2011年5月3日火曜日

源頼朝の真像

黒田日出男著 角川選書490
2011年4月発行 本体1800円
教科書の口絵などによく載せられていた神護寺の伝源頼朝像がじつは足利直義の肖像なのだという米倉迪夫さんの説は、その伝源頼朝像をカバーに載せた「肖像画を読む」(黒田日出男編、角川書店、1998年)におさめられた米倉さんの「伝源頼朝像再論」を読んだ時に知りました。とても説得的な説ので、すでに定説化しているのかと思っていたのですが、本書のプロローグや第一章によるとそうではないのですね。本書には、米倉さんがその後この説に関する本を書き、それがいまでは平凡社ライブラリーで読めると紹介されていたので、近いうちに読んでみようと思います。御説自体は本当にその通りという気がしますが、 足利尊氏・直義像が、いつ頃、また一体どうして平重盛・源頼朝像とされてしまったのかについても興味があるので。
著者は米倉説支持派なのですが、神護寺の伝源頼朝像が頼朝の肖像画ではないとすると、ほかに頼朝の面影を偲ばせてくれる作品はないのか、という点が本書のテーマです。肖像画の方はというと、現在残されている頼朝の肖像画は神護寺の伝源頼朝像を模写したものばかりで役に立ちませんが、彫像には鎌倉時代に造られたものが2点あります。そのうち、東京国立博物館蔵の伝頼朝像の方を、著者は北条時頼像だとしています。論拠がいくつかあげられていますが、建長寺に所蔵されている北条時頼像と顔つきがよく似ているという指摘は、本書所収の写真でみても、たしかにその通りです。
残るもう一体の頼朝像は甲斐善光寺にあります。甲斐善光寺は武田信玄が信州善光寺の本尊阿弥陀如来像などを移して開山したお寺で、その時に頼朝像なども一緒に持ってこられたものなのだそうです。戦乱から保護すると称して、信玄が信州善光寺から僧侶たちと寺宝をごっそり甲府に遷した行為はひどいことのようにも思えますが、寺宝などを博物館に収蔵し公開する現代のやり方と、考え方はそんなに違わないのかも知れません。


本書所収の写真によると、この善光寺の像は熟年のおじさんで、中小企業の社長さんといった感じのあくの強そうな顔をしています。理知的な印象を与える神護寺の伝源頼朝像とは違い、まったく上品そうには見えないし、写実に徹している印象を受ける彫像です。この像が頼朝の「真像」なのかどうか。その鍵となるのが、この像にある胎内銘ですが、現状では非常に判読しにくくなっています。著者は十数年かけてこの胎内銘の読みに挑戦したのだそうです。







この胎内銘の解読はこれまでにも試みた人やグループがあって、その解読案が本書にも紹介されています。第7章では、それらこれまでの案も材料に、著者が自らの解読を行っていく過程を紹介しています。文字が消えたりかすれていてとても読めず、空白としてのこされていたような部分にまで、各種史料から導いた著者独自の説にもとづく言葉、たとえば「尼二品殿」などをあてはめてしまうところなど、この第7章が一番面白く読めるところでした。
できあがった解読試案と他の史料からわかることをまとめると、源頼朝・政子夫妻には善光寺信仰があった、頼朝の死後に政子は頼朝像をつくらせ彼女が善光寺に建立・寄進した御堂にその像を安置させた、御堂は鎌倉三代将軍御影堂と呼ばれるようになった、善光寺には大火が何度もあり頼朝像も火災から頭部だけが救い出されて躰部を補う修復を受けその時に胎内銘が書かれたと、著者は主張しています。たしかに、写実的な顔とは対照的に衣服など躰の表現の硬さが素人の私にも感じ取れ頭部と躰部が別に造られた印象を受けるなど、著者のストーリーには大きな矛盾がなく、それだけでも説得的ではあるのですが、さらにその説得力を増してくれているのが、源実朝像の存在です。
甲斐善光寺には源実朝像があり、これもやはり信州善光寺から遷されたもので、もともとは鎌倉三代将軍御影堂に安置されていたと思われます。写真で見ると優しそうな表情で、頼朝像とは違ってイヤらしくないふつうの日本人という感じがします(うちの患者さんの中にも一人とてもよく似た人がいます)。そしてこの源実朝像は、京都国立博物館蔵の公家列影図に載せられている実朝に、顔が似ているんですね。そろって伏し目がちの表情をしていて。ですから、善光寺の彫像の方も京博の肖像画の方も、本人の顔を写しているのは確かだと思われます。公家列影図を描いた人は京都の人でしょうから、実朝の顔を見たことがあるの?と不思議に感じましたが、この頃はこういう作品を、デッサン(紙形)をもとに造ったのだそうです。これは初めて知りました。彫像の作者にも肖像画の作者にも伏し目がちな表情のデッサンが渡されれば、似た顔になるのは当たり前ですね。
本書所収の写真をみると、実朝像と頼朝像の顔もかなり似ていることがわかります。著者は「面長で頬骨の出たその顔の特徴は、頼朝像のそれと似通っているということであった。親子の間の肖似性を感じるのだ。つまり、この両像はたんに同じ寺に伝わってきたというだけではない。両像は少しの時間をおいて、続けて造像されたのではあるまいか。そう感じられるような両像の近さなのである」と書いています(肖似性という用語があるのを初めて知りました)。二つの像の顔は規範的な表現がなされたというわけではありませんから、本人たちの顔の特徴をとらえているからこそ、ふたつの像が似ることになったと考えるのが自然ですね。
夫の像を造らせただけではなく、母親が息子の死後に息子の像を造らせ供養させたというのはとてもありそうなお話しだと思います。鎌倉三代将軍御影堂とう名前からわかるように、現在は失われていますが、かつては頼家の彫像もあったのだそうです。頼家の死と政子との関係のことがあるので、著者も断言はしていませんが、頼家像も政子がつくらせたものだろうと推測しています。頼家の死後しばらくたって、母親が夫頼朝と同じように追善供養するために彫像をつくらせたというのは、ありそうなことだと思います。ヒトとは複雑なものです。
おおむね納得させられてしまう著者の説ですが、ひとつ疑問に感じた点。実検すると「源頼朝坐像の頭部と躰部の間に12ミリの隙間の存在を確認した」のだそうです。焼け残った頭部に躰部を補う修理をしたのなら、どうしてそんなに寸法が違ってしまったのでしょうか?躰部の修復後の火災や移動で、こうなってしまったのでしょうか。
私は専門家ではないので、著者の新説の当否の判断はできません。でも、刺激的な新説を素人にもわかりやすく、しかも説得的に展開しているという点で、本書はおすすめです。黒田さんの本はどれも面白く読めますが、本書もその例外ではありませんでした。日本史の分野にも、新たな視点で新たな遊び場を見つけることがまだまだ可能なことがよく分かる感じ。例えばこの先には、ほかの歴史的人物の肖像画がほんとうにその人の顔に似せて画かれたものかという研究はどうでしょう。聖徳太子や藤原鎌足や柿本人麻呂などの絵は、教科書やお札につかわれてはいても歴史画としての意味しかありません。でも、似絵の時期以降に描かれた肖像画でも、必ずしもその人に似ているという保証はないでしょう。本当にその人の顔かたちを写して描かれた絵と、想像で描かれた絵とを判別するのも面白いと思います。ただ、素人受けも狙える面白い研究に加えて、もっと大風呂敷を広げる研究が重要なこともたしかです。もっと若い日本史の研究者には、そちらの作品を読ませてほしいとも感じます。


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