2009年9月22日火曜日

第百一師団長日誌


古川隆久・鈴木淳・劉傑編 
中央公論新社
2007年6月発行 本体4200円

砲兵科出身者として珍しく師団長にまで昇進した伊東中将は、それを最後に退役となりました。しかし、日中戦争の拡大に伴って新設された第百一師団の師団長として招集されました。本書には、1937年8月24日に招集の内命がもたらされてから、1938年9月末に負傷する前までの伊東中将の日誌が収められています。日誌そのものだけでは読んでも意味や意義が不明な点が多いと思われますが、本書の場合、日誌のその日の記載に添えて、三人の編者が詳細な注記をつけてくれているので、理解しやすくなっています。いくつか気付いた点を紹介します。

特設師団は、常設師団よりもかなり装備の質が劣り、兵も40歳ちかい人までが含まれていました。また、第百一師団は東京府とその周辺の県から兵が招集されていたので東京兵団とも呼ばれましたが、都会出身の兵士が多いことからも弱いと考えられていました。しかし、この弱力師団は編成後、内地で訓練を行うこともなく、日中戦争初期の激戦地である上海の呉淞クリーク戦に投入されました。以上のような悪条件から当然苦戦となり、この日誌にも神仏の加護を願う記述が何度もでてきます。師団長が神仏にすがるのはまずいような気もしますが、それだけ苦しかったのでしょう。

この戦いでは、死傷者、特に連隊長をはじめとして将校にも死傷者が多く、
幹部の死傷多きは、近接戦闘に於て、自ら先頭に立つに依る。然らざれば、兵之に従はざればなり。
という事情があったからだそうです。現役兵とは違って、家庭や仕事や社会的地位のある予備役・後備役兵は、お国のためだからとはいっても自分が死ぬわけにはいかない、と感じていたわけですね。

この緒戦の苦戦によって、第百一師団は上海派遣軍から戦力としては信頼できない師団とみなされてしまいます。装備も兵の質も訓練も劣る師団を動員したわけですから弱くて当たり前で、弱いことの責任はなにも師団長が負うべきものでもないと感じます。しかし、師団長である伊東中将はこの評判を覆すことを望んでいました。ただ、弱いと思われたことで上海戦後は後方警備にあてられる期間も長く、かえって兵士にとっては幸いでした。また、師団長自身も、弱いという汚名を注ぐために無理をするという人ではなく、自身のメンツよりも兵士の死傷を少なくすることに気を配っていたことが日誌の記述から分かります。
わが部隊は、大部分が招集者で家族持ちである。なかには四十歳にちかい兵隊もある。だから、ひとりでも兵の損害は少なくしたい。いたずらに隊長が功名に走って部下を犠牲にするようなことはもっともつつしみ
これは、師団長自身ではなく、第百一師団のもとにある第百四十九聯隊の連隊長が出征の式で述べた言葉だそうですが、日中戦争はじめの頃には、おおっぴらにこういう風に言える雰囲気があったわけですね。

上海の警備に当たっている時期には、いろいろな人の訪問があることに驚ろかされます。特に、内地から慰問という名目で来る人が多いのですが、芸能人による慰問だけではありません。貴族院議員や地方議員、会社の重役、僧侶などなどが酒類やお金を携えて、多数訪れています。慰問する人にとっては、上海という日本からの交通の便が良い安全な後方地帯に、慰問を兼ねた観光旅行に来ている感じなのでしょう。

また、皇族に関する記述も目立ちます。皇族は軍人として職務で上海を訪れる・通過するのですが、上海を警備する師団の長にとっては、空港や港に出迎えに行ったり会食したりするのも仕事のうちのようです。

1938年夏には武漢三鎮攻略戦に第百一師団も参加します。この時にもやはり苦戦する場面があります。本書によると、苦境を打開するために毒ガスを使用した場面が2回ありました。毒ガスの使用に関しては特に感想は付されていませんが、条約で使用の禁じられている平気だという認識はあまりなかったようです。

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