2009年12月10日木曜日
漢奸裁判史
益井康一著 みすず書房
2009年10月発行 本体4500円
本書は、もともと1972年に発行されたものに劉傑さんの解説を新たに付して新版として発売されたものです。本書の巻末にも今井武夫さんの「支那事変の回想」に関する記載がありますが、今年3月に日中和平工作というタイトルで再刊されたその本を読んだことがあったので、汪兆銘政権の舞台裏がみえる感じで本書を読むことができました。
劉傑さんの解説によると対日協力者としての漢奸については中国でも1980年代までタブー視され、あまり研究がなかったそうです。その点で、本書は漢奸裁判に関するかなり早い時期でのまとめです。また、著者は本書の中で裁判の一次史料は国共内戦の影響で残されていないのではと述べていて、毎日新聞の記者だった著者は敗戦後に日本に帰国してから、漢奸裁判関係の外電や中国の新聞などを収集して本書を書いたのだそうです。
汪兆銘が日本の敗戦前に日本で病死したことは知っていたのですが、多発性骨髄腫だったことは本書で知りました。対麻痺と膀胱直腸障害があったそうですから、脊椎の痛みもかなりひどかったことでしょう。症状から死が避けられないことも自覚していたはずで、遺書を残す気になっても不思議はありません。実際、汪兆銘は死後20年たったら公開するようにとした遺書を残していて、文字からもおそらくホンモノと思われるものなのだそうで、それが載せられています。すでに日本の敗戦が見透せる時期に書かれたものですから、それを織り込んで、自分の行動の正当性、汪兆銘政権が決して傀儡政権ではないことを訴えています。日米開戦前には日中戦争が中国に有利に展開すると決まっていたわけではないのですから、蒋介石と袂を分かった彼の行動も理解できる気がします。私も日本人なので、日本側の王兆銘観になびいてしまっているのは否定できませんが。
汪兆銘亡き後の主席陳公博、駐日大使や外交部長だった褚民誼、そして汪兆銘夫人の陳璧君などの大物は、裁判でも過ちはみとめ、それでいて自分の行動の正当性も正々堂々と主張していて、感心させられます。法廷での傍聴人や当時の中国の新聞の論調もこれらの人に対しては同情的な点があったそうです。まあ上海など、もとは汪兆銘政権支配下にあった地域で発行された新聞だからかも知れませんが。陳公博・褚民誼など大物の多くは死刑(絞首刑ではなく、銃殺)になりましたが、陳璧君は終身禁固刑になりました。国共内戦下、共産党の支配下に入った蘇州の刑務所で服役していた他の漢奸たちが釈放されても、陳璧君は釈放されず、共産党側からの転向の誘いも断って1959年に獄死したそうです。
漢奸と認定されるのは、国民党員で裏切ったと見なされた人だけが対象ではないのでした。例えば、科挙の進士合格から経歴をスタートさせた王揖唐という人は、安福派軍閥で段祺瑞の片腕として活躍し、安福派の失脚後は日本に亡命しました。華北の日本の傀儡政権の中には、こういった軍閥に関係した北方の旧政客たちがいました。私の目から見ると、この人たちは元々国民党とは対立していた人たちですから、国民党と対立する華北の傀儡政権に参加しても当然で、漢奸として裁かれるのは筋違いのような気もします。また、あの川島芳子も漢奸として裁かれていますが、清朝の皇族出身で、しかも9歳の時から日本で日本人の養女として育てられた彼女が漢奸とされたことにも、強い違和感を感じます。川島芳子に関しては、当時の中国の中にも同様に感じた人が多くいたそうです。
華北傀儡政権・汪兆銘政権の高官や財界人だけでなく文化人も裁かれています。魯迅の弟として有名なのは周作人は懲役刑の判決を受けました。看板になるような文化人たちは強く対日協力を迫られたのでしょうし、逃げ隠れするには高齢・有名過ぎる人たちですから、やむを得なかったのでしょう。日本人に対する 怨に報くゆるに徳をもってせよという蒋介石の言葉を思うと、文化人たちに対する有罪判決は酷な感じがします。ただ、京劇の女形の名優、梅蘭芳はひげを蓄えて潜み、対日協力をせずに過ごしたそうで、このエピソードには感心しました。
本書を読んで、フランスの対独協力者や、ドイツの占領下にあった地域の同様の人たちのことについても学んでみたい気になりました。また、日本にはこういう問題はこれまでなかったのですが、戦前戦中の捕虜になった人への態度など考えると、もし日本で漢奸が問題にされるような事態が発生した際には、もっときびしい非難が一般のひとたちからあびせかけられるのでしょうね。
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