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2009年7月27日月曜日

大正天皇の病気

昨日のエントリーの「青年君主昭和天皇と元老西園寺」の第一章を読みながら、大正天皇の病気のことが気になりました。どこが気になったかというと、「大正天皇(1879~1926)は幼児の時に罹った髄膜炎(脳膜炎)の後遺症で脳を病むようになった」というところです。これは本当?

大正天皇については原武史著の大正天皇(朝日選書663)も読んだことがあります。こちらの本でも「天皇の外見的な症状は『末梢器官の故障』が原因なのではなく、すべて幼少期の脳病に端を発する『御脳力の衰退』によることが明らかにされている」としています。しかも原のこの本は、自由な雰囲気の大隈重信や原敬といった政党政治家とは違う、山県有朋を代表とする堅苦しい官僚・軍人に囲まれてストレスを受けた大正天皇の脳が変調を来して発病し、やがて主君押し込めのようなやり方で摂政を設置されてしまった、というストーリーに読めてしまうのです。

そもそも、乳児期の髄膜炎が原因で後の発病につながったというストーリーの大本はどこかというと、宮内省の天皇陛下御容態書にゆきつくようです。 前記二書に完全な形では掲載されていないのでぐぐってみました。原文は見つからず、某巨大掲示板にあったのがひっかかったので、以下に示します。
天皇陛下には御降誕後三週目を出でざるに脳膜炎様の御疾患に罹らせられ、御幼年時代に重症の百日咳、腸チフス、胸膜炎の御大患を御経過あらせられ、そのために、御心身の発達に於て、幾分遅れさせらるる所ありしが、内外の政務に日夜、大御心を悩ませられ給いしため、近年に至り、目下の御身体の御模様においては御変りあらせられざるも、御脳力漸次御衰えさせられ、殊に御発語の御障害あらせらるるため、御意志の御表現甚だ御困難に拝し奉るは、まことに恐懼に堪えざる所なり
宮内庁書陵部で大正天皇実録が公開されているそうです。その一部がネットでも報道されていますが、それを見ると、大正天皇は1914年頃から軽度の言語障害があり、即位の大礼の行われた1915年11月には階段の昇降に介助を必要とすることがあり、1918年夏には姿勢が右に傾くようになり、1918年11月の陸軍特別大演習には左足の動作がおかしく乗馬できなくなったそうです。そして、1919年には言語不明瞭、姿勢の異常がはっきりして、勅語を読み上げることができないために12月の帝国議会開院式を欠席しました。1920年4月に公務制限が行われますが、その後も症状が進行したために、1921年11月に摂政設置となりました。

原さんの本によると、子供時代の大正天皇は思ったことは何でも口にしてしまう性格でしたが、乗馬が得意で漢詩を作ることが好きだったそうです。また、即位前は元気に全国を巡啓していたそうで、乳児期の髄膜炎の治癒後にきちんと成長していたものと思われます。馬に乗っている最中に他人の介助を受けていた訳ではなく、実際に馬に乗っている写真も残されています。また、漢詩の方もかなり多くが残されているので、ただ箔付けのために代作されたという訳ではなさそうです。私は乗馬も漢詩作りもどちらもできません。おそらく、今の日本人のほとんどがそうでしょう。つまり、成人後の大正天皇の運動機能・知的能力は、現在のふつうの日本人に勝るとも劣らない程度だったと言えるでしょう。

普通の大人が30歳代後半から言語障害・運動障害を発症し、その後の十年以上にわたって症状が進行していくような疾患に罹患したとして、それが乳児期の髄膜炎と関連しているとはとても思えません。ふつうに考えれば、脊髄小脳変性症などの神経変性疾患か、ゆっくり進行する脳腫瘍などが鑑別疾患に挙がるものと私は考えます。これらの疾患は歩行ができなくなるなど運動機能の低下を来します。また進行性の構音障害も伴いますから大正天皇の言葉はとても聞き取りにくくなったろうと思われます。ふだん身近に接してお世話している人たちや皇后には大正天皇の言わんとするところがよく理解できても、たまに拝謁するだけの重臣・政治家たちにはお言葉が理解できない(つまり大正天皇の知的機能に問題ありと考えてしまう)ということがあったかもしれません。そう考えると、摂政設置後や大正天皇の死後の貞明皇后の態度・行動も理解しやすい気がします。

