2009年12月25日金曜日

傲慢な援助

ウィリアム・イースターリー著 東洋経済新報社
2009年9月発行 本体3400円

「傲慢な援助」とはおおげさな印象ですが、原著のタイトルはThe White Man’s Burden(白人の責務)で、キップリングの詩の題名からとられたものだそうで、そういう意味では傲慢という言葉が入っているのは日本語のタイトルとしてふさわしいかもです。本書の著者は世界銀行で実務に携わった経験のある開発経済の専門家です。もちろん著者も、貧困をなくすためには経済成長が必要だという立場です。しかし、過去50年間に先進国が2.3兆ドルもの経済援助をしてきたのに、なぜ発展途上国の経済成長が実現しなかったのか、つまり援助が失敗してきたのはなぜかという問題意識で本書は書かれています。

援助する側が「我々白人が貧困など途上国が抱える問題を解決してやるぞ」という意識で、経済成長を達成するというような大きな目標をめざしたユートピア的なプランを建てて資金援助を行う(それを行う人をプランナーと本書では呼ぶ)というビッグプッシュはうまく行かないのだというのが著者の主張です。外部から押しつけられた市場・民主主義などは満足に機能せず、かえって経済成長を阻害してしまいます。また、ビッグプッシュに必要な多額の資金を集めるためには、目標が着実に実行可能で成果が見込めるのかどうかよりも、資金の出し手にアピールするような壮大な目標を掲げることが求められます。特に、計画の成果を身を以て検証することのできる位置にいる発展途上国の一般の人たちの声が援助する側に届きにくいこともあり、これまでは援助の成果が正しく評価されてこなかったので、何が達成されたかよりもどれだけ多くの資金が投入されたかだけが重視される傾向にありました。ただ、著者によると、経済成長の達成という観点からだけしても、経済援助が有益だったのかどうかには疑問があるそうで、今後は援助の成果を正しく評価することが必要だとされています。

本書にはさまざまな小さな援助の成功例が載せられていますが、著者が重視しているのは、人はインセンティブに反応するということです。資金の提供者の側で目標を建てるのではなく、実際に発展途上国で実践されている活動(その活動を行う人を本書ではサーチャーと呼ぶ)を援助することが求められています。そうでないと、「援助は人びとのインセンティブを歪め、自分自身の問題を解決するのに、ついつい、どうすればいいか他人のほうを見てしまう」ということになりかねません。

同じ著者の「エコノミスト 南の貧困と闘う」という本が2003年にやはり東洋経済新報社から発行されています。前著では経済援助の不成功の理由として、発展途上国側の悪い政府・腐敗した官僚制などの問題を指摘していることが印象的でしたが、それに加えて本書では援助する側のプランナーの問題点も指摘して、発展途上国のサーチャーのインセンティブを重視することを主張しているのだと感じました。

本書の第10章では「自分の国の経済成長は自前の発想で」として東アジアの国とインド・トルコ・ボツワナなどの例を紹介しています。この中で特に日本の戦後の経済発展について、「アメリカが占領下の日本でトップダウン式に改革を命令したから日本が高度成長を実現したのではなく、日本国内に、あるいは日本人の中に、高度成長を可能とする様々な要因があったということなのだ」と著者は評価しています。この点についてはとても同感です。そして、経済史を学ぶにつれ感じることですが、著者の指摘する戦後の高度成長だけではなく、日本が開国後に後発ながら資本主義国として植民地を持ち、アメリカと3年半も戦争を継続できるまでに成長したのは、もともと江戸時代の日本にその条件が備わっていたからとしか私には思えません。つまり、経済成長が実現するかどうかはその国に条件が備わっているかどうかが重要で、経済援助は条件が備わっている場合にしか効果を発揮できないということだと思うのです。だから直接に経済成長を目的とする援助は無駄だから止めにして、生活の改善に役立つようなサーチャーの活動を援助しようという著者の意見には賛成です。ただ、本書の第8章で指摘されているように、ヨーロッパによって植民地されなかった日本や東アジアの国と、ヨーロッパによって植民地化された地域とを対比すると、植民地統治期の分割統治などなどのゆがんだ制度が独立後の経済成長を疎外している面があることは確かで、だからより一層、白人の責務を感じてしまう人がヨーロッパには多いのでしょうが。

前作と本書を並べてみると、同じ著者の同じようなテーマの2冊の本が同じ出版社から出版されたのに、前著は四六判で本書はA5判と大きさが不揃いにしてあるのはなぜなんでしょう??

0 件のコメント: