2009年5月5日火曜日
加藤高明と政党政治
奈良岡聰智著 山川出版社
2006年8月発行 本体6800円
原敬は有名でこれまでにもたくさん研究がありますが、同世代(原より4歳若い)で同じように政党政治家・党首・首相を経験した加藤高明に関しては研究が少なかったのだそうです。また原敬への高評価と違って、加藤に対しては三菱の大番頭と評したり、指導力の乏しさを財力で補ったなどと低い評価がされていました。著者は、これまでの研究が使わなかったような史料を駆使して (本書の中には300以上の注がついている章が多い)、加藤高明像の修正を試みています。本書のもとは修士論文と博士論文だったそうですが、外交官を経て外相・政党政治家への転身、党首としての活動、首相としての仕事などだけでなく 生家の様子、子供から大学生時代、三菱入社などの私生活も少し触れられていて、評伝として読めるくらい、読みやすく面白くまとめられています。
御用政党でも民党でもない政権政党をつくろうという点で、加藤と原敬の目指していた政党政治像が近かったと著者は書いていますが、鋭い指摘ですね。山県閥や軍などとの接し方という点では二人の流儀は違っていましたが、日記や書簡などの史料からもお互いによきライバルと思っていたのだとか。本書のサブタイトルは「二大政党制への道」ですが、二大政党制が戦前の日本でも成立できたのは、この二人の目標が似ていたことが大きく寄与しているだろうとのことです。
加藤は1902年の第七回総選挙で衆議院議員に当選しました。ただ、当時の選挙法では立候補が必要ではなく、本人の承諾無しに候補者とされて当選していたのだそうです。また、衆議院議員は一期だけで、その後は男爵から子爵になったので、貴族院議員として憲政会総裁・首相をつとめました。第二次護憲運動の結果として誕生した加藤内閣ですが、首相が衆議院議員でなかったとは知りませんでした。
桂新党だったはずの立憲同志会ですが、桂太郎の死去で1913年の立憲同志会旗揚げから加藤が総理に就任しました。その後、非政友三派の合同で1916年に憲政会(英語ではinsutitutional partyと紹介されたそうで、目からウロコ)に発展的解消しましたが、憲政会でも加藤は最初から総裁を務め、1926年にしきょするまでずっと総裁でした。野党時代が永く、苦節10年と言われましたが、ずっと党首が代わらなかったのが面白い点だと感じます。加藤がたくさんの政治資金を党にもたらしてくれた点も一因でしょう。ただ、首相候補である党首には充分な知識・識見・人格などを備えた人物でなければならないという常識があったのだろうと感じます。少なくとも、安倍晋三や麻生太郎を総理総裁にするような現在の政治家たちとは違うような。
加藤は、第51議会開会中の1926年1月22日に体調不良をおして登院し、議場で答弁中に倒れて、28日に死去しました。本書は本当の評伝ではないので死因には触れていませ。でも医者としては興味があるので調べてみると、Wikipediaには肺炎と書かれていました。。
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