それなのになぜ、子供の頃の疾患と関連づけられたのか。大正天皇を診察したのは三浦謹之助や呉秀三といった日本の神経内科の(呉は精神科医としても)大先達です。この頃の日本の医学のレベルがその程度だったのか、または大人になってから新たに発症した疾患とするとまずいような何らかの事情(遺伝性の疾患を示唆するように思われやすいのかも)があったのか、その辺は不明ですが。

2009年7月26日日曜日

青年君主昭和天皇と元老西園寺


永井和著 京都大学学術出版会
2003年7月発行 税込み4620円

主に、①大正天皇の発病から宮中某重大事件を経て摂政就任まで、②久邇宮朝融王婚約不履行事件、③ただ一人の元老となった西園寺と首相奏薦、④田中内閣と満州某重大事件による辞職、の4つのエピソードについての論文が収録されています。どれも下世話な意味からも興味深いテーマばかりです。例えば、闘う皇族(角川選書)という面白い本を以前に読んだことがありますが、その資料のひとつが著者の②を扱った論文です。

本書の収載論文はどれも専門書らしからぬ読みやすい文章で、一気に読んでしまいました。ただ、もとは専門誌に載せられたものなので注がかなり多いし、他の学者との論争もあったりしたそうで、著者自身「細かいことに目くじらを立てる奴だと受け取る向きもあるかもしれない」と述べています。でも、京都大学学術出版会には選書のシリーズもあるので、それで出版したらもっと一般の読者もたくさん得られたのではと、感じたくらいです。

第4章から第7章は、田中内閣と満州某重大事件に関連した論考です。昭和天皇の言動により田中義一首相が辞職したことは有名ですが、昭和天皇が問題としたのは、満州某重大事件の首謀者が厳罰に処せられなかったこと自体ではなく、田中首相が一度は厳しい処分を行うと上奏しながら、閣僚や陸軍の反対から行政処分で済ませようとしたからなのだそうです。それまでにも田中首相には何度か天皇の不興をかうエピソードがあり、それもあいまってこの食言が天皇の怒りにつながったと分析されています。

また、摂政時代の裕仁皇太子は上奏に対して素直に裁可していましたが、天皇に即位した後は、ご下問を頻繁に(主に)内大臣に対してするようになったのだそうです。昭和天皇の考え方自体が、政友会の田中首相よりも、民政党よりであったことも、その一因だったのでしょう。昭和天皇は帝王教育のおかげか「立憲君主」として自制的に行動していたと私は感じます。もっと激しい、独裁したがる人が天皇になっていたらどうなっていたのでしょう。元老西園寺は、補弼者である首相はもっと頻繁に参内してコミュニケーションをとるべきで、明治時代には天皇と激論・喧嘩を交わしてでも思うところを了解してもらっていたと述べていたそうです。ただ、昭和になってからこんなことをしたら、議会で反対党に追及するネタを与えるだけになりそう。国民に対して天皇の神格化をすすめたことで、支配にあたる人々も自縄自縛に陥ってしまったのが明治憲法体制の大きな欠陥だと思います。

巻末には「第7章『輔弼」をめぐる論争」として、家永三郎さんと著者との往復書簡による論争が載せられています。昭和天皇の戦争責任を考えるにあたって、昭和天皇が1975年に行った会見で「私は立憲国の君主として憲法に忠実に従ったゆえに開戦を回避できなかった」と弁解したことに対して家永は、統帥権の独立が立憲制の枠を越えていて、大元帥としての天皇は立憲君主ではあり得ないと批判しています。
統帥権については国務大臣の輔弼が及ばず、天皇は補弼者をもたぬ専制君主であるほかはなく、参謀総長・軍令部総長のような「其ノ責ニ任」ずることのない補佐機関の上奏に対する允裁の責任はすべて軍の最高司令官すなわち大元帥である天皇自ら負わねばならないのである
と。それに対して著者は、憲法の中で輔弼機関としては挙げられていない、両総長や元老も輔弼の機能を担っていたと主張しました。 この論争では、その他にもいくつか論点があるのですが、二人の主張の違いが何に由来するかということについては、著者をはじめとした明治憲法下の政治史の研究者が、「明治憲法によって直接規定されている制度は、明治憲法下の政治システムなり統治体制の中核をなすものであるとしても、其の全体をおおうものでは決してない、という認識が一つの共通認識として成立して」いるのに対して、家永さんは法史学的アプローチをとっていて、「明治憲法の正しい解釈が何であるかを解明する」ことに主眼を置いていることが原因と、二人の間で合意されています。単に歴史の本を読むことが好きな私としては、研究法として著者のアプローチにしか思いが至りませんでしたが、家永さんのような考え方もあるのだという点が勉強になりました。

2009年7月24日金曜日

政党内閣制の成立 1918〜27年


村井良太著 有斐閣
2005年1月発行 本体6000円

米騒動を受けた寺内内閣の退陣後、元老の協議によって原敬が首相に選定されました。原内閣は政治的安定と実績をもたらし、政友会が統治能力をもつ政党であることを元老に印象づけました。このため原の暗殺後、同じ政友会の高橋是清が首相に選定されました。原内閣は最初の本格的な政党内閣とされますが、原自身は貴衆両院の最大勢力である研究会・政友会が交互に政権を担当する構想を持っていました。これは、憲政党党首の加藤高明が対華21箇条要求の責任者であり、元老も原も憲政会の外交政策・政権担当能力に不安を持っていたからなのだそうです。

高橋内閣の成立後に山県有朋は死去し、また残る松方・西園寺の二元老も高齢となり、実質的な影響力は減退していきます。しかし、この時点では一般的にも元老にも憲政の常道は当然視されていませんでした。なので、高橋内閣が閣内不統一で退陣した後、ワシントン会議の取り決めを実行するために海軍から加藤友三郎が元老から首相に推され、憲政会党首の加藤高明は加藤友三郎が辞退した時のための第二候補に過ぎませんでした。

また、加藤首相の死去後の山本権兵衛、虎ノ門事件による山本権兵衛退陣後の清浦奎吾の選定にあたっても、元老には政友会は統率がとれていないと判断され、憲政会は上記の理由で候補に挙がらず、中間内閣の擁立となりました。しかし、
元老が事態の収拾に責任を負い、元老の判断と力量によって政治的安定と政策的合理性を追求するという、これまでの選定システム自体の機能不全
は明らかであり、清浦が貴族院の研究会を基盤とする内閣を組織すると、非政党内閣であることと貴族院が衆議院と対決する状況に対する政党の反発とから第二次護憲運動が起こりました。

清浦に対する評価は一般的に低く、例えばWikipediaの清浦奎吾の項目には
選挙の結果、護憲三派は合計で281名が当選、一方で与党の政友本党は改選前議席から33減の116議席となった。清浦はこの結果を内閣不信任と受けとめ、「憲政の常道にしたがって」内閣総辞職した。5ヵ月間の短命内閣であった(もっとも、清浦を推挙した西園寺から見れば、清浦内閣は選挙管理内閣でしかなかったのであるから、その役目は果たしたと言えるだろう)。
とあるように、かなり反動的な人という評価がなされている思います。しかし本書を読むと、清浦自身は選挙管理内閣のつもりであり、第15回総選挙の実施を期に政党内閣を受け入れて退陣する意向だったのに、却って西園寺の方が慰留につとめたのだそうです。この頃には山県直系で枢密院議長をつとめた清浦のような人でも、政党内閣制を当然のものとして受け入れていたわけですね。

松方の死去によりただ一人の元老となった西園寺は、清浦内閣の辞職を受けて総選挙で第一党となった憲政会の加藤高明を首相とします。加藤高明内閣は普選法の成立などに政治手腕をみせ、また幣原外相の外交が西園寺の眼鏡にかない、政友会と並んで統治能力のある政党としての評価を得ます。加藤高明の死去後の若槻礼次郎と、枢密院の台湾銀行救済緊急勅令の否決による若槻内閣総辞職後の野党田中義一の首相奏薦によって、政党内閣制の慣行が成立したと見ることが出来ます。

