2011年5月1日日曜日

藩札の経済学

鹿野嘉昭著 2011年3月発行
東洋経済新報社 本体3800円
藩札について、その起源から実際の流通事情、明治維新後の藩札整理まで、素人にも理解しやすい言葉で分かりやすく解説した好著です。私には本書で初めて知ったこと・学んだことがたくさんあり、整理も兼ねて以下に紹介してみます。
藩札の起源は伊勢山田地方で発行された山田羽書だとされています。山田羽書は、伊勢山田での宿泊費や飲食・土産物費用支払いの手段として山田御師が地方在住の信者向けに発行したクーポン券で、伊勢神宮の神札に似せてつくったものが始まりなのだそうです。伊勢神宮の御札に似ているというのがみそですね。その後に発行される藩札の多くも、縦に細長い形状を真似ました。伊勢山田地方では「毎年多数の人々が伊勢神宮に詣でることを主因として少額貨幣の需要がきわめて高かったことから、金銀貨という高額貨幣が発行された江戸時代に入ると恒常的に少額銭貨が不足」する状況があり、この山田羽書が銭不足を補うかたちで流通したのだそうです。
江戸時代の貨幣というと、幕府発行した小判・寛永通宝・丁銀などが思い浮かびますが、「関東地方所在の諸藩を除く全国の諸藩においては、多くの場合、金・銀貨に関する限り、正貨よりもむしろ藩札が領内の一般的な交換手段として広く利用されていた。実際、江戸時代において金・銀貨がそのまま貨幣として利用されていたのは江戸・大坂・京都といった大都市に代表される幕府直轄地域内か、藩際取引や藩外旅行にかかわるものに限られ、各藩内での一般士民の日常生活のほとんどは藩札と少額貨幣である銭貨によって決裁されていた」という状況だったのだそうです。
どうしてこうなったかというと、各藩の領域内では小判・寛永通宝・丁銀などの幕府貨幣が不足しがちな事情があったからです。本書には「江戸時代における幣制の下での一領国への正貨供給経路は領際取引に限られ、毎年、民間主体による領際取引を通じて得られた領外余剰のほか、藩政府による年貢米の領外市場での売却や国産物の販売に代表される領外への輸出取引から江戸藩邸の運営費用、参勤交代費用や領外からの諸産物の輸入などを控除した金額だけの正貨が流入するこの流入正貨の累積残高と江戸時代はじめの正貨残高(いわゆる領国貨幣残高を含む)との合計が一領国経済における貨幣供給量であり、これが貨幣需要を下回る場合には通貨不足が発生することになる。そしてまた、正貨の純流入額あるいは領外取引余剰は、資金循環に関する恒等式が示すように、事後的には一領国における民間部門の貯蓄超過と政府部門の財政赤字の合計に等しい」「個々の大名領国経済は、国際経済学でいう『開放経済の小国(small open economy)の亜種として捉えることができる』」と書かれていました。これは何となくそうだろうなと私も昔から感じていたことなのですが、こうはっきり表現してくれているのに出会ったのは初めてな感じ。江戸時代の大商人や各藩の経済政策担当者もこのことを理解していて、重商主義的な政策、特産品の専売制度などをとったのでしょう。また開国後に対外貿易を展開してゆく時にも藩際貿易の経験は役立ったでしょう。


