2011年10月21日金曜日

関ヶ原合戦







笠谷和比古著
講談社学術文庫1858
2009年12月第3刷発行




以前、笠谷さんの書いた近世武家社会の政治構造を読みましたが、その中には関ヶ原合戦の過程・結果が幕藩体制の前提となり、徳川幕府を拘束することになったと論じる「関ヶ原合戦の政治史的意義」という論考が収められていました。本書にはその論考も収められていますが、それに加えてこの合戦の前史・参加者の動向・家康の働きかけとその成果などを典拠とともに記されています。本書の主張は、
  • 多数の豊臣恩顧の武将が家康麾下で戦ったこと、小早川秀秋が内通したことの大きな理由には、北の政所と淀殿との対立、そして石田三成・淀殿ラインが政権を握ることへの危惧があった。
  • 秀忠率いる徳川主力軍が合戦に参加できず、東軍は豊臣恩顧の大名の働きで勝利した。
  • 戦後処理では、没収した土地の80%豊臣恩顧の武将に与えられ、豊臣系の国持ち大名が多数出現した。
  • 合戦後も豊臣秀頼の権威は揺るがず、この時期の家康もそれを尊重する姿勢だった。秀頼の将来の関白就任と矛盾しない形で政権を運営するため家康は征夷大将軍の地位を選んだ(著者はこれを二重公儀体制と呼んでいます)。
など。それに加えて、関ヶ原の合戦は豊臣と徳川の覇権闘争ではなく、東軍の勝利も徳川家の盤石な支配体制をもたらしたわけではないという点で、従来の説とは異なるのだそうです。ただ、笠谷さんの本はどれもそうですが、史料をもとに理解しやすく書かれていて、素直にその通りと思えてしまいます。例えば、小早川秀秋に内通を求める書状には、内通への反対給付が示されていなかったそうです。著者はここから、反対給付などなくても北の政所を守るには家康に与することが当然と観念されていたからだろうと論じていて、目のつけどころがシャープかつ説得的だなと感じました。


また、豊臣家が単なる一大名でなかったからこそ大阪の陣が起こったと考えれば、著者の二重公儀体制論は無理がない感じです。ただ、この時期は二重公儀体制を築くことにしていた家康が、その後になって何故、大阪の陣を起こそうと考えるようになったかは謎だとも述べられています。これに関してもいつか説得的な論考を読んでみたいところです。
本筋からは外れますが、関ヶ原戦につながる対立で、毛利輝元が総大将として担ぎ出されることを承知したのは何故なんでしょう?史実通りの動きしかしないのであれば最初から三成に与しなければ、領地没収なんてことにならなかったでしょうに。また、総大将として動くつもりなら、秀頼を先頭に立てて出陣(淀殿が許さなかったんでしょうね)するなりなんなりしなければ、意味ないでしょうに。輝元は背景の人物としてしか本書では触れられていませんが、単に彼は上に立つものとしての器量がない人だったということなんでしょうね。
あと、織田信長の嫡孫の三法師がその後どうなったのか知りませんでした。成人して秀信と名乗っていた彼は、西軍として岐阜城を守って破れましたが助命され、剃髪して後には高野山で過ごしたと本書には書かれていました。ふーんという感じ。

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