し、韓国では併合への道を強圧的に推し進めた人物としてとらえられることが今でも多いのだそうです。本書は日韓の12人の著者による論考からなっていますが、日本の著者は伊藤博文を当初からの併合論者とは考えていないのに対し、韓国の著者は日本側の見解にそって考えている人と、当初から強圧的併合論者だったとする人に分かれていました。伊藤は内閣総理大臣を4回も経験していて、その人が64歳になってから栄職である枢密院議長を辞してわざわざ韓国へ統監として赴いたのは、単純に併合を目的としていたというよりも、併合論者が多い中、保護国として韓国の近代化をめざすという難題に対処できるのは自分しかいないという感覚だったのだろう、という意味のことが第一章には書かれています。この見解に私も同感です。
被植民地化の危機意識から多くの藩に分かれていた日本を明治維新で一つにまとめ、しかも富国強兵を目標として被支配者にまで国民という意識を浸透させ、日清・日露戦争では兵士として勇敢に戦わせることができたのは、ナショナリズムのおかげだったと思います。ナショナリズムで日本を一つとすることに成功した伊藤博文が、韓国民が反日でひとつにまとまる可能性を重視せずに統監として赴いたことは不思議なことです。本書では韓国の司法改革や条約改正に関する論考のほかに、伊藤の思想、韓国の進歩派や儒者に対する対応に関する論考も載せられていますが、どうして伊藤が韓国を保護国として運営できると思っていたのか、彼のナショナリズム観についての分析は不十分と感じました。
あと、いくつか興味深かったこと。安重根による暗殺に対する韓国民の反応についての第10・11章ですが、この事件を必ずしも全員が歓迎したわけではないのですね。植民地化などの前途への憂慮を示す意見や、追悼会や謝罪使といった話があったことには驚きました。また、第12章には、追悼のためにソウルに春畝山博文寺が建立されたことが書かれていました。銅像だと、像を攻撃する行動が象徴的に行われるかもしれないので、仏寺の建立になったのだそうです。このお寺はようやく昭和になってから建設され、敗戦まで観光名所として日本からの修学旅行生が訪れたり、内鮮融和のための行事が開催される会場となり、日本の敗戦後には放火されて消失したそうです。このお寺のことは全く知らなかったので、勉強になりました。
また、本書のあとがきには編者の伊藤さんによる
なお、韓国側の誤解を避けるために記しておくが、伊藤之雄の先祖は、幕末において、幕府あるいは徳川勢力を支えるため、伊藤博文が属した長州藩と闘った桑名藩士である。伊藤博文およびその子孫との血縁・親戚関係はまったくない。という記載があります。日韓関係の微妙さを示す象徴的な文章だと感じざるを得ませんでした。
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