ともあれ、各藩領国内で幕府貨幣を流通させるには、藩際貿易の黒字などの手段によって領国内に十分な量の幕府貨幣を輸入しなければなりません。藩際貿易の大幅な黒字を計上することのできる藩は例外的な存在で、その他の藩では貨幣不足対策として藩札を発行しました。藩札を発行した藩は西日本に多く、1661年から1707年の藩札発行禁止措置までに近畿以西の諸藩を中心に50余藩が発行しました。「先進経済地域で貨幣に対する取引需要が大きいに西日本地方ほど、通貨不足がより深刻であったことを意味しているのかもしれない」とのことです。また、江戸時代前半には東日本の諸藩での藩札の発行は少なかったわけですが、これは必ずしもこれらの地域の経済的的後進性を意味するのではなく、「東北地方所在の諸藩は古くから銀・鉄などの鉱物のほか、馬、藍、俵物などといった米以外の商品生産が活発に行われており、そうした商品の売買を通じて領外から正貨が流入する結果、藩の財政基盤は確固としており、藩札発行に対する依存度合いが相対的に低」かったからとも考えられるのだそうです。
幕府貨幣の各藩領国内での流通を考えると、金銀貨の流通がほとんどなかったのに対し、藩札と並んで銭貨はそれなりに流通していました。藩によっては、領内での幕府正貨の流通禁止、領内に逗留する旅人・商人に藩札の使用を義務づけるなど藩札の専一流通を命じていたことが一つの原因です。また、藩内の商人が藩際輸出の代価として「大阪で得た銀貨建て純益を領国に持ち帰るに際して、わざわざ銭貨に交換しているのである。このような行動を有力な商家の多くがとった結果、西日本所在の大名領国においては銀貨に代わって銭貨が大量に流入したと考えられる」「商家が大阪との領外取引で得た銀貨を領国に持ち帰るとともに資産として蓄積していた場合、領国大名政府の命令により価値変動の大きい藩札との引換を強制されるおそれが強いため、財産保全を狙いとして銭貨が選好されたと考えられるのである」といった事情があったからなのだそうです。金銀貨よりもましだとはいっても銭貨も幕府貨幣の一種ですから、領国内で充分な量を流通させるにはやはり藩際貿易の黒字が必要になるような気がしますがどうなんでしょう。それとも、銭貨は各藩でも幕府の許可を得て鋳造していたこともあって、ずっと輸入しやすかったからなんでしょうか。
幕末期、藩札が濫発され価値が大きく下落した・通貨インフレをもたらしたという通説があります。たしかに、濫発によって価値を大きく下げた藩札もありますが、明治にいたるまで「慎重な発行姿勢を堅持していた藩や特産物を有する藩が発行した藩札の交換価格は高」かったのだそうです。著者は「第6章 幕末期、藩札は濫発されたのか」で藩札濫発論について統計と経済理論とから論じています。「幕府貨幣の発行急増、銀相場の大幅な下落および輸出品価格の高騰に加え、凶作・社会不安などを主因として幕末にかけてインフレが高進し、名目取引高が大きく膨らんで貨幣に対する名目的な需要が増大した。その結果として、貨幣の円滑な供給を目指して藩札の発行も急増したのである。この点に関連して、藩札の増発により領国内での物価が上昇したと主張されることが多いが、この議論は経済理論的にみた場合、正しくない。物価の上昇・下落とはあくまでも日本経済全体としての一般物価の上昇・下落といったマクロ経済面での事象のことをいい、領内で物価が上昇したのは幕府貨幣の発行増大に伴い日本全国においてインフレが高進したからである。その際、とくに留意する必要があるのは、一般物価の変動に関連する貨幣総量は、藩札発行高ではなく、徳川幕府が鋳造した金銀銭貨の市中在高であるという経済理論からの帰結である」とのことです。藩札はその藩の領域内でしか流通しませんから、ある藩で藩札が濫発されて価値を下落させたとしても、それが日本全国の物価にすぐに影響するわけではなく、日本のインフレの原因としては幕府貨幣の流通量の方に着目しなければなりません。
また幕末期に藩札の発行量が増加した証拠は確かにありますが、「藩札の増発がインフレを誘発したのではなく、万延の改鋳以降に採用されたインフレ政策や開港に伴う財物の需給バランス変化に起因する輸出品価格の高騰が、藩札発行を増大させたのである」と著者は指摘しています。インフレに対応して取引での支払いを順調に行うには、藩札の増加が必要になったというわけです。
さらに、幕末期の各藩財政の悪化に対応して、赤字補填目的で藩札が増発されたという通説に対しても、「藩札は、領国大名政府による財政赤字の補填手段にはなりえない。領国経済における貯蓄投資バランスを考えると、財政赤字の裏側には領外への現金支払いの増大があることがわかる。実際、領国大名政府の財政を圧迫したのは、参勤交代に伴う江戸詰め費用、海岸防衛費用など、最終的には全国に通用する金銀貨で支払わなければならない負担であり、領内でしか通用しない藩札の増発ではそうした支出を賄うことはできない。それゆえ、財政に窮した領国大名の多くは、大阪の有力両替商や地元の豪商からの借入れ(いわゆる大名貸し)で財政赤字を賄っていたのであり、こうした借入れ自体、仮に藩札発行により財政赤字を埋め合わせることが可能であれば、そもそも発生し得ないものである」と説明されています。藩札は藩内での支払いに使えますから、赤字補填目的での発行が不可能というのは言い過ぎでしょうが、藩際取引を決裁するための正貨としての使用が不可能なのは著者のおっしゃるとおりですね。
第7章では藩札の整理について解説されています。「一般庶民や商人が保有する旧銭貨および銭貨建ての藩札債権は鉄一文銭を基準として新貨に換算されたため、2~3割の減額を強いられることにに」りました。しかし、鉄一文銭自体は新貨との交換に際して藩札よりもさらに28%ほど低く評価されることになったので藩札整理に対する不満が相対的に生じにくい事情がありました。また「 廃藩置県に伴い藩札を発行していた藩が廃止されたため、当該債権の早期回収を図るには、維新政府が提示した2~3割の減額を受け入れる方が得策と判断のうえ、一般庶民や商人の多くが藩札整理にも積極的に応じたと考えられるのである」とのことで、比較的順調に藩札整理も実施されたのだそうです。

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