憲法に基づかない地位である元老による首相奏薦に対する批判がありました。また西園寺は、彼以降に新たな元老の任命されることにも、枢密院による首相奏薦にも、首相選定のための機関の新設にも同意しませんでした。元老に相談しての内大臣による奏薦が行われるようになりましたが、元老の絶滅が目前に控え、政治の外に位置すべき内大臣による奏薦がスムーズに運ぶためには、憲政の常道をルールとした政党内閣制が望ましかったわけです。さらに、明治憲法では天皇にすべての権力が集中しているのに関わらず天皇不答責とされていましたから、分立する権力を統合する仕掛けとしても政党内閣制がんぞましかったわけです。

まとめると、第一次大戦後の世界の風潮に棹さす大正デモクラシーの空気と、条件が整えば英国流の議院内閣制が望ましいと考えていた最後の元老西園寺の意向と、元老制以外の仕組みによって権力分立という明治憲法の欠陥を補完する必要性などを条件に、政友会・憲政会という二つの政党が統治能力テストに合格したことから、政党内閣制がルールとなったというあたりが、ざっと本書の主張だと読みました。元老と政党内閣制の関係の説明が非常に説得的で目の付け所がシャープだと思います。単に、政党と新聞がデモクラシー・立憲政治を主張し、世間がそれを是認しただけで政党内閣制がルール化したわけではないという訳ですね。

本書を読みながら、伊藤博文が首相の決定方法をどう考えていたのか気になりました。伊藤をはじめとした明治憲法の制定チームは、かなり綿密にいろいろと検討したはずなので、この辺りをどう考えていたのか知りたい気がします。また、制定時ではなくとも明治末期には元老による首相奏薦が将来難しくなりそうなことは目に見えていたでしょうから、どうするつもりだったのか。さらに実際の日本の歴史では、大正天皇は能力的に(もしかすると押し込められた??)、また昭和天皇は自覚的に、天皇として政治力を発揮しようとはしませんでしたが、もし独裁的な天皇が出現したとしたらどうするつもりだったのか(日本流に主君押し込めで対処するつもりだった??)なども気になってしまいます。

2009年7月22日水曜日

我が家の音楽専用機のiPodも安楽な眠りについている

Appleの2009年第3四半期の決算を受けたTechCrunchに 音楽専用機のiPodには安楽死が待っているという記事がありました。これには、全く同感です。

iPhoneを購入してから、iPod classicはケースの中に入れて押し入れの中に仕舞ったままです。初代のiPodの方は記念碑というかオブジェとして取り出して眺めることがあるかも知れませんが、うちのiPod classicがiPodとして使われる日は、もう二度と来ないのだろうと思います。おそらく、iPhoneユーザーの多くは、手持ちのiPodのうちの少なくとも一台は引退させているでしょう。

そう考えると、今後生き残る(touch以外の)iPodはshuffleだけになりそうな気がします。その頃にはもしかするとWalkmanが日本のDAPのシェアのトップに返り咲いているのかもしれません。もちろん、やせ細ってしまった日本のDAPマーケットのシェアの過半数でしょうが。

2009年7月20日月曜日

選挙の経済学


ブライアン・カプラン著 日経BP社
2009年6月発行 税込み2520円

民主主義がうまく機能していないことの理由として、投票者の望むことを反映していないからではないかとされてきました。その原因として従来は、自分の一票が選挙の結果を変える確率がゼロに近いことから有権者が充分な検討を省いて「合理的無知」の状態で投票しているとする考え方がありました。しかし、本書で著者は、この合理的無知の考え方の代わりに、自分の信念を満たすように非合理的な投票行動を有権者がとることが民主主義の失敗の原因であると主張しています。つまり、「民主主義は投票者が望むことを反映する、という理由で失敗する」のです。

