笠谷和比古著 吉川弘文館
1993年2月発行 本体8500円
専門書として出版されているのですが、選書として出版されてもおかしくないくらい、平易な叙述で分かりやすく、しかも非専門家にとっても面白い本です。私が購入したのは第3刷ですから、吉川弘文館から出版されている他の同じような装丁の専門書よりたくさん売れているのだと思いますが、それも面白いからなのでしょう。で、勉強になった点をいくつか紹介します。
近世前期に各藩で御家騒動を伴いながら、つまり上級藩士の意に反する点がありながらも、地方知行制の廃止と近世官僚制の確立が成し遂げられるようなイメージを持っていました。しかし
最近の知行制度について研究は、この「分散相給的知行形態」の導入が在地領主としての給人の自律性を否定し、藩主権力を確立すべく推進されたものとする従前の見解に疑問を提起している。この新しい近世的知行の形態は、年貢収納の豊凶に伴う危険の分散と、その均等・安定化の観点において、むしろ家臣団側からの要望によって採用されていたことがしだいに明らかにされつつあるのである。また、地方知行が廃止されることによって家臣団の俸禄に対する保有が脆弱になり、その後の藩財政の悪化に伴って借知制が一般化するというふうにも思っていました。しかし著者によると、借知制は俸禄そのものが削減されるのではなく借り上げられるという形態であること、借知令発布の際には藩主の不徳により心外ながら借りるというような文言が添えられていること、借知令発布の当初には返済も考えられていたことなどを挙げ、俸禄保有は確固たるものだったと結論づけています。うまい解釈です。
また近世官僚制についても、江戸時代のごく初期には地方知行が存在していたために包括的な藩政が存在せず、大名は蔵入地を側近の家宰を通して支配していただけだった。分散相給的知行形態の導入後、それまで支城を守っていた最上級家臣が本城に常住することにより、藩政に関わる家老職が作り出されたということです。
第10章の大名改易論では、広島の福島正則・肥後の加藤広忠の改易について論じています。一般的には幕府が外様大名の廃絶政策をとっていて、ささいな理由や陰謀で次々と改易されたようなイメージもありました。しかし本書で著者は、福島正則については史料から広島城改築が無届けであったこと、穏便に済まそうとする老中の意向により一度は城の破却で合意したのに福島正則が条件どおりの破却を実行しなかったことから改易につながったと論証しています。加藤忠広の場合にも、問題となった怪文書が実在し、しかも息子の光広との関連を忠広が否定していないことを史料から示して、幕府の陰謀とは考えられないこと、当時の他の大名も改易止む無しと考えていたことを示しています。また改易の際には、他の大名の動揺を防ぐために、諸大名を江戸城に集めて事情を説明する場を設けたりなどもしていて、無嗣断絶以外の改易を積極的にすすめる意向が幕府にあった訳ではないようです。
第12章の大名留守居組合論では、この組合の重要性が述べられています。幕府が全国に向けて発する法令を各藩が自領内で実施するには、その法令がどういう意義を持っているのか、具体的にどう実施すべきかなど、法令の解釈や施行細則にあたる部分が必要です。それらの解釈・施行細則を幕府関係者や他藩に問い合わせて国元に伝達する役目を留守居役が担っていました。幕府が全国の升を京升で統一する幕令を出した際、幕府は京都・江戸の指定業者のつくった升で統一するつもりだったのが、大名留守居組合の総意で、寸法が京升どおりの升ならどこで製造した升でもよいことになってしまったそうです。また、田沼時代末期の全国御用金令は、大名留守居組合がこの幕令そのものの受け容れ困難ということで一致して対応し、当初は延期、そしてついには廃止を勝ち取ったのだそうです。武家諸法度で徒党は禁止されていますがこういうこともありえたのですね。江戸時代には議会はありませんでしたが、非公式な議会とも言えそうな印象を持ちました。
ほかにも駈込慣行とか、大名家における意思決定の「持分」的構成論とか、関ヶ原の戦いがその後の江戸幕府の体制に与えた影響とか、一読の価値ありでした。
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