2009年9月3日木曜日
薩摩藩士朝鮮漂流日記
池内敏著 講談社選書メチエ447
2009年8月発行 本体1500円
沖永良部島に代官として赴任していた薩摩藩士が帰任のために乗った船が遭難して、朝鮮半島西岸の忠清道庇仁県に漂着する事件が1819年にありました。この事件で特徴的なのは漂着民の中に武士が三名含まれていることで、ふつうの漂着事件では漁船や商船の乗組員ばかりで武士が乗っていることはありません。また、この事件に関しては、朝鮮側の記録、還送にあたった対馬藩の記録とあわせて、武士のうちの一人の安田喜藤太義方さんが絵入りの詳細な朝鮮漂流日記という記録を残していました。本書はそれによっています。以下、興味深く思われた点をいくつか。
漂流してようやく陸地に流れ着いたわけですが、小舟で近寄ってくる人たちが白服を来ているのを見て朝鮮半島だということが分かり、船内では歓声が上がったそうです。本書には「漂流朝鮮人たちは漂着地が日本だと分かると無事に本国に帰国できることを確信した」という記載もあり、航海を仕事とする人たちにとっては、漂流民の還送制度は常識的になっていたようです。また、ある対馬藩の役人は「朝鮮と御和交を結んでから今に至るまで御誠信の験が顕著に見えるのは、漂流民を丁寧に取り扱い。速やかに送り返してきたからであって、こうしたことを百年つつがなく繰り返してきたことによっているのだ」と認識していたそうで、明治以前には善隣友好関係があった証ですね。
日記の作者の安田さんは、壬辰戦争の際に朝鮮半島から薩摩に連れてこられた陶工たちが朝鮮の習俗を守って暮らしている姿を見たことがあるので、白い服を着ている人たちの姿から即座に朝鮮人と分かったのだそうです。また、漂着した船には沖永良部島の出身者も乗り組んでいました。彼らは「琉人」と呼ばれていますが、朝鮮側による事情聴取に際しては、名前や髪型を日本風に変えて対応されています。
安田さんは漂着した忠清道庇仁県や、また倭館まで送られる途中の土地の地方官吏たちと漢文でコミュニケーションをはかり、詩文の交換をしたりしています。口絵にはこの日記の絵が載せられていますが、安田さんは絵がかなり上手で、また漢詩を作ったり他人の漢詩を評価する能力を持っている人でもあり、出会った地方官吏たちと共通の文化的教養を持つもの同士の交流をしています。おそらく安田さんは江戸時代の武士の平均以上の教養を持っていた人なのでしょう。また、江戸時代の日朝関係は「お互いを目下に見る関係」とも書かれていますが、こういった人と人の交流の場がなかったこともその一因なのでしょう(通信使と日本人とのやりとりは国を背負った者同士の関係になってしまうので、安田さんのした交流とは違う感じ)。
日本人が朝鮮半島に漂着した事件は、1618年から1872年に至る約250年間に92件1235人。同じ時期における朝鮮人の日本漂着が971件9770人と、日本人の漂着は朝鮮人のそれに比較して、件数で十分の一、人数で八分の一。また日本人の漂流の時期は五月から八月の夏期に多いと本書に記載されています。経済の発展度からいって沿岸を航海する日本の漁船や商船が朝鮮よりもずっと少ないとは考えがたいところ。きっと冬の北西季節風の方が船の漂流事件を起こしやすいので、朝鮮人が日本に漂着する件数が多くなっているのではと思うのですが、どうでしょうか。
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