現代の政策論争の中心が経済に関するものなので、この有権者の非合理性をもたらす思いこみの例として、反市場バイアス(市場メカニズムがもたらす経済的便益を過小評価する傾向、規制を望む)、反外国バイアス(比較優位の法則を理解できていないので自由貿易に反対する傾向)、雇用創出バイアス(労働節約的な方向に反対する)、悲観的バイアス(未来は現在より悪くなる)を著者は挙げています。経済学者はこれらの思いこみを誤ったものと考えますが、それにも関わらず人々がこういったバイアスを持ち続けるのは
定石通りに、「他の人たちが自分に賛成しないのは、おそらく彼らが自分よりも多くのことを知っているからだろう」と真剣に考える人はほとんどいない。批判者にとって、経済学者の特徴的な考え方に対する最もまっとうな説明は、これらのいわゆる専門家が偏った意見を持っているということである。

こういったバイアスをもった多数の有権者がになう民主主義による政治が、時代とともに世の中をどんどんと悪化させずに済んでいるのは、有権者よりは経済のことを分かっている政治家が有権者の怒りを買わないような方法で有権者の望んだものとは違う政策をとったりなどしているからだとのことです。世間では市場原理主義の評判が良くないけれど、経済学者はちっとも市場原理主義者なんかではないし、それよりも実際にはデモクラシー原理主義がはびこっていることの方が問題だと著者は主張するのです。

アメリカで行われた調査の結果では、ふつうの人が上記のバイアスを強く持っているのに対して、教育程度の高い人ほど、これらの点について経済学者の態度により近い考え方を持つ傾向がありました。なので、デモクラシーをよりよく機能させるための方法として著者は、参政権をある種の試験に合格した人のみに与える、経済リテラシーの高い人には複数の投票を可能にする、(もともと経済リテラシーの高い人の投票率の方が高いので)投票率を上げるような取り組みを減らす、または教育カリキュラムを経済リテラシーを重視したものに変更するといった提案をしています。

ざっとこんな感じの本なのですが、読んでいてとても不快でした。本書の文章は日本語としてこなれているとは言えず、もとの英文を参照してみたいと感じる箇所が少なくなかったり、また脱字が散見されたりなどがその一端です。ただ、それよりも私にとっては本書の主張自体が不快に感じられました。私もバイアスに侵されたふつうの人間だからでしょう。また、参政権を改革しようとする反普通選挙の主張についても、どうどうと著書に記した勇気に対して敬意を表しますが、デモクラシー原理主義に侵されているせいか読んでいてやはり気分のよいものではありませんでした。

著者はふつうの人が経済に関する偏った思いこみを持っていると主張しています。例えば、比較優位の法則から自由貿易が望ましいのに、ふつうの人は反外国バイアスをもっていてけしからんというわけです。でも、これはこれで意味のあることなのではないでしょうか。ふつうの人は何もアダムスミス以来の比較優位の法則を否定しようというのではないはずです。関税の引き下げなど貿易障壁が撤廃されるに際して職を失う人が出ることは必定で、しかも失職後直ちに以前と同様の条件で新たな職に就けるわけでもないことなど、ふつうの人はこういった点を懸念しているのではないでしょうか。多くの人がバイアスを持ち続けているというのであれば、それがなぜかを考えてそのバイアスを減らす対策(経済学を教え込むという対策ではないですよ)をとることの方が必要に思えます。

でも、バイアスの考え方について、全く同意できないわけではありません。本書にはtoxicologyも例としてあげられていましたが、日本でのBSEや遺伝子組換え作物などなどに対するふつうの人やマスコミや政府の過剰反応を思い起こすと、経済学者である著者がふつうの人の経済問題に関するバイアスをあげつらいたくなる気持ちも理解できなくはない気がします。

2009年7月18日土曜日

「海洋の生命史」の感想の続き

昨日のエントリーの「海洋の生命史」ですが、いちばん面白く感じたのはウナギを扱っていた第19章ウナギ属魚類の集団構造と種分化、第20章ウナギの系統と大回遊の謎、の二つの章です。


本書343ページの図2には、こんな風にウナギ属の世界的な分布が示されています。ウナギには熱帯性と温帯性のものがありますが、1939年にウナギの系統関係について研究したEgeさんによると、温帯性の3種である大西洋の両岸のヨーロッパウナギ、アメリカウナギと太平洋のウナギ(日本ウナギ)の形態はは似ているのだそうです。確かにヨーロッパウナギは安売りされている冷凍蒲焼きなどでお馴染みですから、ニホンウナギと似ているのは確かです。ただ、太平洋と大西洋のウナギに交流があるかというと、熱帯生まれで暖流にのって分布するわけですから、北極海を越えるような行き来は無理です。


