永井和著 京都大学学術出版会
2003年7月発行 税込み4620円
主に、①大正天皇の発病から宮中某重大事件を経て摂政就任まで、②久邇宮朝融王婚約不履行事件、③ただ一人の元老となった西園寺と首相奏薦、④田中内閣と満州某重大事件による辞職、の4つのエピソードについての論文が収録されています。どれも下世話な意味からも興味深いテーマばかりです。例えば、闘う皇族(角川選書)という面白い本を以前に読んだことがありますが、その資料のひとつが著者の②を扱った論文です。
本書の収載論文はどれも専門書らしからぬ読みやすい文章で、一気に読んでしまいました。ただ、もとは専門誌に載せられたものなので注がかなり多いし、他の学者との論争もあったりしたそうで、著者自身「細かいことに目くじらを立てる奴だと受け取る向きもあるかもしれない」と述べています。でも、京都大学学術出版会には選書のシリーズもあるので、それで出版したらもっと一般の読者もたくさん得られたのではと、感じたくらいです。
第4章から第7章は、田中内閣と満州某重大事件に関連した論考です。昭和天皇の言動により田中義一首相が辞職したことは有名ですが、昭和天皇が問題としたのは、満州某重大事件の首謀者が厳罰に処せられなかったこと自体ではなく、田中首相が一度は厳しい処分を行うと上奏しながら、閣僚や陸軍の反対から行政処分で済ませようとしたからなのだそうです。それまでにも田中首相には何度か天皇の不興をかうエピソードがあり、それもあいまってこの食言が天皇の怒りにつながったと分析されています。
また、摂政時代の裕仁皇太子は上奏に対して素直に裁可していましたが、天皇に即位した後は、ご下問を頻繁に(主に)内大臣に対してするようになったのだそうです。昭和天皇の考え方自体が、政友会の田中首相よりも、民政党よりであったことも、その一因だったのでしょう。昭和天皇は帝王教育のおかげか「立憲君主」として自制的に行動していたと私は感じます。もっと激しい、独裁したがる人が天皇になっていたらどうなっていたのでしょう。元老西園寺は、補弼者である首相はもっと頻繁に参内してコミュニケーションをとるべきで、明治時代には天皇と激論・喧嘩を交わしてでも思うところを了解してもらっていたと述べていたそうです。ただ、昭和になってからこんなことをしたら、議会で反対党に追及するネタを与えるだけになりそう。国民に対して天皇の神格化をすすめたことで、支配にあたる人々も自縄自縛に陥ってしまったのが明治憲法体制の大きな欠陥だと思います。
巻末には「第7章『輔弼」をめぐる論争」として、家永三郎さんと著者との往復書簡による論争が載せられています。昭和天皇の戦争責任を考えるにあたって、昭和天皇が1975年に行った会見で「私は立憲国の君主として憲法に忠実に従ったゆえに開戦を回避できなかった」と弁解したことに対して家永は、統帥権の独立が立憲制の枠を越えていて、大元帥としての天皇は立憲君主ではあり得ないと批判しています。
統帥権については国務大臣の輔弼が及ばず、天皇は補弼者をもたぬ専制君主であるほかはなく、参謀総長・軍令部総長のような「其ノ責ニ任」ずることのない補佐機関の上奏に対する允裁の責任はすべて軍の最高司令官すなわち大元帥である天皇自ら負わねばならないのであると。それに対して著者は、憲法の中で輔弼機関としては挙げられていない、両総長や元老も輔弼の機能を担っていたと主張しました。 この論争では、その他にもいくつか論点があるのですが、二人の主張の違いが何に由来するかということについては、著者をはじめとした明治憲法下の政治史の研究者が、「明治憲法によって直接規定されている制度は、明治憲法下の政治システムなり統治体制の中核をなすものであるとしても、其の全体をおおうものでは決してない、という認識が一つの共通認識として成立して」いるのに対して、家永さんは法史学的アプローチをとっていて、「明治憲法の正しい解釈が何であるかを解明する」ことに主眼を置いていることが原因と、二人の間で合意されています。単に歴史の本を読むことが好きな私としては、研究法として著者のアプローチにしか思いが至りませんでしたが、家永さんのような考え方もあるのだという点が勉強になりました。
0 件のコメント:
コメントを投稿