そこで、提唱されているのがテーティス海仮説だそうです。これは本書349ページの図5ですが、約2億年前から新生代第三期まで存在していた赤道域に広がるテーティス海を示しています。このテーティス海を通じて分布が広がったとすると、大西洋と太平洋の温帯ウナギが似ていることも理解できますね。思いついたヒトはえらい。

ニホンウナギの産卵場所はマリアナのスルガ海山だそうです。で、なぜこの場所なのでしょうか。周囲の深い海から海面下40メートル程までそびえているそうなので、海山であることが産卵場所として必須なのかも。ただ、2億年前から現在までにはプレートテクトニクスによって海山はかなりの距離動いてしまっているでしょうから、いつごろから現在のスルガ海山が選ばれたのか、将来もスルガ海山の位置で産卵が続けられるのかどうか、気になります。

ウナギの養殖はシラスウナギから半年から2年くらいかけて出荷するそうです。蒲焼きに充分な大きさのウナギは性的にも成熟しているのでしょうか?もし半年から2年では性的成熟には短いということなら、もう少し長い期間養殖するか、またはホルモンをつかって成熟を早めることができたりはしないのでしょうか。もし性的に成熟したウナギを多数そろえることができれば、日本近海から放流するなり、または船や飛行機でスルガ海山近くに運搬して放流することができます。それによりこれまで以上の数の産卵数が得られれば、シラスウナギの不足の問題も解決して、心おきなく蒲焼きを堪能できるのではと妄想してしまいます。

2009年7月17日金曜日

海洋の生命史


西田睦編 東海大学出版会
2009年6月発行 本体3600円

先日読んだ「海と生命」と同じ、東京大学海洋研究所/海洋生命系のダイナミクスというシリーズの一冊です。「海と生命」の方は、海の生物の棲息する環境や、海の生命の基礎となる光合成・化学合成といった物質生産やそれを担う生物など大局的な論考がおさめられていました。それに対して、本書には生命は海でどう進化したかというサブタイトルがついていて、ゲノムの解読で得られたデータをもとに、真性細菌・古細菌・真核生物の系統関係などや、より細部に着目した研究成果が紹介されています。いくつか、学んだ点を紹介します。

専門家にとっては常識なのでしょうが、魚類って単系統群ではないのですね。魚類という言葉から一つのまとまったグループのような感じがしますが、ふつうのサカナである条鰭類のほかに鮫などの軟骨魚類やヤツメウナギなどの無顎類とシーラカンスなども含んでいて、「脊椎動物から四肢類を除いたもの」としか定義できないそうです。魚類にはそれ以外の脊椎動物と同じくらいの数の種があって、しかも水中に住むことによる収束進化によって形態的なバラエティは少ないので、系統関係がはっきりしなかったのだそうです。第5章では、筆者がミトコンドリアゲノム全長配列の解読という方法に至った経緯と、1200種以上のサカナのミトコンドリアゲノムを比較することによって条鰭類の新たな系統関係を解明する試みが分かりやすく書かれています。

またこれも当たり前かも知れませんが、ゲノムのデータの比較のみでは、系統関係が推定できてもそれぞれが分岐した年代まではわからないのですね。そういう意味で、化石のデータが重要なのだということが第7章に説明されています。また、むかし木村資生の分子進化の中立説を読んだ際に、分子進化速度が一定であること・分子時計の存在が強調されていて不思議に感じたことを覚えています。ただこれも、「近年のDNA塩基配列データの蓄積によって、より精度の高い分子進化速度の比較が可能になると、すべての生物に適用できる普遍的な分子時計は存在せず、分子進化速度は生物系統間で変動しうることがわかってき」ていて、体重当たりのエネルギー消費量が高いほど発生する酸素ラジカルが多くなり分子進化速度が速い傾向があるそうです。今ではそういう理解になっているのですね、非常に説得的に感じられました。

その他、渦鞭毛虫の進化、クジラの起源、ウナギ属の系統関係などなど、読んでみて面白い本でした。